30日短評4冊 24日『プロレス少女伝説』 18日『自分管理術』 | |
| 30日1年ぶりの専業主夫 24日現場と深く関わる 18日11月の運動会 |
今月は『自分管理術』を読んで,私もちゃんと自己管理して読書の時間を確保しよう,という気になった(長谷川氏は1日に2〜3回は読書の時間を予定に組み込んでいる)。おかげで,一時はちゃんと読んでいたのだが,最近は少し崩れつつある。いかんなあ。
ということで今月良かった本は,『自分管理術』,それに『「旭山動物園」革命』。『頭の使い方がわかる本』も長年読みたかっただけに,悪くはなかったのだけれど(特に最初と最後の部分は)。
昨年に引き続き,今年も妻が1泊で県外出張に出た。
昨日の早朝,みんなで妻をモノレールの駅まで送りに行き,帰ってからうちで朝ごはんを食べさせた。その後,「今日のスケジュールを立てよう」と提案して,何時に何をする,と計画させた。上の娘(10歳4ヶ月)にはこういうのはよかったようで,ちゃんと計画通りに過ごしてくれた。お昼は去年と同じく(^_^;)スパゲティをつくり,お稽古事(バレエ)に行く準備をし,連れて行った。お迎えまでは一人なのでダラダラ過ごし(買い物に行ったり,読もうと思っていた資料を読んだりもしたけど),子どもを迎えて沖縄そば屋でご飯を食べさせ,帰宅してテレビ見て風呂に入って10時前には寝させた。実に計画通りの一日だった。
こういうとき,外食は1日1回ということにしているので,明日は何食べたい?と子どもに聞いたところ,「カレー」と言われたので,今日はこれからカレーを作る。スパゲティ以外の料理なんて結婚以来ほとんどやっていないのだが,まあカレーなら何とかなるだろう。
あとは,バレエに行っている上の娘のお迎えをし,ご飯を食べさせ,明日の準備をさせ,時間があれば遊び,夕方に妻を迎えて晩飯を食べる,というところか。自分のことがゆっくりできないのはつらいが,年に1回だからしょうがない。子どもたちもだいぶ自分のことが自分でできるようになったので,とても大変なわけじゃないし。ちなみに昨年は上の娘が少し泣いたが,今年はまったくそういうことはなかった。年1回のイベント(ママがいない日)を通して,子どもの成長が見えるなあ。
4人の女子プロレスラーに焦点を当てたノンフィクション。大宅壮一ノンフィクション賞受賞である。読み始め時点では,まあちょっと変わった,私たちの日常とは違う世界にいる人にインタビューしたり密着したらそれなりに面白い話にはなるだろうなあ,ぐらいに思っていたのだが,それ以上に面白かった。それは日本における女子プロレスが特異な位置にあるせいにある。アメリカでは女子プロレスは,レベルも低く,男子プロレスの合間の息抜き(?)的な存在らしい。また日本の女子プロレスは,男子プロレスにはない,「リング上で歌を歌う」などのパフォーマンスがある。筆者の考察によればこれは,日本にかつてあった「女相撲」の伝統を受け継いでいるという。もちろん女子プロレスが直接にその流れを汲んでいるわけではないだろうが,しかし少なくとも日本には,そういうものを受け入れる土壌があったということであり,その土壌の中で女子プロレスは進化発展したということである。このあたりの事情について筆者は次のようにまとめている。
まず最初に,男の肉体と力を肯定するマッチョ神話があり,女の格闘技者は,その神話のサイドストーリーに位置するしかなかったアメリカに対して,日本では,観客と芸人の双方に,大きくて力の強い女芸人の格闘技を受け入れる素地が伝統的にあった。〔中略〕/日本には,女性の格闘技を独自の芸能として認知する土壌が存在した。そこがそのようなルーツを持たないアメリカとの本質的な違いだったのではないか。(p.91)
こういう歴史的な考察が入ってから以降は,本書は非常に興味深かった。
本書のターゲットとなっている人物も興味深い。二人は外国人プロレスラーで,彼女らの目を通して,日本の女子プロレス,それに日本社会が浮き彫りにされている。二人のうちの1人はアメリカで女子プロレスラーとしてやっていた人物であるのに対し,もう1人は,12歳で日本に来た中国人で,もちろんそれまで(プロ)レスラーとしての経験はない。その彼女が女子プロレスを通して日本になじもうとしていることが描かれている。
残りのターゲット2名は日本人で,どちらも当初はプロレス界にとってアウトロー的な立場にいる人間であった。1人はあることがきっかけで,女子プロレス第三次ブームを湧き起こすことになるとともに女子プロレスに変化をもたらした人物である。変化をもたらしてはいるが,しかしブームの立役者となってからは,伝統的な女子プロレスの世界を守ろうとしている。それに対してもう1人は,格闘家としてのものすごい力量があると目されながら(事実,柔道では国内優勝,世界3位,なんていうタイトルをもっている),ずっとアウトローでい続けた人物である。そういう人物を通して,女子プロレスの世界が見事に描かれている。
