道田泰司 2003.09 論理的思考とは何か? 琉球大学教育学部紀要, 63, 141-153.

論理的思考とは何か?

道田泰司

What is logical thinking?

Yasushi MICHITA

要 約

 本稿では,論理学における論理(的)の意味の検討から出発し,日常的にも利用可能な論理(的)のイメージが検討された。論理を「一本道」「防衛力」と理解することが有用であることが示された。また,論理的思考が,論理性という目標をもった批判的思考であることが論じられた。最後に,論理の不自然さや,相手にする他者の問題が検討され,それらを念頭において,論理的になるための方策が示唆された。

1.はじめに

 本稿の目的は,「論理的であるとはどういうことか」や「論理的思考とは何か」という問いを検討し,今後の教育への示唆を得ることである。このような問いを設定するのは,これからの教育において論理的に考える力を育成することが必要とされているためである(たとえば文化審議会, 2003)。しかし,論理,論理的,あるいは論理的思考という語が何を指しており,これらの語がどういう関係にあるかは,必ずしも明確ではないように見受けられる。その上,論理学で用いられるこれらの語と,日常用いられるこれらの語にはズレがあるようにも思える。ズレがみられるのは,論理学と日常だけではない。たとえば国語教育の中でも,「論理的思考力」が比較的新しい用語であり,様々な意味に解釈されていて,用いられ方も多様であることが指摘されている(櫻本, 1995, p.21)。

 本稿では,まず論理,論理的という語を検討し,その後に論理的思考という語について検討するが,前2者を同時に指し示すために,「論理(的)」と表記する。この論理(的)という語は,特に論理学以外の文脈で用いる場合に,どのように理解するのが適切なのであろうか。それは,論理学と日常とではどのように異なっているのだろうか。そこには,何か共通の基盤とでもいえるものがあるのであろうか。

 このような問いに答えるために本稿では,論理に関する書籍の記述の検討を中心として,論理(的)の意味を整理し,それをもとに,論理的に考える力を育成するとはどういうことかについて考察する。

2.複数の論理

 ここでは細かには挙げないが,論理に関する書物(一般書を含む)の中で示されている「論理」の定義には,実に様々なものがある。しかし冒頭に述べたように,論理という語が「様々な意味に解釈」されているという現状があるにも関わらず,論理の定義として複数のものを挙げている書物は,非常に少なかった。かといって,論理という語が共通に持つ概念が表現されているとは思えないものが多かった。

 しかし中には,複数の観点から論理を定義したものもある。次に挙げるものは,国語教育の専門家で論理学にも詳しい井上尚美氏による「論理的思考」の定義である。井上氏は,1970年代から国語科において「言語論理教育」を行う必要性をずっと主張し続けてきた研究者である(井上, 1989, 1998, 2000)。 井上(1989, p.32-33)は,論理的思考について狭義から広義まで,3つの定義を挙げている。

言語教育でも,例えば「論理的思考力を高める」というような表現がよく使われますが,それはいろいろな意味に使われています。しかしそれらを大きく分けると,次の三つに分類することができます。すなわち,論理的思考とは,
(1)形式論理学の諸規則にかなった推論のこと(狭義)
(2)筋道の通った思考,つまりある文章や話が論証の形式(前提−結論,また主張−理由という骨組み)を整えていること
(3)広く直観やイメージによる思考に対して分析,総合,比較,関係づけなどの「概念的」思考一般のこと(広義)
 以上のうち,(1)と(2)とは結びついており,分ける必要はないようですが,現実には,(1)についてはあまり自覚されず,(2)のように論証の型式にレイアウトされていればそれでよしとする(その段階でとどまる)ことが多いのです。〔中略〕論や主張の根拠となっていることがらについて,それがその主張の必然性を裏付けているかどうか,前提と結論の間に論理的必然性があるかどうかというところまではあまり論議されないようです。

この3つの定義は,広さ(狭義〜広義)で分類されているようであるが,(1)は「形式論理学の諸規則にかなう」という,きわめて「論理学的」な定義,(2)は前提(理由)があって結論(主張)があるという「形式」を強調する,(おそらく)国語教育的な定義,(3)は「思考一般」に力点がおかれているように見受けられる。

 この捉え方は,論理的思考,論理学的な論理も論理学的ではない(日常的な)論理も視野におかれており,網羅的で有用なものに思える。ただ井上氏も指摘しているように,(2)のように形式を整えたとしても,前提と結論がどのような関係にあるべきかは,重要であるにも関わらず,明確に論じられているものはあまり見当たらない。なぜ「前提−結論」という形を,どのように整える必要があるのか,前提と結論があればすべて論理的なのか,などという話がこれらの根底に必要になってくるであろう。そしてさらに,それが(3)にある「思考全般」とどうつながるかも,明確にする必要がある。これらを考える出発点としては,この定義は有用と言える。

3.論理学における論理

 まずは,もっとも狭義である論理学における論理(的)について検討する。論理学書を見ると,論理(的)とはどういう意味かについて,明示されていないものは多い(たとえばジェフリー, 1995; 木村・常俊・安井・山本・吉田, 1983; ノルト & ロハティン, 1995; 前原, 1967; 三浦, 2000; サモン, 1987; 山下, 1985)。これらの書籍では,論理(的)という語は,自明のものとして扱われており,いきなり「形式論理学の諸規則」の説明がなされているものが多い。あるいは,論理(的)なるものを明らかにすることは,論理学の窮極の目標であるがゆえに,現時点では具体的に示すことはできない,と述べている本もある(沢田, 1962; 戸田山, 2000)。

