書評

書評『批判的思考力を育む―学士力と社会人基礎力の基盤形成』
書評『「教えて考えさせる授業」を創る』
独創的なアイデアで社会行動の解明に挑んだ心理学者の生涯
心の研究を読む
クリティカル進化論
学力低下論争
教育改革をデザインする
ワイルド・スワン

書評『批判的思考力を育む―学士力と社会人基礎力の基盤形成』

道田泰司 (2012.07) 自著を語る(『批判的思考力を育む』) 心理学ワールド, 58, 41.

 みなさんは,批判的思考(クリティカルシンキング)の本を読まれたことがあるでしょうか。多くはビジネス書や啓蒙書,教科書で,専門書はほとんどありません。批判的思考は,古くはソクラテス以来の哲学の伝統があり,現代ではGlaser(1941)以来,実証的・実践的・理論的研究が蓄積されているのですが,なかには先行研究を踏まえず,著者なりの思考法について論じているだけの本も少なくありません。

 さて本書は,心理学を中心とした批判的思考の専門書としては本邦初のものであり,科研グループでの 4 年間の成果が盛り込まれています。理論編と実践編とに分かれており,理論編では,批判的思考の概念や各種リテラシーとの関連,認知プロセス,測定,社会・文化的側面,適応的側面を扱っています。実践編では,いくつかの大学で行われている,良き市民や良き学習者を育てる批判的思考教育の事例 9 つを紹介しています。批判的思考についてきちんと知りたいと思っている人にも,実践に取り入れたいと思っている人にも手に取っていただきたい 1 冊です。


書評『「教えて考えさせる授業」を創る』

道田泰司 (2008.08) 書評『「教えて考えさせる授業」を創る』 指導と評価2008年8月号, 63.

 これからの時代,子どもたちにつけるべき学力は何か。それは,基礎的・基本的な知識・技能の習得であり,それを活用して課題を解決する思考力・判断力・表現力であり,学習意欲である。ではこれらの力はどのようにしたら育成できるのか?

 その一つの答が本書にある。すなわち「教えて考えさせる授業」である。教えて考えさせる授業とは,基本的な知識は教えてきちんと理解させ,さらにその上のことを考えさせる授業である。

 これまで,ややもすると基本的な知識を,教えるのではなく皆で発見させようとするあまり,基礎も身につかず活用もできない,という状態が生まれがちであった。そうではなく,基本的な知識は教えてきちんと理解させることですべての子に習得させる。基礎・基本の確実な習得を前提とすれば,その後の「考えさせる」課題ではより高度な,考えがいのある課題を用いて,全員参加で問題解決(知識の活用)ができる。それは,すべての子が意欲をもって学習に取り組むことを可能にするであろう。

 なお「教えて考えさせる」という言葉は,中教審答申でも使われている。たとえば「新しい時代の義務教育を創造する」(平成17年10月)では,「学習指導要領の見直しに当たっては,「読み・書き・計算」などの基礎・基本を確実に定着させ,教えて考えさせる教育を基本として,自ら学び自ら考え行動する力を育成すること」とある。すなわちこれは,これからの教育の基本となるものなのである。

 これまで「教えて考えさせる授業」に関しては,実践事例集的な本が出されている(『教えて考えさせる授業(小学校)』図書文化社,『自ら学びを高める子を育てる教えて考えさせる授業』明治図書)。本書はそれらとは違い,タイトルにある通り,「教えて考えさせる授業を創る」にはどうしたらいいか,どういう考えや方針のもとにどうつくっていけばいいのかについて書かれている。

 本書の第二章では,筆者が実際に行った「繰り下がりのある割り算の筆算」の導入の授業をどうつくったかが示されている。どのように方針を立て,本時の目標をどう考え,教科書を含めどのような教材を使い,授業としてどう展開するのか。授業のときの子どもの様子はどうだったのか。そういったことが本書では示されている。

 それだけではない。本書に収められている授業を行った学校では,算数が習熟度別にクラス分けされているのだが,ほかのクラスでも,ほかの先生方が自分たちなりに組み立てた「教えて考えさせる授業」を行っている。その概要や指導案が本書では示されているのである。

 すなわち本書では,授業をつくる過程が示されるとともに,同じ単元で行われた授業のバリエーションが示されているわけで,これだけのものがあると,教えて考えさせる授業がかなりイメージしやすくなるし,また,他の単元や他の教科での授業をつくる際に,かなりのヒントとなりそうである。

