読書と日々の記録2007.08上

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■読書記録: 15日『部下を伸ばすコーチング』 10日『少子社会日本』 5日『あなたへの社会構成主義』
■日々記録: 10日強風で傘が裏返る 7日コワくて泣く娘 2日10本アニメ

■『部下を伸ばすコーチング―「命令型マネジメント」から「質問型マネジメント」へ』(榎本英剛 1999 PHP研究所 ISBN: 4569607187 \1,350)

2007/08/15(水)
〜考えず、リードせず、操作しない〜

 なんだか最近コーチングという言葉をよく聞くので、試しに買ってみた。コーチングの本ならどれでもよかったのだが、アマゾンでまあ評判がよく、かつマケプレで安く買えるのに加え、サブタイトルにある「質問型マネジメント」という言葉がちょっと気になったのでこの本を選んだのである。結果的には、なかなか悪くない本だった。表現は平易ながらも、きちんと論理的、体系的に説明しようとしている本で、読みながら大きく疑問に思う点はなかった。

 本書で言うコーチングとは(そしておそらく、ここ数年流行っているコーチング一般も)、コーアクティブ・コーチング(協働的コーチング)と呼ばれるものらしい。その最大の特徴は「アンチ操作主義」(p.184)であるという。操作主義のコーチングとは、指示命令型のコーチングである。コーチが指示命令するということは、正解はコーチが知っている(コーチしかしらない)と考えているということである(さらにいうならば、「唯一の正解が存在する」とも考えているであろう)。本書で提唱されているコーチング(質問型)はそうではなく、「その人が必要とする答えは、すべてその人の中にある」(p.55)と考える。ただしその答えは無意識の中にあり、本人は気づいていない。ゆえに、協働して一緒にその答えを見つける人としてコーチが必要になってくるのである。正解が唯一ではなく、対話を通してその場での最適解を見出していくという考え方は、社会構成主義的な考え方に近いように感じた。

 本書では、コーチングのためのコアなスキルを5つ取り上げ、それぞれについて丁寧に説明されている。5つとは、質問、傾聴、直観、自己管理、確認のスキルである。質問のスキルには、拡大質問(いわゆる開かれた質問であろう)、未来質問、肯定質問がよいとされているし、また、傾聴のスキルとしては、自分の考える「あるべき姿」を押しつけることなく、相手の話を相手のものさしで聞く、というように相手の話を心で聴くことを勧めている(いわゆる開かれた心であろう)。こういうところは、きわめてカウンセリング的な感じがした。

 面白かったのは直観のスキルで、コーチングする際にコーチは、「考えない」「予測しない」「リードしない」とある。「考えない」に関しては、次のように書かれている。

あなたが部下をコーチングしている時、もし部下が「どうすればいいんですか?」と言って問いのボールをあなたに投げてきたら、即座にそのボールを部下の方にまた投げ返しましょう。つまり、「君はどうすればいいと思うんだね?」と聞き返すわけです。(p.115)

 「予測しない」は、コーチの問いかけに対する相手の答えが予測できるようなものであれば、それは相手の中(潜在意識)にあった答えというよりも、コーチの顕在意識の中から出てきた可能性が高いのだという。「リードしない」とは、「自分がいい質問をして相手に気づかせてやる」というようなことはしない、ということである。自分が先に立って自分の考える方向にリードするのではなく、相手が行きたい方向に「ついていく」(フォローする)のが大事なのだという。

 これらの記述をみて思い出すのは、学校教育のあり方である。学校教育において、教師が考え、予測し、リードする形で児童・生徒に質問することがよくある。それに対して私はなんだか違和感を感じていたのだが、それは要するに、「操作主義」的な働きかけだということなのだろう(つまりそれは、質問の形は取っていても、指示操作型と大差はないのかもしれない)。そうではなく、自分にもわからない答えを、相手の中に一緒に見つけることができれば、児童・生徒だけでなく教師自身もワクワクするような教育になるような気がする。今の学校教育の枠組みの中でそれがどれぐらいできるかはわからないが。

強風で傘が裏返る

2007/08/10(金)

 夕方、建物を出ると、雨とともにけっこう強い風が吹いていた。

 傘をさそうとしたら、向きが悪かったのか、風で傘が裏返った挙句に壊れてしまった(がんばってたたもうにもたためないぐらいの強風だった)。

 台風のときのお約束ニュース映像のようで、思わず笑ってしまった(傘の破損は痛いのだが)。

■『少子社会日本─もうひとつの格差のゆくえ』(山田昌弘 2007 岩波新書 ISBN: 9784004310709 \777)