 ただし本稿で求めているのは,「学問の窮極目標としての論理」ではなく,学校教育も含め日常で役に立つ論理であり,論理学の「出発点」としての論理である。論理学書によっては,そのような論理の大枠や基盤のイメージを理解する上で役立ちそうな定義が示されている場合もある。ただしその表現にはさまざまである。その違いは,大枠のどの部分をどの程度まで,あるいはどのように表現するかの違いであるようである。具体的には,「論理学」の世界から「日常」の世界までの数直線を仮定した時に,そのどこに位置づけられるかの違いのようである。ある定義はかなり論理学寄りの(あまり日常とのつながりの見えない)表現であり,別の定義は日常寄りの(あまり論理学とのつながりの見えない)表現がなされている,という具合である。それらを筆者の判断で,日常寄り−論理学寄りという順に列挙してみる。なお2番目や4番目のものは,論理(的)という語そのものを説明するために挙げられた文言ではないが,意味的にはそれに該当するものであると思われたので,ここに挙げた。これらの検討を通して,論理学と日常における論理のイメージを,ある程度明らかにすることができるであろう。

  1. 論理的に考えるということは,前提と結論を区別して文を読むことができるということにほぼ等しい。(齋藤・中村, 1999, p.i)
  2. いくつかの文(主張)の集まりがいっぺんになりたつことができるならその集まりは無矛盾だとか整合的だ(consistent),と言われる。(戸田山, 2000, p.4)
  3. 論理的であるということは,ある前提が与えられた時に,その前提だけから結論を導き出すということである。(菅原, 1991, p.3)
  4. 推論ということばの「論」は結論のことであり,「推」とははじめは隠れていた結論を前提が明るみに推(お)し出すこと,つまりひと言でいえば前提から結論を引き出すことなのです。(山下, 1985, p.5-6)
  5. 論理的な正しさを確かめるためには,経験に訴えるのでも理性に訴えるのでもなく,むしろ辞書にうったえるべきだ,ということです。(野矢, 1994, p.8)
  6. 論理的真理とは、論理語の働きだけによって真であることが保証されるような命題である。(丹治, 1999, p.1)

 このなかで,6はきわめて論理学寄りの定義である。ここでいう論理語とは,かつ/または/ゆえに/ではない/すべて/ある,といったものであるが,日常の言語感覚で考えた場合,「論理語の働きだけによって真」とはどういうことかは分かりにくい。そこで,日常寄りのものから順次検討し,この表現にまでつないでみよう。

 1はきわめて日常寄りの表現である。ここでいう前提を「理由」に,結論を「主張」に読み替えれば,日常でそのまま利用することができそうである。ただしこの表現は,必要なことを十分に述べてはいないようである。というのは,「区別する」(先の井上(1989)の言葉で言うと「レイアウト」する)だけでは不十分だからである。この表現が指し示しているのは,論理(的)のうちの表面的な部分,あるいは論理的になるための第一歩のみであるといえる。

 2が書かれている戸田山(2000)は先に述べたように,論理について「厳密な答えを出しておくことはできない」と述べてはいるが,「典型的に「論理的」と呼べるような現象」を挙げることは可能として,2を挙げている。矛盾がなく整合的であることが論理的,というのは日常感覚的に理解しやすい表現である。ここでは「前提と結論を区別」したあとのことが,日常的な言葉で示されている。

 では矛盾がなく整合的とはどういうことか。3からいえるのは,矛盾がないとか整合的というのは,「前提だけから結論を導き出す」という,前提と結論の間の関係のことをさすようである。このことを別のいい方で言うならば,4にあるように,前提の中に(含まれているけれども)隠れている事柄を明るみに出す,ということである。前提の範囲だけからいえることをいうときに,矛盾のない整合的な結論になるのである。前提の中に含まれている事柄を推し出すということは,そこに経験的にも理性的にも新たなものを付け加えるわけではない。あくまでも含まれている事柄を明るみに出すだけなのである(後に考察するように,これは論理学的な発想といえる)。

 そのことを表現しているのが5である。「辞書」というのは,たとえば「彼が独身である」ならば,ことばの定義上「結婚していない」という結論が,辞書から導き出せる,というようなことである。「独身」という語の中に「結婚していない」という意味が含まれているために,そのような結論を推し出すことができる。もっとも論理学における論証の場合は,結論の真偽は(辞書よりも)複数の前提から導き出される。そこでは前提となっている命題が,その文章群における「辞書」としての役割を果たしてる,ということができよう。そのような事情を素直に表現したのが6である。すなわち,前提のなかに含まれている意味を,論理語を用いて推し出したとき,その結論は論理的に整合的なものということができるのである。

 以上,論理学書における論理の定義を,日常−論理学の軸に沿って概観してきた。これを,多少の補足を交えつつまとめる。最も日常的なレベルでいうと,前提(理由)と結論(主張)があることが,論理的であることの第一条件である。それは,あることがらを主張するのに,理由,根拠,証拠などそれを支持するものを同時に提示するということである。この前提と結論の関係の中に論理性が存在する。その関係とは簡単にいうならば,前提と結論の整合性(無矛盾性)である。そしてここから先はきわめて論理学的な話になるのだが,整合的(無矛盾的)であるとはどういうことかというと,前提の中に含まれている(隠されている)ことがらを明るみに推し出すことが,整合的な結論を導き出す,ということになる。前提の含意を推し出すために用いられるのが,論理語ということになるのである。 したがって,これらの定義の中でもっとも基礎となるイメージを与えてくれるのは,4の「隠れていた結論を前提が明るみに推し出す」というものであろうと思われる。これに対して日常では,日常での整合性,無矛盾性が存在する。そのことを次節以降で検討する。

