道田泰司 2004.09 学びにおける(無)批判的思考に関する覚書 琉球大学教育学部紀要, 65, 161-171.

学びにおける(無)批判的思考に関する覚書

道田泰司

Some notes on (un)critical thinking in learning

Yasushi MICHITA

要 約

 本稿では,主に学校における学びの中で,批判的思考がどのように位置づきうるかを探索的に検討した。まず,批判的思考のない無批判的な学びとは,教育の無謬性という信念に基づく,ある意味で適応的な学びであることを論じ,その信念を支える信念には,権威者の特権性(その対概念としての学習者の未熟性),貼り付け型学習観,固定的知識観があることを指摘した。一方,批判的思考とは,対話的思考としての性質を持っており,そのような対話のある学びが,無批判的ではない本来の学びと考えられるが,それは「観」の転換を伴うものであることを論じた。「観」を変える第一歩としては,学習観の転換が有力候補であることを指摘し,最後に若干のまとめと補足を行った。

1.はじめに

 本稿の目的は,主に学校における「学び」の中で,批判的思考がどのように位置づきうるのかについて考察することである。筆者としては,このような視点から検討するのは今回が初めてであるので,体系的に論ずるというよりは,覚え書き的な性格になることをお断りしておく。

 本稿で扱う「批判的思考」について,まずは確認しておく。批判的思考の定義にはさまざまなものがあるが,ここでは,もっとも一般的に引用される定義として,Ennis(1987)の「何を信じ何を行うかの決定に焦点を当てた,合理的で反省的な思考」を用いることとし,このような思考が,学びの中でどのような位置を占めるのかについて考察することとする。

2.教育の無謬性─疑わないのが適応的─

 批判的思考のある学びについて考察する前に,まずは,批判的思考のない学びについて確認しておこう。一般的にいって,伝統的な知識伝達型の教育においては,学びは批判的思考のない学びとなりやすいであろう。なぜなら,そのような教育においては,学ぶべき内容はあらかじめ定められており,また,教科書の記述や教師が教える内容は正しい,ということが前提となっているからである(中山, 1998など)。

 批判的思考概念との関連でいうならば,そのような教育では,「何を信じるか」を学習者が「決定」することは難しい。もちろん教師の言うことを信じない,という学習者もありうるが,その場合そのような思考が,知識伝達を目的とした教育システムの中で適切に評価される可能性は,あまり高くないであろう。その結果として,伝統的な教育において学習者は,与えられた内容を批判的に吟味することなく吸収する,無批判的な学習を行うのがもっとも適応的な学びとなる。それは,市川(2000)のいう結果主義,暗記主義,物量主義の学習である。あるいは,里美(1994)のいう「正解信仰」である。それは,「自分が経験から獲得した知識には価値がなくて,先生が教えてくれた知識にのみ価値があるという信仰」(里美, 1994, p.33)に基づく,正解探しの学習である。

 予備校の理事である丹羽氏は,生徒を長年観察した結果として,このような学習を「理解型」という言葉で,「納得型」という言葉と対比させて説明している。

「理解型」の学習の仕方は,「教室で教えられていることはすべて正しい」という前提に立つ。彼らは「教科には整合性があるだろうから,今わからなくても,後でわかるようになるだろう」と,いったんは問題を横に置き,先生の言うことをすべて受け入れる。例えばテストで先生が出題を誤ると,理解型の生徒は,「先生は本当はこういう問題を作りたかったのだな」と理解して回答をする。/ところが「納得型」の生徒は,その教科に整合性があるかどうかではなく,森羅万象に照らして正しいかどうかを気にする。(p.147-148)

 理解型における「理解」とは,丸暗記的な意味での理解であり,受容的で無批判的な理解である。このような学習がいかに適応的であるかということについて,丹羽氏は,「教室で勝利するのは「理解型」で,「納得型」の生徒は変な質問をするから授業にならないと言われてしまう。結果として勉強のできる子は「理解型」が多く,勉強のできない子の方に「納得型」が多い。」(p.148)と述べている。すなわち,無批判的な学びが教室で勝利するのは,効率的な知識伝達を妨げるからである。

 丹羽氏が言うように,理解型の学生が「教室で教えられていることはすべて正しい」という前提で学習するということは,彼らは「教育の無謬性」を信じているということである。教育をそのようなものとして捉えたとき,学びの中に批判的思考が介在する余地はない。

 無批判的な学びの背後には,おそらく教育の無謬性という信念があるのであろうが,その信念は,さらにどのような信念によって支えられているのであろうか。つまり学習者は,なぜ教育が無謬だと信じることができるのであろうか。以下で,そのことのヒントになりそうな考えを引用しながら,教育の無謬性という信念がいかに生まれるかについて考察する。

