道田泰司 (2006.09) 思考のパースペクティブ性に関する一考察 琉球大学教育学部紀要, 69, 95-106.

思考のパースペクティブ性に関する一考察

道田泰司*

A consideration about a perspectiveness of thinking

Yasushi MICHITA

要 約

 本稿は,批判的思考の中に含まれる重要な概念である「一面的ではないやり方で考えること」について,それがどのようにありうるのか,あるいはどのようにありえないのかについて考察することを目的とした。まず,人には枠組みが必要であり,それは疑いの対象とならないことと,他視点の取得が本来容易にできることを確認した。その上で,視点の切り替えが「内なる目」としての意識のなせる技であること,それを行わない場合や,我々の視点を権威者の視点に固定してしまう場合,無パースペクティブ的な表現を使ってしまう場合に他者不理解が生じることを見た。また,パースペクティブが身体から生まれることを確認した。最後に,パースペクティブという視点から批判的思考をどのように捉えることができるかについて考察し,批判的思考の中心にあるのが「視点」に関わる事柄であることを明らかにした。

■1.はじめに──多面的に考えることの重要性

 批判的思考の概念にはさまざまなものがあるが(e.g., 道田, 2003),多くの概念に含まれる重要な観点のひとつとして,「一面的ではないやり方で考えること」がある。

 たとえば批判的思考概念の中にこのことを明示的に示している研究者としては,Brookfield(1987)がいる。彼は批判的思考を,「自分や他人の思考や行動の底にある仮定を反省し,別の思考や生活の方法を熟考すること」と表現している。ここには,前提も含め,別の面から考えることの重要性が表現されている。

 このような非一面的な思考の重要性については,批判的思考の「態度」の一つとして表現されていることも多い。Ennis(1987)は,批判的思考の傾性(disposition)の一つとして,「開かれた心でいる」ことを挙げている。これは,自分のものとは違う視点を真剣に検討することであり,自分が受け入れない前提から推論する(受け入れないことを推論に影響させない)ことであり,証拠と理由が不十分なときは判断を保留することである。これらは要するに,自分の視点だけから見ないで,他の視点にも開かれているということである。

 同様なものとして,Paul(1995)は,批判的思考の情意次元の一つとして,「自己中心性と社会中心性についての洞察を発揮する」ことを挙げている。Facione(1990)は批判的思考の情意的傾性の一つとして,「さまざまな世界観に対して開かれた心をもっていること」「自分自身のバイアスや偏見,ステレオタイプ,自己中心性,社会中心性の傾向に直面したときの正直さ」「他人の意見の理解」を挙げている。これらはどれも,自分の考え以外のものに対して「開かれた心」でいることの重要性について述べているものであるが,これは批判的思考(特に態度)を語る上では必ずといってよいほど出てくる,重要な観点なのである。

 筆者自身も批判的思考について簡潔に述べるときには,「見かけに惑わされず,多面的にとらえて,本質を見抜くこと」と表現しており(道田, 2000),批判的思考の重要な側面の一つとして,多面的に考えることを挙げてしている(なおこの定義は,抱井(2005)によって「見かけに惑わされず,物事を多面的に捉えて,本質を求め続けること」と発展されている)。

 この表現は,三宮(1999)の記述を元にしたものである。三宮氏はこの元となった表現を,現場の教師が実感している「不足している力」「必要と痛感している力」を挙げる中で述べている。それは,(1)見かけに惑わされず問題の本質を見抜く力,(2)事象を多面的にとらえる力,(3)自分の認知を対象化する力,の3つである。ここから作ったのが上記の表現なのである。

 本稿で取り上げようとしているものは,このうちの(2)にあたる。三宮氏は,事象を多面的にとらえる力を「複数の視点から判断すること」とも表現しており,具体的には次のように述べている。

授業中のやりとりやその他の雑談の中で,現職の教師たちから,「自分たちはものの見方が狭い」という声がしばしば聞かれます。話をよく聞いてみると,ものの見方が狭くなる原因は,彼らの置かれた環境にもあることがわかってきました。/〔中略〕「教師はこうあるべき」「教育はこうあるべき」といった固定観念により,自分で規定した枠からはみ出した部分が見えにくくなってしまうことは,たいへん危険です。良い悪いの価値判断とは別に,人間をあるがままに見ること,これまでの先入観や前提を一度はずして事象をとらえなおすことが重要と思われます。立場の異なる他者と意見を交換し,多様な価値観,人生観,ものの見方,考え方に触れる機会を,そして,それらについて考える機会を,私たち心理学者は授業の場でコーディネイトすることができるのではないでしょうか。(三宮, 1999, p.170-171 強調は引用者。特に断りがない限り,以下も同様である)

 これは教師だけに限ったことではない。大学生をはじめとして,初等・中等教育においても,また社会人や家庭人においても重要なことである。だからこそ批判的思考の必要性が過去60年以上に渡って主張されているのである。

 しかし,一面的に考えないこと,すなわち,多面的に考えることや先入観や前提をはずして事象を捉えなおすことは,複雑な問題をはらんでいるのではないかと筆者は考えている。そこで本稿では,思考の多面性はどのようにありうるのか,あるいはどのようにありえないのかについて考察することを目的とする。

