道田泰司 2005.06 批判的思考から研究を考える 日本化学会情報化学部会誌, 23, 54-60.

批判的思考から研究を考える

琉球大学教育学部 道田泰司

はじめに

 本稿では,よい研究を導くための思考のあり方について論じる。筆者は心理学分野で思考について研究している者である。そのため,本稿で想定している研究が必ずしも化学分野にそぐわないものもあるかもしれない。しかし,根本にある考え方はどの分野にも共通すると考えられるので,取り上げられる例に関しては,適宜自分の専門分野での例に読み替えていただければ幸いである。

 さて,よい研究を達成する要素には,もちろんたくさんのものがある。たとえば,当該領域や関連領域に関する広く深い知識,確かな研究方法や測定・分析手続き,あるいは立派な研究設備や潤沢な人的・経済的資源などである。これらがあればよい研究ができる可能性は高まるであろう。しかしそのことは,これらがあれば必ずよい研究になることは意味しない。もっともそれも,何をもってよい研究とするか,研究の捉え方によっても異なってくるかもしれないが,ここでは素朴に,より真実に近づくことができる研究をよい研究と捉えておく。そのように考えたとき,最も重要なのは,研究者の思考力ではないだろうか。

 研究に必要な思考には,大きく分けて二つのものがある。独自な発想を産む思考と,より確かな結論を得る思考である。前者は創造的思考(creative thinking),後者は批判的思考(critical thinking)として,心理学で研究対象となってきた。このうち,筆者が研究テーマとしている批判的思考は,心理学者だけではなく,哲学者や教育学者による60年あまりの教育・研究の蓄積がある。それらは主に,学校教育という文脈の中での思考と思考力育成について論じられたものである。しかしそこで得られた見解は,学校教育を超え,日常生活でも,また学術研究においても有用な部分があると思われる。本稿では,批判的思考がどのようなものなのか,また,批判的思考という観点から眺めたとき,よい研究ということに関してどのような示唆が得られるのかについて考察する。

批判的思考とは何か

 批判的思考には,さまざまな研究者がさまざまな定義を与えている(詳細は道田(2003a)参照)。本稿では,煩雑さを避けつつも,批判的思考概念をふくらみを持って理解していただくために,二つの定義を紹介する。

平易な定義

 まずは批判的思考のおおよそのイメージをつかんでいただくために,筆者自身が平易な言葉で表現した定義を紹介する。「見かけに惑わされず,多面的にとらえて,本質を見抜くこと」というものであり,図1のように図式化している(道田, 2001)。図中に示されているように,見かけに惑わされないという「態度」(姿勢,傾向性)を常にもち,多面的に見るという創造性と,本質を見抜くという論理性・合理性をもった思考である。それを問題解決のプロセス(問題発見−解の探索−解の評価−解決)の中に位置づけるならば,図中のフキダシにあるようなつぶやき(自問)を常に行う,ということでもある。研究のプロセスが問題解決のプロセスであることを考えるならば,このような思考が研究において必要であること,あるいは研究活動の中で一般に行われていることは,理解していただけるであろう。 図1

代表的な定義

 続いて,批判的思考研究や教育において最も頻繁に引用される定義であるEnnis(1987)の定義を取り上げ,先ほどよりもう少し詳しく検討する。検討するのは,批判的思考がどのようなものであるかであるが,まず,日常的な状況における批判的思考の必要性を確認した上で,次に,批判的思考が確かによい研究を導くために必要な思考といえるかどうかを確認する。そうすることで,日常的な意味での良い思考と研究上での良い思考とに,通低するものがあることを感じることができるであろう。

 Ennis(1987)の定義は次の通りである。「何を信じ何を行うかの決定に焦点を当てた,合理的で反省的な思考」(reasonable, reflective thinking that is focused on deciding what to believe or do)。