3.権威者の特権性─未熟だから疑えない─

 教育の無謬性の背後にある信念のひとつとしては,教師,教科書,そしてそれらの背後にいる専門家など,伝達される知識の情報源に対する信念があるであろう。具体的には,「真実を知っているのは(あるいは知りうるのは),専門家や権威者だけである」という信念である。いわば「権威者の特権性」という発想である。権威者が特権的に持つのは,知の生成,および知の真偽の判断を独占する(あるいは優先的に行う)権利である。もちろんこれは,専門家が自分自身をどう捉えているかとは関係ない。学習者が専門家をそのように位置づけるとき,教育(内容)の無謬性という信念が生じるのである。

 学習者が知識の情報源をそのように考えるということは,それは同時に自分自身のことを,「未熟なので真実を作り出すことも判断することもできない存在である」と学習者の未熟性を認識するということである。ここでいう未熟性とは,知識量の少なさのことを指しているのではなく,生成・判断能力がない(と捉える)ことを指す。場合によっては学習者が,「この先生が言っていること,おかしいんじゃないかなあ」と考えることもあるかもしれない。しかし,権威者の特権性を信じているのであれば,学習者がすべきことは,権威者の考えを自分なりにさらに深く批判的に吟味することではなく,他のより正しい専門家や権威者を探し出して,そこから知識を学ぶという行為になってしまい,やはり学びは無批判的なものになってしまう。

 そのように,特権的に知を生成し判断し所有できる権威者が存在する,と考えるのであれば,学ぶことは権威者に教えを乞うことに他ならず,教えられた内容は無批判に受容しなければならないことになり,自分で批判的に考えることにはならない。佐伯(1996)は,このような権威者の特権性によってのみ知識が生み出されるという考え,すなわち「知識を自分が作り出すもの,自分で吟味したり否定したりできるもの」ではなく「知識は誰か「エライ人たち」が考え出したもの」と考える知識観を,「権威主義的知識観」と呼んでいる。

 「権威者の特権性」というような言葉を使っているわけではないが,武田(1998)は,真実の外在性−内在性という観点から,このことを論じている。

何が真実かを,学習者が自分の内側に向けて追求し,発見し,納得していく過程を軽視して,外なる権威によって何が真実かを教え込む教育は,子どもたちから「自ら生きる力」を奪うことにつながる。いかにそれが真実であり,価値があるとされているものであっても,その真実や価値が,学習者の内面をとおして,その意味が確かなものとしてとらえられていく過程なしには,それはけっして学習者の真の学力,学んだものが生きて働くことのできる「生きる力」とはなりえないのではないか。真実や価値を,外から与えるべきもの,人はそれに従うべきものという「真実の外在性」に基礎をおく従来の教育観から,何が真実であり,何が価値であるかを,学習者自身が自分自身のうちに追及し,発見し,納得していくことのできる「真実の内在化」へと,教育の考え方を根本的に転換していかないかぎり,日本の教育には,光りはどこにも見えてこないのではないだろうか。(p.179)

 真実の外在性とは,真実や価値が外から与えられるべきものという考えであり,真実や価値が何であるかの判断は,外なる権威者にゆだねるという意味で,権威者の特権性や権威主義的知識観と同じことを言っていると考えることができる。

 真実の外在性に基礎を置く教育とは,たとえば国語における説明文の読解でいうならば,教科書の記述や教師の言葉に疑問を持つことは念頭にはなく,文章は批判的ではなく受容的に読み,その結果,書かれている内容が確認でき,要点を押さえることができれば,それで「理解した」と考えてしまうような教育である。このような理解が問題であるのは,その文章がどのような「事実」をどのような「論理」で組み立てて結論を導き出しているかを自分自身でまったく検討していないために,自分で納得のいく理解になっていない,ということである。「権威者がそう言っている」から,「そう教えられた」から知っているというだけの,借り物の知識でしかないということである。

4.貼り付け型学習観─学ぶことは貼り付けること─

 では,自分で納得のいく理解にするとはどういうことであろうか。武田は,自分で納得するためには,入ってくる知識を自分が持っている知識と結びつける作業が必要であり,そのためには,能動的に問いを立て,自分なりに答えながら,あるいは答えを求めて論者と対話しながら読む,という自問自答の思考が必要になるという。それは,論者がたどった論理の道筋を,自分で確認しながらたどってみることを通して,そのプロセスを含めて納得する,ということである。それは,著者の考えなり結論が唯一の正しい答えではないと,その無謬性や,著者なりそれ以外の誰かの権威性を否定する考えである。それは,知の構築に関しては自分も著者や権威者と対等の立場にあると考えるということである。そこで行われるのは,「何を信じるかの決定」を自分で行う,批判的な思考である。

