道田泰司 2000.11 批判的思考研究からメディア・リテラシーへの提言 コンピュータ&エデュケーション, , 18-23.

批判的思考研究からメディア・リテラシーへの提言

琉球大学教育学部 道田 泰司

<概要>

 本稿では、批判的思考とは何かを概説し、「質問書」を用いて批判的思考態度を育成する実践を紹介した。学生の自己評価によると、おおむね授業や教科書の情報を批判的に吟味する態度を養うことはできた。しかし一方で、「教師の言うことは肯定しなければならない」という態度を持っていると考えられる学生もいた。このような認識の枠組みは変わりにくいものであることを念頭においた教育が必要であることが考察され、最後にメディアと批判的思考の関わりについて論じた。

キーワード:批判的思考、態度、質問書方式、認識の枠組み、メディア・リテラシー

Some Suggestions from Critical Thinking Study to Media Literacy

Yasushi MICHITA

Abstract

This article gives an outline of the concept "critical thinking" and introduces the auther's practice which develops students' critical thinking attitude using questionnaire technique. Seen from students' self-evaluation, they almost could develop an attitude to examine infomation of the course or textbook. But some students had an attitude that they should obey teacher's words. It is suggested that we must educate students with the recognition that such frame of recognition is difficult to change. The relation between media literacy and critical thinking is also discussed.

Key Words: critical thinking, attitude, questionnaire technique, frame of recognition, media literacy

1.はじめに

 大学生を対象として、次のようなデータを取ったことがある[1]。まず、論理的に問題のある推論が含まれている文章を、それと知らせずに読ませる。そして、文章に対して自由に意見を述べさせる、という調査である。使った文章は複数あったが、どちらかというと受け入れられやすそうな結論を持つ「もっともらしい」文章もあれば、結論があまり受け入れられなさそうな「あやしげな」文章もあった。これらはどれも、一般書として売られている本から抜粋したものである。なお、論理的な問題点は、実はどの文章も前後論法[2]という、同じタイプの不十分な論法であった。調査の結果、結論が「もっともらしい」文章は肯定するものが多く、逆に結論が「あやしげな」文章は肯定しないものが多かった。論理的な問題点は同一なのにである。「あやしげな」文章を批判する場合でも、学生の半数近くが、文章の論理とは関係なく、単に自分の考えを述べているだけであった。どうやら大学生は、文章を読むときに批判的に読む構え(批判的態度)や論理的思考をあまり働かせていないようである。つまり大学生は、批判的思考(critical thinking)が苦手であると考えられる。

 今回の特集のテーマは「メディアリテラシー」である。一般的にメディアリテラシー教育では、テレビ、新聞、あるいはネットワークの情報などがターゲットになることが多い。しかし、先の調査で扱ったような、本に書いてある情報をどのように受け取るかも、活字メディアに対するメディアリテラシーということができる。本稿では、筆者が関わってきた批判的思考研究・教育を中心に、情報を批判的に吟味する力の育成について考えてみたい。

2.批判的思考とは何か

 先の大学生に足りなかった批判的思考とは何か。批判的思考の定義は研究者によってさまざまであり、また、研究者の定義は抽象的であることが多い。本稿では批判的思考を、とりあえず平易に「見かけに惑わされず、多面的にとらえて、本質を見抜くこと」[3]と定義し、批判的思考の概念図式(Figure 1)を用いて批判的思考とは何かを概説する。

 図に見られるように批判的思考は、態度、技術、知識の3成分に分けられる。その中で最初に必要なのは批判的な態度、すなわち、見かけに惑わされずに、ものごとに疑いを持つことである。このような態度を筆者は、自分で餌(=情報)を能動的に探して吟味するという意味で「狩猟思考」と呼んでいる[4]。その対極にあるのは、親(=権威者)から与えられた餌をすべて正しいものとして受動的に受け入れる「ひな鳥思考」である。先の大学生が「もっともらしい」文章の問題点を見過ごしたということは、狩猟思考するという態度が欠けていたのであろう。

