15日『民主主義と教育(上)』 10日『ホンダ神話』 5日『日本のニート・世界のフリーター』 | |
| 12日教育発達心理学特論 5日授業準備 2日社会人基礎力 |
「民主的社会にこめられている諸理念を見出し、明示し、それらを教育という事業の諸問題に応用しようとした」(p.4)本らしい。らしい、というのは、非常に読みにくかった本だからである。読みにくかったのは、100年近く前の本だから、ということもあるかもしれない。翻訳のせいかもしれない(原文を読んでいないので分からないが、たとえば「コミュニケーション」に「通信」という語が当てられたりしているのはどうかと思う)。
ということで、読んだとは言っても、理解できそうな箇所のみの拾い読みではあるし、おそらく下巻はもう読まないだろうなとは思うのだが、しかし、理解できたところに関しては、おお!と思うところも少なくなかった。たとえば、学校外における教育と学校教育を対比し、「未開の集団は、子どもたちが、年長者の行っていることに参加することによって、大人たちの慣習を学びとり、大人たちの情緒的態度や観念の蓄積を習得することをあてにしている」(p.21)なんて書かれていたりする。ちょっと「正統的周辺参加としての学習」論のようである。
あるいは、浜田寿美男的なフレーズもある。「われわれは、未成熟を単なる欠如とみなし、成長を未成熟と成熟との間の間隙を埋めるものとみなす傾向があるが、この傾向は、自動機を、その本質においてとらえないで、他との比較においてとらえることによるものである」(p.75)というくだりである。
なお本書には、批判的思考、反省的思考などという語は出てこないが(熟慮的(リフレクシブ)という語は出てくるが)、批判的思考態度的な話は少し出てくる。「個人の態度という面で表現するならば、良い方法の諸特徴は、率直さ、柔軟な知的興味、つまり開かれた心をもって学習しようとする意志、目的の公明正大さ、思考を含む自分の活動の諸結果に対する責任を引き受けることである」(p.284)というくだりである。それぞれのくだりに十分なコメントをつけることはできないが(なんせ半分以上は理解できていない)、興味深いというか、読みながら、本当にところどころで、おお!と思ったのは確かである。
後期授業開始の一発目は、研究科の必修科目「教育発達心理学特論」。
Web登録では、21名しか登録されておらず、いつもより少ないなあと思っていたのだが、学務側の手違いで登録できなかった学生がおり、実際の受講生は41名であった。配布資料も足りないし、教室も定員オーバーで、最初からあわてた。授業の初回って、何かしらトラブルが発生するものだと思っておいたほうがいいのかもしれない。
受講生にグループになってもらって自己紹介しあってもらっている間に追加のコピーを作り、その場は何とかしのげた。それから自己紹介シートに記入してもらい(思ったより長く、15分ぐらいかかっていた)、各グループの代表者1名に全体に向かって自己紹介してもらった。そこで、ストレートマスターの学生複数から、現職の先生の実践の話が聞きたい、という要望があったので、終了後、現職の先生(6名おられた)に集まってもらい、毎時間ひとりに話題提供してもらうようにお願いをした。
そんなこんなで、あっというまにすぎた90分であった。久々の授業、終わった後はやっぱり腰に来るなあ(午後からももう一つ授業があるのだけれど)。
ホンダの創業から、1990年代の業績低迷までを丁寧に追ったノンフィクション。大宅壮一ノンフィクション賞受賞作である。それだけでなく、オックスフォード大学出版会から英訳本も出されているらしい。すごい。
内容は、文庫版で700ページ弱もある大作なのだが、ごく大まかな流れとしては、次のようになるだろうか。
ホンダの原点を一口でいえば「夢と志に満ち溢れたチャレンジ精神」ということになる。総一郎と藤沢という二人の創業者はこの精神だけで、戦後の混乱期に乗じて無から有を生じさせ、「世界のホンダ」と呼ばれる土台を築き上げた。
〔中略〕 ホンダが二代目社長河島喜好の時代に、さらなる発展を遂げることができたのは、二人の創業者が経営の表舞台から去った後なお健在で、その威厳が社内の隅々にまで行き渡っていたからにほかならない。が、二人のエネルギーが衰え出した三代目社長久米是志の時代になると、"ホンダ神話"に陰りが出始め、創業者がいなくなった四代目の川本信彦の時代には、"神話"は完全に崩壊してしまった。(p.658)
これがごくごく大まかな概略だが、もちろんこれだけではない。本田宗一郎という天才的技術者が藤沢武夫というやり手の経営者と出会ったということも大きいし、その藤沢が、宗一郎引退後のことを考えてエキスパート制度(ピラミッド型ではない研究組織)やワイガヤ(大部屋役員室)を作ったこと、排ガス規制時に低公害エンジンを開発したことなどの社会的追い風、などなどもホンダの世界的成長に関係している。