 学習において,そのような学びが行われにくく,自分が納得するかどうかとは関係なしに学ばれるのには,先に述べたように,知識の情報源(権威者)についての捉え方が関係しているのは間違いないであろう。しかしそれだけではなく,学ぶということに対する考え方(学習観)も,背景にあるのではないだろうか。すなわち,知識の受け手側の要因である。

 それはどのような学習観であるのか。武田氏がいうように,入ってくる知識を学ぶのに,自分が持っている知識と結びつける必要はないと考え,自分が現在持っている知識と無関係に情報を取り込むことが学習であると考えるような学習観であろう。市川(2000)の言い方でいうならば,「理解より丸暗記」という暗記主義であり,「問題を解く過程より結果が大事」という結果主義である。

 丸暗記が深い学びにならないことや,学ぶとは自分の既有知識のネットワークに情報を組み込むことであるというようなことは,認知心理学や教育心理学ではよく指摘されることである。たとえば麻柄(2002)は,「学ぶということは,ある知識が,それまでもっていた別の知識と結びつくことだ」(p.35)と述べている。また守屋(2000)は,丸暗記による知識を「貼り付け型」知識と呼び,次のように説明している(〔〕内は道田による補足)。

〔「わかった」感をともなった知識となるためには〕与えられた新情報は,既有ネットワークのしかるべき位置に「組み込まれ」関連づけられるのです。これに対して,新情報をただ丸暗記する,したがって「わかった!」感とは無関係に取り入れる場合は,既有ネットワークのなかに組み込んでいるのではなく,既有ネットワークの外に,いわば「貼りつけている」だけだといえます。(p.49-50)

 このように,知識とは貼り付けるものだという知識観をもっていれば,学習とは貼り付ける作業になり,学習内容を吟味したり,反省〔あることを心に留めて真剣に継続的に熟考(Dewey, 1993)〕するという批判的思考を行う余地はなくなってしまう。

 なお守屋は,貼り付け型ではない知識を表現する言葉をあげてはいないが,上の引用中の言い方でいうならば,「組み込み型知識」とでも表現できよう。それは,単に自問自答する中で得られるというよりも,他者の意見を知り,それが自分のものと違うことを知り,それを元に自分の考えを見直すという対話的・社会的な理解であると守屋氏は考えており,そのような対話を「展開的やりとり」と呼んでいる。守屋氏の大学の授業で,学生はそのような経験を通して,「自分の考え方や感じ方が流動的で柔軟になるのを感じる」「自分の中に,『それは変じゃないか?』『独り善がりでは?』と言ってくれる他人を感じる」(p.234)というような柔軟性を身に付けることができるようになるという。これは批判的思考そのものと言ってもいいようなものであろう。

5.固定的知識観─知識は変わらないもの─

 このような「貼り付け型知識観」は,フレイレ(1979)のいう「銀行型教育概念」に出てくる知識観と同じものと思われる。銀行型教育とは,教師が一方的に語りかける,伝統的な知識伝達型の教育を表すメタファーである。そこでは生徒は,銀行の金庫のように「教師によって満たされるべき入れ物」となり,教育は「預金行為」となり,生徒にできることは「せいぜい預金を受け入れ,ファイルし,貯えることぐらい」(p.66)になってしまう。

 フレイレは,銀行型教育における教師−生徒関係を,抑圧者(支配者)−被抑圧者と捉えている。そのような関係から人を解放する教育として,フレイレは「課題提起型」の教育を提唱している。課題提起型の教育とは,教師と生徒が対等な立場で対話し,協同して問題を省察し探究する教育である。教師と生徒の支配関係を「対等な立場での対話」に移行させるということは,先に述べた「権威者の特権性」を排する,ということであろう。

 フレイレは著書の中で,「批判」や「批判的思考」という語を用いている。たとえば「銀行型の成人教育のやり方では,生徒に向かって批判的に現実を考察せよとはけっしていわないだろう」(p.70),「銀行型教育は生徒を援助の対象として取り扱い,課題提起教育はかれらを批判的思考者にする」(p.88) と述べている。このように,銀行型教育と課題提起型教育は,無批判的な学びと批判的な学びに対応しているのである。

 では,銀行型教育における知識(あるいは教育内容)を,フレイレはどのように捉えているのであろうか。それは,次のように描写されている。

教師−生徒の関係が基本的に一方的に語りかけるという特徴をもっていることは,その関係をあらゆるレヴェルで,学校の内外を問わず入念に分析すれば明らかになる。この関係には,語りかける主体(教師)と忍耐強く耳を傾ける客体(生徒)が含まれている。語りかける内容が,価値についてであろうと現実に関する経験的事柄についてであろうと,それらは語りかけられる過程で生気を失い,硬直してしまう。教育は,一方的語りかけという病に陥っている。/教師は,現実があたかも不動で,静止していて,明確に分類された,予言可能なものであるかのように語る。さもなければ,かれは生徒の日常の生活経験とはまったく無縁な話題を,ことこまかに解説する。かれの仕事は,一方的に語りかける内容で生徒を満たすことである。(p.65)