もう一つ私にとって興味深かったのは,プロレスがどの程度真剣勝負なのか,という点について,ある程度のことが分かった点である。たとえば上記の中国人レスラーの次のようなセリフにその一端が見える。
先輩にお客さんのことを考えなさいといわれても,わたしは,お客さんをなるべく考えないでプロレスをしたいと思ってました。〔中略〕でもね,二年目くらいになると,少しずつわかってきました。二〇分試合というのは,私が二〇分,お客さんにプロレスを見せるということなのですね。だから,五分たったときに,むりやり力を入れて,相手を押さえ込んでしまってはいけない。(p.230)
なるほど,戦えばいい,勝てばいいというのではなく,一定時間,試合を「見せる」ということなのか。こういう話は本書にはいくつも出てくる。上記のアメリカ人レスラーも,「プロレスラーであるということはね,スポーツの技量と,表現する能力と,ものごとのタイミングをはかる勘がすべて備わっているということなんです」(p.321)と述べている。こういった記述のおかげで,なんとなく感じはつかめたような気がする。こういった点も含め,女子プロレスの面白さや複雑さを知り,さらにはそれを通して日本文化も垣間見えるという点で,なかなか興味深い本だった。
先日,ある人に,「どうしてそんなに現場に関わっているの? 業務外でしょ」といわれた(純粋な質問として)。私は附属小学校の研究作りにも,授業観察にも,いくつかの授業リフレクションなどにも関わっている。そのことを指しての発言である。うちの学部の附属小学校なので完全に業務外ということはないが,しかしこれをやるからと言って,他の業務が軽減されるわけではないし,相応の対価がいただけるわけでもなく,やらなくても何の問題もないという意味では,確かに業務外みたいなものである。
こういうふうになってもう3〜4年経つので,「どうして?」と聞かれても即答できない。ので,ちょっと自分なりに整理してみた。
大きく分けると,「おもしろいから」というのと,「関わらざるを得ない状況があったから」ということだろうか。両者はきれいに分けられるわけではなく,「関わりたいと思う状況」みたいなものもあったわけだが。
「おもしろい」にもいくつかの観点がある。たとえば「大学教員」としては,私自身,いかに教えるかについてずっと腐心してきた。それはこの大学での最初の採用が教養部であった,ということが関係しているかもしれない。小学校では,そういう「教えること(あるいは学ぶこと)」について考える機会が豊富にある。「教育学部」教員としての面白さもある。学部では,将来教員になりたい学生たちを相手に講義をする。そのときに現場を知らないで話をするのはいかにも心苦しいし,いまやっている教育が学生の将来に役立っている自信がない。そういう意味で,少しでも深く,学校現場の状況を知っておきたい。
「研究者」としてもいくつかある。一つは,小学校の授業にせよ,授業研究会にせよ,それ以外の先生方の話し合いにせよ,生の思考がダイナミックに渦巻いているのがみえるので,「思考研究者」としては非常に興味深い。そういったものの意味が少しでも見えるようにと思い,ここ4年,毎年50時間以上は授業を見ているし,授業研究会はできるだけ参加するようにしているし,ここ1〜2年は先生方の話し合いにも参加させてもらっている。もっともこれが,直接私の研究として扱えるかどうかはまだ未知数なのだが。研究に関しては,狭くいえば思考研究だが,広くいうならば「文化の中で人が変化・成長」することに私は興味がある。小学生は変化が見えやすい時期だし,公立小学校から5年間来てまた公立小学校に戻るという附属小学校のシステムも,先生方の変化・成長(というよりも異文化適応?)が見える気がする。そもそも研究に関しては,実験室的な統制された場面で研究を行い,学会や論文として発表するだけ,という閉じた世界に対する物足りなさもここ数年感じていた。そういう意味で,実際のフィールドで現象に接し,場合によってはそこに介入するというのは,研究を「研究のための研究」にしないためにも大事なことで,そのための絶好のフィールドを与えられていると思っている(これは,段落最初に書いたことと同じか)。