 批判的思考の中核をなすのは「技術」である。技術には、他の可能性が考えられないかを柔軟かつ多面的に考える創造的思考と、論理的・合理的に考えて本質を見抜くという2つの側面がある。先の大学生の多くは「あやしげな」文章に対して、何らかの批判は行っていた。つまり文章を無批判的な態度で受け入れたわけではない。しかし論理的な問題点を指摘することなく、「あやしげだから」という理由で否定している。これは、批判的思考の「技術」が欠けていたか、利用できなかったからであろう。論理ではなく、文章のもっともらしさや、自分の考えと一致しているかどうかだけに着目して批判を行ったのである。このような読み方でも、日常的には問題ない場合が多いかもしれない。しかしそれでは、ある考えを何らかの理由で受け入れたら受け入れっぱなし、いったん拒否したら拒否しっぱなしになってしまう可能性がある。それでは自分の知は広がらないし、変化の激しい先行き不透明な社会を「生きる力」にはつながらない。

 このような批判的思考の技術をサポートするものとして「知識」がある。論理についての知識や、モデルとなる適切な批判のやり方を知っていることは、もちろん大いに役に立つ。しかしそれだけではなく、さらに2種類の知識が役に立つ。一つは、「領域関連知識」である。批判的思考とは抽象的な思考ではなく、常に「何か」を対象として行われる具体的な思考である。そのときに思考対象について、構造化され精緻化された知識をたくさんもっている方が、創造性を発揮しやすく[5]、また、論理的に考えることも可能になる。逆に言うとこれらの技術は、持っていても特定領域に限定されていることが多い。同様に、学校で教科を通して思考力を養っても、それが教科内にとどまっている限り、それは教科(そして学校)専用の思考にしかならない。汎用性の高い思考力を養うためには、他の領域でも利用できるよう、思考技術を意識的に抽象化することによって特定領域にしばられないものにするのと同時に、後に述べるような「認識の枠組み」を学生の中に作っていく必要がある。

 もう一つは、「バイアスについての知識」、すなわち、人がどのようなときに歪んだものの見方や偏った(biased)判断をしやすいかについての知識である。たとえば人は、自分の信念や仮説を、反証ではなく確証するような情報を積極的に捜し求めようとする傾向(確証バイアス)がある。実際、警察の誤認逮捕やその一歩手前の誤認捜査(たとえば松本サリン事件)、それに伴う報道被害の中には、確証バイアスに由来すると思われるものが見られる[6]。そのときに確証バイアスについての知識をもっていれば、「仮説が間違っている可能性がないか」「仮説を反証する情報はないか」と意識的に思考を方向づけることができ、結果的により柔軟かつ合理的な思考が可能になる。このようなバイアスについての知識は、認知心理学など、心理学の知識を通して得ることができる(ただしこれに関しても、意識的に活用しない限り、単なる知識で終わってしまうのは先ほどの指摘と同じである)。

 以上の事を元にして批判的思考を定義しなおすと、「批判的な態度(懐疑)によって解発(リリース)され、創造的思考や領域固有の知識によってサポートされる論理的・合理的な思考」となる。簡単に言うと、これらの要素に基づいて行われる、総合的な活動としての「良質の思考」が批判的思考である。日常における思考・判断だけでなく、科学をはじめとする学術研究、医学における診断、事件捜査や探偵小説に見られる推理など、さまざまにある良い思考を総称したものが批判的思考なのである。

 批判的思考の諸要素はもちろんどれも重要なものであるが、その中でも一番大事なのは、「批判的な態度」であろう。いくら批判的思考の技術や知識をもっていても、使おうとする傾向(態度)がなければ始まらないからである。それだけでなく批判的思考態度は、図中のフキダシの中にあるように、問題解決中にその過程をモニターする役目も果たす。問題がないかどうかを探し、他の可能性を探し、必要なときには情報を求め、得られた解が適当かチェックをする。これらの活動に契機を与えるのも態度である。このことからも、批判的思考態度を持つことが最も重要であると言える。極端な話、情報を受容したり発信する中で、フキダシの問いを意図的に発することができるだけでも、十分に批判的思考が可能になる。ただし、何でもかんでも疑ってかかればいいわけではないことには注意しなければならない。批判的思考のことを「省察的な懐疑」と定義する研究者もいるが[7]、省察的(reflective)、すなわち、じっくり考えた上で必要なときに適切な批判を行うことが重要なのである。