 そこで語りかけられる知識は,「生気を失い,硬直」し「不動で静止」している知識である。そのような知識は,学習者によって生成されることも変形されることも批判や判断がなされることもない。すなわち,貼り付け型あるいは銀行型教育における知識とは,固定的知識であるということができよう。佐伯(1999)はそのような知識を「脳の中のデータベースにすぎない」知識と呼んでいる。しかし知識とは本来,「固定しているものではなく,つねに人間が意味づけ,意味づけなおし,またたえずその真実性や妥当性が経験をとおして問いかけられ,問いなおされているもの」(佐伯, 1999, p.96)である。知識を意味づけ,問いなおすことは,批判的に思考するということである(この点については,また後ほど触れる)。

 以上の考察で,無批判的思考的な学びの背景に存在するのが教育の無謬性という信念であり,さらにその背後に存在すると考えられる信念として,権威者の特権性,貼り付け型学習観,固定的知識観があることを確認した。これら3つは,無批判的な学びについて書かれていそうな本を,筆者なりに当たりをつけて探した本の中に出てきたものにすぎない。したがって,さらに幅広く探していくならば,さらに別の,無批判的な学びを支える信念が見つからないとも限らない。その点は,現時点の筆者ではわからない。しかしこれらは,情報源→知識→受け手の学習,という図式で考えるならば,そのそれぞれのポイントにおける無批判的な態度ということであり,この3つで,多くの部分は網羅しているのではないかと思われる。

6.対話的思考としての批判的思考─異なる視点から考える─

 ここまでに文章を引用した本では,それぞれ,無批判的な学びについて語られると同時に,そうではない学びについても語られていた。そのキーワードとしては,「納得」,「自問自答」,「既有ネットワークへの知識の組み込み」(そのための展開的やり取り),「対等な立場での対話」が挙げられている。納得や知識の組み込みに際して行われるのが,自問自答や他者とのやり取りであることを考えると,これらをさらにまとめるキーワードは「対話」ということができよう。つまり,無批判的ではない学びとは,一言で言うと,対話のある学びということである。

 では,対話と批判的思考はどのような関係にあるのであろうか。フレイレ(1979)は,両者が密接に関係することを,次のように述べている。

真の対話は,批判的思考を含まないかぎり存在しえない。その思考は,世界と人間との不可分の結びつきを認め,その二分化を許さない思考である。現実を動かないものとしてではなく,過程や変容としてとらえる思考である。行動と切り離されず,危険を恐れることなく,たえず時間性 temporality のなかに没頭する思考である。〔中略〕批判的思考を要求する対話だけが,同時に批判的思考を生み出すことができる。対話がなければ交流はなく,交流がなければ真の教育もありえない。(p.103-104)

 フレイレにとっては,批判的思考を含まないものは真の対話ではないし,そのような対話を通してのみ,批判的思考を生み出すことができる,ということのようである。すなわち,対話のある学びとは,批判的思考のある学びと同義と考えてよさそうである。

 もっとも,批判的思考をどのように定義しどのようなものと考えるかには,さまざまなものがある(道田, 2003)。批判的思考を,論理を中心に,あるいは論理学に還元できるものとして考える捉え方は論理主義と呼ばれている。そのように批判的思考を(多重論理的ではなく)単一論理的に見るということは,批判的思考を(対話的なものとしてではなく)独白的なものとして見ることである。それに対して,批判的思考を,対話的でオープンエンドの過程と捉える捉え方は,批判的思考の理論家の中でも,第二波(second wave)と呼ばれる人たちの特徴である(Walters, 1994)。彼らは,分析的であるけれども創造的,厳密であるけれども硬直していない,批判的であると同時に関与的なものとして批判的思考を考えている。それは,終わりのない絶えざる問いかけ,という対話的な過程としての批判的思考である。

 第二波の理論家の中でも,特に批判的思考の対話的側面を重視している論者に,Paulがいる。彼は,批判的思考の技能を選択的かつ自己欺瞞的・自己中心的に使うことにより自己利益を守ろうとする思考を「弱い意味の批判的思考」と呼んでいる。それは,対話的な思考や弁証法的な思考を重視しない思考である。それに対して,多重論理的で統合的・包括的な意味での批判的思考を「強い意味の批判的思考」と呼んでいる。強い意味での批判的思考に本質的な練習や技能を提供するのは,対話的思考(dialectical thinking)だけである,と述べている(Paul, 1995)。