そして最近は特に,どうやら自分でも微力ながら役に立つこともあるらしい,という感覚が大きいように思う。そういうときは別に,「心理学」という武器を利用しているわけではない。その世界になじみつつも外部の人間であるという,少し異なる視点をもった一個人としての関わりである。しかしそういう場で起きていることを自分なりに理解し,考え,振舞う際には,よりよい思考について考える「批判的思考」研究者としての面が自分としては役立っているように感じている。そういう意味では,自分なりの批判的思考実践の場としての現場となっている。
考えてみたら,自分がこんな状況にいるなんて,10年前は想像もできなかったし,関わり始めた5年前でも,ここまでこれるとは思ってもみなかった。ちなみに過去日記を見ていたら,「教育学部(教員養成課程)の学生にとって,どんな卒論がいいのか,にきちんと答えられるようになるためには,私自身が,学校教師の現状を知り,また,学生の4年間について,もっと詳しく知るべきであろう」と書いていたが,これらは今,おおむねクリアしている。さらに5年後ぐらいには,これがもっと自分の教育・研究と結びついてくるといいなあ(別にそれを実現するためにやっているわけではないのだが)。
元メジャーリーガーである長谷川氏による自己管理の本。筆者は『日本の論点2008』に,次の文章を書いている。
個人的には,「続けて三回失敗しないこと」が,プロとして大切だと思っている。先発であれば,二回続けてノックアウトされてもしかたがない。大切なのは,なぜ打たれたのかを自己分析して,それを三回目の登板にどう活かすかである。(日本の論点2008, p.770)
この文章に興味を持ち,本書を買ってみた。本書を読んで分かったのは,筆者はメジャーリーグ時代に故障したことがあり,そのときにビジネス書を中心に本をたくさん読むようになり,そこで自己管理の重要性に気づいたということである。そこで筆者なりに工夫した結果,「精神面なら,メジャーリーグでトップにいるという自負が,僕にはある」(p.268)というぐらいにメンタリティの自己管理ができるようになっている(それ以外にも,フィジカル面,生活面での自己管理も行なっている)。
上に書いた「続けて三回失敗しない」に関しては,筆者は「失敗はするべきもの」(p.170)と思っており,その上で,失敗してから立ち直るまでの道筋が完璧に描かれている。それは,まず(1)いくつかテクニックでその場をしのぎ,(2)試合後,失敗を振り返り,(3)しかし帰宅後はそのことを忘れ,(4)翌日,冷静に自分の問題点と向き合い,問題に関する仮説をつくり,その仮説をVTRを見ることで確認し,さらにピッチングコーチにその仮説が適切か,解決法は何かについて徹底的に話し合い,それを練習で試すのである。そこのところを筆者は次のように書いている。
話し合い,解決法を探り出したら,それを練習で試す。変化球のプレースメント(日本語でいうコントロール)に問題があれば,トラブルを解決するための仮説を持ち,練習で「実験」してみるのである。/しかしすべての問題がこの解決の手順を踏むことで,失敗した次の日に解決することはそうは起こり得ない。ただし,僕はこの解決の手順を踏むことで,自分の投手としての能力を高めてきたと思っている。(p.177)
なるほど,こう考えて実行するのであれば,2回目の失敗も,「仮説を反証するための情報収集」ということができる。そしてそれだけ情報があれば,さらに適切な仮説に絞り込むことができ,結果として3回目の失敗はありえない(それだけのデータがあっても適切な分析ができないのはプロとはいえない)ということなのだろう。
これをみて思ったのは,セブンイレブン(ジャパン)的ということである(たとえば『鈴木敏文の「統計心理学」』にあるように)。そして本書で学んだことは,仮説をつくり,検証するにも適切な手順があるということである。失敗してカッカした状態(上記(2))で仮説をつくってもろくなものにはならない。そうならないためには,上記(3)のような適切な気分転換が必要である(単に酒を飲んで管を巻く,というのではなく)。これはまさに「自己管理」であり,その上に理性的な失敗への対処があるようである。メジャーリーグで修羅場をくぐってきた筆者の体験から来た方法論なだけに,非常に納得してしまった。
先週の土曜日はうちの娘の小学校の運動会だった。例年は10月にあるのだが,いろいろな学校行事などの関係か,11月中旬になってしまった。
土曜日は最高気温28度の晴れで,日差しもさほどきつくはなく,風は涼しく,悪くない感じだった。沖縄なら11月中旬の運動会もアリだなあ,と思った。
もっとも雰囲気的には「秋」で(沖縄の衣替えは11月),朝晩が涼しくなっているせいか,あるいはここ数週間の疲れがたまっていたのか,昼ごろから鼻炎ぽくなり,久々に風邪を引いてしまったのだが(運動場の砂ぼこりのせいもあるかな?)。