3.批判的思考を育成する

 では、批判的思考は授業の中でどのように育成できるであろうか。その方法はおそらく授業の目的によって変わってくる。思考力育成が授業の主目的であれば、論理的思考や思考のバイアスに関する知識を伝授し、批判のモデルを示し、教材を用いて技術が使えるように訓練をし、その結果を評価・フィードバックしながら知識や技術に磨きをかける、というオーソドックスなトレーニングを行うことができるであろう[8]。一方、授業の主目的が別にあり、思考力育成だけに時間をかけられない場合もある。その一つの例として、私が行っている「教育心理学」の授業を以下に紹介し、実践の中で明らかになった問題点について考察する。

 この授業は教職専門科目(必修)である。教育に関わる心理学的知識を身につけることが目的であって、批判的思考の育成が主目的ではない。しかし、教員を目指す学生にひな鳥のように受動的に知識の伝授だけを行うのは不適切と考え、「情報を懐疑的に見る」課題を用いて、批判的思考態度を育成することも目的の一つとした。課題は質問書方式[9]と言われるものの変形版で、この授業ではフィードバックペーパーと呼んでいる。質問書方式とは、受講者が質問書に質問を書いて提出し、教師が回答し評価するという方法である。通常は授業の最後の数分を使って質問を書かせるが、私の場合は、毎週の宿題の形で所定の用紙を持って帰らせ、次回講義の前日までに提出させている。学生は半期に、この課題を13回程度行うことになる。

 所定の用紙はA4の紙が田の字型に区切られていて、次の4つの課題がある。「,海裡噂鬼屬房けた授業の中で良かったものを教育心理学的に分析。∈2鵑旅峙舛陵解度(5段階評価)。今回の講義に質問・意見。ず週の予習課題:テキスト指定個所(3ページ前後を毎回指定)を読み、疑問点を挙げよ」。,詫廚垢襪房業ウォッチングであるが、現在受けつつある教育(授業)を教育心理学的に見ることを通して活きた知識にするとともに、授業の進め方を省察的・批判的に見る眼を養うことが目的である。とい質問書の部分である。これらは、テキストや講義の疑問点を明らかにするだけではなく、質問書を書くために、テキストを批判的に読み講義を批判的に聴く態度が必要になる。これらの課題を通して、テキストや教師など学生が「権威」「絶対的」「正しい」と思いがちなものを対象化し、学生も対等な立場で意見が言えるのだという意識が育つことを期待している。出された質問や意見は一部を印刷し、次回の授業冒頭で、質問に対する教師の回答やコメントをフィードバックする。このことによって、質問した本人の疑問が解消するだけでなく、他の学生も、人の意見や疑問に接することによって、疑問のもち方のモデルとすることができると考えている。

 学生がこの課題をどのように受け取ったかを知るために、学期末に行った授業評価アンケートで、フィードバックペーパーについて意見を聞いた。すべて自由記述式のため、私のほうで意見を分類し、また、意見の一部を例示した。

 <授業を見る眼を養うことができたと思うか?>

 「思う」と答えたものが65人中51人(78.5%)、「思わない」が6人、「分からない」や無回答が8人であった。肯定的な意見としては、「文章だけでなく、授業もcritical reading(?)するようになった」「授業をする先生の視点で授業を見るようになった」「少なくともそのような視点(客観性)はもてたと思う」「以前に比べるとできるようになったと思う」などの意見があった。
 <疑問をもって文章が読めるようになったか?>
 「思う」が55人(84.6%)、「思わない」は9人、無回答が1人であった。肯定的な意見としては、「今まで何の疑問ももたず教科書のことはほとんど受け入れていましたが、その考え方がすっかり変わりました」「知らず知らずのうちに文章を疑いながら読んでいる自分にふと気づくことがある」「今までこんなにテキストを注意深く読むことはなかったので、これからは疑問をもって文章が読めると思う」「教科書にも間違いや文章の不備があることが実感できた」などがあった。ただし肯定否定の混じった意見あった(「そう思いますが、まだ意識して読まないとダメかも」「疑問をもつことはできたと思うが、多少アラ探しをしているかもしれない」)。否定的な意見としては、「それはまだちょっとできていない」「以前と特に変わらない」などがあった。後者は、以前から批判的な読みができていた者である可能性がある。
 <その他、自由な意見や感想>
 肯定的な意見は32回答、「質問書を書きながら沸いてきた疑問が多かったので、あってよかった」「他人の疑問点、意見を知ることで、疑問についての目のつけどころが変わった」などの意見があった。否定的な意見や改善案を示したものは19回答、「授業で取り扱えない分の意見や疑問は印刷して配ってほしい」「授業を聞いているつもりだけど質問や意見がなかなか出てこなくてたいへんだった」などの意見があった。
 以上まとめると、授業の目標である「授業を見る眼を養う」「疑問をもって文章を読む」は、学生の自己評価ながら8割前後が肯定的に答えており、満足の行く結果であった。自由記述の内容からも、程度の差こそあれ、教科書や授業に対して批判的な視点がもてるようになった様子がうかがえた。ただしその態度が将来的にどの程度持続するのか、また、他の授業、書物や日常生活にどのくらい般化するのかは、今後の検討課題である。