 Paulのいう,「対話的思考」としての批判的思考について,樋口(1997)のまとめにしたがって確認しておこう。Paulは対話的思考を,異なる視点や枠組みの間での対話もしくはやりとりを伴う思考と定義している。それは,実際に他者と対話することだけでなく,思考者が一人で他者の観点を考えたり分析することも含まれる。授業において対話的な議論を起こす方法としては,いくつかあるが,もっとも多く用いられるのは教師の問いである。教師が,思考のきっかけや根拠,他の思考,思考の影響などを問うことで,対話的な思考を促すことができるのである。

 以上,本節では,対話的な過程としての批判的思考があることを確認したが,本稿冒頭に引用したEnnis(1987)の批判的思考の定義に照らしていうならば,「何を信じ何を行うかの決定」は通常,論理だけによって行われるのではない。そう考えるのであれば,第二波的な考えの方が,批判的思考の本質を捉えたもの,ということができるであろう。

7.対話のある学び─「観」を変えることの難しさ─

 本節では,対話を通して学ぶことについて検討する。まず学びにおける対話について,佐藤(2000)の記述で確認しておこう。

私自身は,「勉強」と「学び」との違いは,<出会いと対話>の有無にあると考えています。「勉強」が何ものとも出会わず何ものとも対話しないで遂行されるのに対して,「学び」はモノや人や事柄と出会い対話する営みであり,他者の思考や感情と出会い対話する営みであり,自分自身と出会い対話する営みであると思います。〔中略〕/フレイレが主張しているように「伝達から対話へ」の転換が必要ですし,知識や技能を獲得し蓄積する「勉強」から,自らのわかり方を発言して作品として表現して仲間と共有し吟味し合う「反省的な学び」を実現することが求められます。(p.58-60)

 知識伝達型の教育における知識貼り付け型の勉強が「何ものとも出会わず何ものとも対話しないで遂行される」というのは,経験的にはよくわかる事柄である。またそこから,そうではないものとしての「学び」が,「モノや人や事柄と出会い対話する営み」であることも,何となくイメージすることは難しくないように思われる。しかし,「伝達から対話への転換が必要」とはいっても,対話らしいことを導入すれば,それですべてがうまくいくわけではないであろうこともまた,想像に難くない。

 実際,本稿で引用してきた教育者の実践においても,「対話を受け入れがたく感じている学習者」の存在が示されている。例えば武田(1998)は,小学校の国語の教科書に出てくる説明文教材を用い,その中に見られる間違った記述や不適切というべき内容を学生に探させる,という授業を行っている。そのような作業を通して,真実の外在性という信念を,真実の内在化へと移行しようということのようである。しかし武田(1998)によると,「授業の初めの段階では,なぜそんなに教科書のあら探しだけをするのかという,学生の反発が非常に強い」(p.16)という。あるいは,「教科書を批判することは,彼らにとっては単に教科書の批判であることをこえて,彼らが学んできたことをすべて否定してしまうような許しがたい行為であると考える学生も少なからずいる」(p.76)という。フレイレ(1979)でも,「活発に議論を始めた農民が,突然口をつぐんで教育者に次のようにいう場面が多々見られる。/「失礼しました。われわれは黙っているべきでした。どうぞお話しください。物事を知っておられるのはあなたの方で,われわれは何も知らないのですから。」」(p.51-52)とある。

 どちらの記述でも,長年親しんできた「観」を変えることの難しさが表されていると思われる。またこれらからするならば,おそらく,対話的な学びにおいては,対話を行うことそのものが重要なのではないであろうか(6節で引用したPaulが言うように,対話的思考は,実際の他者が存在しなくても可能である)。むしろ,そのような対話を通して,先に挙げたような教育の無謬性信念を打ち砕くような,権威者観,学習観,知識観の転換が起きてはじめて,対話的な学びが成立し,教育の非無謬性(可謬性)や真実の内在性が受け入れられ,組み込み型学習が成立し,知識が常に意味づけ直される対象となるのではないだろうか。つまり,一言で対話といっても,重要なのは対話の質ということである。そしてそれは,決して容易な問題ではないのではないかと思われる。しかし,そのような「観」の転換がなければ,「何を信じ何を行うかの決定」を自分で合理的かつ反省的に行う,批判的思考のある学びにはならないのも確かであろう。

8.「観」を変える教育─まずは学習観から─

 では,「観」を変えるためには,,どのような教育を行えばよいであろうか。ひとつには,本稿で扱ってきた3つの信念(権威者の特権性,貼り付け型学習観,固定的知識観)を,抵抗の少なそうなものから少しずつ導入する,というものであろう。もちろん,ショック療法的に,もっともインパクトの強い方から攻める,というやり方もあるであろう。しかし,少なくともこの問題に関しては,インパクトが強いということは,抵抗が強いということとイコールである,実際,前節で見たように,武田(1998)でもフレイレ(1979)でも,それなりの抵抗感をもって受けとめている学習者も少なからずいるようである。したがって本稿では,抵抗の少なそうなものから導入する,という方策を検討することとする。

