読書と日々の記録2009.02上

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■読書記録: 12日『オオカミ少女はいなかった』 6日『「みんなの意見」は案外正しい』
■日々記録: 12日附属小見学 6日人を個別的に理解したい

■『オオカミ少女はいなかった─心理学の神話をめぐる冒険』(鈴木光太郎 2008 新曜社 ISBN: 9784788511248 \2,730)

2009/02/12(木)

 オオカミ少女のような,心理学の分野で誤解されている話(「神話」)について書かれた本。そのほかにも,言語相対仮説,アルバート坊やなど,合計8つのトピックが扱われている(終章の「心理学の歴史は短いか」を入れると9つ)。

 これだけものトピックについて,筆者は綿密にリサーチしており,非常に豊富な事実で「神話」を突き崩してくれる。その綿密さと臨場感あふれる語り口は,あたかも筆者がその時代に生きていたかのようである(こういう才能がある人がウラヤマシイ)。そういうリサーチ結果を紹介するだけではない。筆者自身が気づいた問題点(たとえばオオカミ少女写真のおかしさ)なども示されており,対象となっている神話について筆者が深く考えていることがよくわかる。

 こうした神話から逃れる方法について,終章の最後で筆者はこう述べている。

論理的にものを考える以外にない。心理学が科学として認めてもらうには,とるべき道はそれしかない。そして原典にあたること。噂に頼らぬこと。疑うこと。そうすれば,心理学のなかの似非科学の部分ははるかに少なくできるに違いない。(p.216)

 これは要するに批判的思考の勧めである。本書は筆者の読みやすい語り口を通して,筆者自身が心理学の神話に対して論理的に考え,疑っているようすを見て楽しむ本だと思う。しかしそれは,次に読者自身がいろいろなものごとに対して疑ったり考えたりすることを促すのだろうと思う(もっとも,この本に書かれていること自体をある種の「噂」として頼ってしまうことの,大いにありうることだとは思うが...)。

附属小見学

2009/02/12(木)

 今日は,K大学附属小に行ってきた。明日が公開研究発表会で,それを見にきたのだが,せっかくなので前日も授業を見せてもらったのだ。

 見た授業は,4年国語(担任の専門教科は音楽),1年国語(担任の専門教科は国語),5年国語(担任の専門教科は理科)だった。奇しくも国語が3つだった。面白いことに,ある部分,非常に似ている部分のある国語の授業だった。

 その後に聞いた話などから総合すると,ある先生が始めた「面白いこと」の影響を他の先生も受ける,というようなところがこの小学校にはあるらしい。附属小学校の研究というと,研究推進部が提案して全体会議で揉んで意思統一を図りながら進む,というイメージだったので,「良いものが伝播して定着する」という文化伝承的なことが行なわれているのが非常に面白く,かつ新鮮だった。

 夜は,高校時代の同級生とひっさしぶりに酒を飲んだ。彼の子どももこの附属小に通っているので,父兄から見た附属小について教えてもらったりした(それ以外にもいろんな話をしたけれど)。それはなかなか有意義なひと時だった。

 明日は研究発表会。どんな授業が見られるのか,分科会でどんな話がでるのか,非常に楽しみである。

■『「みんなの意見」は案外正しい』(J.・スロウィッキー 2004/2006 角川書店 ISBN: 978-4047915060 \1,600)

2009/02/06(金)
〜多様性,独立性,分散性,集約性があれば〜

 これは非常に面白い本だった。異様に面白いというか。基本的な主張はタイトルにあるとおりで,「集団のメンバーの大半があまりものを知らなくても合理的でなくても,集団として賢い判断を下せる」(p.10)のである。もっともこれには条件もあるし,賢い判断が下せる問題のタイプも限られている。問題のタイプに関して言うと,本書で「認知」といっている「どこかの時点で必ず明快な答えが存在するタイプの問題」(p.14),「調整」(「他の人と調整する方法を考え出さなければならない」(p.14)問題),「協調」(「赤の他人同士が一丸となって何かに取り組む」(p.15)という問題)の3種類である。条件に関して言うならば,「集合的にベストな意思決定は意見の相違や異議から生まれるのであって,決して合意や妥協から生まれるのではない」(p.16)ということである。正確に言うと,意見の多様性,独立性,分散性(身近な情報が利用できる),集約性(個々人の判断を集約するメカニズムがあること)の4点のようである。社会心理学で「集団浅慮」という言い方をすることがあるが,それは,独立に多様な意見が出せる状況がなかったり,個々人の意見を集約するメカニズムがなかったりするときに起きるようだ。