4.日常における論理

 論理学を学ぶと気づくように,論理学における論理と日常における論理は,似ている部分もあるが,かなり違うようにも感じられる。その理由は何であろうか。

 数学者である藤原(1993)は,数学における論理と世の中の論理の違いを論じている。後述するように,論理学と数学は非常に親和性の高いものであるので,この考察は,論理学における論理と日常における論理の違いとして受け取ることが可能である。したがって以下の「数学」は「論理」と読み換えながら理解していただきたい。なお「数学」に関しては,証明問題を念頭に置くと理解し易いであろう。

 まず,論理の鎖(連鎖)の長さを考えると,数学では非常に長く,世の中では短い。数学における論理の鎖が長いのは,その長い過程で,正当性が減少しないためである。それは先に論理学で見たように,前提の中にあることのみを結論として導き出すからである。それに対して日常における論理は,蓋然的なものであり,鎖が長くなるたびに正当性が減少する。また,数学における論理では,前提条件が単純であり,常にすべてのものが明示されている。それに対して日常では,前提条件は複雑である上に,すべてが明示されてはない。というよりも,森羅万象がある確率を持って前提条件となりうる。

 また,数学では前提が明示されているため,何を出発点とするかで迷う必要はない。しかし日常では,他の部分がすべて論理的帰結によって導き出された命題であるとしても,その最出発点となる命題は,定義上他の命題からの論理的帰結ではありえず,必ず仮説となる。その出発点を選ぶのは,論理ではなく情緒である。それだけでなく情緒は他の面でも必要になる。論理的に正しいことはたくさんありうる。その中でどの論理を選ぶかが知的判断においては重要であるが,その選択は論理ではなく情緒によってなされる。このようなことから藤原氏は,「論理的思考が万全ではない」と論じている。

 このように,数学や論理学と日常とでは,同じ論理でも大きな違いがあるが,先に論じた論理学的な論理との対比で特に重要なのは,日常においては論理の鎖をたどるにつれて正当性が減少する,という点であろう。これはすなわち,論理学においては,前提のなかに含まれていることを取り出し,それ以外のことは帰結しないのに対して,日常では大なり小なり飛躍があるためである。しかしだからといって,飛躍をなくせばいいわけではない。飛躍はむしろ必要なものなのである。そのことを野矢(2001b, p.79)は次のように述べている。

 ある前提Aから,Aとは違うBを結論しなければならない。しかし,なぜ,AからAと異なるBが導けるのだろうか。ここに,論証のもつ力ときわどさがある。前提から結論へのジャンプの幅があまりにも小さいと,その論証は生産力を失う。他方,そのジャンプの幅があまりにも大きいと,論証は説得力を失う。そのバランスをとりながら,小さなジャンプを積み重ねて大きな距離をかせがなくてはならない。それが,論証である。
 それゆえ,論証の技術にとってもっとも重要なことは,前提から結論へのジャンプの幅をきちんと見切ることである。

先に見たように,形式論理学においては,前提に含まれている事柄を推し出すことによって結論が導き出される。これは上のいい方で言うならば「ジャンプがないこと」である。しかし日常では上で述べられているように,生産性を得るためにジャンプは必要である。この点が,論理学における論理と日常における論理の最も重要な違いの一つであろう。では,日常における,ジャンプをもった(しかし説得性を失っていない)論理性とはどのようなものであろうか。この点では,先に検討した論理学書における論理の記述は,あまり役に立つとはいえない。

 この点に関しては,論理を一本道にたとえた野矢(2001a, p.69-70)の記述がヒントになりそうである。それは次のものである。

計算は一本道だ。それに対して考えることは分かれ道に立つこと。あるいは道が見えない藪の中に立つことだ。一本道だったら,どんなに長くて曲がりくねった道だろうと,「……that leads to you door」とか,歌でも口ずさんでいけばいい。
 論理もやっぱり一本道だ。だから,論理の道筋をたどることは考えることとは違う。
 違う……はずなんだけど,なぜだか論理の場合は「論理的に考えよう」とか言いたくなってしまう。

別の箇所では,「論理というのは,前提と結論をつなぐ道筋の正しさにかかわっている」という表現がある。すなわちここでいう「道筋の正しさ」のことが,上の引用部分では「一本道」と表現されているのである。これは,日常においても論理学においても,論理的であることの根底をイメージするうえで,実に的確な表現であるように思われる。ただし野矢(2001a)には,一本道の比喩に関しては,これ以上の記述はない。そこで,この表現を中心に,これまで論じたことや筆者自身の解釈も含めながら,日常的なものも視野に入れた論理のイメージを検討する。

5.論理=一本道

 先の文章にあるように,計算と論理(の道筋をたどること)は似ている。たとえば「6+13=19」という計算と「((AならばB)かつA)ならばB」という論理式を比べてみるとわかるように,どちらも,複数の要素(数字や命題)に,「足す」や「かつ」という操作が加えられることによって結論が得られている。「複数の前提+操作⇒結論」という形をしているのである。論理学はそもそも,「記号の計算」によって推論の正しさを証明しようと考えてつくられた学問(内井, 1987, p.120)なので,両者が同じ形をしているのは,当然といえば当然であろう。

