読書と日々の記録2007.07上

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■読書記録: 15日『学び合う教室』 10日『授業は「はてな?」を発見させることから』 5日『99.9%は仮説』
■日々記録: 12日つぶやく妻 6日消し忘れ 4日ビールとチューハイ

■『学び合う教室─教師としての学習者,プロデューサーとしての教師の学習臨床学的分析─』(西川純 2000 東洋館出版社 ISBN: 4491015996 \1,700)

2007/07/15(日)
〜学び合いの萌芽〜

 5年ぶりの再読である。前に読んだときは、あまり強い印象の本ではなかったが、同じ著者による『「勉強しなさい!」を言わない授業』がとても強い印象だったので、再読してみた。

 前に読んだときにあまり強い印象ではなかった理由が今回わかった気がした。一つには、この本は実証研究の成果を報告することが中心であって、「学び合い」の授業の実際や考え方を紹介するのが中心ではないということがある。あくまでも研究を通して見えてきた一つの学びの形が「学び合い」、という感じの位置づけに本書ではなっている。だから前に読んだときも、それが具体的にどういう形の授業になるのか、どういう子どもの姿が見られるのか、なんてことがよく見えないと思ったのであった。

 再読してわかったのは、本書で書かれているのは、学び合いの「萌芽」であるということ。確かに筆者が長期的に観察した授業の中で、自然発生的に「学び合い」が見られているし、なぜそれが自然発生したのかについても考察がなされている。しかし、ではこうすれば学び合いの場が作れる、という明確な考え方ややり方の提示はなされていないのである(ないわけではないが、それは「15分×3回のコミュニケーション指導」というような、比較的常識的なものになっている)。

 あともう一つ、前回読んだときに本書が強い印象ではなかった理由としては、中途半端(?)に認知心理学・認知科学の研究が引用されている点も挙げられる。中途半端というと失礼かもしれないが、私からすると、あ、その研究は知っているよとか、ここでそれを引用するのはなんかムリヤリっぽい感じがするなあという受け取り方をしてしまい、筆者のオリジナルな部分への注目が弱くなってしまったのである。

 急いで付け加えておくが、本書で紹介されている、筆者らの実証研究はどれも興味深いものである。授業中の子どもたちの話し合いにどのようなパターンがあるか、プロトコルが紹介されていたり、グループやペアを意図的に組んでそのときの行動や会話が分析されていたり、優れた実践者の授業を3ヶ月に渡って観察し分析していたりと、どれも非常に手間のかかる、しかし豊かなデータを含んだ研究がなされている。筆者のいう「学び合い」をある程度知った今となっては、こういう研究が元になって学び合いが提唱されているのか、ということが見えてくるので興味深く読めるのだが、5年前に読んだときはそういうところはまったく見えなかっただろうと思う。

 強い印象はなかったと書いたが、私も自分が授業実践をする上で、幾分本書の影響も受けているかもしれない。筆者は「学びの集団」を作る簡便な方法として、大学の授業で2分ほど隣の人と話し合わせる活動を1〜2回取り入れているという。あるいは、先輩や過年度受講生からの声が伝わるような仕組みを作ることで、文化伝達の場作りをしている。これらはいずれも、私がここ数年意識していることである。そういうやり方の一部は、この本から学んだのだろうと思い当たった。ここのところは具体的な方法論として理解し実行できると思ったのだろう。ということからも逆に、それ以外の部分が私にとっていかに学び取りにくい記述だったかがわかる。今となっては学べることが多いからいいんだけど。

つぶやく妻

2007/07/12(木)

 子どもたちが寝てから、妻とグラフィックソフトをいじって遊んでいた(妻は、オニンギョの写真を加工したいらしいのだ)。

 グラフィックソフトはフリーのものしかないのだが、それぞれ機能は豊富だ。その中でJTrimというフリーソフトは、加工用フィルタが充実している。ぶれ、立体枠、拡散など、何十種類もフィルターがある。

 うちの娘たちの写真をネタに、それを一つ一つ試していた。

 私「ウェーブ」妻「へえ」

 私「鉛筆画」妻「ほお」

 私「超新星」妻「おもしろーい」

 私「スポットライト」妻「あ、いいかも」

なんてやっていたわけだが...