 これは決して分かりやすい表現とはいえない。そこで,ここで述べられていることを,筆者の解釈を交えながら,以下に順次説明していく。

「決定」を対象とした思考

 まず述べられているのは,批判的思考が何を対象としているかについてである。それは「何を信じ何を行うかの決定」と表現されている。すなわち,批判的思考は「決定」(意思決定)を対象とした思考であり,決定が行われる場面として,「何を信じるか」という人間の情報取得と,「何を行うか」という情報発信が挙げられている。一言でいうと,情報の入出力に関わる思考ということである。

 日常的なことでいうならば,情報入力時の決定に関しては,マスメディアから流される情報を無批判に鵜呑みにするのではなく,批判的に吟味した上で受け取るかどうかを決定する必要性がいわれている。いわゆる「メディア・リテラシー」である。研究においても同様で,先行研究などの文献から得られた情報を,批判的に吟味することから研究が始まることには異論はないであろう。そうして初めて,従来にはない視点を自分の研究に加えたり,従来の研究の問題点を克服することができる。

 一方,情報の出力に関しては,日常的には,意思決定や問題解決場面という形で,頻繁に出会うことである。与えられた情報をよりよく吟味し,より深く思考・推論することが,より良い意思決定やよりよい問題解決につながることは,誰でも経験していることであろう(心理学的な観点から論じられたより良い意思決定や問題解決については,印南(1997), 伊藤(1998)参照)。研究活動においては,研究を計画して実行し,発表することはすべて,意思決定あるいは問題解決の連続であり,常に「何を行うかの決定」が行われている。研究における意思決定は,より深く吟味したり,さまざまな可能性を考えること通して行うことも可能であるし,逆に,慣習に従って,あるいは機械的に,適当に,誰かに言われたから,などという理由で意思決定を行うことも可能である。この場合,どちらがよりよい意思決定につながるかは述べるまでもないであろう。

 なお,「何を行うか」を決定においては,文字通り「何を行うか」だけを決定しているわけではない。最良の選択肢を選ぶことが難しい場合でも,最悪の選択肢を避ける,という形で「何を行うべきでないか」の決定が行われることもある。さらには,現時点で手持ちの材料では決定を行わない方がよい,という選択もありうる。決定を保留することの決定である。研究を行う上で行われる決定にはこのようにさまざまなものがあり,状況に応じてどのような種類の決定を行うべきかを決定することは,研究において重要な位置を占めている。批判的に考えるべき対象は,それら全体を含めた広い意味の決定である。

「合理的」で「反省的」な思考

 Ennisの定義の残りの部分は,批判的思考が「どんな思考」かということである。それは第一に合理的な思考であり,また,反省的な思考である。

 合理的な思考とはどのような思考なのか。それは難しい問題を含んでいるが(道田, 2002),ここでは「研究」を対象としている関係上,合理的な思考を「論理的」な思考と理解しておく。

 とはいえ,論理的思考が何かということについても案外一般的に共有されている共通理解はない(道田, 2003b)。もちろん定義がないわけではない。ある論理学書では,「論理的であるということは,ある前提が与えられた時に,その前提だけから結論を導き出すということ」(菅原, 1991, p.3)と定義されている。このような定義は,論理学においては有用であっても,学問研究や日常における論理性を説明する上では適切とはいえない。

 しかし学問研究を「根拠に基づく推測」と考えるならば,そこには共通の論理がある。その論理は,日常的な推理や診断などにも通じる共通の論理である。そして結論を先取りしていうならば,そのような推論時に行われる論理は不完全なものでしかありえない。そのため,そこで得られる結論は,常に一時的・暫定的なものとなる(だから研究者のメシのタネがつきないわけである)。研究における論理をこのように捉えたとき,その論理性の高低を判断する最適の基準はおそらく,「異なる立場の論者による批判に対し防衛力がある(すきが無い)ということ」(宇佐美, 2001, p.148)というものであろう。そのことを以下に説明する。