 この形はさらにいうならば,ある入力に基づいて一定の出力を得るということであり,自動販売機と同じである。いずれも,同じ点から出発して同じ道をたどれば,誰でも必然的に同じ到着点につくことができる。それが「一本道」である。

 その必然性の意味するところは,一本道という比喩をさらに「まっすぐな一本道でつながっている」と表現しなおし,そうではないものを考えることで,より具体的に検討できそうである。なお野矢氏は,「一本道だったら曲がりくねっていてもいい」と書かれているので,ここから先は,野矢氏の記述の解釈ではなく,筆者による新たな拡張になる。

 論理的なものが「まっすぐな一本道でつながっている」のであれば,「まっすぐではない」ものは論理的ではない。複数の理由に支えられてある主張がなされているときに,一個一個の理由はつながっている(関連性がある)のに,理由の中に結論の方を向いていないものがある,というケースである。すなわち,結論を支持しない,理由になっていない理由が紛れ込んでいる場合である。これは,結論と整合的ではない部分を含んでいるという意味で非論理的といえる。

 「つながっていない」ものも論理性は弱くなる。あまりにも大きな飛躍によってつながりが切れ,説得力を失っている場合もあるであろうし,個々の理由は同じ方向を向いてつながっているにも関わらず,それらの理由から言えることとは違うことが結論として導き出されている場合もある。このような断絶も,整合的ではないという意味で非論理的といえる。もちろんここでは,前節で述べた「適切なジャンプ幅を見切る」という問題がある。何が適切なのかは,後に述べる「THEY世界」における「防衛力」ということになるのであろうが,とりあえずここでは,一般的常識的に他の人に認められ納得されるかどうかが重要である,と述べておくにとどめる。

 「一本道」ではないものとは,分かれ道があるものである。ある理由から導き出せる結論が複数考えられるのに,一つの可能性にしか着目していないというものである。これは,因果関係を推測するようなときに陥りがちな非論理性である。この点は,次節で考察する。

6.論理=防衛力

 論理的であることを「まっすぐな一本道でつながっていること」とたとえる場合,2つのポイントがある。一つは,「まっすぐであるとかつながっている」というイメージで表されるように,理由と結論が一貫している,関連しているということである。「理由が結論を支えるものになっている」ということである。もう一つは,「分かれ道がない」ということである。他に説明したり解釈できる可能性がないことを明らかにすることである。この,分かれ道がないというポイントに絞って「論理的」を定義したと思われるものがある。次のものである。

「論理的」とは,「異なる立場の論者による批判に対し防衛力がある(すきが無い)」ということである。(宇佐美, 2001, p.148)
他に道があるということは,批判や反論が可能であるということである。この定義は,それが可能でないことを指して「論理的」と言っているわけである。もちろん,一貫性がなければ批判や反論は可能なので,第一のポイントも含んでいると考えることも可能である。しかしこの定義では,特に「異なる立場の論者」と言っている。ということは,ある事柄を別の観点からみたときに,別の可能性あるかどうか,という点に主眼があるように思われる。なお「つながり」の中でも「適切なジャンプ幅」に関しては,論理的に一義的に決まるというよりも「異なる立場」からの批判がありうるので,この定義の範囲の中にあると考えられる。

 この定義はしかし,注釈が必要である。この場合の「異なる立場の論者による批判」は,「同じ論理のルールや土俵の上での批判」である必要がある。現実の議論では,異なる土俵の上にいることに気づかずにかみ合わない議論が繰り返されたりすることはよくある。そのため,論理的な意見であっても,批判や反論を受けることは大いにありうる。宇佐美氏の定義を本文中で引用している香西(1995)も,同書の別の箇所で,「現実の議論は必ず場外乱闘になる」ので,「反論の技術を身につけ,議論能力を向上させることに成功したとしても,それだけでは現実の議論で勝てるようになるとは限らない」(p.181)と述べている。この点は,香西の本が主題とする反論(修辞学)だけでなく,論理一般に当てはまることであろう。

 その点を除けば,この定義は論理の持つ「他の可能性の排除」という側面を,「防衛力」という言葉でうまく表している。そしてこのことからすると,文章に防衛力を持たせるためには,結論とまっすぐに結びついた(すなわち適切な)理由を挙げるだけでは不十分であるといえる。どのような反論や他の可能性がありえるか,そしてそれに対してどう再反論可能か,というところまで述べることで,文章に防衛力を持たせることが可能になるであろう。

 この「防衛力」に相当する事柄は,他の著者も別の表現で述べている。野矢(1997, p.75)は,仮説形成のチェックポイントとして,(1)仮説は証拠をうまく説明しているか,(2)他に有力な仮説は残されていないか,という2つを挙げている。このうちの(2)が防衛力に当たるものであり,これを野矢は「消去条件」と呼んでいる。内井(1988, p.63)は,仮説−演繹法を説明するのに,(a)仮説から具体的な結果を演繹すること,(b)その結果が事実成り立つかどうか検証すること,(c)ほかの仮説では事実が説明できないことを示すこと,という3条件を挙げている。このうちの(c)が防衛力に当たるものであるが,このことを内井は「消去の確実さ」と呼んでいる。ここで消去されるのは,他の説明可能性=分かれ道である。また論理学書ではなく文章作法の本であるが,野口(2002, p.174)は文章を述べる順序の話の中で,これに類することを挙げている。数学における証明では,(1)主張(定理),(2)理由(証明),(3)例示を挙げる必要があるが,数学の定理のように厳密ではない主張に対しては,これに加えて(4)予想される反論の紹介と(5)それへの反論を行うのがいいという。この(4)(5)を行うということはすなわち,分かれ道(他の可能性)を封じることによって議論に防衛力(=論理性)を持たせる,ということである。