2.固定観念の必要性

 なぜ人は固定観念でものごとを一面的に見てしまうのか。三宮(1999)はその原因として,時間的・精神的ゆとりがないことと,交友範囲や活動範囲が狭くなりがちなことの2つを挙げている。

 これはおそらくその通りなのであろう。しかし,ではゆとりがあれば,あるいは交友範囲や活動範囲を広くすれば,固定観念がなくなるわけではない。というのは,人は何らかの固定観念がなければ何もできないからである。そのことについて,野矢(2005)は,ウィトゲンシュタインの「扉を開け閉めしたいのなら,蝶番は固定されていなければならない」という言葉を引用して,学問研究の探求に関して,以下のように述べている。

一般的に言って,探求はその探求を可能にするような枠組みをもっている。そして,その探求を続けるということはその枠組みを黙って飲み込むということだから,探求の活動の中にあってなおその枠組みを疑うことはできない。でも,だからといって探求の枠組みをなしているものが疑いえない絶対確実なものだというわけでもない。われわれはその実践の外に出て,今度は今までの枠組みを疑う新たな実践へと踏み出すこともできるわけだ。もちろん,そのときには別のことがらが枠組みになっているのだけれどね。(野矢, 2005, p.25)

 枠組みが「蝶番」として「固定」されているからこそ,それ以外の部分としての「扉」を動かす活動としての「疑い」が持てる,というわけである。ここでは,学問における「探求」の場合に関して述べられているが,もちろんこれは学問だけではない。我々が行う実践はすべてそうなのである。そのことを野矢氏は,「たとえば,サッカーをするときに「これはボールか?」とか「これはゴールか?」と疑っていたら,サッカーができない」(野矢, 2005, p.17-18)と述べている。蝶番(=固定観念=疑いの対象とならない部分)があってはじめて,我々は,認識も行動も理解も,そして疑問を呈することも可能になるのである。

 したがって,誰かの固定観念を指摘するという行為は,かならず別の固定観念を通してなされる。そのことは,上の引用の後半に書かれている通りである。とするならば,本稿のテーマである「一面的でないやり方で考えること」とは,同時に複数の観点から考える,ということではないし,固定観念をなくすことではない。蝶番を取り替えることであって,蝶番を複数つける,ということではないし,蝶番をはずすことでもない。そこには必ず何らかの固定観念があり,固定観念があるということは,疑いを免れている部分を含まざるを得ない,ということである。単純に固定観念を問題視するのではなく(三宮氏がそうしている,という意味ではない),固定観念の必要性を認識した上で,その固定観念をどう自覚しどう付き合っていくかを考える。そのことが,本稿の主題を考える上での大前提となる,と筆者は考える。

 なお,一面的ではないやり方で考えることについて,これまでいくつかの表現を用いたが,これ以降はそれらを総称して,「他視点取得」と呼ぶことにする。

3.人は容易に他視点を取得できる

 他視点取得を考える上で重要と筆者が考えることには,もう一つある。それは,前節とは逆で,「人は容易に他視点を取得できる」ということである。

 そのことについて,浜田(1999)の議論を参考に考えていこう。浜田氏は,人が写真を見ることは,撮影者の視点に入り込むことだと指摘する。たとえば撮影者やカメラのレンズを見つめている被写体を写真に撮るとする。そこで撮られた写真は,撮影者の視点から切り取られた世界であり,その写真を見る人は,その被写体に「見つめられている」と感じるであろう。それは,撮影者の視点に入り込んで見ているからである。同じことは,小説や随筆を読むときにもいえる。作者は作者なりに何らかの視点を置いて世界を描写する。それを読むときに読者はその視点に自然に入り込んで読み,その視点に立って書かれている世界を理解する。いずれの場合も,われわれは容易に,他人の視点に立って写真を見,文章を理解しているといえる。

 文章に書かれた言葉だけではない。日常生活の中で他者の言葉を聞き,他者の感情を観察し,ことばを交わす。そのときも,我々は当たり前のように,相手の位置に入り込み,その視点で理解しているのである。一例として,浜田氏は次のような状況をあげている。

風邪を引いたらしく悪寒がする。そのことを告げると,そばにいた妻が額に手を当てて,「まあ熱い。ひどい熱よ」と言う。このとき私にとっては妻の手がひんやり冷たく感じられるのだが,もちろんここで妻の「まあ,熱い」ということばを誤解したりはしない。「熱い」というのは,妻にとって熱いのだと,ただちに理解する。思えば不思議なことだが,ことばを聞いたとたんに,私たちはそれを声の主のことばとして,そのパースペクティブのもとにそれを理解するようになっているのである。/相手が「私は……」と語りだすようなときもそうである。そこで言う「私」を,私自身の「私」と誤解したりはしない。相手がそう切り出したとき,それがその当の相手自身にとっての「私」なのだということを,私たちは難なく理解する。同じように相手が私に向かって「あなた」と言ったとき,その「あなた」が相手にとっての「あなた」,つまり私のことであることを,迷うことなくただちに理解する。/〔中略〕ことばの宇宙というものがあるとすれば,そこにはその語る主体のパースペクティブがしっかり貫かれているのである。(浜田, 1999, p.43)