2007/08/10(金)
〜経済・社会的に作られる少子化〜

 今の日本で、少子化がなぜ始まり、どのように深刻化したのかについて論じた本。このような少子化問題については前にも『子どもが減って何が悪いか!』読んだなあと思っていたのだがそうではなかった。

 『子どもが減って〜』は、今の日本の少子化対策の論拠の不適切さを論じた本(さらには「少子社会でもいいじゃないか」と論じた本)であって、「少子化のなぜ」を論じた本ではなかった。それに対して本書は豊富なデータを積み重ね、様々な角度から丁寧に少子化の「なぜ」を論じている本である。そのデータ量は(気楽に読もうと構えている私にとっては)うんざりするぐらいのもので、丁寧に議論を進めていこうという筆者の姿勢が見えるので、私はもうデータの一つ一つはあまり深く吟味せず、筆者の議論を受け入れながら読み進めた。

 ちねみにネット上で検索したりすると、少子化の原因としては、女性の高学歴化、結婚・出産に対する価値観の変化、子育てに対する負担感の増大など、個人的要因が挙げられることが多い(そのほかにも「経済的不安定の増大」なども挙げられてはいるが)。それに対して筆者は社会学者らしく、単なる個人要因に帰するのではなく、そのような個人の意識を規定する社会・経済的要因を指摘している。少子化の原因をどこに求めるかは、どのような少子化対策をするかに直結する話なので、重要な部分である。

 では具体的にはどのようなことを筆者は指摘しているのか。それはおよそ、以下のような経済的、社会的条件により、未婚化・晩婚化および夫婦出生率の低下による少子化が進行していると筆者は結論づけている。

若者が稼ぎ出せる収入水準が低下するのは、低成長化、そして、ニューエコノミーの浸透によるもので、男女交際が自由化されるという傾向は、魅力の格差拡大を顕在化させる。そして、日本のパラサイト・シングルという条件、つまり、未婚者は親と同居して結婚を先延ばしにできるという条件は、結婚生活、子育てへの期待水準を高めるし、親と同居しながら恋人としてつき合えるので、恋人ができても、あえて、結婚(同棲)する必要がない。そして、結婚後も、子育てに高い水準を求める傾向が続く一方、ニューエコノミーの影響で収入増加の期待が低下するので、既婚者の出生率も低下する。(p.201)

 ここにみられるのは、「結婚しない」「子どもをうまない」という選択ではなく、「結婚できない」「子どもを生めない」という問題なのである。いや、両者の間にあるというべきか。上記引用でもわかるように筆者は「期待水準」という観点で考えている。期待水準とは要するに要求水準のことで、これだけの条件がないと結婚しない/できない、という現実とのギャップの話なのである。お金がないから(結婚・出産)できない、相手がいないから結婚できない、結婚しないほうが生活水準が高いから結婚しない/できない、結婚しなくてもいいからしない、これだけの条件がないと子どもを生まない/生めない、というようなことである。ということは、単に男女共同参画社会を実現すれば少子化の進行が食い止められる、というような単純な話ではなく、若者の経済状況を含めもっと全方位的に対処すべき問題のようである。

 ちなみにこういう結婚・出産の話は、自分の子どもにも十数年後には来る話なので、読みながらときどき、自分の子どものことを考えてしまったりした。未婚増加の一因は、親同居(パラサイト・シングル)を許容する文化にあるようなのだが、うちの子どもたちは家族が大好きである。それはもちろんいいことなのだが、あまり家族が好きで親から離れないと、結婚したくなくなってしまうんじゃないかなあなんて、読みながら心配してしまった。

コワくて泣く娘

2007/08/07(火)

 夕食時、なかなかご飯を食べ始めない子どもたちに、妻が「ご飯食べないとプリンあげないからね」と言うところを、間違えて「おやつ食べないとプリンあげないからね」といった。

 それを聞いた上の娘(9歳1ヶ月)が、なんだかとてもうまいノリ突っ込みをした。「じゃあアイス食べてからプリン食べないと...っておやつばっかりじゃん!」とアイスを手に取りながら言う、みたいなヤツである。

 それをみて、「すごい! もうノリ突っ込みを使いこなしてる! 将来がコワいねえ」などと妻と言い合いながら、ふと横を見ると、上の娘が黙って涙を流しながら立っているではないか。