7.さまざまな世界における防衛力

 他の可能性を消去することによって主張に防衛力(論理性)を持たせることは,さまざまな分野で行われている。

 「実験」というのは,方法論の中に防衛力が埋め込まれている方法である(道田, 2000)。たとえば,ある薬の効果を明らかにしたいとする。そういうときに,誰かに飲ませたら治った,というのでは,実験にはならないし,論理的な結論ともいえない。なぜなら,「たまたまじゃないの?」とか「その人だけしか効かないんじゃないの? 他の人にも効くの?」という反論がありえるからである。これでは防衛力がない。個人差や偶然ではないことを示すために,実験では,十分な数の被験者を使うことによって,防衛力を持たせている。

 それだけではない。十分な数の被験者全員にその薬を飲ませて,症状が改善したとしても,「自然治癒じゃないの? 放っておいてもある程度は治るんじゃないの?」という反論がありえる。その反論への防衛として,実験では,統制群(何も処置をしない薬を飲ませない群)や対照群(偽薬を飲ませる群)を作り,本当の薬を飲んだ人と治り方がどう違うか比較する。実験における「比較」という手法は,結論に防衛力を持たせるための手段なのである。

 しかしそれでもまだ反論がありえる。たとえば,「本当の薬を飲んだ人たちの方が,最初から症状が軽かったんじゃないの?」というものである。そういわれないために,実験では群間に違いがないよう,無作為割り当てやブロック化を用いて,注意深く等質なグループ作りを行う。このように,実験で行われている各種手続きは,防衛力を高めるための工夫になっているわけである。

 実験だけに限らずあらゆる学問は基本的に,あることを主張するためには理由や証拠やデータを用いる。そのときに,それがいかに明確なものであり,かつ,いかに他の可能性が消去されており,反論の余地がない主張になっているか,ということが,ゆるぎのない主張を行う上での重要な条件になっている。これはそもそも学問というものが,「根拠を示すことによって同意を得ようとする営み」(西, 2001, p.60)という性質のものであるからである。

 これは学問研究の世界だけの話ではない。たとえば,犯罪捜査において,犯人は誰かという推理を行ったり,医者が病人の診断をしたり,何かが故障したときの原因を特定する場合も,理由の確かさに加えて,他の可能性を消去することによって結論に防衛力を持たせることが,犯人なり病気なり原因を特定する上で必要になってくる。

 このようにさまざまな分野で論理は必須のものとなっている。私見であるが,おそらくほとんどの人は,論理が必要とされるさまざまな分野のうちで,自分の得意分野に関しては,論理的になることができるのではないだろうか。得意分野ならば知識がたくさんあるため,さまざまな起こり得る可能性を知っているか経験している。またそのことについて,深く考えたり他人と議論したりした経験をもっているはずだからである。そのような知識や経験があれば,さまざまな可能性を考えつつ一貫性を持った主張をつくることを行いやすい。しかしそこで行っているような論理的な思考を,他の分野に適用するのは一般に難しい。自分の研究分野では非常に論理的な議論を展開することができる研究者でも,ちょっと違う分野で,そこに私情がからんだりすると,とたんに論理的でない議論をしてしまうという例は,少なからずある(グールド, 1998)。そうならないために必要なことは,自分の得意な分野で行っている論理的な考え方ややり方を,意識的に他の分野にも適用することであろう。

8.論理≠論理的思考

 ここまでの話は主に,論理(的であること)についての話であった。それは野矢(2001a)がいうように計算に類する事柄であって,考えることとは違うものである。では「論理的思考」とは何か。あるいは論理と思考の関係は何か。

 論理と「考えること」の関係について,野矢(2001b, p.91)は次のように書いている。

 観察や論理は問題を解くときに欠かせない素材だ。だけど,それを問題に合わせて,捨てたり,選びとったり,つなげたりしていかなくちゃいけない。「ヘウレーカ」の声を待ちながらそんな作業を続けていく,それが「考える」ってことだ。
 できあがった解答なんかを読むと,観察と論理的推論がきちんとつながっていて,いかにも「論理的に考えました」っていう雰囲気をかもしだしている。でも,それにだまされちゃいけない。できあがった解答というのは,たんに,考えた結果を論理的に再構成して表現したものにすぎない。

 「ヘウレーカ」(「あ,そうか!」)とは,アルキメデスが金の純度を測る方法を風呂の中で思いついたときに言ったとされる言葉である。見聞きしたものや頭の中にあるものを,現在かかえている問題と常に結びつけようと耳(=頭)を研ぎ澄ますことを,野矢氏はこのように表現している。論理や観察という素材をどう結びつけるかは,論理の外にあり,それが考えることだというわけである。このように,最終的にある論理の道筋を作るためには,さまざまな可能性を探索し,それらの可能性を比較検討し,消去できるものは消去する,というプロセスが必要であり,それが「論理的思考」なのである。