 上に引用したように,このパースペクティブ(視点)の置換を,我々は会話の中で自然に行っている。誰もがごく自然に行っていることなので,改めて「パースペクティブの置換」などといわれると,かえって戸惑うかもしれない。しかし我々が自然にそうしていることは,パースペクティブの置換を行っていない例と対比すると明らかになる。

 浜田氏は,パースペクティブの置換を行っていない例として,自閉症児がストーブに手をかざして「冷たい」と言っている例を紹介している。変な言い方に聞こえるが,パースペクティブの置換を行っていないと理解すると,これはきわめて一貫した表現である。というのはこの子は以前,手が冷たいときに,先生が手を握って「冷たい」と言ったことがあるのだそうで,この発言はその経験が元になっていると考えられるのである。この子にしてみればこれは,(先生に手を握られて)自分の手が暖かくなる,という経験である。そしてストーブに手をかざしている状況も同じく,自分の手が暖かくなる,という経験である。そこで,かつて先生(他者)が言った表現(「冷たい」)を,同じように自分も使っただけだ,と理解できる。自分から見て「暖かい」ときに相手から見ると「冷たい」というようなパースペクティブの置換が行われていない点を除くなら,両場面での発話のあり方は一貫している。

 このような一貫性の持たせ方は,いつでも不適切なわけではない。こうすることが自然な場合もある。私でもあなたでもない第三のものに対して,私とあなたが会話するときがそうである。犬を見て誰かが「イヌ」と言った。だから自分も犬を見たときに同じように「イヌ」と言う,というように。私から見た対象とあなたから見た対象が同じものであり,パースペクティブの置換が生じない場面だからである。これを,自分と相手の関係の中での発話に適用してしまうと,とたんに不自然になるのである。

 これらの例を考え合わせるならば,我々が他者の言葉を理解するときに,必要に応じて臨機応変に視点を切り替えながら理解していることがわかる。それに加えて,そのことが,改めていわれると(人によっては)違和感を抱くぐらいに自然なことであることも確認できるであろう。このことは,見るとき,読むとき,聞くときだけではなく,他者の行為の「模倣」をする場合も同じであるし,「記憶」においても同じである(浜田, 2002b)。そして,本稿の主題である,思考においても同じと考えられる。いずれの場合も,浜田氏がいうように,「私たちは,生身の身体で生きているこの生活世界において,周囲の他者,その他者たちのあいだのやりとりに,しじゅう自分の視点を重ね,その他者のパースペクティブを生きようとしている」(浜田, 1999, p.51)のである。

4.意識による視点の切り替え

 ここまでに確認したように,人は,枠組みを持たなければ認識も疑問ももてず,実践を行うことはできないが,しかし視点の切り替えは,多くの場面でごく自然に行っている。そのことを認識することが,他視点取得を考える第一歩である。

 それらを踏まえたうえで,視点が容易に切り替わる場合と容易には切り替わらない場合があるのはなぜなのかを明らかにすることが,必要なときに人の他視点取得を促進する一助となるであろう。このことを考える上で参考になるのが,『内なる目』(ハンフリー, 1993)の議論である。ハンフリーは,視点の切り替えは「意識」のなせる業だと考えている。ハンフリーが考える意識とは,自分自身や他人の内側からの理解を可能にすることであり,ハンフリーはそれを,「内なる目」と表現している。自分を内側から理解することを可能にしたのが「意識」であり,それを用いて,他人をも内側から理解可能になった,というわけである。他人を内側から理解することがすなわち,浜田氏のいう「他者のパースペクティブを生きる」,すなわち他視点取得である。

 ハンフリーは他人を内側から理解することを,中に入ったことのない家を外から理解することになぞらえている。たとえば煙突から煙が出ている家を見れば,自分の家での経験から,それが暖炉の火であることを推測できる。それと同じように我々は,自分の内面における経験を通して,他人の内面を推測し理解することができる。それが意識の働きであり,人間を他の動物とは異なるものにした原動力といえるのである。

 ここまでの話は,先に述べたように,「我々がいかに容易に他視点取得が可能か」について,「意識」を用いて説明したものである。では,他視点取得ができない状況をハンフリーはどのように説明するのか。以下のくだりの前半でハンフリーは,意識による他者理解を論じたうえで,後半で他者理解の拒否について述べている。

他人の内的世界は外からの目では見ることができない。誰か他人の心に到達するには,私たちの側の想像力の働きを必要とする。私たちは天性の心理学者として,他人がどう感じるかを「嗅ぎ分け」,もし自分が彼らの立場だったらどう感じるだろうかを基盤にしてそれを構築しなければならない。人類が得意なのは(あるいはそうあるべきなのは)他人をタイプの異なる自分達の同類として想像するこの能力である。しかし,私たちの他者理解がこの想像力による再構成という仲介的なはたらきを必要とするというまさにその事実が,誤りの余地を作り出す。なぜなら,他者への洞察は潜在的に,人類に対する必然ではなく,オプション(選択できるもの)となるからである。そして人間はそれを拒否することもある。(ハンフリー, 1993, p.181)

 すなわち,「内なる目」を選択的に使用することで,他者理解と他者「不」理解が生まれるというのである。このことについてハンフリーは,「意識は最初の人間の家族を,最初の友情をつくり,シェイクスピアやディケンズを生み,……そして海軍新兵訓練所(ブート・キャンプ),マディソン街,ヴァチカン公会議,そしてKGBをつくったのだ」(ハンフリー, 1993, p.204)とも述べている。意識には他者理解と他者不理解の両方を生み出す両面性をもっている,ということである。そのことを,ここに書かれているもののうちの「シェイクスピア」と「海軍新兵訓練所」で説明しよう。

