31日短評1冊 30日『「自分だまし」の心理学』 25日『全国学力テスト、参加しません。』 18日『ナツコ』 | |
| 30日公立小の校内研 25日語りこみスタイル 18日噛まないネコ |
慌しさが止まらない。今月下旬に気がかりな仕事が2つ終わったと思ったのだが...1年前の7月末には「ここ最近は気分的にゆったり過ごしていた」と書いていたのがウソのようである。
今月良かった本は,『「自分だまし」の心理学』かな。今月の本は全体的に小粒な感じはするが。
著者さまから頂いた(ので久々に月5冊目の読書記録)。本書は心理学を利用して「だまし」を正しく判断し,活用しようという本である。といっても,単純に「だまされないようにしよう」と論じているのではない。人間の心の基盤に「だまし」という働きがあり,だまし/だまされは「それ自体が自然な働きであり,生きていくためにはなくてはならない必要不可欠なシステムの反映」(p.5)という観点から論じたうえで,だましと上手く付き合うことを提唱しているのである。
「だまし」が「生きていくためにはなくてはならない必要不可欠なシステムの反映」というのは私もまったく同感で,私もそれに近いことを,一般教養の心理学の授業では論じている。人間の情報処理システムは,我々が環境に適応するようにうまくできているが,その盲点を突かれたとき,その適応的なシステムによって錯覚なり不適応が起こる,ということである。もっとも菊池さんは,こういう話をもっとうまく論じているが。たとえば人間の情報処理システムの適応原則を「生存に有利になる」「リソースを節約する」「私を気分よくする」とまとめているところなどがそうである。
ではこのようなシステムの特性を知った上で,「だまし」と上手く付き合うとはどういうことか。筆者は,筆者の好きなプロレスにおけるだましを例に挙げて,次のように述べている。
誰もが,最初はプロレスの子どもだましにだまされて,成長すれば仕掛けを見破ってだまされないようになる。これが第一段階です。ここで卒業せずに,積極的にだまされに行き,その世界の魅力をより深く知ることができるようになる。そして,あえてだまされる自分と,それを含めたすべてを俯瞰する自分を意識し,コントロールすることができるようになる。これこそが,プロレスに限ることなく,アクティブな「おたく」の,そして「だましリテラシー」の達人のたどる成長の道のりだと思っています。(p.226-227)
なるほど,「積極的にだまされにいく」ねえ。それはもちろん,だまされることの実害がなく,楽しい場合に限られるのだろうが,なかなかうまいこという。これは別の例でいうなら,錯視図形をいろいろと眺め,錯覚が起こることを楽しむ,という感じだろうか。私も講義でそこまでは論じたことがなかったが,確かにこういう視点は必要かもしれない。
「だまし」というと,ともすれば「気をつけましょう」的な話で終わってしまいがちだが,そうではなく,「だまし」が人間の情報処理システムの根本にあることをきちんと論じたうえで,気をつけるだけでなくその楽しみ方まで論じている懐の深さは,さすがだなあと感心した次第である。
昨日,公立小学校で校内研修の講師を務めてきた。テーマは「思考力を育成する授業づくり」で時間は2時間半。公立学校でこういうことをやるのは初めてなので,反省点などをちょっとメモ書きしておこう。
最初に4人グループになってもらい,「今日の研修で学びたいことを,できるだけ具体的に話し合って」もらった。これは悪くなかったと思うのだが,ここで出されたことをその後の研修で十分には活かしきれなかった。けっこう具体的な話を出された方もいた。そういうのを1つ2つぐらいは積極的に研修の中に位置づけ,それについてみんなで話し合ってもらったり私の考えを述べたりすればよかったかもしれない。そのためには,口頭で説明してもらうだけでなく紙に書いてもらった方がよかったかな。
そうするとすると,2時間半時間があっても,1時間半ぐらいの内容しかもって行かないのがいいかもしれない。万が一時間が余ったときのために見せる,授業のDVDか何かを用意した上で。
進め方としては,グループワークとミニ講義を交互に,3回行った。最後のミニ講義は,短い時間でザーッと説明してしまい,ちょっと表面的に流れた感があるので,せっかく用意したからとは考えずに,その場に必要なものを取捨選択して,少数のものを丁寧に説明した方がよかったかもしれない(特に,誰も知っている人がいなかった「教えて考えさせる授業」かな)。