 一般に実証研究においては,「ある仮説が正しければ,これこれこのような事実が観察される」と考え,その事実が実際に観察されるかどうかを,実験その他の方法を用いて確認する。仮説演繹法といわれるものである。そのような形を研究者が意識しているかどうかは別にして,自然科学の基本的な方法は,このように定式化できる,と一般的にはいわれている(岩田・坂口・柏原・野家, 1993)(科学の方法論を確率論的帰納法とみなす考えもあるが(内井, 1995),ここではそこまでは論じない)。そして,科学哲学者ポパーが指摘するように,この論理を用いてある仮説を検証することは,論理学的には「後件の肯定の誤謬」,すなわち論理学的には妥当でない推論,すなわち非論理的な推論になってしまうのである(反証する場合は,原理上その限りではない)。とはいってもそれは,形式論理学的な論理を念頭に置いたときの話である。しかし研究や日常における推論では,このような状況で「それなり」に論理的な推論を行うことができるし,実際に我々はそういうことを行っている。

 このことを「論理学」的に述べると話が難しく感じられる方がおられるかもしれないので,ここでは日常の例を通してそのことを示そう。たとえば誰かがセキをしたときに「風邪を引いた」と考えたとする。そのときに行っていることを,先ほどの形に合わせていうならば,「風邪をひくならばセキがでる」という条件命題,および「セキをした」という観察事実から,「風邪をひいている」という結論を導き出しているのである。しかし実際には,セキがでる病気には複数のものがある(ぜんそく,肺炎,けっかくなど)。そのため,これだけでは正しい結論は出せない。論理学的に言うならば,「AならばB」が真であっても,必ずしも「BならばA」とはいえないからである(AやBは命題(=文)を記号化したもの)。そこで医者は,風邪を引いたときに見られる他の症状がないかを調べたり,また,セキが出る他の病気の症状が見られないかを調べたりすることで,より妥当性の高い結論を導き出すのである。

 そうはいっても,セキが出る未知の病気が存在する可能性がある以上,有限回の観察で,論理的に妥当な結論を出すことは,原理的に不可能である。これは学問研究のみならず,日常も含め,事実をもとに仮説を検証したり,結果をもとに原因を推測するような推論すべて(たとえば病気の診断,犯罪捜査など)に当てはまることである。

 このことからいえるのは次のことである。第一に,このような推測を伴うあらゆる主張は,その時点では最良の推論を行っているように見えても,新たな理論なり原因候補なり要因が現れれば,その妥当性が変化しかねない,暫定的なものでしかありえない。もちろん論理学の練習問題のように,考慮すべき前提がすべて明らかになっているのであれば,そこからは100%論理的な結論を導き出すことができる。しかし,学術研究も含め現実世界における推論は,常に不確実性が付きまとうため,そうはいかないのである。

 では,暫定的なものであるにせよ,より妥当な結論に至るにはどのようにしたらよいのか。ここで役立つのが,先に紹介した論理性の定義(異なる立場の論者による批判に対し防衛力がある)である。すなわち,その時点で考えうるあらゆる反論を想定し,それに対して再反論が可能であれば,その結論はその時点で考えうる最良の結論ということができる。それが防衛力があるということである。そのときその結論は,実用的な意味では論理的な結論といって差し支えないものであろう。

合理性から反省性へ

 ということは,論理的・合理的な推論を行うためには,異なる立場からの批判を受けやすいように,その推論を批判にさらさなければいけない。そうしてはじめて,その推論の防衛力を示すことができる。この場合,推論に対して批判を行うのは他人である必要はない。研究者自身が自分の視点や願望などにとらわれることなく,異なる立場からの反論を想定できれば,「自己内対話」の形で反論と防御を行うことでき,そこで得られた結論は,異なる立場の論者をも説得可能なものになりうる。この自己内対話がすなわち批判的思考である。そこで必要なことを一般的にいうならば,さまざまな可能性を幅広く考えながら,主張の妥当性をじっくりと考えることである。

 実はここにおいて,話はすでに「反省的な思考」の話になっている。反省(reflection)とは,「ある考えをじっくりと吟味(熟考)すること」である。それは,あたかも合わせ鏡の中で光が何度も反射(reflection)するように,自分の中で思考を反射させ,さまざまな角度から光を当てるような作業である。自分の考えた論理の道筋を,第三者的な目で客観的に洗い直すことである。