 このプロセスを,先ほどの「一本道」の比喩で確認してみよう。ある主張をしようと思う際に,最初に私たちが立っているのは,「道も何も見えない藪」である。到着点が見えている場合もあれば,到着点は見えず,出発点と,途中にいくつかの目印が見えているだけという場合もある。そこに,どのような一本道が作れるかを探さないといけない。そこには,可能性としては無限の道を描くことができる。しかし,どのような道でも自由に好きなように描いてよいわけではない。その道は,一貫性を持ったものでなければならない。しかも,単に道がある(こう考えられる)というだけだめである。別の立場から見たときに別の道(分かれ道)があってはいけないのである。そこで,分かれ道がないかどうか探し,分かれ道が見つかったときには,それはどのようにふさぐことができるのか,あるいは主張を見直さなければいけないのか,考える必要がある。そうして,考えられうる分かれ道をすべてふさいだとき,初めて「分かれ道のないまっすぐにつながった一本道」ができるのである。

 このように,道の見えない状況で道を探し出すこと,そして,道を選択するアルゴリズムなどがない中で,複数の道から一本の道を選び取ることが「考える」ことである。一本を選び取るためには,選ばれなかった道はふさぐ(消去する)必要がある。

 ここで大事になってくるのは,「探す」「問う」「吟味する」「選択する」などという作業である。それは,批判的思考(道田, 2001などを参照)そのものである。批判的に,いろいろな可能性を考えた上で,最終的にそれが論理的なものになるように,チェックを行いながら,道を作っていく。つまり論理的思考とは,批判的思考を中核にもち,論理性という目標をもつ思考といえる。逆にいうならば,さまざまな場面で活用されるさまざまな批判的思考の中でも,「論理的に妥当な議論をつくる」という明確な目的があるものが,論理的思考なのである。論理的に考えるためには,論理的な知識やセンスは必要である。しかしそれと同時に,批判的に考える必要があるのである。

9.論理的になるために

 では以上のことを踏まえると,論理的になるための方策としては,どのようなことが示唆できるであろうか。ここでは特に,文章を書いたり読んだりする上での論理性に焦点を絞って検討してみる。

 論理的になるための方策は,さまざまなものがありうるであろうが,大きく分けるなら,「論理に関わる要点を明確に意識すること」と「それが妥当なものであるかどうか問い続けること」の2つになるのではないだろうか。先のいい方で言うならば,前者が「論理性という目標を意識する」方策,後者が「批判的に考える」ための方策ということも可能であろう。

 前者は具体的には,文章を書いたり読んだりするときに,文章中の論理に関わる要点をハイライトしてみることであろう。結論は何で,それを支えるものは何か。枝葉がついていると,要点の関連性が見えにくくなる。論理の要点だけを見てみて,一貫性や防衛力をチェックしてみることである。このことを述べているのが,3節(論理学における論理)で紹介した定義の1番目のもの(前提と結論の区別)であろう。

 なおこれは,批判的思考をする上でも非常に重要な点である。よく人が,批判的思考的なものを学んだときに陥りがちな過ちとして,「隅から隅まで手当たり次第気がついたものはすべて批判する」というものがある。しかし大事なのは,そのテーマに関して,批判を通して思考を深めることであって,批判を行うことそのものが批判的思考なのではない。したがって最初に行うべきは,主張者が「何を理由」に「何を主張」しているのかをまず押さえることである。その上で,一貫性があるのか,矛盾がないのか,他の可能性が考えられないか,と考えていく必要がある。また,単に問題点を指摘することだけが批判的思考ではない。場合によっては,その主張をサポートするもっといい証拠や筋道立てが考えられるかもしれないし,矛盾を解決する,より高次の考えを提示できるかもしれない。そうやって思考をよりよいものにしていくことが批判的思考であって,弱そうなところを見つけて手当たり次第に攻撃することではない。そのためにも,要点を押さえるということは,とても重要になる。

 第二の点である「問い続ける」は,さまざまな手段を活用して,ともかくしつこく粘り強く問い続けてみる,ということである。問いつづけることの重要性は,論理的思考に限った話ではない。丸谷(2002, p.181)は,「考え方のコツ」として,以下のように述べている。

一番大事なのは,謎を自分の心に銘記して,常になぜだろう,どうしてだろうと思い続ける。思い続けて謎を明確化,意識化することです。そのためには,自分のなかに他者を作って,そのもう一人の自分に謎を突きつけていく必要があります。

ここでいう「謎」が,論理的思考の場合は「論理性への問い」になるわけである。同じようなことは,西・森下(1999, p.126)も,思考に必要なのは「しつこく「問い」をくりかえして考えること」と述べている。このようなことが自分の中で行えるのであればそれが一番である。具体的に論理性をどのように考えればいいかわからない場合は,先に述べたように,「自分の得意分野における考え方を意識的に活かす」など工夫をすることで,ある程度は一人でも問いを通して考えることは可能であろう。

