道田泰司 2002.07 知識・技能・理解を育てる(5章1節),思考力を育てる(5章2節),認知スタイル(6章3節) 前原武子(編) 生徒支援の教育心理学 北大路書房, Pp.70-79, 98-102.

■第2節 思考力を育てる(第5章 学習指導がめざすもの)

 第1章4節でもふれたように,現在,「自ら学び,自ら考える力」の育成が求められている。ここでは,そもそも「考える」とはどういうことか,「自ら考える力」はどのように育成できるか,そして,思考力を育てることの意味について考えてみる。

■1.「考える」とは何か

 「思考」という語が何を指すかは,心理学者の中でも一致してはいない。しかし,刺激に対してたんに反射的・機械的に反応することではなく,もっと高次の過程であることは確かである。海保(1995)は思考力を,「目的に合わせた情報の変形・生成力」(情報の加工能力)と定義している。これはたとえていうならば,料理と同じである。素材をそのまま出すのは料理とはいわない。何らかの方法で素材を「加工」することが料理である。またそこには,「目的」がなければならない。無目的に素材をこねくり回すだけでは,子どものいたずらと同じで,料理とはいえない。思考が行われるのは一般的には,「問題」と到達すべき場所(解決)があり,現在そこに至っていないときである。そういう意味で思考は,問題解決過程と同義である。

 思考のあり方には,大きく分けて2つのものがある。ひとつは,はっきりした「正解」があり,それに向かって突き進んでいく思考である。収束的思考と呼ばれている。正解に至るために必要な知識は,すべて明らかになっている。一般に,論述式以外のテスト問題を解くときの思考がこれである。そこでは,必要な情報を記憶や問題文のなかから探し出し,一定のルールに従って「変形」する能力が必要とされる。

 もうひとつは,はっきりした正解が存在しない,あるいは,存在するかどうかも明らかでないときに行われる思考である。さまざまな解決法へと幅広く広がっていく,拡散的思考である。解決に必要な知識がすべては明らかになっておらず,新たに情報やアイディアを見つけだす(生成する)必要がある。創造といってもいい。

 もっともこれらは,別々に行われるわけではない。単純な計算のような極端な場合を除けば,多くの思考には,拡散的思考(いろいろ考える)と収束的思考(一つに絞る)の両方が含まれている。思考の種類によって,どちらの成分が多いかが違うだけである。したがって,よりよい思考者となるためには,両方の活動に習熟している必要がある。

■2.考える力を育成する

 こうすれば授業を通して思考力を育成することができる,と断言できる方法は,おそらく存在しない。しかし,これまでに蓄積されてきた優れた教育実践から,そのヒントを得ることはできると思われる。

 一斉授業のなかで,こどもに活発に思考活動を行わせる1つの方策として,意外性のある発問や教材を用いる方法がある。根本(1985)は小学校6年の社会で日露戦争の授業をするときに,「日露戦争はどうして起こったか」「どんな戦いだったのか」などと漠然と問うのではなく,表1の資料を用い,次のように発問することで,2時間の授業を行っている。(1)資料を見て,気がついたことを書きなさい。(2)日本は日露戦争に勝ったと思うか,負けたと思うか。(3)日本が日露戦争に勝てたのはなぜか。(4)日本が危険な戦争をしたのはなぜか。資料を見る限り,日本のほうが明らかに兵力が弱い。しかし子どもたちは,常識に反して日本が勝ったことを知り,強い問題意識が喚起され,調べ活動を中心とした楽しい学習活動が展開されたという。

 加藤(2000)は,高校の必修の日本史の授業を討論を中心に行っている。たとえば「古代」では,地元の貝塚で発掘された,解体されていない犬の完全遺体の写真を提示する。そして次のように問う。「貝塚から出土する動物は,バラバラに折られたり,割られたりした状態で発見される。なのに犬だけが,このように死んだままの完全な遺体で出土する。一体なぜだ?」。そこで出てきた複数の意見をもとに班を編成し,班別協議を経て班別意見発表(自説の説明と他説への批判)が行われ,自由討論が行われる。この問いに「正解」はない。いわば各人が「歴史学者として」思考し活動する授業なのである。それと同時に,他者に対してより説得力のある説明を行うために,各班とも自分たちで,縄文時代のことを調べ,討論を通してその整合性や一貫性を高めていく。このような授業を通して生徒たちは,その時代の歴史認識を自分なりに作っていく。