 合理的とか論理的というのは,あくまでも最終的に出来上がったものがいかなるものかを形容する言葉である。そこに至るプロセスで行われることが,反省的思考である。つまりまとめていうならば,合理的・論理的な主張を形作ることを目的としてじっくりと考えることが,合理的で反省的な思考,すなわち批判的思考なのである。

終わりなきプロセスとしての批判的思考

 じっくりと考えるためには,もちろん当該領域に関する知識や,考え方についての知識,技能などを持ち合わせているほうがよいであろう。しかし最も大切なものは,批判的に考えようとする「態度」を持っていることである。

 批判的な思考態度とは,単に批判をすることではない。むしろ,先に述べたように自分の考えを常に批判にさらそうとする姿勢や構えのことである。それは,自分もののとは違う視点を真剣に検討しようとすることであり,自分が受け入れない考えにもとづいた推論をも行おうとすることであり,証拠や理由が不十分なときはあえて判断を保留することである。これらは批判的思考研究においては,「開かれた心」(open-mindedness)と呼ばれる(Ennis, 1987など)。批判的思考を行うということは,第一に,異なる視点に対して自分自身を開き,自分の考えを積極的に批判の対象にするということなのである。

 先に述べたように,現実世界においては,あらゆる推論から得られる結論は暫定的なものであり,新しい事実なり仮説なり要因なりがあれば,その妥当性はいつでも変化しうる。したがって,どんなに常識や定説となっていることであっても,常に批判に対して開かれている必要がある。批判的思考とは,より良い思考を通してより確かな結論を求めると同時に,その結論を批判に対して開いていくプロセスである。常に開かれているということは,批判的思考の過程は「終わりのないプロセス」なのである。そこで行われることは,異なる立場の論者からの批判を受けて問いが立てられ,その問いをめぐって対話が生まれ,新たな考えへと広がっていく,問いと対話の繰り返し,ということもできよう。

「そんな思考は……」

 以上のような話を聞いたときの反応には,二種類のものがあるように思われる。一つは「そんなこと,難しいからできないよ」「面倒くさいよ」などというものであり,もう一つは「そんなこと,もうやっているよ」というものである。そこで,残りの部分では,この二つの反応について検討する。

批判的思考は難しい?

 確かに批判的思考は難しげに聞こえるかもしれない。基本的には「きちんとした」思考であるので。しかし日常をふり返ってみれば,誰でも必ずどこかできちんとした思考を行っているものである。

 たとえば誰でも,自分が得意な分野では,きちんと考えることができるのではないだろうか。そういう分野では,知識や経験が豊富であるはずなので,門外漢や初心者のように一つに決めつけた単純な見方や考え方をすることは少ないであろう。

 また,単純な場面であれば人は自然にきちんと考えていることが多いであろう。私事であるが,筆者の子どもを観察していると,4歳ぐらいでも論理的な推論を行っていたりして驚くことがある。たとえばあるとき,コップに入っていたはずの牛乳がなくなっていた。そこで筆者の娘は,父親である私に,牛乳を飲んだかどうかたずね,次に母親にたずねた。父親も母親も飲んでいないと答えたところ,彼女は結論づけた。「じゃあしーちゃん(下の娘)が飲んだんだ」。

 ごく単純な状況といえばそれまでではあるが,論理学的いうならば,彼女が行っていることは選言三段論法である(pまたはqまたはr。pでない。qでない。ゆえにr)。あるいは批判的思考的にいうならば,彼女が行っていることは,即断をすることなく,複数の可能性を考えた上で,情報収集を行って結論を出しているのである。Ennis流にいうならば,何を信じるかを決定するために行われた,合理的かつ反省的な思考である。