 まったく予想外の出来事に動転して、「どうしたの? パパが何かした?」と聞くと、「パパとママが泣かせた」という。

 なんで? 泣かせるようなことしてないはずだけど、と不思議に思っていると、「まーちゃん(仮名)のことをコワいっていった」といって泣いている。

 あわてて、「コワいって言っても、雷が怖い、みたいなコワいとは違うんだよ」とフォローするが、コワいのニュアンスがうまく伝えられなくて四苦八苦してしまった。

 それにしても9歳児はこんなことで涙が出たりするんだなあ、とちょっとびっくりしてしまった。

■『あなたへの社会構成主義』(ケネス・ガーゲン 1999/2004 ナカニシヤ出版 ISBN: 9784888489157 \3,675)

2007/08/05(日)
〜新たな対話の可能性を開く〜

 社会構成主義については、ちゃんと本でまとまった内容を読んだことがなく、知っているような知らないような状態だったので、360ページぐらいあって分厚いが、思い切って読んでみた。平易な語り口というわけにはいかないが、社会構成主義について、かなり理解が進んだように思う。それに、これまでに読んできた本の中には、社会構成主義そのものや、それに影響を与えた/受けた考え方がかなり含まれていることがわかった(たとえばウィトゲンシュタインなど)。

 社会構成主義というと要するに、知識やら概念やら自己やらが社会的に構築されているという考えだろうと思う。しかしこうまとめてしまっては、だから何? 実在を否定してそれからどうするの?という感じになってしまう(実際は実在を否定しているわけではない)。そこでまずは本書の中で、社会構成主義について一番最初にまとめて書かれていると思われる箇所を、私なりにまとめてみようと思う。

世界や自己をどう理解するかは、無限の記述や説明の仕方がありうる。それらは、人々の関係の中で、同意、交渉、肯定によって作り出される。そのように考えたときに社会構成主義は、自分がもっている前提を疑問視し、現実を見る別の枠組みを受け入れることを大切だと考える。ある伝統は、歴史的・文化的に作り出された伝統に過ぎず、異なる伝統がありうる。そのことを理解し、認めていくために異なる伝統間で対話を生み出していこう、というのが社会構成主義の考え方である。(p.72-76を元に道田が構成)

 そのほか、本書の中で「社会構成主義」を守護にして書かれている箇所を、落穂拾い的に列挙してみよう(もちろんこれがすべてではない。私がたまたま目に付いた数箇所のみである)。

  1. 社会構成主義が特に関心をもってきたのは、〔中略〕私たちが、自らのふだんの生き方を批判的かつ創造的に反省することにつながるような問いがもつ可能性です。(p.120)
  2. 社会構成主義は、どんな伝統や生き方にも、一定の価値と理解可能性があると考えます。(p.141)
  3. 社会構成主義は、何よりも「自省」と「解放」を目指しています。私たちが当たり前に思っている世界を反省することによって、その代替案をもっと自由に考えることができるようになるでしょう。(p.154)
  4. 社会構成主義から見れば、言葉はそれ自体一つの社会的実践なのです。ただし、大切なのは、こうした実践が、学問世界という特権的な城の中に閉じ込められてしまわないようにすることです。(p.211)
  5. 社会構成主義では、「問題」「私の利害」「最善の解決法」など、私たちが「リアルである」と思っているものはすべて、限られた場合に限られた人々にとって説得力をもつような言説にすぎないと考えます。それらは本来あいまいであり、変化しうるものなのです。(p.224)
  6. 社会構成主義の立場に立つセラピストは「無知のスタンス」、すなわち専門家から見た現実を離れ、クライアント自信がもっている意味のバリエーションに興味をもって耳を傾けようとするスタンスをとらなければなりません。(p.251)
  7. 社会構成主義の立場に立つセラピーが注目する三つ目は、「多声性」──困難な状況における「声」を多様にすること──です。ここで目的となるのは、何らかの「解答」や「新しいストーリー」を見つけることではなく、幅広い新たな選択肢を生み出すことです。(p.258)
  8. 社会構成主義から見ると、「モノローグ」というスタイルにはあまり魅力がありません。情報を一方的に与えようとするような授業にまったく価値がないというわけではありませんが、あまりにもモノローグを多用することによって、生徒を授業に引き込むことができなくなるだけでなく、生徒がものごとを自分なりのやり方で吸収していく機会を奪うことにもなります。(p.269)
  9. 社会構成主義に立つ教育研究者は、「多声性」を生み出す──生徒が、複数の声を手にし、多様な表現やものごとの捉え方ができるようになる──ためにはどうすればよいかを考えようとします。(p.271)
  10. ある共同体にとって「客観的に正しい」こと、あるいは「よい」ことは、その共同体に限定されたものである場合が多く、結果として、しばしば他の共同体との間に衝突が起こります。そのため、社会構成主義は、自らを反省する姿勢を常にもち続けることが大切だと考え、それを自らに対する課題にしています。いかなる言葉、主張、提議であっても、脱構築や道徳的・政治的な評価に対して開かれた、暫定的なものでなければなりません。(p.326)