このうち、大部屋役員室のアイディアは非常に興味深いものだと思った。それは、社長、副社長以外の役員が一つの部屋に集められることで、「問題が発生したときは、全員がまず自分の意見を述べ、それを役員室として集約して、最終的に藤沢の判断を仰ぐシステム」(p.166)である。最後の、副社長の判断を仰ぐという部分を除けば、これは要するに、部門横断的な意思決定をしているわけで、きわめてワークショップ的な発想だと思った。
ところがそのような組織も、創業者二人が亡くなる前あたり(昭和60年代)ごろから、官僚的で無機質な社風になっていく。それには、創業者の影響力の弱化のほかに、大企業になったこと、社長の考えな、さまざまな要因が関係しているようなのだが、そのころから、ホンダの業績は低迷していく。
そのような低迷の原因については明確には論じられていなかったように思うが、一企業の栄枯盛衰をつぶさに知ることができるという点で、分厚いながらも、非常に興味深い本であった。
一週間後の授業開始(←よそに比べて遅い気が...)に向けて,昨日から授業準備を始めた。
以前は初回の授業というと,軽く説明して終わりにしていた。
でも,ワークショップ的な授業を意識するようになってからは,初回を構想するのがすごく楽しくなってきた。
その分,準備に時間がかかってしまうんだけどね。
タイトルからは、日本のニート、世界のフリーターについてのドキュメントか何かだとイメージしていたが、そういう本ではなかった。欧米の若年失業の実態や、若年雇用対策の状況を論じ、国際比較している、いわば由緒正しい社会学の本であった。
日本の若者に雇用問題が生じたのがここ数年であるのに対して、欧米ではそういう問題は長らく生じていたので、その経験から学べることがあれば学ぼうというのである。確かにどの国も、学校と社会をいかにスムーズに接続するかという点で、さまざまな工夫がこらされていた。その点では日本はまだまだこれからのようである。
もっとも日本の若年雇用問題は、そのような学校−社会の接続部分に問題があるのではなく、筆者の見立てによると、既存の正社員に対する雇用保護規制があり、要するにすでに就職しているものの既得権が強く守られ、新規参入が難しい状況があることが根本的な問題なのだという。
さらにいうならば、日本の景気が回復したのは、非正規雇用の数を増やすことで雇用市場がフレキシビリティを獲得したからだという。それは要するに、若者が犠牲になったから景気の回復があったということで、今はそれでもいいかもしれないが、長い目で見るとこれはいずれ問題の種となる(必要な技能の身についていない労働者が増えるという意味で)。そうなる前に、雇用規制を含む制度の整備が必要であることが本書でよくわかった。
なお、本書では6カ国が取り上げられているが、その中で、イタリアは失業率は高いものの家族が職のない若者を救済する機能を果たしており、人々はそんなに困っていないという。こういうところって、ちょっと沖縄の状況に似ていると思った(あくまでも素人の印象判断ではあるが)。
・・・なる概念があることを,最近初めて知った。1年半ほど前に,経済産業省が設置した研究会が提案したらしい(こちら)
具体的には,「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームで働く力」といった、私たちが職場や地域社会で働く上で必要な力のことをいうそうだ。
これはあれだな。本田由紀氏の言うところの,「ポスト近代型能力」だな(生きる力,人間力,などと同じく)。
なんだか,なんでも「〜力」にするのが好きだなあ,というのが第一印象ではある。しかし,最初のリンクの中の「レファレンス・ブック」をみると,世界各国でこれに類する能力が命名され,教育的に向上させようという努力されているようである(Core skills,Employability skills, Generic skills, Basic skills, など)。
経済産業省のものも,単に社会人基礎力を提唱しているだけでなく,いくつかの大学では,企業と一緒になって,学生をトレーニングするプログラムを開発し,試行しているようだ(知らなかったがうちの大学でも行われていた)。
やっている中身は,いわゆるプロジェクト学習的なものである。たとえば「琉大生が将来的に沖縄銀行をメインバンクとして使ってもらうには?」という課題に対して,ファシリテーターにサポートされながら学生がチームを組んで取り組むのだという。こういうところまで踏み込んでいるという点では(また,就職後に必要そうな力に限定しているという点では),たとえば「人間力」などよりも現実的なのかもしれない(人間力に対する具体的な取組について知っているわけではないし,このような幅広い概念を提唱することにも一定の意味はあるのだろうが)。