4.認識の枠組みを変えることの難しさ

 ただ、授業全般に対する評価や意見・感想の中で、気になる意見が2名から出された。「フィードバックの返答のところで、先生は自分の考えを少し押し付けすぎだと感じました」というものである。このような意見は少数ながら前年にもあったので、そうならないように気をつけていた。それでもこのような意見が出る理由がわからなかったので、期末テスト問題の選択肢の一つとして、この意見の解説および対処法を問う問題を出題した。下のものは、これに答えてくれた4名中1名の意見の要約である。

 「ここはどうしてそう思ったのですか?」という先生の質問を学生は、「君の意見・疑問は的外れなんだけど、どうしてそう思ったのですか?」という風に受け取っているのではないか。「自分の考えは間違っている」ということが頭にあれば、先生の言うことをそのまま受け入れてしまい、そこで押しつけがましいと感じているのではないか。私自身は、初回のプリントに「先生と生徒の意見は対等」「正答、かっこいい答えを求めているのではない」とあったので、自分の質問がプリントに載っているかどうかビクビクすることはなかった。このことを、オリエンテーションだけでなく、講義の中でも、今まで以上に強く言う必要があるのではないか。
 他の意見もおよそ同じようなもので、「わかっていただけたでしょうか」「この答えでいいでしょうか」という教師の言葉を、「もうわかったか?」という意味にとらえたり、「わかったと言わなければ教え甲斐のない奴と思われる」と学生は思っているのではないか、ということだった。

 ここには、単に学生の認識不足や教師の意図伝達の不十分さという問題を超えて、批判的思考の育成に関する非常に重大なポイントが含まれていると思われる。この記述から推測する限り[10]、このように感じた学生には、「先生の言うことは、気に入らなくても肯定しなければならない」「教師に反論してはいけない」「知識は、権威者から教えいただくものである」という考えが根底にあると考えられる。つまり彼らは、授業において教師や教師の発言内容を認識する際に、このような枠組みをくぐらせた上で情報を解釈し受け取っているわけである。このような認識の枠組みがある限り、質問書による批判的思考態度のトレーニングを行っても効果は小さく、持続も般化もしないだろう。

 批判的な思考態度を支える認識の枠組みはこれとは正反対のものである。それは「すべての知識は誤りうる」(可謬主義)という認識であり、「知の生成に肩書きの上下はない」という発想である。中島(1997)は、「互いに精緻な論理を積み重ねて真理を得ようとする」ことを<対話>と呼び[11]、その基本原理として以下のものを挙げている(一部のみ抜粋)。

 これこそが、批判的思考の土台となる認識の枠組みである。今回の学生の意見からわかったのは、学生の認識の枠組みを変えることの難しさである。表立って現れる意見は少なくても、認識を根底から支えている枠組みであり、また学生は現在の認識の枠組みを10年以上に渡る学校生活に適応する中で獲得している。変わりにくいのが当然と考えた方がよさそうである。したがって次回「教育心理学」を開講するときには、もっと意識的に、認識の枠組みの育成に焦点を当てる必要があるであろう。