 ではこの3つの信念のうち,教育の無謬性を信じている学習者に導入しても抵抗の少なそうな信念はどれであろうか。それはおそらく,「学習観」ではないだろうか。それはひとつには,この3つの信念に対応して引用した3冊の書籍のうち,守屋(1999)が最も抵抗に関する記述が少なかった,ということもある(守屋では,そういう記述がまったくなかったわけではないが,それは,そういう学生が一人だけいた,という記述のみであった)。

 しかしそれだけではない。まず「権威者の特権性」から言うならば,この信念を放棄するということは,それだけで済む話ではない。権威者が特権的ではなく自分も対等の立場にあると考えることは,権威者についての考え方を変えるだけではない。権威者が対等と考えるならば,学ぶことは必然的に,基本的に全て自分で是非を判断する作業になる。もちろん権威者が提示する考えや事実は,利用可能な資源として大いに利用するにせよ,最終的な判断は学習者の側になるのである。それは,「学習観」も変えることを意味する。またそれに加え,先の武田(1998)の引用にもあるように,権威者の特権性という信念を否定することは,「彼らが学んできたことをすべて否定してしまう」という,学習者にとっての自己否定にもつながりかねない。また,教科書や専門家だけでなく,目の前の教師も批判の対象とするということになり,そういう考えを持ったことがない学習者にとっては,抵抗があるのはむしろ当たり前ではないかと思われる。

 一方,「知識観」に関しては,やや話は異なるように思われる。というのは,一般的な科学や学問研究においても,固定的科学観(知識観)と非固定的科学観の両方が存在し,どちらがよいとは一概に言えないのである。前者は,知識が固定的・普遍的で客観的なものであり,そのような知識が累積していくことが科学の進歩,という考え方である。それに対して後者は,科学が決して客観的なものではなく,理解とは常に一定の立場からの絶えざる「解釈」の営みにほかならないという考え(野家,1993)である。この立場に立っているであろう中谷(1958)は,次のように述べている。

もし自然界に、人間をはなれて、真理というものが、隠されているものならば、それを発掘すれば、それでおしまいである。しかし科学の真理が、自然と人間との共同作品であるならば、科学は永久に進化し、変貌していくものである。このいずれの見方をするかは、趣味の問題である。(p.197)

 中谷が「趣味の問題」と述べているように,知識観の問題は,どちらよいと決められることではない。筆者自身のイメージする「批判的思考」からするならば,後者の科学観・知識観の方がよいように思えるが,しかし前者の科学観の方がシンプルだし,実際の科学の営みにおいては生産性も高いようにも思える。また,科学の営みも一種の批判的思考の営みであることを考えるとなら,前者の科学観であっても,それなりの批判的思考が行えることは間違いない。したがって知識観という観点は,最初に導入するものではないと言える。

 簡単ではあるが,以上の考察より,学習者の教育観を変える第一歩としては,学習観をターゲットにするのが適当なように思われる。ただし,組み込み型学習観に基づく学習は,相手と対等に対話を行い両者の合意の下に真実を生成したり評価する,という意味の批判的思考にまではならない。それはせいぜい,一貫性を持ち矛盾のない知識を構築するために,自分の既有知識と対話し,自分なりの理解を問い直す,という自分との対話が中心になり,自分の理解に対する批判が中心になるのではないかと思われる。しかしそのような対話を通して,これまでに学んだ知識に潜む矛盾が見出されたり,その位置づけを自分なりに再考することで,結果的には,知識の情報源としての権威者を問い直したり,知識の普遍性を問い直すことにもつながる。その意味でも,観を転換する第一歩として,学習観の転換を図るのは,悪くない選択であるように思われる。

9.「一貫性」と「問い直し」による学び

 現時点で筆者が行える考察は,およそ以上であるが,これだけでは,対話的思考としての批判的思考のある学びが,具体的に何をするのかが明確ではない。その点についてヒントになると思われるものとして,佐伯(1975)の記述を参照にしておこう。

 佐伯氏は,「「わかる」とは,「絶えざる問いかけを行う」こと」(p.62)であり,「「わかる」とは,死にいたるまでわかりつづけていくことなのであり,また,「ますます深く,ますます広く」わかりつづけていくこと」(p.63),と,問い続け,学び続け,分かり続けることを重視した「学び」の構造を提唱している。その中で佐伯氏は,「一貫性のひろがり」と「問い直し」という2つの語をキーワード的に用いて,学びについて論じている。なお以下に引用する文章の一部は,道徳(よさ)に関する考察であるが,しかしこれはそのまま,「わかること」や「学び」,そして批判的思考にも当てはまることとして理解できると思われる。