 シェイクスピアやディケンズとは,要するに芸術のことである。他人の内面の理解は,基本的には「感情移入」によって行われる。感情移入が可能になるためには,自分にも同じ経験がなければならない。では自分で経験したことがないことはまったく理解できないかというと,そうではない。それと関わる代理経験があれば,理解は可能である。そのような理解を助けるものとしてハンフリーは,遊び,夢,書物,芝居,音楽,絵画,映画を挙げている。つまり芸術(これ自体も意識の産物なのだが)は,意識がうまく機能することを助けるものなのである。

 一方,「海軍新兵訓練所」では,他人の内面を理解せず,平気で非道行為を行える兵士がつくられる。どうしてそういうことが起きるか。それは,他視点取得しなくてもよい状況作りをするからである。たとえば,非道行為を「私」のものであるという想像をやめる。あるいは,それは「私の行為」ではない,非道行為に伴う「感情」を起こさせない,相手が自分と同じような存在ではない。このように,それが「私の行為」として「あなた」に行う,という想像をやめてしまえるような状況をつくればいいのである。そのための方策は,上官が与える罵倒と恥辱による「私という感覚の破壊」であり,自己決定の権利の剥奪であり,人間的な感情ではなく負の感情を伝える語彙を使わせることであり,相手が自分たちと違う劣等な人間というレッテルを貼ることである。そうすれば,相手を理解し感情移入することなく,機械的に他人に非道なことを行うことが可能になる。このように,我々の他者不理解も意識あるがゆえのことなのである。

 戦争行為だけの話ではない。医者や弁護士やジャーナリストや警察などがときとして他人をぞんざいに扱うことができるのも,まったく同じ理由であるとハンフリーは考えている。ハンフリーは具体例は挙げてはないが,医者に関していうと,患者を「人間」扱いしない結果として医療事故が起きていることが少なくない。日本の例でいうと,患者の顔をろくに見ないで中絶手術を行った結果,出産を楽しみにしていた妊婦の胎児を中絶してしまうという事故が1987年に福島で起きている。これは,患者の名前がその地方ではポピュラーなものであるにも関わらず,名前をフルネームで呼ばなかったり,最終的な意思確認を怠ったという初歩的なエラーによるものである。あるいは,医者が薬の説明書を読まずに投薬指示し,必要量の何倍もの薬が投与されて患者が亡くなったという事件が2000年に埼玉で起きている。そのときはそれだけでなく,主治医はミスを隠蔽し虚偽の診断書を作成しているのである。それ以外にも,患者を取り違えた点滴や輸血,点滴チューブに消毒液を誤注入,チューブはずれ,薬剤やスイッチの入れ忘れその他の操作ミス,誤診など,医療事故の例は枚挙にいとまがない(毎日新聞医療問題取材班, 2003; 和田, 2001; 山内・山内, 2000)。

 毎日新聞医療問題取材班(2003)では,ある医療事故で娘を奪われた父親が担当医に言った言葉,「先生は患者を人間として見ていない。自分の治療の対象物としてしか見ていない。心臓を見ただけでしょ。それはもう医者じゃないですよ」(p.19)が紹介されている。また和田(2001)は,ある医療事故の記録を検証した結果,「信じられないくらい,医療者と患者の関係が希薄」で,「現代の大病院は機械化され,細分化されて,まるで工場のようだというのが率直な感想」(p.20)と述べている。関係の希薄さは,相手を自分と同じ人間(ハンフリーのいう「タイプの異なる自分達の同類」)として扱わなくてもよい関係しか作り出さないであろう。

 法曹関係者に関していうと,日本では,裁判官が被告の様子などを見ることなく,過去の判例から被害者数などを元に機械的に量刑を決める(量刑相場)ことが少なからず行われているそうである(門田, 2003; もっともそういう人ばかりではないことは読売新聞社会部(2002)で報告されている)。あるいは,常識的にありえないのではないかと思われる事実認定がなされていることもある(浜田, 2002b)。これらの背景には,担当しなければならない訴訟の数があまりにも多いために,最初は訴訟当事者の個別事情をきちんと理解しようという情熱をもった裁判官であっても,次第に訴訟当事者が,単に仕事を運んでくるロボットのように思えてくるという事情もあるようである(門田, 2003)。なお,ジャーナリストと警察の例は,道田(2005)で挙げている。

 なお,認知考古学者のミズン(1998)は,意識に対するハンフリーの議論を支持しながら論を進めているが,今までの議論と関係する点として,差別的態度に対する彼の議論を少し紹介しておこう。彼は考古学的な資料に基づき,人の知性の進化を3つの時期に分けて論じている。第1期は一般知能の時期であり,学習及び意思決定について汎用の規則を用いることで知的に振る舞う。第2期は特化した知能の時期で,社会的知能・博物的知能・技術的知能・言語的知能が別個に働いている。第3期は認知的流動性の時期で,特化した知能によって生成された思考と知識は心の中を自由に流れることができる。人種差別的態度は,このうちの第3期の認知的流動性の産物である,とミズンは論じている。社会的知能と技術的知能を統合することで,他者を,物理的操作の対象とみなすということなのである。そのことについてミズンは,「事実それは,相手は心などまったくもっていないのだからどのように扱っても構わないという態度」(ミズン, 1998, p.261)と述べている。人種差別ではないが,上で述べてきたことは,まさにそのような態度の表れとして理解できるであろう。