 思考を刺激する授業は,必ずしも特別な教材を用意したり,討論を組織しなければ行えないものではない。麻柄(1999)は,ものを見る際にルールとして働きうる知識を与えることで思考が刺激され,学習者が主体的に振るまうことを指摘し,いくつかの授業案を提出している。一例をあげると,「電気の通り道は必ず回路(ループ)になっていなければならない」という知識(ルール)を,発電所とテレビの間の関係を例を通して学ばせる。そして,「このルールは本当にいつでも正しいのだろうか。「電気」なのに回路になっていないようなものはないだろうか?」と考えさせ,一見ループに見えないところにもループができていることを発見させる授業案を示している。これは,ルールという知識をもっているからこそ,日常のものごとをそのルールを通して見ることができ,より深く考えることが促進される授業である。そのほかにも,総合的な学習(次節)のような問題解決学習においても,思考が刺激され促進される。

 これらの例は,行われていることはさまざまであるが,共通している点がある。それは,既有知識としてもっている自分の信念と,新しい情報や他人の考えとが不調和をおこしている点である。認知的葛藤(Berlyne, 1965)がおきているのである。それによって,なぜだろう,もっと知りたい,考えたいという知的好奇心が喚起され,思考や学習活動が促進される。ただしこの場合,既有知識と新しい知識の間のズレは,適度な水準である必要がある。あまりに両者がかけ離れていると,理解不能とみなされて学習活動は促進されない。逆にあまりに両者が近すぎると,容易に理解可能なこととみなされて学習活動を促進するほどの好奇心は喚起されないからである。

■3.「思考力を育成する」ことの意味

 このような学習が理想的に進めば,その過程で子どもは考える力を身につけていくであろう。状況の中から自分で問題を見つけ,事実を検討し,自分の考えや相手の考えを吟味し,自分なりの考えを作っていく思考力である。それは批判的思考(critical thinking)ということができる。そのような力を身につける学習は,非常によいもののようにみえる。しかし,考える力を育成するということは,従来的な学習とは異なる意味をもつことに留意すべきである。

 従来的な学習とは,多くの知識を効率よく教え込む教育(知識注入型)である。それに対して,今後求められている教育は,自ら学び自ら考える力を育てる教育である。逆にいえば,思考力の育成を重視した教育では「多くの知識」が「効率よく」教え込まれるとは限らないのである。もちろん,思考し討論し調査していくなかで,結果として知識が身につくこともあるだろうが,しかしそのことは常に保証されるわけではない。

 また,子どもが自ら考えたことがらは,教師に都合のいいことばかりとは限らない。教師や教科書が教えたい内容とは別の結論や逆の結論にたどりつくかもしれない。その結果,子どもが教師や教科書に対して疑問や批判をもつ可能性がある。そのような状況を許容した上で,それに教師がどう対処するかが,思考力を育成しようとする授業の成否を分けるポイントであろう。

 もし教師が権威主義的に,教師の言うことや教科書に書いてあることが正しいと決めつけ押しつけてしまうならば,いくら考える時間や討論の時間をとったとしても,従来的な知識注入型の授業にしかなりえない。特定の知識に絶対的な権威をもたせるのではなく,教師や教科書の言葉も含めて,すべての知識は誤りうるものであるという認識(可謬主義)が,教師にも生徒にも共有される必要がある。それと同時に,知識とは,お互いに意見を出し合うことによって自分たちで創り出すことができるものであるという認識も必要である。そのためには,生徒の疑問の声に対して,教師が権威的に対処することなく,対等な立場で一緒に考え論じ合うことによって,「自ら考える」雰囲気をつくる必要がある(道田, 2001)。その意味では,授業を通して思考力を育成するということは,教師と生徒の関係のあり方の編みかえも含む,大きな転換なのであり,教師はそのことをよく自覚しておく必要がある。