 さがせばもっとあるがこれぐらいにしておこう。1〜3をみて思うのは、社会構成主義とは、第二波の批判的思考の考え方ととてもよく似ているということである。似ているというよりも、批判的思考の第二波とは、批判的思考を社会構成主義の中で捉えていこうという試みなのだろう。さらに3などからわかるのは、社会構成主義は単なる「捉え方」なのではなく、代替案を積極的に考えていこうという、提案的、創造的な立場だということである。こういう点に私はまったく気づいていなかったのだが、とても大事な点だろう(これは4,5でもいえることである)。。

 6,7では社会構成主義に立ったカウンセリングが、8,9では社会構成主義に立った教育が紹介されている。そこでのキーワードは、自省、共同的実践、多声性ということのようである(p.271)。なるほど、と思うのと同時に、ここで目指されていることと、「ワークショップ」(型の授業とか会議とか)が目指していることはかなり重なるようだ。さらには、社会構成主義では、上の4にあるように、「学問世界という特権的な城の中に閉じ込められてしまう」ことを嫌う。そういったところからくるのだろう、社会構成主義的な研究では、研究者は特権的な位置にいて調査協力者を断ずるのではなく、一人一人の語り(ナラティブ)を重視することで多声性を保証し、相手と一緒に共同で研究を行うアクション・リサーチが重視される。このあたりも、私の最近の興味・関心のあり方ととても重なる。これらをみると、なるほどこういったものの考え方の根底にも社会構成主義があったのか、と、いままで繋がっていなかったものが繋がったようでうれしい。

 上の10は、特定の領域の実践に限った話ではないが、自省、共同的実践、多声性がまとめて論じられるように思われる記述である。こうやってみていくことで、社会構成主義のイメージがかなりできたように思う。

 もちろんまだ十分にわかっていないところ、納得していないところもある。しかしありがたいことに本書では、最後の章で、社会構成主義に対する批判や誤解に対して答えており、それを通して理解が深められるようになっている。また時間を置いて再読し、理解を深めたいものである。

 最後に一つ。訳者の言葉なのだが、なるほど確かに!と思ったものがあるので引用しておく。

「社会的な構成の産物である」という言葉で対話を終わらせてしまうことこそ、社会構成主義にとって最も望ましくない事態であるはずです。この言葉を「最終的な結論」としてではなく、「新たな対話の可能性を開くもの」として用いることができてはじめて、社会構成主義の主張が意義をもつのである。(p.359)

 確かに研究や教育の中には、「社会構成主義だから」という言葉で「切る」ことが行われることがあるようである。そうではなく社会構成主義は「対話を開く」ものである。とても大事な指摘であると思った。

10本アニメ

2007/08/02(木)

 7月にオープンキャンパスで土曜出勤したので、今日は代休を取っている。本当はデータを取りたいので休むのはイタいのだが、子どもたちも楽しみにしているのでしょうがない。

 ところで今朝、下の娘(6歳10ヶ月)がつまようじを並べて遊んでいた。最初は「がったいかんじー」(IQサプリ)なんてやっていたのだが、そのうちに、「いち、に、さん、し...」とつまようじを数え始めた。何してんだろう、と思ったら、「...はち、きゅう、じゅう。♪じっぽんあにめー」と歌いだした。NHKの「ピタゴラスイッチ」でやっているやつである。こういう空想遊び、彼女は大好きである。

 そういえば10本アニメって面白かったよなあと思ってYouTubeで探したら、案の定いくつかあった。子どもたちと見たのだが、新しい生物が一番面白かった。

 畳み掛けるようなところが他のとはちょっと違う感じである。


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