 もっとも,なくなっていたものが牛乳ではなく,彼女にとって思い入れの強い,たとえば大好きなぬいぐるみなどであれば,このように冷静な推論を行うことなく,感情的になって即断したり一面的にみていたかもしれない。それは大人でも同じである。逆にいうならば,強い感情や思い入れの関わらないような場面では,人は冷静かつ合理的に判断できるといえる。

 このように,人が批判的思考といいうることを行っている場面は少なからずあり,批判的思考を行うこと自体は決して難しいものではない。難しいとするならば,それはここで述べた条件がない場合であろう。すなわち,

 などである。特に研究においては,最後の「感情・思い入れ」に留意することは重要であろう。それまでにその研究に投入してきた人的・時間的・金銭的資源のことを考えると,十分とはいいがたい結果であっても,多少の問題には目をつぶって仮説に沿った結論を導き出したくなってしまうかもしれない。場合によっては,研究者やボスや資金提供者の面子がかかっていることもある。このようなものは,出したい結果に対する研究者の感情や思い入れを過度に高め,結果的に批判的に考えにくくする原因となるであろう。

 しかしそうであるのであれば,すべきことははっきりしてくる。第一に必要なのは,批判的思考の考え方なり技法なりを一から学ぶことではない。まずはその分野の知識や経験を得ること,でもない(もちろんそれは必要なことではあるが)。むしろ,自分が得意分野や単純な状況や感情の絡まない場面で行っているような思考を,そうではない場面でも行おうとすることである。その中で,知識が必要であると判断すれば知識を求めることになるし,手持ちの知識だけであっても考えうる可能性が少なからずある場合は,暫定的な結論を出すこととなる。

 ある場面で批判的に考えるとはどういうことなのか,どのようにすればいいのか,その答えはおそらく自分自身の中にある。どこかで必ずやっているはずなのである。それをいかに他のことにまで広げていくかという問題であり,その根底に必要なのは,常に批判的に考えようとする開かれた姿勢(態度)を保ち続ける,ということなのである。また開かれた姿勢という意味では,自分がやっていることを時々でもいいから他者の目でチェックしてもらう,という形で開くことも重要であろう。そうすることは,上に箇条書きしたことでいうならば3番目に書いたような,ルーチン化された思考や行動を見直すことにつながるであろう。

やっているつもり,批判的思考

 より良いものを求めて批判的に考えるという場合に,より問題が大きいのはこちらである。「そんなこと,もうやっているよ」と考えてしまうことである。これがなぜ危険なのか。それは,次の二つの理由による。

 第一には,先に述べたように,人には批判的思考ができる分野や状況と,行いにくい分野や状況が存在する。このうち,自分ができる分野や状況だけを思い浮かべて「やっている」と考えてしまうことの危険性である。そのとき,批判的思考を行うことが難しい分野の存在が視野から抜け落ちてしまう。いうなれば,自分の行っている批判的思考について,「一面的に」判断してしまう危険性である。批判的思考というものは,二分法的に「できる/できない」で語れるものではない。先に述べたように,誰でも必ずどこかできちんとした思考を行っていることを踏まえるならば,自分の思考を振り返る際には,「どういうときには,あるいはどういう領域では,どの程度できる/できないか」と考えるほうが,より的確に自分の思考を把握することにつながるはずである。

 「もうやっている」と考えて終わりにしてしまうことの危険性の第二のものは,これまでに述べてきたような意味での批判的思考とは似て非なるものを行っている可能性である。

 批判的思考とは似て非なるものとは,簡単にいうならば,「自分の意見を防衛するために,他人を批判すること」である。これまでに述べてきたように,批判的思考は,自分の考えも他人の考えも同様に批判の対象にする。そうすることではじめて,多面的かつ公正に考えることができ,筆者の定義でいうならば「見かけに惑わされずに本質を見抜く」ことができる(あるいはEnnisの定義でいうならば,合理的な思考が可能になる)。

 ところがこのような作業を,自分自身の思考は対象とせず,他人の思考のみを対象として行うことも可能である。たとえばそれは,自分に都合のよい証拠は重視する一方で,自分に都合の悪い証拠は軽視したり無視するような形を取る。これは,「自分の意見を守るために反対意見の問題点だけをあげつらう」ことであり,そこには「批判」は存在するものの,それは多面的でも公正でもない,自己欺瞞的な思考である。