 まず「一貫性」は,「道徳(よさ)はいかにして学ばれるか」という章で主に使われている言葉である。佐伯氏は,2歳前だった自分の息子の逸話から,子どもでも「一貫性を志向」していることを指摘する。しかしそれだけでは,閉じた狂気の世界にもなりかねない。そこで「必要なことは,やはり一貫性を高め,ひろげていくことであり,本当にわかることである」(p.102)と論じられている。つまり,上(一貫性を高める)と横(一貫性を広げる)の2方向に向かって一貫性をひろげることによって,開放性を持たせ,狂気としてではなく,よいものとしての一貫性を求めるのである。

 一貫性を横に広げつとは,「対話」を通してよりよいものをわかちあっていくことであり,「人間のこのような「一貫性のわかちあい」を,別のことばであらわそうとすると,そこには「愛」ということば以外に見当たらない」(p.86),という。それに対して,一貫性を上に高めるとは,「よりよいものへ」むかうということである。そのために必要なことについて,佐伯氏は次のように指摘する。

この「よりよいものへ」むかうはたらきは,必ずしもつねにスムーズに事がはこぶとはかぎらず,単に人々と対話していけば自然に形成されるものでもない。ときにはコンフリクトも生じ,たたかいも必要となる。ただ,これらのコンフリクトやたたかいも,本来は,よりよい一貫性,より広くわかちあえる一貫性を求めてやまない人間の性質からのものであり,また,そこから出てくるものであるかぎり,そこに一種の「道徳性」が存在するといえよう。/いずれにせよ,わたしたちはお互いの対話で,相互に相手の視点を自らの心の中でとらえ,そこに内在するコンフリクトを超える新しい秩序,調和,へむかって,一貫性を高めていこうとする。(p.89)

 「よりよいものへむかう」ことが,「対話していけば自然に形成されるものではない」,葛藤や戦いも必要になることであるという指摘は,本稿7節で指摘した,対話らしいことを導入すればうまくいくわけではない,という指摘と同じであり,興味深い。また,ここで重視されているのは,ひとつは対話,もうひとつは,対話を通してコンフリクトを超える秩序や調和とつくるという弁証法的な過程である。このように,対話的思考と弁証法的思考を重視するのは,Paulのいう,対話的,弁証法的思考としての批判的思考概念ととても近いように思われる。

 このような学びにおいては,「問いかけ」「問い直し」(何度も何度も自らに問うもの。p.167)が重要になってくるが,こちらも,批判的思考を「過程」としてとらえるとらえ方にとても近い。たとえばBrookfield(1987)は,「批判的思考者になることは,過程に対する絶えざる問いかけを必然的に伴う」「その性質上,批判的思考は,最終的な静的な形で終わることはない」と述べており,先の佐伯の意見と近いことがわかるであろう。佐伯氏は,人間の学びを問い直すための具体的な問いとして,(1)前提を問う,(2)アタリマエを問う,(3)意味を問う,(4)関連を問う,(5)役割りを問う(p.203-205)を挙げている。これは批判的思考の問いそのものと言える(道田, 2004など)。

 これらをまとめると,佐伯氏の考える「学び」とは,「何度も問い直すことによって一貫性を広げていくこと」と言えそうである。そして,このような考察と本稿を比べて見ると,本稿では,佐伯氏のように,対話のある批判的な学びの具体的なイメージを提案するまでには至っておらず,かろうじて,批判的な学びと無批判的な学びの境界を示し,また,対話と学びと批判的思考の関連を多少なりとも示しているにすぎない。今後は,佐伯(1975)のような考察を参考にしながら,批判的な学びについて,具体的に検討していく必要があるであろう。

10.まとめと課題

 最初に述べたように,本稿は覚え書き的な,あるいは試案的な性格のものであるが,さしあたり,次のようなことが,ある程度確認されたのではないかと思われる。(1)無批判的な学びとは,教育の無謬性という信念に基づく,ある意味で適応的な学びであること,(2)教育の無謬性という信念を支える信念には,権威者の特権性(その対概念としての学習者の未熟性),貼り付け型学習観,固定的知識観があること,(3)批判的思考とは,対話的思考としての性質を持つこと,(4)対話のある学びが,無批判的ではない本来の学びと考えられるが,それは「観」の転換を伴うものであること,(5)「観」を変える第一歩としては,学習観の転換が有力候補であること。最後に本節では,今後の考察のヒントあるいは留意点となりそうな事柄を2点挙げておく。

