29日短評6冊 24日『 大仏破壊』 18日『カルロス・ゴーンに学ぶ改革の極意』 | |
| 24日子どもがしゃべり,子どもが進める 19日奈良 17日授業者として授業を楽しむ |
もう2月も終わりか。授業期間は18日で終わったものの,採点をして成績をつけ,出張に行き,入試関連業務をやったら,もう2月末だ。3月こそじっくり腰を落ち着けてあんなことやこんなことをしたいものである。
今月良かった本は『 大仏破壊』(なるほどそういうことだったのか)。9.11を深く理解できた気がする。
奈良女子大学附属小学校での授業は,「学習時間の半分以上,できれば8割ぐらいの時間を,子どもに話させる」「学級委員とかの一部の子どもに頼った学級経営ではなく,持ち回りの日直を育てる(授業の司会をさせる)」という。
私の大学の授業では,1〜2個だけ,「学生8割,教師2割」の授業がある。これがうまくいくときは,授業をやっていて非常に楽しい。ところが,これがすんなりできる科目と,まったくできない科目がある。
小学校の授業で8割が子どもがしゃべるということは,先生がしゃべるのは8〜9分。まとまって4分と,断片的な声かけが合計4分という感じだろうか。日直を育てると言ったとき,単に号令をかけたり先生との連絡調整役をするだけでなく,毎時の授業の司会運営をしたり,自由研究の発表をしたりしている(たぶん)。これらができるということは,単に時間の長さや仕事配分の問題だけではなく,学習観,授業観が大きく違うのではないかと思う。
ということは,私の中でも,授業によって,異なる考えで授業をやっているということだろう。それが自分でもう少し自覚できると,いろいろと応用の範囲が広がっていいだろうになあ,と思っている。
断片的な情報でしか理解していなかったビンラディン,アルカイダ,タリバン,オマルなどについて,非常に分かりやすく書かれた本である。分かりやすいというのは,その来歴が分かることで,今に至るまでのストーリーが分かるからであり,そこにいた一人ひとりの思いが見える(ような気がする)からである。
ビンラディンとタリバンの関係は,大まかには以下のように書かれている。
ビンラディンは,タリバンの体内に巣食った危険な寄生虫である。最初は宿主タリバンの保護をうけ,利益を与えて「共生」していたが,やがてタリバンの体内を食い荒らし,腹を破って外に出てきて,残ったのは宿主タリバンの死体だった。(p.184)
概略はこのとおりである。詳しくは,ぜひ本書を読んでみてほしい。
私にとって本書は,いろんな意味で興味深いものであった。その第一は,上述のように,9.11にいたるストーリーを理解できた点である。それは上述のように,ビンラディンの巧みな手管によりタリバンの指導者オマルが変化して行っているのだが,これは,行動を説明するのに「性格」よりも「状況」のほうが説明力が高い,という例としても興味深い。
というのはオマルたちタリバンは,最初は「無欲で何事もアラーと民衆のためにという姿勢」(p.38)で動いていた。オマル自身も,「注意深さと周到な計画性ももって」(p.55)おり,「状況さえ理解すれば論理的な交渉をし,外国人が相手でも,十分にコミュニケーションをとって話をまとめることもできた」(p.55)人物だった。ところが,「極めて優れた先見性と企画力,そして人を動かす力をもって」(p.62)いたオサマ・ビンラディンが,オマルの心をつかむため,「さまざまな布石を打って」(p.124)いった結果,彼は,周りの人間の「助言をいっさい聞かなくなり」(p.260),来世のことのみを考え,「現世のことを基準にして政策を考えることをやめて」(p.331)しまったという。ここで思うのは,無欲,注意深さ,論理性などがいかに脆いかということであり,先見性や企画力は,良いことだけに使われるわけではないということである。「能力」や「性質」を個人内部に溜め込むことの無意味さとでもいおうか。
本書が興味深かった第三の点は,アメリカの多様な姿を見ることができた点である。一つは思考停止したアメリカの姿である。筆者は,「アメリカは,「テロは絶対に許せない」「ビンラディンは本質的に悪である」という単純な言い方をすべての議論の前提にして,そこで思考停止してしまっている」(p.78)と述べている。もちろんテロは許せないし,ビンラディンは悪である。しかしそこに至るまでのストーリーを理解することなしには,生産的な議論(アメリカはなぜ狙われているのか,これまでどうすればよかったのか,これからどうすればいいのか,など)も生まれてこない。筆者は,アメリカが太平洋戦争で日本のことを冷静に徹底的に研究したことと対比させ,「今アメリカが対テロ戦争の相手への冷静な視線を失っている」(p.78)ことを指摘しているのである。
