31日短評7冊 25日『「考える足場」をつくる算数科授業の創造』 20日『問題解決の心理学』 | |
| 28日ファイブミニで算数 22日夏休み気分 19日子どもなりの漢字理解 |
ここ最近は気分的にゆったり過ごしていたのだが、昨日の授業でデータを取ったら、なんだかいい感じのデータが取れたので、急に慌ただしくなった。補足的な面接調査を行ったり、今後の構想を練ってみたり。忙しいけれどもちょっと幸せでもある(今のところは)。
今月よかった本は...ひっじょーに難しいなあ。しいて言うならば『学び合う教室』だろうか。あくまでも「しいて言うなら」だけど。
今朝、算数の問題をやっていた上の娘が、わからないので教えて、という。見てみると、700mlをデシリットルに換算する問題だった。
いまどきデシリットルなんて使わないのになあ、なんて思いながらも、こういうときは認知カウンセリング的に、と思って「教科書を見ようか」と見てみると、直接換算は書いていない(1リットル=100ml, 1リットル=10デシリットル、は書かれている)。
それではと、★デシリットル=●ミリリットルというのを作ってみようか、と提案し、自力解決を促そうとあれこれやらせて見るが、なかなか難しいようである。たまに答えらしきものが出ても、自信がないようだし、根拠もあいまいだし、正しいことを言ったり間違ったことを言ったりしている。要するに混乱しているみたいである。一般論で言うならば、こういう問題を、イメージなしに「暗号解読」的に(ルールを機械的に適用して)解こうとすると、混乱してしまうのだと思う(そういう様子は小学1年生でも大学生でも同様に見られる)。
混乱しているということは具体的イメージがもてていないんだろうなと思い、二人で「デシリットル」を探しに行くことにした。たぶん栄養ドリンクに100ml=1デシリットルのものがあるだろうと思い、近所の自動販売機を見るが、残念ながらない。車でコンビニに行くと、何種類かあった。その中で、一番安い(~_~;)ファイブミニを買い、飲む前にマジックで100mlのところに線を付け、家族で回し飲みし、空き瓶に「1デシリットル=100ml」と書いて教え、何回かやり取りしているうちに、デシリットルのイメージもできたようだ。ファイブミニのビンを傍らに置いておいたら、先の問題も残りの問題も、ほとんど混乱することなく全部解くことができた(一回、「3リットル」と出てくる問題で混乱しそうになったので、牛乳パックを見せたら混乱せずに済んだ)。せっかくなので、ファイブミニをデシリットル枡として使い、うちにあるコップの容量をいくつか計ってみたりした。
上の娘はファイブミニ(と牛乳パック)のおかげで、デシリットルのイメージを持てたようである。私は私で上の娘のおかげで、「イメージがもてずに混乱していた子がイメージを持ったおかげで混乱しなくなった」様子についてのイメージをより明確に持つことができた。
小学校の算数において、「授業の導入時に、本時の指導目標を達成するために関連する既習事項(知識・技能・考え方)を確認する導入問題をクラス全体で解決する場面を設定する」(p.11)という学習を提唱している本。これが「考える足場」である。
足場に続いて、主問題1を全体で(あるはペアで)解決する、主問題2を個人で解決する、発表と話し合い、まとめ、適用・発展問題、という形で授業は進められる。主問題1や2は、「足場」となる既習事項が考える手がかりになっている。これは、教えて考えさせる授業の一形態といえる(実際、教えて考えさせる授業に取り組んでいる横浜本町小学校では、このやり方を用いていると言っていた)。
筆者がこのようなやり方を提唱するのは、現行の算数の授業には次の問題点があるからである。
(1)すべての児童が既習事項を想起できることを前提としていないか? (2)本時の指導目標に即した思考活動を促しているだろうか? (3)自力解決の時間を確保することで思考力を育てることができると考えていないか? (4)少ない問題数で本時の学習内容をまとめていないか? (5)定着をはかるために類題のみを適用題として与えていないか?(p.10)
これらの疑問はもっともなものであり、本書を読む限り、「足場算数」がその一つの答えになりうると思った。もっともこういうやり方の算数では、授業に面白みやひねりを持たせることは難しいかもしれない(って私が勝手に思っているだけかもしれないけど)。
うちの娘たちは二人とも小学生で、先週から夏休みに入っている。
おかげで我が家の中は夏休みの気分がしっかり漂っている。朝も早くからラジオ体操に行ったりするし、夜、宿題に追われることもなく、ゆったりと過ごしているし(外では、セミもしきりに鳴いているし)。
おかげで私も、何だか夏休み気分になってしまう。実際にはまだ前期の講義は、試験期間も含めて3週間あるわけだが。
15年ぶり(たぶん)に再読してみた。本書の冒頭が小説に見られる問題解決シーンから始まっていることは忘れていた。3つの小説が紹介されており、それぞれ、男性的問題解決(目標に向かってまっしぐら)、女性的問題解決(つねにまわりの状況にあわせる形で問題解決)、協同的問題解決(まわりの人々との信頼関係と、それに基づいた役割分担の中で問題解決)の例として紹介されていた。これはとても興味深かった。
ただ残念なことは、第二章以下は、第一章で紹介された3つの問題解決タイプとの関連があまり論じられていない。第二章以降の章立ては、記憶とイメージ、思考、問題の理解、という感じで、急に認知心理学の概論書風になっているのである。
第一章の最後では、次のような問題が筆者によって設定されている。「これらの人々は、いったい何のためにそんなことをしたのだろう。どうして、そういうことができたのだろう。彼らのきわめて首尾一貫した問題解決の仕方─あのお夏でさえそうだ─はどこから来たのだろう」(p.40) しかし、私の見る限り、本書の残りの部分は、この問いに直接答えるものにはなっておらず、とても残念だった。
もっとも、こういう問いに、そもそも(認知)心理学の研究は直接答えられるものではないかもしれない。心理学がやることはあくまでも一般論であり、人間の平均的な傾向であり、特定の状況と反応の関係だからである。それでは、「これらの人々」は何のためにそうしたのか、できたのか、それはどこから来たのかに答えることはできない。答えられるとしたら、ノンフィクション的事例研究でしかないのではないかと思う。そういう意味で、本書冒頭の問題提起や事例選択が興味深いだけに、その後の研究紹介とのギャップが残念だった。あくまでも「心理学」の本なので、しょうがないことなのかもしれないけれど。
今朝,下の娘(6歳10ヶ月の1年生)と,同級生の名簿を見ていた。漢字で書かれているヤツである。
私が「田畑」を指差し,「ひーちゃん(仮名)の苗字はタバタっていうんだね」というと,下の娘が,「ううん,ひーちゃんの名前の字はコレじゃないよ」という。
あれ?田畑という字は誤植なのかな?と思っていると,下の娘が「タはこれ(田)だけどー,バはこれ(火)でー,タはこれ(田)だよ」と言う。2番目の「これ」のところでは,火曜日の「火」をゆび指しながら。
なんじゃそりゃ,「火」は「バ」とは読まんだろう,と思っていたが,ほどなくわかった。なるほど,田火田ね。おもろいやっちゃなー(いやいや娘は真剣なんだろうけど)。