 本稿では,教育(学習)場面において,学ばれる知識や,情報源としての権威者(教科書や教授者),そして学習者自身に対して批判の目を向けるという意味の批判的思考を中心的に扱ってきた。いわば,「対自」的な批判的思考と,権威者を相手にする「対他」的な批判的思考である。しかし,学びの場面において発揮される批判的思考は,これだけではない。

 たとえばディベートのような討論を通した学びは,批判的思考が大いに発揮される学びであろうが,そのとき,批判の対象となるのは,同じ学習者である他者の考えや意見である。また別のケースとして,教科書など1つのテキストを通して学ぶのではなく,複数のテキスト(たとえば同一事件についての複数の新聞記事)を通して学び考えるとき,テキスト間の相違や矛盾点は,批判的思考の対象となりやすい。メディア・リテラシー教育で行われるような学びである。前者は,同レベルの他者を相手にする「対他」的な批判的思考であり,後者は(適切なまとめ方かどうかはわからないが)「対モノ」的な批判的思考である。

 これらはもちろん,それぞれ異なる特徴があり,個別に考察される必要はあるであろうが,しかし基本的には,それらの背後にあるものをたどっていくと,いずれかの権威者に行き当たることが多いであろうから,ある部分は,本稿3節あたりの考察と重なるものと思われる。

 ただし,これら独自の特徴を補足しておくならば,これらは,結局は権威者批判的な性質を持つとしても,しかし,直接の批判とは違い,比較的抵抗なしに導入可能なものであるように思われる。それは,前者は同じ学習者間の間での批判ということで,権威者を直接批判するとか,これまでに学習してきたもの全てを否定することにつながりにくいと思われるからである。後者は,複数の権威者間の比較ということになるため,どちらかが正しい(あるいはより適切)であるとするならば,どちらかは間違い(あるいはより不適切)ということになり,批判的に思考し学習する意味が見えやすいと思われる。ただしこの場合に,そこで行われることが「どこかに正しい答を握っている特権的な権威者がおり,それを探し出す」ような学習になった場合,それは,権威者の特権性や権威主義的知識観を強化する学習にしかならず,最後のところでは無批判的な学びになる危険性があることに留意する必要があろう。

 最後にもう一点,本稿ではまったくふれることはできなかったが,批判的な学びを考える上で重要と思われる観点を指摘しておこう。それは,学びはすべて批判的に行わなければならないわけではない,という点である。状況的学習論の観点からいうならば,学びとは,文化実践への参加である。そして,ある文化実践に,新参者として徒弟的に参加するためには,むしろ,その「文化」なりの考え方やしきたりを学ぶ必要があり,無批判的な学びは欠かせない。しかしそのように考えてしまうならば,学びの中に,「批判」は存在しようがない。特に,その文化における権威者を学習者が対等なものと捉え,その考えを批判する,ということは,文化実践への「参加」とは異質なものとさえいえるかもしれない。では,文化実践への参加として学びを考えたとき,批判的思考は,どのように位置づくのであろうか。

 この点について,筆者の考えを簡単に述べておく。現時点では,この問題はいくつかの観点から回答が可能なように思われる。ひとつには,学習者が,その文化の(周辺的参加者ではなく)十全的参加者とみなせば,その文化に参加している他の参加者に対する批判的吟味もありうるであろう。ただしこの場合は,「学習者」を「十全的参加者」とみなすわけであるから,この「学習」と「十全」という一見矛盾しているように見える両者の位置づけを明確にする必要があろう。

 別の考えとしては,相手が権威者であり,学習者が新参者であったとしても,権威者の考えの中にある矛盾点や不整合な点の指摘は可能であるように思われる。その場合は,その文化(あるいは権威者)における,ある時点(あるいはある権威者)での考えと,別の時点(あるいは別の権威者)における考えの対応関係を問題にするわけなので,そのいずれもがその文化の枠内に納まってていることであれば,批判者や問題提起者が新参者であることは,問題にならないであろう。

 また別の考えとしては,ある文化的実践(仮に「文化実践A」と呼ぶ)における新参者が,同時に別の文化的実践(仮に「文化実践B」と呼ぶ)に十全的に参加している参加者であると考えるならば,文化実践Bの尺度なり価値観に基づいて,文化実践Aにおいて行われていることや考えを批判する,ということが可能であろう。つまり,複数の文化の重なりの中にいる個人が,ある文化の問題点なりを,別の文化の基準を用いて指摘するということである。これは特に,文化実践Bの基準を,文化実践Aの人たちもある程度共有できるのであれば,可能なことであるように思われる。もちろんそこで行われることは,批判だけではなく,異文化間の考えの止揚なり,理解なり,翻訳ということもありうるであろう。

 これらの点については,現時点では思いつきの域を出ないので,今後の検討が必要である。

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