5.権威への服従に基づく他者不理解

 先に見たように,他者不理解の背景にあるのは他者への洞察の拒否とハンフリーは考えているわけであるが,しかしこれは,オプション以外の考え方も可能なのではないだろうか。他者への想像を止めているのではなく,非道行為を命じる「上官のパースペクティブ」から相手を見ている,という可能性である。そのことを,『服従の心理』(ミルグラム, 1995)の実験から考えていこう。まずは実験の概要から述べておく。

 同書で行われている実験は「アイヒマン実験」と呼ばれており,簡単にいうと,人がいかに権威の命令に服従して,生徒役である見知らぬ他者に教師役として電気ショックを与えることができるかを明らかにした実験である。ミルグラムは,少しずつ条件を変えた実験を積み重ねることで,非常に巧みに他の解釈可能性を消去しつつ,個人の道徳感覚が及ぼす力は,社会的神話にもとづいてわれわれが信じているほどには効力がないことを示している。さらにミルグラムは,被験者の行動観察を詳細に行っていたり,実験終了後に面接をしたり,被験者と議論をすることによって,数字だけではわからない側面も明らかにしている。

 この実験から,人が権威に服従したときに起きていることは「道徳心の消滅」ではない,とミルグラムは論じる。被験者は,権威に命じられた行為の「内容」については責任を感じなくなっているが,権威に対しては責任を感じており,実験に誠心誠意,最善を尽くしている。あるいは,手順に夢中になり,作業を正確にこなそうとすることによって,有能な仕事ぶりを示そうとしている。もちろんこれは人によって差があるし,同時に葛藤を感じている人も多い。しかし,葛藤を感じながらも,2/3の被験者が,実験者の命令に従ってしまうのである。

 服従が起きたとき,人はどのように変化しているのか。ミルグラムはその変化として,場面の意味の再定義,自己像との切り離しなどを挙げているが,第一に挙げているのは,「チャンネル合わせ」である。それは次のように述べられている。

被験者のうちに,いわばチャンネル合わせのような現象が起こる。権威からの放送に対しては最大限の受信力をもち,一方,生徒からの信号はチャンネルを切られ,心理的に遠ざけられる。この現象を疑う者は,ヒエラルキー構造のなかに組入れられた人たちの行動を観察するとよい。会社の会議でもよい。部下は社長の発言を一言半句も聞きもらすまいと耳をとぎすまして傾聴する。はじめに地位の低い者がアイディアを出しても,聞き逃されがちだが,社長が同じアイディアをくり返すと,熱狂的に歓迎される。/これは何も特別な悪意があってのことではない。権威に対する自然な反応なのである。〔中略〕多くの被験者にとって,生徒は,実験者との良好な関係の邪魔をする不愉快な雑音に過ぎなくなる。慈悲を乞う生徒の願いは,被験者がその場面の情緒的中心人物の好意を得るためにやらなければならないと決まっていることに難癖をつけるという意味しかもたない。(ミルグラム, 1995, p.191-192)

 ここに見られるのは,権威者の視点を重視して生徒役の視点を無視し,そのことによって電気ショックを与えることが容易になる,という状況である。なおミルグラムは,服従時には「場面の意味の再定義」がなされることについて論じる中で,パースペクティブという語を用いている。あらゆる場面において,その場面の意味が社会的に定義されており,「それが提示するパースペクティブによって,場面の諸要素が一貫性を得る。同じ行為が,あるパースペクティブから見れば極悪非道に見え,別のパースペクティブから見れば完全に正当と見えるかもしれない」(p.192)という使い方である。服従時,人は権威の提示する定義を受け入れる。それは,その行為が正当であると見えるようなパースペクティブ,すなわち権威者のパースペクティブを受け入れている,ということになるであろう。このようにパースペクティブによって,場面の意味が定義されるのである。

6.無責任の構造を生むパースペクティブ

 服従はもちろん実験の中だけではなく,日常の至るところに見られる。そのことについて,『無責任の構造』(岡本, 2000)の議論を元に考えていこう。まずは同書における岡本氏の概要を押さえておく。

 同書でいう無責任の構造とは,「盲目的な同調や服従が心理的な規範となり,良心的に問題を感じる人たちの声を圧殺し,声を上げる人たちを排除していく構造」(p.4)のことである。岡本氏は1999年に起きた「JCO核燃料臨界事故」を事例として取り上げ,組織のもつ「無責任の構造」を明らかにし,その対処法を論じている。この事故が事例として取り上げられたのは,これが日本の企業社会が現在直面している問題の一つの雛型をなしていると考えられるからである。岡本氏は政府の事故調査委員の一人であり,事故が起こるまでに,何年もの違反の積み重ねとエスカレートがあった様子が,同書で詳細に描かれている。