 しかしそれは,いつも十分にうまくやれるとは限らない。そういう場合は,「他者と対話・議論する」ことを通して,相手に対して問い,また相手から問われてみる,という方法がある。これは基本的には,目の前にいる他者に対して行うことであるが,そのような他者を身近に得ることが難しい場合は,「論理性を意識しながら文章に触れる」,すなわち他者が書いた文章を通し,著者と対話を行うことでも可能になる。この場合は,論理性を意識しながら本を読むことによって,その人の論理を学ぶこともできるし,ある程度論理的に考えられるようになったら,筆者がいっていることが本当に論理的な意味でつながってるのか,適切なのか,などと確認しながら,つまり批判的に読むこともできるはずである。さらには,読書量が増えてくると,複数の書物(著者)間での意見の相違を,論理という観点から自分の中で整理することで,意見の異なる筆者同士の議論を自分の中でシミュレートすることも可能であろう。これらはどれも,自分に謎を突きつけるために,自分であれ他人であれ,異なる視点からの意見を用いる,ということである。

10.論理の不自然さ

 ここまで本稿をまとめながら思うことは,論理が非常に不自然なものだということである。ズレてはいけない飛んではいけない曲がりくねってはいけない分かれ道があってはいけない,と要求しているわけであるから。日常,人と話をしたり物を考えたりするときは,決してこんなことは考えない。そういう意味で,論理的であるということは,非日常的で不自然なことといえる。

 日常なにごとかを考えるときというのは,公共的なレベルではなく,個人的なレベルで,感情なども交えながら考える。あるいは人と話をするときは,論理ではなく共感を大事にしながら話をする。あるいは話をしたり考えたりするときには,方向性を定めずに,連想が連想を呼ぶような形で,自由に創造的に広がっていくことが多い。こういったものが,日常的な思考や表現であろう。こういう思考のことを,連歌的思考(連考)と呼んでいる人がいる(佐藤, 1994, p.64。ただし佐藤は,単なる日常的思考というよりは,もっと生産的なものを指している)。連歌は,ある人が上の句を作り,それに続けて別の人が下の句を作り,また別の人がそれにつなげて上の句をつくる,というふうにつながっていく。これは日常の会話において,誰かがある話をしたら,別の人が,「そういえばこんなこともある」,という話をして,それに基づいて「そうそう私もね」という風に話が展開していくのと非常によく似ている。一人で何かを考えるときも,日常であれば,このように連想的に考えが広がっていくものであろう。そこには方向性があるわけではない。前の人や前の考えとのつながりというだけどんどん新しい世界ができていく。このような,論理性とは別のものが重視されている思考が,ごく日常的に私たちがやっていることであろう。

 それに対して論理というのは,きわめて非日常的なものである。日常よりも「学問」と親和性が高い。そこでは,いくつかのことが必要になる。皆に理解されないといけないという公共性,古いものを乗り越えるために必要な批判性,主張や理由や言葉の定義を明確にすること,議論の明確な方向性,そして,その論理や理由が整合的なものであれば,誰でも,それがいかに日常的な実感や自分の好みからかけ離れたものであっても,その結論を受け入れざるをえないという強制性などである。このように考えると,日常と学問とで行っている思考は,異なるものであると考えたほうがよさそうである。

 市川(2000)は,種類の異なる学習のあり方を説明するのに,日常モードと学問モードという語を用いているが,この考えがここで利用できそうである。「日常モード」の学習とは,経験の中で具体例を通して意味を理解するが,定義を説明せよと言われてもうまく言えないような学習である。我々は普段,言葉などの意味を学ぶとき,定義からはいるのではなく使用例をいくつも聞く中で学んでいる。そのような学習が日常モードである。

 それに対して「学問モード」の学習は,きちんと定義を押さえつつ行われる。こちらはあいまいさを排することで,正確に意味が共有できるというメリットがあり,きちんと学習するためには,日常モードにとどまらずに,学問モードで成される必要がある。そのために,学習時には「「日常モード」と「学問モード」の違いを意識しておくことは大切」と市川氏は指摘する。

 この点は論理に関してもまったく同様である。論理が日常とは違う不自然さをもっていることを意識し,意識的にモードを切り替えることは非常に重要なことである。議論を読み解いたり構成する場合に,日常モードで思考してしまうと,何となく読んだことや考えたことを何となく並べるだけになってしまうからである。5節で指摘した「まっすぐでない」「つながっていない」「一本道ではない」というような非論理性が我々の組み立てる議論にみられるのは,完全に論理モードになりきれずに,思考の中に日常モード的なものが混じってしまうためだと考えられる。最終目標である「主張」に対する意識が強く念頭に置かれていないと何となく前の続きで連想的に考えて,結果的にズレていったり一貫性がなくなったり他の可能性まで考えずに自分の経験や思いつきの範囲だけで話を出ないものになってしまうのである。出発点としてならこれでいいが,考えや文章をまとめるにあたっては,意識的に学問モードに切り替える必要があるであろう。

11.二種類の他者

 では,モードを切り替えるにはどうしたらいいであろうか。この2つのモードでは,相手にしている他者が違う。切り替えるための一つの方策は,このことを利用することである。

 2つのモードにおける2種類の他者は,佐伯(1995, 1999, 2001など)のドーナッツ論でうまく説明されている。ドーナッツ論とは学びのプロセスを示した図式であり,学び手(I)が新しい世界(THEY世界)について学ぶとき,顔の見える他者の世界(YOU世界)を経由する,というものである。このTHEYとYOUとが,本稿でいう2つのモードにおける異なる他者に対応する。学問モードの他者がTHEY(顔の見えない,名前を知らない他者),日常モードの他者がYOU(顔の見える,名前のある他者)というわけである。この2種類の他者の住む世界(共同体)を,佐伯(1995, p.209)は次のように表現している。