とまあ反省点はあるが,1回目にしては悪くなかったのではないかと思う(附属小での経験や,高知での県職員研修の経験が活きているようだ)。
犬山市は全国学力テストが「不要かつ有害」(p.6)ということでテストへの不参加を決めたが,それがどういうことなのか知りたかったので買ってみた。おかげで少し分かった。
私は,テスト結果はその後の指導にいかせばいいじゃんと思ったりしていたのだが,「4月に実施した調査結果は9月に返されることになっており,その結果を指導に生かすのは困難」(p.31)だという。なるほど。
また制度的にもこれは「行政調査」と位置づけるしかなく,そうであれば,市町村教育委員会に協力を求めることはできても,「設置管理者の同意を得ることなく,学校に立ち入ってあれこれ調査することはできません」(p.133)ということなのだそうだ。これもなるほどだ。また目的が実態把握であるならば,記名式の悉皆調査である理由もはっきりしない。確かにね。
また,イギリスでの現状が挙げられており,「学力テストに出題されそうな単元ばかり集中的に,しかし浅く指導したり,リスクをおそれて学習指導の創意工夫を避けてしまったりと,教育現場がおかしくなり始めている」(p.155)そうだ。そうならないで,しかし必要な力をつけるためにどうしたらいいか,学校現場や教育委員会だけでなくその他の教育関係者(大学など)も一緒にじっくり考えられるといいんだけどね。
とあるところでとある大学教員の話を聞いた。聴衆相手に熱く語るというか,語り込むスタイルの人だった。
あんなにしゃべれてすごいなーと思うのと同時に,私は(できないだけでなく),今ならああいうやり方はしないだろうなあと思った。聞いている人が,何が聞きたくて来ているのか,なんてことを一つも知らずにしゃべることはできない,と思うのである。
そういうことは前から思っていて,でも以前は,事後に何か書いてもらったりしていた。でも今は,どうせ聞くなら最初に聞くだろうと思う。なんでこうなったのかはよくわからないが,要は,対話を通して話を進めていきたい,ということなのかな。
講談社ノンフィクション賞ならびに大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。
終戦直後の沖縄では,みんなが闇商売に手を出していた時代があるという。それは終戦から6,7年で,そうしなければ食えなかったとか,物価統制がなされていたとか,民間貿易が許されていなかったとか,いくつか理由があるらしい。
そういう時代に,船で本土や外国に行き,密貿易をして大もうけをした人たちがいる。本書の主人公ナツコもその一人で,終戦時に20歳以上だった沖縄の人で,その名を知らない人はいないというが,しかし公的な記録には一切名前の残っていない人物である。彼女のことを耳にして筆者が数年かけて明らかにした,沖縄の密貿易時代の話である。
ナツコ自身の話も興味深いが,当時の沖縄の様子が分かるという点でも,本書は興味深い本である。沖縄の基地依存型輸入経済がどのようにして出来上がったかとか,当時の米兵がいかにひどかったかとか,当時の人々がどうやって生きていたかなどである。
それは大変な時代には違いないのだが,漁船で本土と往復すれば二百万円以上(現在の数億)の利益があったりして,その気になれば一山当てられる,という時代でもあった。その雰囲気は,無法地帯的でもあり,ある種の猥雑さを感じさせるものでもある。そういえば米軍占領下の沖縄について描いている映画には,そういう猥雑な雰囲気の沖縄が出てきたりするイメージがあるのだが(見たのはずっと昔なのであまり覚えていないのだが),そういう空気を感じさせるような本だった。
どうやら妻が何かしつけをしたらしく,最近,うちの子猫(推定4ヶ月)があまり人を噛まなくなった。噛んでもあまり強くなかったり。どうやってしつけたんだろう。
噛まないのはいいのだが,その代わり,人間にベタベタ寄ってくる,ということが少なくなったような気がする。ジャレに来ないというか。きてもちょっとしたらふらっといってしまうというか。
たまたまかもしれないけど,関係あるような気もする。噛まれるのはもちろんイヤだけど,あんまりじゃれてくれないのもちょっとさびしい。噛まずにじゃれてくれる猫になってくれるといいんだけどなあ。