 人や組織が,同調や服従を経て無責任になっていく過程には,さまざまな要因が関与するが,その根本にあるのは,「権威主義」であると岡本氏は考える。権威主義の中でも,日本でよく見られるのは,ものごとを上下関係や慣行で決める,というやり方である。これを岡本氏は「属人主義」的意志決定,名付けている。

 これらをパースペクティブ(視点)という観点から捉えるとどうなるであろうか。ものごとを上下関係や慣行で決めることとは,自分の視点を,上に立つ人間や過去に行ってきた人のパースペクティブにゆだねることと理解できる。岡本氏のいう「無責任の構造」の根幹にあるのは,「盲目的な同調や服従を心理的な規範とすること」である。すなわち,周囲(=同調)や上司(=服従)のパースペクティブを枠組みとして物事を判断し行動することである。いずれの場合も,他者視点取得をしていないのではない。上司や周囲や過去の視点を取得しなければ,服従も同調も慣行への追従も起きないと考えられる。

 岡本氏は,属人主義の反対の概念として「属事主義」を提唱している。これも岡本氏の造語なのであるが,ことがらの是非を基本としてものを考えることである。しかし,属人主義が当たり前となっているシステムの中で,無責任に陥らずに属事主義を貫くことは大変なことである。そこで岡本氏は,属人主義と折り合いをつけながら属事主義を貫く方法をいくつか提案している。たとえば個人的な戦略としては,幅広い領域の読書をするなどして自分自身の認知的複雑性を高く保つことなどを挙げている。組織的にできる方策としては,社運を左右するような提案について検討するとき,提案者とは別に,その提案に反対する理由を見つける役割をするチームをわざわざ別箇に作る,などという方法を挙げている。

 ここに挙げられている戦略をパースペクティブという観点でみるならば,その根底で共通しているのは,組織外のパースペクティブの存在を常に忘れないようにすることであろう。無責任の構造を作り出すのも,それを打破するのも,結局は他視点取得のあり方一つということができよう。

7.文字の無パースペクティブ性

 我々が他者に対するパースペクティブ性を拒否し,あるいは特定の他者のパースペクティブを無視するのは,権威に服従するときや,周囲に同調するときだけではない。浜田(2005)は,ある種の文章スタイルで表現することによってもそのようなことが起こりうることを示唆している。

 ある種の文章とは,人称代名詞を使わないスタイルの文章である。それは,裁判官が判決文として書く文章であり,新聞記者が報道記事として書く文章であり,あるいは,研究者が学術論文で書く文章である。いずれも,内容に客観性を付与するために,人称代名詞を使わずに文章がつづられる。しかしその結果として,本来あったはずのパースペクティブが見えなくなってしまう,という問題が生じてくる。そのことを浜田氏は次のように書いている。

裁判官の文章は,対象と同じ地平に立つことを基本的に拒絶するスタイルで書かれています。/〔中略〕新聞の報道記事のスタイルも,裁判官の文章のスタイルと似ているかもしれません。新聞記事に私という主語はほとんどあり得ませんし,通常は人称代名詞を使う場所であっても,あえて固有名詞を使おうとする態度が貫かれています。/そこでは,私と地続きでなくすことによって見えてくるものが強調され,私と地続きであることによって見えてくるものは捨象されます。それが裁判官の文章や新聞記事の一番の問題なのです。/人称代名詞は,それをはずすと,話者ないしは筆者のパースペクティブ性が消えるという特性をもっています。代名詞は視点の転換を前提にことばとして成り立つのですから,これは当然の話です。/従って,人称代名詞がない文章では,どこから見ているのか,近くで見ているのか,遠くで見ているのかという区別がなく,近くで起きていることも,遠くで起きていることも,まったく同じことになってしまいます。(浜田, 2005, p.147-148)

 そのようにしてつづられた文章が元で,視点がずれているのに気づかないままでいると,問題が生じることがある。浜田氏は,冤罪が生じるのはそういうときだと論じている。たとえば複数の人が関わる事件で,一方の言い分だけが認められてそのパースペクティブだけが肥大すると,他方のパースペクティブが見えなくなってしまう。さらにそれを文字にすることで,パースペクティブが「固着」してしまう。固定化されてしまうのである。

 では,このようにパースペクティブを取り去った,あるいは一方のパースペクティブだけが強調されたような形で文字化する弊害を取り除くにはどうすればよいのか。一つには,複数のパースペクティブを重視したやり方で文字化することであろう。あるいは書く人が,自分のパースペクティブにもっと自覚的になり,自分の視点を明示して文章化することも可能であろう。しかし浜田氏は,別の解決策を提案している。それは,当事者同士でもっと直接的なコミュニケーションをすることである。語り合うことで,一方の固着した視点をほぐすことができる。「語りことばは身体から出てくるわけですから,パースペクティブの交換がしやすい」(浜田, 2005, p.155)からである。

 文字は,本来消え行く「ことば」を空間的・時間的にとどめる役割を果たす。その結果として生まれてくるのは,文字のない文化とは全く異なる別の文化であることは,オング(1991)が論じている通りである(道田, 2006)。浜田氏のこの提案を文字の文化と声の文化という視点で考えるならば,文字の文化に偏りすぎることで生じる弊害を,声の文化の世界に戻すことで緩和する,と理解することができる。

