道田泰司 2002.01-03 「考えること」について考える(1)-(3) 道徳教育メールマガジン「まるめ」に寄稿

■1.「考えること」について考える 道田泰司

 私は大学で心理学を教えています。ここ数年関心をもっていることは「思考」です。ここでは何回かに渡って,思考についてお話したいと思っています。道徳教育については,専門家ではありません。しかし私ももちろん,小学校・中学校と道徳の授業を受けてきた経験があります。そして,大学で学生と,自分が受けてきた教育について話を聞いたりする機会もあります。

 そのような私の素人考えかもしれませんが,道徳において「思考」 は非常に重要だと思います。それは一つには,すべての教科で, 「多くの知識を詰め込む教育」ではなく「自ら学び自ら考える力を 育てる教育」が重要になっているということもあります。しかしそ れだけではありません。「相手の立場にたってものを考えること」 が道徳の基本だと思うからです。実はこれは,私が考えた言葉では ありません。今私が読んでいる.『自分の頭で考える倫理』(笹澤 豊著 ちくま新書, p.65)という本に出てきた言葉です。まったく その通りだと思います。

 そしてこの「相手の立場に立つ」ということのなかには,道徳だ けにかぎらず,「考えること」の本質が含まれていると思います。 「自分の立場から離れる」という点です。それは,「ものごとを多 面的に見る」ための第一歩として,必要なことです。そして,現実 に目の前にある,目に見えることを離れて,現実にないもの,見え ないものを「可能性」として想像することこそが,「考える」こと だと思うのです。

 もちろん「考えること」は,今述べた「多面的に見る」ことで終 わりではありません。「考える」ということがどういうことかにつ いてさえ,心理学のなかでもさまざまな考えがありますが,私は, 「見かけに惑わされず,多面的にとらえて,本質を見抜くこと」が, よりよく考えることの基本なのではないかと考えています。このな かで最も中心にあると思うのが,「多面的に見る」ことなのです。 道徳をはじめとした学校教育をとおして,子どもたちがそのような ことを学んでくれるといいなあと思っています。

■2.「論理的思考」について考える 道田泰司

 前回は,考えることの中心にある「多面的に見る」ことについてお話しました。それは,見えないものやないものを「可能性」として想像することでした。今回は,「本質を見抜く」ことについて考えてみましょう。多面的に見ることが拡散的,創造的思考だとすると,そのなかから適切なものを選び出すために必要なのは,論理的・合理的思考です。では論理的に考えるとはどういうことでしょう。

 「論理」というと難しいイメージがあると思いますが,本質は単純です。「前提(根拠)から必然的に結論が導かれる」ことが論理的であるということなのです。同じ前提から出発すれば誰でも同じ結論にたどり着くのです。一本道です。途中にわき道があってはいけません。わき道とはほかの可能性のことです。同じ前提から出発しても違う結論がでる可能性が残っている限り,論理的とは言えません。

 道徳の授業で,「あの人がこんなことをしたのは,こういう理由だからだろう」と考えることがあると思います。しかしこれだけで終わってしまったのでは,単なる思いつきです。そう考える根拠は何かを検討し,他の理由である可能性がないかどうかを考え,その可能性が低いことを示す。このように「一本道」を作ってはじめて,論理的に考えることになるのです。ここでもっとも重要なのは「他の可能性をたくさん考える」ことです。

 難しいようにみえると思います。実際,日常の問題は形式論理学の問題と違って,あらかじめ前提(根拠)がすべて明らかになっているわけでもないし,自分がもっている「暗黙の前提」もありますので,一筋縄では行きません。でも,自分の考えに対してできるだけたくさんの反論を考えてみて,それに再反論しながら意見を主張するように心がけてみてください。それだけで主張が論理的で説得的になる可能性がうんと高まると思います。

■3.「考える態度」について考える 道田泰司

 今までの話をまとめると,「よりよく考えるには,いろいろな可能性を考えながら,論理の一本道を作ること」ということになります。そういう機会を作ろうと思って,大学の授業で私は,教科書や自分の講義に対する意見や質問を出させるようにしています。ところが,それができない学生がいるのです。学期最後に感想を求めると,「質問がないのに書けといわれても困る」なんて言われたりして。

 それはどういう学生なのでしょう? すべてが理解できたので,質問が本当にないのでしょうか。いや,多くの学生は何らかの質問を出せますし,それを質問のない学生に問うても答が出てくることは少ないので,そうではないでしょう。では,想像力がなくていろいろな可能性を考えることができないのでしょうか。質問を書くことが恥ずかしいのでしょうか。学校は疑問をもったり質問をするところではないと思っているのでしょうか。

 どれも一理あるかもしれませんが,私は,知ることや学ぶことに対する考え方の違いからきているのではないかと思います。世の中には「正解」があり,それを覚えることが学ぶことだと考えている学生がいます。固定的な知識観であり,お金を預金するように知識をため込む学習観です。それでは疑問は出てきませんし,出てきたとしてもそれは,「わからないのは自分が悪い」という発想に基づく疑問にしかなりません。

 その逆,すなわち,知識は自分で作ったり変えたりできるという知識観や,問題は自分で探究し解決するものだという学習観がなければ,「考える」ことには結びつかないと思います。そのためには,問題を探究する上では先生と生徒は対等でなければいけません。道徳教育に関しても,どちらの知識観・学習観に立っても行うことは可能です。果たして皆さんの教育や知識観・学習観は,どちらになっているでしょうか?