読書と日々の記録2008.3上

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■読書記録:  12日『昭和史七つの謎』 6日『エイズ犯罪』
■日々記録:  9日「言語力」って何だ?

■『昭和史七つの謎』(保阪正康 2000/2003 講談社文庫 ISBN13: 9784062736466 \600)

2008/03/12(水)

 『あの戦争は何だったのか』の著者による本。昭和の戦前,戦後について,筆者が謎と考える出来事を取り上げ,「推測を交えて大胆に<真実>に迫って」(p.11)いる。取り上げられている謎は,「真珠湾奇襲攻撃で,なぜ上陸作戦を行わなかったか?」「<東日本社会主義人民共和国>は,誕生しえたか?」「M資金とは何をさし,それはどのような戦後の闇を継いでいるか?」というような感じである。

 私にとってもっとも興味深かったのは,第一話「日本の<文化大革命>は,なぜ起きたのか?」である。日本では,昭和8年から昭和15年ごろまで,言論や思想が崩れ,何が善で何が悪かわからない,バランスを崩した状態になり,太平洋戦争に突入していく。その姿を筆者は中国の文化大革命に比して述べているのである。それは,「知性や理性よりも感情が先行し,事象や人物を客観化して見てはならないとの社会的空気が確立していった」(p.20)時期である。なるほど,言われてみれば確かに,『ワイルド・スワン』などに描かれている文化大革命の雰囲気によく似ている。

 それに対して筆者は,「二・二六事件後の陸軍首脳部の巧妙な政策とそれを受ける形で文部省が進めた皇民教育こそが,まず日本人を歪めた「犯人」」(p.32)と指摘している。それは,日本文化は優れたものであり,軍事によって日本文化は守られているのだという空気を作ったのだという。そのとき,教育は「日本国民から知性を封殺する役目」(p.33)を果たしている。

 教育とは,知性を育てることも封殺することもできることを,改めて再認識した。また,そういう空気を理解することなしには,あの時代(「客観性のない,誰が見てもおかしいと思う時代」(p.37))を実感として理解することは難しいのだろうなと思った。

「言語力」って何だ?

2008/03/09(日)

 最近,言語力について調べたり考えたりしているのだけれど,言語力というものが何なのか,よくわからない(って,大して調べているわけではないが)。

 「言語力育成協力者会議」の報告書案('07.8.16)によると,「言語力とは,知識と経験,論理的思考,感性・情緒等を基盤として,自らの考えを深め,他者とのコミュニケーションを行うために言語を運用するのに必要な能力を意味する」とある。長ったらしくてよく分からない。

 「学習指導要領の改訂案等のポイント」という文科省文書によると,「言語は、知的活動やコミュニケーション、感性・情緒の基盤」とある。

 これらの記述やその前後の文書内容から察するに,

 言語力 ⇒ 思考力(その他の知力),コミュニケーション力,感性・情緒

 という図式で考えられているのだろうか。前者が後者の構成要素というか,前者を育成すれば後者が育つ,みたいな(この捉え方があっているかどうか,自信はないが)。あるいは前者と後者は別物,というような(少なくともこれは間違いないだろう。「報告書案」には,「思考力や言語力を育成する」と並列で書かれているので)。

 しかし私にはそうは思えない。一言で言語力といっても,思考に必要な言語力と,コミュニケーションに必要な言語力はかなり別物だろうと思うし。言語力(だけ)を育成すれば結果的に思考力が伸びる,なんてことはまずないと思うし。そもそも「言語力育成」といったときに,何を,何のために,どのように育成するのかがよく分からない。

 上記の図式をはずして考えるなら,とりあえず,私は次のように考えるのがいいのではないかと思った。

 「思考にせよコミュニケーションにせよ感性・情緒にせよ,そこには言葉が大きく(さまざまな形で)関わっている。そのような「言葉」を教科・領域横断的に捉えて,言葉を少し意識しながら,思考なりコミュニケーションなりを育てていきましょう」

 つまり言語力とは,学校教育で育成すべき諸能力を括るために「言葉」に着目してみましょう,という「旗印」程度の概念ではないかと思う。育成すべきは「言語力」なるものではなく,思考力,コミュニケーション力など,個々の能力そのものだと思う(実際,報告書案に書かれている「指導方法」は,思考力育成,コミュニケーション力育成以外の何者でもないと思う)。

■『エイズ犯罪−血友病患者の悲劇』(櫻井よしこ 1994/1998 中公文庫 ISBN: 9784122032149 \680)

2008/03/06(木)

 薬害エイズ事件に関するノンフィクション。大宅ノンフィクション賞受賞作である。この事件についてはあまり知らなかっただけに,非常に衝撃的な内容で,一気に読み終わった。

 事件は簡単に言うならば,エイズウィルスの混じった輸入非加熱血液製剤を使用したおかげで,血友病患者の4割がHIVに感染したという事件である。エイズの原因はウィルスであり,非加熱製剤によって血友病患者にうつされる,という情報がかなり早い段階で日本に伝えられていたにも関わらず,その情報は日本の医療行政の中で2年以上に渡って活かされず,結果として多くのエイズ患者を生み出すことになった。そこに見られるのは,さまざまな「無責任の構造」に見られるような権威主義であり,個々の患者への想像力の欠如であり,自分の利害のみを考えてなされる判断である。

 なお,輸入非加熱製剤は,アメリカから輸入されたものである。そのアメリカに着目して読むと,アメリカの中で善悪入り乱れた様子がちょっと興味深く思えた。まず,「アメリカの血液は売血所で身元の確認も不十分なまま集められるケースが非常に多い」(p.22)といういい加減さがこの事件の発端にはあるのである。ただし,かなり早い時期に,アメリカ国立防疫センターが,血友病患者のエイズは非加熱血液製剤が原因と見られることを発表し,アメリカ食品医薬品極は,加熱処理製剤の開発を企業に勧告していった。その一方で,世界血友病エイズセンターの所長であったディートリック博士は,「血友病患者がエイズを発症するかもしれないリスクは,ミニマム,最小である」(p.129)と述べている。といってもディートリック博士の所属するセンターは,製薬会社から多大の経済援助を受けているセンターだったのである。

 ここに見られるアメリカの姿は,自由な意見や自由な活動が許容される社会の良い面と悪い面のように見える。自由だからこそ,安いが素性の知れない粗悪な血液製剤も作られる。スポンサーの意に沿う(不適切な)意見を述べることも自由である。しかしそれは悪い面ばかりでなく,すばやい情報公開やすばやい措置にもつながっているのである。自由が産むリスクも利益も享受する社会とでも言おうか。その分,マイナス面もプラス面も大きいような気がする。それがいいことなのか悪いことなのかは,にわかには判断はできないのだが(そしてそれは,決してアメリカだけの姿ではないとは思うのだが)。


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