8.身体とパースペクティブ

 これまでに述べてきたことをまとめるならば以下のようになるであろうか。人は枠組みの中に生きながらも,自分のパースペクティブを他者のパースペクティブに重ね,他人を内側から理解することができる。ただしそれは想像によってなされるがゆえに,それを拒否することもできるし,特定のパースペクティブのみを重視して別のパースペクティブを無視することもある。すなわち,人の他者視点取得は,容易でありかつ困難という両面性をもっているのである。この両面性をハンフリーは,意識(=内なる目)によって説明している。それは先史時代の人類や他の動物と比較して出てきた結論であり,一面の真実であろう。

 これに対して浜田(1999, 2002aなど)は,人間の発達を通して考察する中で,「身体」をもつことの重要性に着目して論じている。そのことは,3節で引用した「私たちは,生身の身体で生きているこの生活世界において,周囲の他者,その他者たちのあいだのやりとりに,しじゅう自分の視点を重ね,その他者のパースペクティブを生きようとしている」(浜田, 1999, p.51)の中にも現れている。そのことをもう少し詳しく説明している記述としては,次のものがある。

世の中の音を聞くのも,この自分の耳をとおしてのことであるし,世の中のものに触れるのも,この自分の手をとおしてのことである。あるいは目の前でもがき苦しんでいる人を見て,その苦しみが我がことのように如実に感じられても,それでもその苦しみをそのまま自分の身体に引き受けることはできない。私たちはこの身体の位置から,この身体をとおして世界を体験しているのである。/いくら脱中心化しても,自分の身体の位置からこの世の中を生きる以外にないという自己中心性は,どこまでいっても残る。身体をもつということは,そもそもそういうことなのである。これを私は本源的自己中心性と呼ぶことにしたい。身体は個々それぞれ,それゆえ個々人はそれぞれの身体の位置からこの世の中を生きる以外にはない。それは発達によって乗り越えられるようなものではないのである。(浜田, 1999, p.101)

 脱中心化とは発達心理学者ピアジェの用語で,自己中心性から脱することである。幼児が自己中心的な視点でものを見るが,それが次第に脱中心化されることは,ピアジェの研究でも示されているが,そのような例を出さずとも,人が自然に他者の視点を取ることは,3節で見たとおりである。しかし人は,発達に伴ってあらゆる自己中心性から完全に抜け出すことができるわけではない。それは浜田氏が論じているように,人は自分の身体で自分の視点をしか生きることができないからである。ハンフリーの例えでいうならば,他人の家の中に実際に住むことができるわけではなく,想像するしかないからである。その想像のもととなるのは,自分の身体をとおした経験でしかありえない。それが本源的自己中心性ということであろう。そしてその本源的自己中心性は,感覚運動のレベルだけではなく,「思考や概念のレベルにおいても同じ」,と浜田(1999, p.102)は論じている。

 さらにいうならば,我々が他人の内部を推測できるのも,他人は他人でその人の身体をもって生きているからである。その身体は私の身体と基本的に同型であり,同じような動きをし,同じような反応をする。だからそこに自分の内的経験を重ねることができるのである。もちろんそれは,自分と同型でなければならない,ということではない。自分と他人とでは,どこかしら必ず異なる部分は存在する。しかしそれを,その人なりに同型とみなしたときに,同型性に基づく内部の推測が行われるのであろう。

9.批判的思考とパースペクティブ

 以上,本稿では何人かの論者の知恵を借りながら,他視点取得がどのようにありえるかについて考察してきた。ここでこの問題をさらに,批判的思考に焦点を当てて掘り下げてみたい。その前に,これまでの考察から批判的思考を考える上での前提となるであろう事柄を二点確認しておく。

 一点目は,無視点での思考はありえないということである。なぜならば我々は,自分の身体をもち,その位置から思考しているからである。もっとも,文章で表記する際にパースペクティブ性を消し去ることはできる。人称代名詞を用いず,客観性を装って。しかしその記述にも,根底には特定の視点が張り付いている。たとえば「科学」が記述する世界は,科学という視点から現実を投影した結果として得られた一つの像に過ぎない。現実の奥底に隠された真実を客観的に,つまり無視点的に明らかにする過程ではないのである。同じ現実を別の視点から投影することはもちろん可能であり,その場合には別の像が得られるはずである(還元主義による科学がこのような性質を持つことは,フランクル(2002)も論じている)。その場合に採用されている視点は通常,疑いの対象からはずされている。批判的思考もそうでない思考も含め,あらゆる思考は,ある枠組みを無前提に是とする上で成り立っている。その際の視点は一つである。視「点」とはあくまでも一つだからである。同時に複数の視点を取ることもできない。ということは,ある事柄について複数の視点から検討したとしても,検討する視点は一つであるし,最終的に得られる視点も一つである。

 二点目は,我々は完全に他人の視点を取ることもできないということである。それは本源的自己中心性の考察で,浜田氏が指摘する通りである。

 以上のことを踏まえた上で,批判的思考や無批判的思考について考えるとどうなるであろうか。我々が常にひとつの視点を取るという点からするならば,「無批判的思考」とは,ある人の考えに内包される視点に無批判に入り込み,それを自分の視点として受容し,その地点から物事を考えることといえるであろう。この場合の「ある人の考え」とは,他人の思考(特に権威者の思考)だけではなく,自分の思考も含まれる。自分が直観的に感じたことを無批判に思考の枠組みとし,すべてその枠組みに沿って物事を解釈するとしたら,それもひとつの視点をとることに無自覚であることに由来する無批判的思考という点では,他人の考えに盲従する場合と同様といえるであろう。