しかし,それだけではないのがアメリカのすごいところでもある。1990年代後半,アメリカ(おそらく情報機関)は,タリバンの高官を何人かアメリカに招いている。それは,「いきなりアメリカに連れてきて,先進ぶりと強大さを見せつけよう,というねらい」(p.159)もあったわけだが,それだけではない。「将来何かが起きたときに連絡がつけられる人物なのかをさぐる」(p.160)という長期的な戦略でもあるのである。このことについて,筆者は次のように述べている。
一方ではタリバン非難の言葉を極め,最後通牒をつきつけながら,もう片方の手では,タリバンの中で将来アメリカのために「使える」指導者を育成する。そこにアメリカの戦略的思考の強さがある。(p.161)
これは一つの機関が意図して行ったものではない。さまざまな考えの人がさまざまに活動できる自由度を高めている結果,このようなことが「組織全体として自然にできるシステム」(p.162)になっているということのようである。もちろんその「良さ」だけが表面化するわけではないところに難しさはあるわけだが,しかし,さまざまなものを許容するということが「よさ」を生み出す第一歩なのだろうなとは思う。
奈良に来ている。1年ぶり2度目である(奈良が,ではなく某小学校が)。
1年前は公開研ということもあり,2日間で,2名の先生の授業4時間しか見ることができなかった。今回は,平日ということもあり,1年から6年まで,4名の先生の授業を5時間見ることができた(プラスなかよし)。1年だから,6年だから,選科の授業だから,と,いろいろと感じることがあり,非常に楽しかった。
明日は小幡学級に4時間お邪魔してから帰る予定。こちらも公開研とは違う姿が見れそうで,非常に楽しみである。
ゴーン関連の本は『ルネッサンス』に次いで3冊目だが,本書はとても面白いというわけではなかった。まあそれでも,今まで読んだ本は,クロスファンクショナル・チームのことを中心に読んだが,本書では,それ以外の部分を多少知ることはできたのだが。
本書では少ししか触れられていなかったのだが,もう少し知りたかったものに,ゴーン赴任直後は,「ゴーンが描いているように計画が実現できるものかどうか,信じられないという空気が漂い,どことなく消極的な,「やる気のなさ」が社内を支配していた」(p.151)という部分がある。これはまあ当然だろうなあと思う。ゴーンが精力的に社員への聞き取りを行い,クロスファンクショナル・チームを作ったからと行って,全体がそうそう簡単に動くわけではないだろう。その意識変化がどのように起こり,内部の人たちが何をどのように感じたのかは,もっと知りたいと思った。
あと本書でほほお,と思ったのは,日産では定期的に意識調査を行っている,というところ。そこで悪い評価が出た場合は,改善のためのプランを作らせるという。「誰に」作らせるかは書いていなかったが,プロジェクト・チームでも作るのだろう(クロスファンクショナルで?)。その結果として改善されたのは,社内コミュニケーション,意思決定のスピード,説明責任などがあるという。
業績(販売台数,終始決算など)という外に現れるものだけでなく,社員の意識に影響を与える組織内部の問題に対してもきちんと取り組む。当たり前といえば当たり前だが,さすが抜かりがない。一般論としていうならば,内部の改善をすることなしに外部に現れる数字(業績など)だけでコトを進めようとすると,さまざまな歪みが生まれ改革なりがうまくいかないのかもしれない,と思った。
最近,授業の中で受講生同士に話し合わせたり発表させたり,という授業をやっている(受講生100人の共通教育から,教職必修科目,専門科目まで)。
同じようにお題を出し,同じように話し合わせてはいるのだが,受講生の考えを授業者として「楽しめる」場合と,あまり楽しめない場合があるなあ,と感じている。
楽しめる,というのは,なるほどそういう考え方もあるのか,と面白がることができる,ということである。
楽しめない,というのは,こちらが教えたい一定の知識なり考え方があり,受講生の考えがそれと合致しているかどうかが気になるときである(教えたいことや教えたこととズレていると,なるほどそんなふうに捕らえられてしまうのか,と思ってしまい,その考えを面白がることは,私にはできない)。
楽しめる授業の典型は,大学院の授業である。こういう考えもしてくれるといいなあ,と思いはするものの,それを受け取るかどうかは受講生次第だし,こちらとしては,受講前の考えから一歩でも広がったり深まったりしてくれればいいかな,という気持ちで臨んでいる。だから,私の考えとは異なることを学んでくれても,まったくOKなのである(もちろん私が教えたことを受講生が受け取って自分の考えの中に組み込んでくれればそれに越したことはないが)。
そう考えると,楽しめるときというのは,受講生を,個人準拠の評価(縦断的個人内評価)をしているとき(それができるとき)であり,楽しめないのは,受講生を,目標準拠の評価をしているとき(それしかできないとき)なのかなあと思っている。採用試験に多少なりとも問題が出される「教育心理学」の授業は,それでやるしかないわけだが。