 本書が興味深いのは,これまでに私が読んだり考えたりしてきたことと関係深い点がいくつもある点だ。たとえば最近私は,ワークショップ型の授業なり会議なりがとても気になっているのだが,それがなぜなのかはよく分からなかった。しかし本書の考え方からするならば,ワークショップは多様な意見を独立に出させ,集約するメカニズムとして働きうるから,効果があるのだろうと本書を読んで思った(逆にいうならば,多様性,独立性,分散性,集約性がうまく生じなければ,それはうまく機能しないだろう)。

 また,以前に経済の本を読んだときに,新古典派経済学では「自由と競争が維持されれば社会はうまく機能する」と考えるが,現実の世界では,新古典は経済学が前提としている事柄が満たされることはほとんどないため,各人が「個人的合理的」に振舞うと,経済は逆に非効率的になる,ということが書かれていた。その前提とは,たとえば完全な情報が得られない,というようなことだったと思うが,しかし本書によると,不完全な情報しかもっていない「不完全な人々が取引をする不完全な市場でも,ほぼ理想に近い結果を出せる」(p.121)ことが実験で示されていることが紹介されている。紹介されているのは実験といくつかの事例だが,もしそうだとすると,本書の主張を非常に補強することになり,興味深い。

 また本書は,民主主義を考える上でも興味深かった。民主主義的な発想に関しては,ある失敗した組織では,一人がたずね,誰かが答えるという一問一答的な議論はおこなっていたが,「こうして得られた回答にほかのメンバーがコメントする機会をつくろうとしなかった」(p.200)点が間違っている,と論じられている。参加者全員が発言できることが大事なのだ。会議における議論において「多様性」を確保することはなかなか難しく,「集団のメンバー同士が知り合いだと,地位が発言のパターンを規定する傾向が見られ,だいたい地位の高い人は地位の低い人よりも発言量が多くなる」(p.204)のだという。確かにこれは私の知っている組織(会議)でもそういう傾向がある。そしてそれは,発言の多様性や独立性を減じる方向に作用し,「賢くない」決定に導かれることが往々にしてあるのだろう。ただし会議に関しては,「民主化=終わりのない議論」ととらえると大変なことになる(いつまでも延々と会議をし続けることになる)。大事なのは最後に適切に「集約」することなので,そういうメカニズムさえあれば,あとは「民主化=意思決定権を幅広く分散化させる」(p.220)ことが重要のようである(一人で決めるのではなくみんなで決める)。そうでないと,前者のように考える企業は「官僚的な硬化症」に陥ってしまうのだという。これもなんとなくうなづける。

 本書が興味深かった最後の点として,トヨタ生産方式が取り上げられていた点があげられる。トヨタの改善の方式は興味深く,私も最近何冊か読んでいるが,本書ではそれを,「自分の働く環境に関して意思決定でいる権限を人々に与えると,業績が目に見えて改善するケースが多い」(p.228)というくだりで紹介されている。なるほど,トヨタその他の企業でうまくいっているケースでは「意思決定権の分散化」が行なわれているということなのか。これから企業モノをを読むときにその点に気をつけてみなければ,と思った。

人を個別的に理解したい

2009/02/06(金)

 ここ数年(たぶん7年ぐらい),心理学のように人を集合的,平均的に理解するのではなく,もっと内面的,個別的に理解したいという思いを私は強く持っている。おかげで,インタビューや観察を研究手法の中心に据えたり(おかげで生産性は上がらない),ノンフィクションを好んで読んだりしている(おかげで小説を読む時間がなくなった)。

 今はそれが私にとっては当たり前になっているが,自分が当時,どう考えてこういう方向に舵を切ってきたのか,過去の日記を振り返ってみた。

 研究に関しては,2002年3月に気持ちが悪いというエントリーで,「どうも最近,伝統的なタイプの心理学の研究の話を聞くと,気持ち悪くなっていけない」と書いている。この思いは基本的に今も変わらない(もっとも,すべてが駄目というわけではなく,一流の研究は,巧みな問題設定,条件操作,項目設定などを行うことで,人間の真実に迫っているとは思うが)。

 ちなみに,この直前に書いている広げつつ狭めるでも近いことを書いてる。「一定のやり方でデータを取ることは,考えることの手助けになるのと同時に,考えるのを止めることの手助けにもなる」とか何とか。この時期,こういうことを集中的に考えて(感じて?)いたのだろうか。

 他者理解に関しては,2003年6月の日記には,中心視と周辺視というエントリで,「人を理解するということは、その人を中心視野にすえて、そういう歴史とか状況とか考えとか必然性とか迷いとかも含めて、見ることだと思う」と書いている。

 このような考え方をするようになったのは,このころから,『A』をはじめとするルポルタージュの本を読み始め,また,『マルチメディアでフィールドワーク』をはじめとする質的研究の方法論についての本を読みはじめたことも関係しているようだ。さらには,自分の研究として「よりよい思考」について日夜考えているからのようだ。

 だから何,というわけではないが,ちょっと過去日記を振り返りながら,自分の現在やこれからについて確認することができた感じである。


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