 Paulという批判的思考研究者はこのような思考を,「弱い意味の批判的思考」(critical thinking in a weak sense)と呼び,本来的な意味での批判的思考ではないことを警告している(Paul, 1987など)。そうではない,本来的な意味での批判的思考(強い意味の批判的思考: critical thinking in a strong sense)とは,自分自身の思考の枠組みを深く問い,自分とは反対の視点や枠組みに共感しようとすることである。弱い意味の批判的思考は,自分の考えを守る形で働くため,その考えに対して強い思い入れや感情を持っている場合には,知らず知らずのうちに行われやすくなる。

 弱い意味の批判的思考は,学問研究においてだけではなく,日常でも,マスメディアの報道でも,犯罪捜査や取調べにおいても見られる。たとえばメディアの報道に関していうならば,1994年の松本サリン事件においてマスコミがもっぱら流したのは,第一通報者が犯人として疑わしいという方向性の情報であった(浅野・河野, 1996; 河野, 1995)。それは,マスコミ情報が間違っていることを考慮されることなく,一面的な批判や,その方向性に合致した情報のみが流されるという,弱い意味の批判的思考の発露であった。同じようにメディアの報道が同一方向に暴れ馬のように走り出すスタンピード現象といわれるものは,オウム報道、神戸少年A事件、ヒ素カレー事件などをはじめとして,頻繁に起きている(鳥越, 2001)。また,犯罪の捜査や取調べにおいて,弱い意味の批判的思考が行われていることは,過去に起きた冤罪(が疑われる)事件を通して知ることができる(浜田, 2004; 小田中, 1993; 日本裁判官ネットワーク, 2001など)。

 そして学問研究である。学問研究において研究者は通常,自分の仮説を検証したい(否定されたくない)という強い動機をもつ。それはもちろん必要なことで,それがなければ研究の実施に向けて,前向きかつ意欲的に取り組むことは難しいであろう。しかしそれを強く持ち続けすぎていると,自分の仮説に有利ではない証拠や,他の解釈可能性に目がいかなくなる。しかし本来は,自分にとって都合の悪い証拠は,自分の仮説の適用範囲を明確にしてくれる貴重なデータとなる。あるいは,仮説を立てた時点の自分には見えなかった条件に目を向けてくれ,更なる反省的思考へと導いてくれる。逆にそういうものに触れる機会がなければ,自分の考えが正当な適用範囲を超えていることに気づかぬまま,あるいは重要な条件があることに気づかぬまま,不適切な主張を行うことになる。これまでにそのような例があったことは,科学史上に学ぶことができる(それについては後述)。

批判的に思考するために

 本稿では,より良い研究を導くための思考として,批判的思考という概念を概説してきた。最後に,批判的思考の概念を整理するとともに,批判的に考えるためのヒントをいくつか記しておく。

 批判的思考の定義については,すでに2つのものに触れてきたが,それらをさらにまとめるならば,批判的思考とは「批判を通して思考を深めること」(道田, 2003a)ということができよう。批判というと聞こえが悪く感じる場合は,問い,疑問・吟味などと置き換えても構わない。

 よく誤解されるのだが,批判的思考という特定の思考の型(思考方法)が存在するわけではない。どのような思考であれ,そこで「批判」が重要な役割を果たし,結果としてより思考が深められたとき,それは批判的思考なのである。もちろんその場合,批判は全方位的に公正に向けられなければならない。

 特定の思考の型ではないということは,それは技能として語る前に,態度(姿勢,構え)として語られるべき存在であるということである。また,できる/できないで語られるものではなく,状況によってできたりできなかったりするものであり,終わりなく永遠に深めうるものということである。