 ここにはもう1点重要なことがある。それは、まったく同じことが教師にも言えるのである。教師が効率よく知識を伝授するためには、教師が言うことや教科書に書いてあることはすべて正しいことを前提にし、学生にはそれらをひたすら覚えさせる。疑問や納得を求めたりはしない。そのような教育に適応し、教師や教科書は正しいという認識の枠組みを学生と共有し再生産している教師は少なくないのではないだろうか。しかし学生に思考力をつけさせるということは、そのような効率的な教育とは対極にある。教え方や教える内容だけではなく、教師の認識の枠組み自身も変わることを必要とし、また、教師や教科書や授業の意味さえもまるで変えてしまうような、相当の覚悟が必要なことなのである。批判的思考とは、先ほどの表現でいえば、狩猟のための一種の「武器」である。この武器を前にしたときには、教師の意見も学生の意見も対等に扱われなければならない。教師の意見だけが(教師の意見だというだけの理由で)無謬であることはありえないからである。

 これはあくまでも両者の「意見」(もとをたどれば思考)の対等性ということである。もちろん教師と学生の「立場」は対等ではない。教師には授業に対して責任があるし、学生を評価しなければならず、知識量の差もある。しかし、知を追求し、自分の意見をもち、何を信じどう行動すべきかを決定するという部分は、あくまでも対等なのである。

5.批判的思考とメディアリテラシー

 最後に、このような批判的思考と、メディア(活字メディアを含む)やインターネットとの関わりについて述べておこう。これらは批判的思考を高める道具として、長所と短所を持っている。長所とは、自分の生活範囲を超えて多くの人の意見に接することができるため、上手に使えば批判的思考を伸ばす大きな武器となる点である。例えばインターネットで言うと、メーリングリストや掲示板など、あちこちでさまざまな議論が行われている。同一事件に対する複数の新聞記事を集めることも、一瞬にしてできる。検索エンジンを使って、一つのものごとについてさまざまな意見を得ることができる。テレビや新聞などの報道メディアも同じである。報道は基本的に、批判精神を持って多角的に取材・検証し、公平公正な報道に努めるべきものであるはずであるし、実際に報道によってそのような知見が得られることも少なくない。これらは、ものごとを多面的に見る手助けとなる。もちろん最終的にどの意見をとるかは、自分自身で批判的に吟味する必要がある。

 しかし、メディアを通して他人の意見に触れていれば自動的に批判的思考ができるわけではない。むしろメディアから、一面的な情報が流されることがある。それは、紙面や時間の制約があり、商業主義があるためである。あるいは、メディア情報は、ものごとをありのままに伝えているかに見えても、必ず誰かが一定の視点から切り取って編集したものだからである。さらには、インターネットも含めてメディアそのものが増えていることから、メディア情報発信者の質にばらつきが存在する点も挙げられるかもしれない。これらは避けられないことである。しかしそれに加えて、メディアの視聴者が例えば、「テレビや権威者が言っていることは正しいに違いない」という認識の枠組みを持っている場合は、さらに危険である。特にテレビでは考えるひまを与えないくらいテンポよく、あるいは繰り返し情報が提供される。しかも映像を伴ってわかりやすく情報が与えられる場合が多いので、テレビへの信頼感もあいまって、わかった気になりやすい。ここでも必要なのは、情報の送り手と受け手の意見や考えは対等であるという認識の枠組みであり、メディアも含めすべての情報は誤りうる、あるいは一面的であるという認識の枠組みである。

 そこでメディアリテラシー教育が重要になってくる。ただし、メディアの批判的視聴について教育したとしても、それが「(テレビではなくて)先生が言うことが正しいから」という認識の枠組みや、「やれと言われたから(従わなくてはいけないから)批判する」という考えに基づくものになってしまっては意味がない。すなわち、メディアリテラシー教育の中においては、情報の送り手−受け手の対等性と同時に、教師−生徒という二重の対等性が確保され認識されなければならないのである。

 本稿で中心的に取り上げた「批判的思考を支える認識の枠組み」は、あくまで枠組みにしか過ぎない。これさえ身につければいい、というものではなく、最初の一歩である。しかしこれがなければ、どんなに批判的思考の技術や知識を持っていても無意味である。学生の批判的思考を育てるためには、教師・学生双方の認識を根底から支えている枠組みを意識しながら教育を展開していくことが重要であろう。

著者略歴

道田 泰司(みちた やすし)
生年:1962年
現在の所属:琉球大学教育学部
専門:教育心理学、思考心理学
主な著書:「クリティカル進化論−『OL進化論』で学ぶ思考の技法−」 (北大路書房, 1999)