 では「批判的思考」はどうであろう。批判的思考の概念にはさまざまなものがあるが(道田, 2003),大きく分けると,よい思考を論理的思考に還元可能なものと考える「論理主義」と,それ以外のものも含めようとする「第二波」にわけられる。このうち,論理主義とは,「論理」というパースペクティブから思考のよしあしを評価しよう,という視点である。ここで確認すべきことは,「論理」というひとつの視点が枠組みとして用いられている,ということである。論理という視点を受け入れることによって,無自覚に受け入れている自分や他人の直感的な思考の枠から意識的に離れることができる。ただし論理主義は,論理という視点以外の視点を考えておらず,それ以外の視点に開かれてはいないという意味で、単眼視的な思考といえる。Paulはこれを,単一論理的(monological)と呼んでいる。

 では論理以外にどのような視点がありうるのか。合理性に複数の種類があるし(道田, 2002など)や,論理的な思考のみをよい思考の基準とは考えない文化がある(道田, 2006)。その具体的な中身はここでは詳細には検討しないが,一見不合理に見える相手の視点に内在する合理性を見出す,という思考もありうるであろうし,自分の視点と相手の視点を統合してさらに上位の視点にする,という思考もありうるであろうし,さらに第三者の視点をそこに絡ませる,という思考もありうるであろうし,論理以外の基準で複数の視点間の優劣を決定する,ということもありうるであろう。これらは,無自覚に受け入れている自分や他人の直感的な思考の枠から意識的に離れるという点では論理主義と同じであるが,しかし,どのような視点を採用するかは,必要に応じてその場その場で問い,相手や状況や自分と対話し,考え続けていくという点で,論理主義とは異なっている。

 第二波的な批判的思考を考える上で,重要な概念の一つは,Paul(1995など)のいう「強い意味/弱い意味の批判的思考」である。弱い意味の批判的思考とは,「特定の個人や集団の興味にかなうよう訓練され,関連する他の人やグループを排除する」ような思考である(Paul, 1992, p.9-19)。すなわち,自分の視点を擁護する自己防衛的な思考である。それは,批判的思考モドキであって本当の意味での批判的思考ではない。これに対する「強い意味の批判的思考」が,「公正」な,本当の意味での批判的思考である。もう少し詳しくいうならば,(1)自分の視点があくまでも一つの視点に過ぎないことに気づいており,(2)他者の視点に身を置いてそれを共感的に理解し,(3)たとえ自分の考えを否定することになるとしても両者を同じ規準で評価することである(道田, 2005)。3番目に出てくる「規準」とは,「信仰・思惟・評価・行為などの則るべき範例・規則」(広辞苑第4版)のことである。これは本稿でいう「視点」とほぼ同義であろう。そのように考えるならば,強い意味の批判的思考においてもっとも重要なのは,「視点」といえるのではないだろうか。すなわち,自分の視点に自覚的になり,視点を動かしてみることができ,その状況に最善の視点を取ることができるのが批判的思考,ということである。

 以上のように考えたとき,批判的思考に関して,極めて重大な帰結が得られるように思われる。それは,批判的思考において重要なことは,いかに「批判」をするか,ということではない,ということである。確かに「無批判的思考」と「無批判的思考ではないもの」を分けるのは,批判の有無である。しかし「批判」という観点だけで批判的思考を見てしまうと,弱い意味の批判的思考と強い意味の批判的思考を区別できない。いずれにも「批判」は存在するからである(表1)。

 批判的思考ではないもの(無批判的思考と弱い意味の批判的思考)と批判的思考(論理主義と第二波)を区別するものは,視点に対する態度の違いである。いかに強烈に批判を行ったとしても,それが自分の視点を擁護する自己防衛的な批判にしかなっておらず,しかもそれが自己防衛的批判であることに無自覚になされる批判は,弱い意味の批判的思考でしかない。批判的思考とはそうではなく,第一に,自分の視点が一つの視点に過ぎず,他の視点がありうることを,明確に自覚することである。その上で,他の視点を実際に取ることができることである。この点が,批判的思考を考える上で最も重要な視点といえるであろう。

 この場合に取りうる視点として,もっぱら「論理」を用いるのが論理主義である。それに対して,それ以外の視点をも考えようとするのが第二波である。いずれにせよ,無意識的に用いていた自分の視点を自覚し,視点を他に動かしてみることができ,最終的には,その状況でもっとも適切な視点が何かを決めたり,作り出したりすることができる。批判的思考とはこのように,視点と関わる一連の態度であり行為と考えることができる。ここで留意すべきことは,そこで採用された視点が,時間の経過や慣れなどとともに,無自覚なものになってしまったら,それは弱い意味の批判的思考に堕してしまうということである。その意味で批判的思考とは,自視点に対する自覚を常に要求する,ある意味不自然な思考ということができるのではないだろうか(批判的思考が,なめらかな日常とは異なる「ごつごつ」したものであることに関しては,道田(2004)参照)。

 批判的思考をこのように捉えたとき,批判的思考の教育がどのようにありうるのかについては,今後の検討課題である。

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