 態度が重要であるということは,より多くの場面で批判的に考えられるようになるためには,物事を無批判に鵜呑みにしたり無思慮に決定・解決すべきではない,と思えるような状況に触れることが最も重要になってくるであろう。たとえば,理論と現実のズレに気づくことや,異なる立場の異なる意見に接することなどである。以下,そのようなことを学べる(筆者自身が学んできた)本を,何冊か紹介しておこう。

 考え方を学ぶために,考え方について書かれている本を通して学べるのは,入り口のごく一部にしかすぎないと筆者は考えるが,しかし,入り口として有用な本はいくつかある。

 まず,批判的思考そのものについて書かれた本としては,『質問力を鍛えるクリティカル・シンキング練習帳』(ブラウン & キーリー, 2004),『クリティカル進化論』(道田・宮元, 1999)がある。論理学に近い本としては,『論理トレーニング101題』(野矢, 2001),『「正しく」考える方法』(齋藤・中村, 1999)がある。論理学に収まらない議論に関する本としては,『反論の技術』(香西, 1995),『議論術速成法』(香西, 2000)がある。また,心理学的な観点から人間の誤りやすさについて書かれたものとしては,『超常現象をなぜ信じるのか』(菊池, 1998), 『人間この信じやすきもの』(ギロビッチ, 1993)がある。

 これらは先に述べたように,あくまでも入り口にしか過ぎない。最終的には,実際の論争に触れたり,自分自身がとことんまで議論する中から学べることは最も多いように思われる。しかし,そういう機会はそうそうない。そこで手助けになるのが,科学史的な本である。たとえば知能の科学的測定に関しては,『人間の測りまちがい』(グールド, 1998)に,知的な科学者が,偏見によっていかに歪んだ推論を行うことがあるかを知ることができる。

 複数の科学事件を扱ったものとしては,『七つの科学事件ファイル』(コリンズ & ピンチ, 1997)がある。同書は,一般に理解されていることとは違い,科学研究が非常に曖昧で複雑な様相を呈していることが,実際の科学事件を通して語られている。技術の問題に関して同様の発想で書かれているのが,『迷路のなかのテクノロジー』(コリンズ&ピンチ, 2001)である。ついでに並べるならば,『からくり民主主義』(高橋, 2002)は同様の発想で,社会問題の複雑さや曖昧さがルポルタージュされており,批判的思考的な観点から興味深いルポとなっている。

 他にも,批判的思考態度が結果として学べるような本は少なからずあるのだが,多くの場合,論争の一方の当事者によって執筆されており,最終的にはどちらか一方が正しくどちらか一方が間違っている,という単純な理解につながるものが少なくない。そこで,明確に両論併記されているものとして,『日本の論点』(文藝春秋編)を挙げておこう。同誌は年刊誌で毎年11月に出されているが,2005年版でいうならば,84の論点が当該分野の第一人者や論争の当事者によって,4ページでコンパクトに論じられている。そのうちの半数弱は,複数の当事者が執筆しており,ちょっとした紙上論争が演出されている。このような論争の両論に触れることにより,一方的に悪だと思っていた立場にもそれなりに理(ことわり)があり,逆に一方的に善だと思っていた立場にもそれなりの弱点があることがわかる。

 このような論争に触れ,できればその対立点を考えたり,どちらが説得力があるかを考えたり,説得力が弱く見える議論の説得力を増すにはどうしたらよいかを考えたり,両論を並存させられないかを考えたりすることは,研究を行う上での基礎体力を高めることにつながるはずである。

引用文献


みちた やすし MICHITA, Yasushi

現在の専門は思考心理学,教育心理学。大学生の思考について調査を行い,その成果を元に自分の教育を改善しようと考えているが,複雑で曖昧な大学生の思考を把握することは容易ではないことに気づきつつある。自分自身の思考を鍛えるために,日課として読書を行い,それを通して考えたことをWeb上で公開する「読書と日々の記録」を5年以上続けている。

連絡先: 〒903-0213 沖縄県中頭郡西原町字千原1番地 琉球大学教育学部

Webページ:http://www.cc.u-ryukyu.ac.jp/~michita/