 第一は,YOU世界である。互いが共感しあい,相互に理解・感謝・賞味し合う関係を底流にして,個別的に「私」と「あなた」との二人称的関係をもつ共同体である。ただし,二人称的関係は単一ではなく,さまざまな他者とニ人称的に対話する。〔中略〕
 第二は,THEY世界である。ここでは共感よりは批判や論理性が優先し,社会的慣習や権力構造などが支配するが,さまざまな文化的実践に関係づけられている。また,別の共同体とふれ合い,交流する場でもある。

 日常モードで相手にしている他者は,顔の見える,名前のある他人である。目の前にいて,会話のできる「あなた」である。目の前にいるということは,同じ空気を吸っていて,価値観を共有している可能性が高い。そういうところでいきなり,「お前が言っていることは間違っている」みたいな批判を行ったりはしないし,言葉を厳密に定義してから話し始める,という人もいない。日常的にYOUと話をするときは,共感や理解をベースにした関係が中心になる。

 それに対して,学問(論理)モードで相手にしなければならないのは,顔の見えない,同じ空気を吸っているわけではない,外の世界の(名前を知らない)人である。立場が異なるかもしれないし,考え方やが違うかもしれない。そういう,基盤が違うかも知れない人でも納得できるようなものを,公共的に提示するために使われるのが,論理である。この点で「論理」とは,立場の違う他者と対話するための道具であり基本ルールといえる。

 なお,佐伯氏のドーナツ論は主に「学び」や「マン─マシン・インタフェイス」における世界を表現するためのものである。本稿ではこれを,論理の非日常性を説明するために援用している。したがって,本稿で書いているようなことを佐伯氏が述べているわけではなく,佐伯氏の考えをヒントに筆者なりに考えたことであることをお断りしておく。

12.立場の違う他者との対話

 先に述べたことは,学問モードで相手にするのはTHEY(顔の見えない他者)であるので,そのような人を意識的に念頭におきながら議論を構築することで,モードを切り替えることが可能だろうということであった。ただし,顔の見えない他者といっても,実体のないノッペラボーであるわけではないし,不特定多数のすべての人を念頭において,あらゆるケースを想定して考えないといけないというわけではない。そのことは,研究活動を考えてもらうとわかるであろう。

 研究者にとって,意見の異なる他者は顔の見えるところにいる。ゼミや研究会,学会発表会場などはそうであるし,学会を通した研究の積み重ねや相互批判も,直接目の前にはいなくても,名前のついた他者が相手となる。それは要するに,日常的に意見の異なる他者に出会い,その中で,公共的に納得できるものを求めていくという作業を行っているということである。そのような他者のことを,批判的なYOUと呼ぶことができよう(もともとのドーナッツ論で佐伯氏が述べているYOUは,共感的YOUということになる)。

 批判的なYOUとの対話を繰り返していると,その対話が,自分の頭の中でシミュレーションできるようになる。自己内対話(=思考)である。このように,現実世界で,目の前にいる批判的YOUとの対話を繰り返すうちに,それが自己内対話に移行し,その思考に基づいて組み立てた論理を,THEYの世界に発信する。そこからのリアクションを得ることによって,頭のなかの他者レパートリーを増やしていく,というのが,論理性(防衛力や,その世界における適切なジャンプ幅)が身についていく過程であろう。これは,批判的YOUが第二のIになり,それを元にTHEY世界に発信し,それがYOU的なものとして帰ってくる,という循環する過程である。この過程は佐伯氏がドーナッツ論で述べている,「学び手(I)が新しい世界(THEY世界)について学ぶとき,顔の見える他者の世界(YOU世界)を経由する」という過程そのものである。ただし論理に関していうならば,そこに登場するYOUはTHEYと同じような論理や批判を持って接する必要がある点は重要である。

 研究において批判的YOUが論理性の成長を促すという事情は,学校教育において意見交換したり,作文を書いたりするときも同じであろう。ある人の意見に対して,先生なり同級生なりが批判的YOUとなって意見を言う。これは別に,批判でなければいけないわけではない。疑問的YOUというのもありうるだろう。このように,別の立場から別の意見をぶつけられる,という経験は,重要なのではなかろうか。

 ただし,研究室で研究に関するディスカッションをする場合は,こういう状況を作りやすいであろうが,そうではない場合は,日常モードの関係になりやすく,ついつい共感的YOUになってしまうこともあるであろう。それはいけないわけではない。共感的YOUは,誉めてくれて,いい気にさせてくれて,自由な発想や創造性を伸ばしてくれる,という効果はある。ただしそういう関わりだけだと,論理性にはつながらないかも知れないので,どこかでは必ず,批判的・疑問的関わりが必要であろう。

 ここで,9節で述べた「論理的になるための示唆」を振り返ってみる。先ほど述べた「問い続ける」というのは,自分の中の批判的YOUと自己内対話をするということである。それが可能になるためには,「他者との議論・対話」経験,すなわち,顔の見えるところで意見の異なる他人に出会う経験をする必要がある。本を読むというのは,顔は見えないけれども,意見の異なるかもしれない他人が,THEYに向かって書いた文章に触れるということで,やはり対話の経験となる。論理的になることを目指してこういう経験を繰り返すことによって,自分の中の批判的YOUと一緒に論理性について問い続けることが可能になる。そのとき行なわれるのが,論理的思考(=論理性を目標とした批判的思考)である。

■引用文献