 私「拡散」妻「助さん」

ゆ、油断していたらやられてしまった...

■『授業は「はてな?」を発見させることから』(有田和正 2003 明治図書 ISBN: 9784185093194 \2,058)

2007/07/10(火)

 有田氏が「はてな」に注目するようになった経緯から、鍛え方から書かれている。そういう意味では、なかなか興味深い本だった。

 「経緯」については、1989年に飛行機で隣り合わせた人との会話が「はてな」に注目するきっかけになったという。有田氏は少なくとも1980年代半ばには著作で活躍していたはずで、それからすると「はてな」に着目し始めたのは意外に遅いのでびっくりした。

 「鍛え方」は要するに、「最初は「はてな」を発見させやすいネタを使い、一つでも発見できたらほめる。ほめながら「はてな」発見の技能を伸ばしていくのがよい」(p.19)とある。「発見させやすいネタ」とは考えもしなかったな。さすが小学校の先生だ。有田氏が目指す子ども像は、人まねでない「「はてな?」をみつけて、執ように追究し、それを楽しむ子ども」(p.64)だという。見つける、追究する、楽しむ、どれも難しい課題に見えるが、有田流の鍛え方をすればそれが可能になるのだろうか。

 授業に対する有田氏の考え方は、あとがきにこう書かれている。

授業とは、何かを「教え・わからせ・理解させる」だけではなく、「はてな?」を発見させることことが大切であると考えるようになった。「はてな?」がなければ、授業ではない、と考えるようになり、この目で他人の授業を見ると、とてもよく見えるのである。いい授業は、具体的な「はてな?」がある。よくない授業は、「はてな?」が何なのか、教師さえわかっていない。子どもが活動する授業は、子どもが「はてな?」を持っている。追究の鬼といわれるような子どもは、具体的で鮮明な「はてな?」を持っている。だから、追究も具体的である。(p.153)

 「はてな?」は授業を見る上でも役に立つらしい。ちなみに有田氏は、ネタを用いて「はてな」を「引き出す」方法と、「はてな」探しを「強制する」方法の両方を併用して、子どもの「はてな」技能を高めているようである。上の記述(この目で他人の授業を見ると、とてもよく見える)は要するに、授業で使われているネタが「はてな」の出しやすいネタになっているかどうかを見る、子どもが「はてな」を出すことを奨励するような授業かどうかを見る、ということなのだろう。

消し忘れ

2007/07/06(金)

 おとといの夜は、研究室の電気を半分だけ消して帰ってしまったことに、昨日の朝気がついた。

 昨日の夜は、パソコンもクーラーもつけっぱなしで帰ってしまったことに、今朝気がついた(電気は消えてたけど)。

 まったく自覚症状はなかった(消したつもりでいた)。大丈夫かな、自分。トシなのか?

■『99.9%は仮説─思い込みで判断しないための考え方─』(竹内薫 2006 光文社新書 ISBN: 4334033415 \700)

2007/07/05(木)

 基本的な主張は悪くないし、科学のちょっとした知識が平易に語られており、全般的には楽しい感じの本なのだが、なんだか議論が大雑把というか表面的で、そういう点はかなり気になる本だった。語り口からして、書いたのではなく語りおろしで作った本なのではないかと思った。

 基本的な主張は何かというと、おそらく次のようなところだろう。

科学にはじまって、歴史も芸術も政治も経済も、いや、それこそ人生のあらゆる局面も、実は仮説に塗り固められているのです。/そして、そういった実態に気づくか気づかないかによって、世の中の見え方はガラリと変わります。世の中の見え方が変われば、人生も変わります。/むろん、これまでよりも良い方向へ──。(p.36)

 これは問題ない。またこれと関連して、怪しい仮説でも「「そんなことありえない」と頭ごなしに否定するのではなく、「限りなく黒に近いかもしれないけど、これもやっぱり仮説のひとつだ」と肯定的に考えるべき」(p.203)とも書かれており、これもとてももっともな指摘だなあと思う。

 こういうところはいいのだが、しかしその他の部分で気になるところが何箇所かあった。たとえば、筆者は「仮説を倒すことができるのは仮説だけである」(p.71)と述べている。それは、「データが仮説をくつがえすすわけではない」(p.70)ということである。しかしその一方で筆者は、データが仮説をくつがえしているように見える例をいくつも挙げているのである。たとえば、ケプラーが星の軌道計算をしたところ、コペルニクスの地動説(太陽中心だが、惑星の軌道を真円としたもの)では説明しきれない微妙な誤差があり、「ケプラーは、ティコのデータをあらためて詳しく分析し、星の軌道が完全な円ではなく楕円であることをみつけた」(p.56)のだという。ここには「データをあらためて詳しく分析」して楕円軌道を見つけたと書かれている。これは、データが仮説を倒した例と言えるのではないだろうか。他にも同様の例としては、「2003年には、さらに精密な天文観測により、宇宙定数というものが存在していて宇宙を加速度的に膨張させていることが、ほぼ確実になりました」(p.123)なんていう記述もあるのである(これも「天文観測」によってであって「仮説」によってとは書かれていない)。

 他には、あるページには「歴史も文化である以上、「裸の史実」など存在しないのです。/だって、日本史の一級史料であっても、その書き手がホントのホントに事実をそのまま書き写したと検証できますか?」(p.156)と述べているのに、その前のページでは、テレビの時代劇を指して「当時の武家屋敷には、表札なんかかかっていなかった」(p.155)という発言を紹介している。「武家屋敷に表札がかかっていない」ことは「裸の史実」なのだろうか。そうであるならば次のページの記述と矛盾するし、そうでないのであれば、それが事実であることをどう検証したのか(それがいかに可能になったのか)、知りたいものである。

 あるいは、「大仮説」という語の意味が場所によって違っていたりもする(p.160には「現在の常識から考えると、ちょっと疑わしい仮説」とあるのに、p.174では超ひも理論を指して、それが「大仮説であるがゆえに、誰も白黒をつけることができない」と書かれている。これでは、意味がずれているか、説明が不十分かのどちらかであろう)。もう一つだけいうならば、サブタイトル(思い込みで判断しないための)は適当なのだろうか、というのもある。本書の基本的主張は、「すべては仮説である」というものであり、「裸の事実は存在しない」ということであるはずである。そうであるならば、「すべては思い込み」なはずで、そうなると、「思い込みで判断しない」ことは、そもそも不可能である。これにしても、上に指摘したいくつかの点にしても、基本的な主張と矛盾ないよう、もう少し丁寧に説明することは可能なはずなわけで、しかしそういうことをやろうとした形跡がないという点が、大雑把で気になる点であった。そういう意味ではかなり残念な本である。

ビールとチューハイ

2007/07/04(水)

 毎週月曜日と木曜日は大人数の講義だ。けっこうがんばってしゃべるので(当社比)、うちに帰ったらビールをぐびぐび飲む。講義の後のビールはうまい。

 今日は講義はなかったが、会議があった。10時から12時過ぎ、12時45分から2時前、4時から5時半。あんまりしゃべらなくても、会議は出るだけで疲れる。講義でしゃべったり歩き回ったりするのとはまるで質の異なる疲れ方だ。

 こういうときはビールを飲んでもあまりおいしくない(なんかぐびぐび入っていかない)。ということで今日は帰りがけにコンビニに寄って、缶チューハイを買ってみた。甘さで疲れを癒し、炭酸で刺激を受け、アルコールでいい気持ちになる。ヤミツキになりそうだ。


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