 さらに第三章では,「教える」ときの工夫の仕方,「考えさせる」課題設定の仕方,「教えて考えさせる授業」の組み立てなどについて,考え方や一般原則などが論じられている。たとえば「教える」に関して言うならば,子どもたちが共通して持っているものは教科書なので,教科書を活用することを筆者は重視している。その上で,子どもが誤解しがちな問題や,習ったことを応用・発展させる問題を考えさせるのである。その意味で教えて考えさせる授業とは,「教科書を活用しつつも教科書を超える」授業となりうるのである。

 本書は,実際に「教えて考えさせる授業」を自分でもつくってみたいという人にとって,痒いところに手が届いた好書である。


独創的なアイデアで社会行動の解明に挑んだ心理学者の生涯

道田泰司 (2008.06) 独創的なアイデアで社会行動の解明に挑んだ心理学者の生涯(書評『服従実験とは何だったのか』) 日経サイエンス2008年6月号, 125.

 心理学の研究の中には,聞く人に大きな影響を与えるものがある。本書で取り上げられている「服従実験」はその最たるものである。私も毎年,心理学の授業でこの研究に触れるが,「これから生きていく上で非常に考えさせられる内容だった」というポジティブなものから「人間のイヤなところが見えてきて悲しくなった」というネガティブなものまで,受講生は強いインパクトを受けているようである。

 服従実験とは,研究者という権威に一般市民がどの程度服従するかを明らかにした研究である。実験は「学習に及ぼす罰の効果」という名目で行われ,被験者は教師役として,生徒役である見知らぬ他人(実はサクラ)に電気ショックを与えるよう実験者に指示される。ミルグラムの実験では約2/3の被験者が実験者の命令に従い,生徒役が間違えるたびに電気ショックを与え続けたのである。人間心理のある側面を鋭くえぐり出した,優れた研究である。

 本書は,この実験を行った社会心理学者ミルグラムの伝記である。タイトルには「服従実験とは何だったのか」とあるが,原題は違う。「世界にショックを与えた男──スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産」である。伝記らしく,日常の細かなエピソードやさまざまな人と交わした手紙の内容などが豊富に載せられている。それだけでなく,社会心理学史の概略も論じられている。服従実験が何だったのかを中心に論じているわけではないので,注意したほうがいいかもしれない。

 もっとも服従実験はミルグラムを一躍有名にした実験なので,全12章中4章はその多くが服従実験とその反響についてあてられている。ミルグラム自身の本(『服従の心理』河出書房新社)にはないデータや実験中の様子,実験後の被験者と実験者のやり取りなども載せられているので,実験がより具体的にわかる。その他にも,彼の着想に影響を与えた事柄や公表後に起きた議論,心理学以外の世界に与えた影響など,服従実験関連の話がところどころに書かれている。そういう意味では,本書を通して読者なりに「服従実験とは何だったのか」について考えることも可能だろう。

 彼が行った研究はもちろん服従実験だけではない。世界中の人が平均6人の人を介してつながっていることを示した「小さな世界」研究,路上に放置された手紙がどう扱われるかを知ることで人々の態度を明らかにする放置手紙調査法など,きわめて独創的なアイディアで人間の社会行動の根底にある規範を実証的に明らかにしている。

 社会心理学の代表的な研究の一つである服従実験をはじめとして,独創的な研究をいくつも行ったミルグラムであるが,必ずしもそれに見合うものを得てはいない。たとえば服従実験は,学術雑誌で立て続けに2回不採択になっている。あるいは彼自身望んでいたのに,有名大学から真剣に誘われることなかった。それどころか,研究のための外部資金を得るのにも苦労していたのである。その一部は間違いなく,服従実験の「強烈さ」や彼の発想がユニークすぎる点から来ているようである。

 彼のような傑出した,しかし伝統的アカデミズムの世界に十分に受け入れられたとはいえない研究者がどのようなことから着想を得て研究を行ったのか,それはどのような反響を呼び,どの社会に受け入れられ,どの社会に受け入れられなかったのか,そのことで彼の人生がどのようになっていったのかなどを知ることは,研究者(予備軍)にとっても,あるいは科学・心理学ファンにとっても,さまざまなことを考えさせられる元となるであろう。


心の研究を読む

道田泰司 (2006.03) フレッシュマンのための読書ガイド「心の研究を読む」 日経サイエンス2006年5月号, 135-136.

 心理学の本を読むなら,研究の方法と結果が具体的に書かれている本がいい。心理学は実証性を旨とするからである。具体的な方法があれば被験者になったつもりで読むことができるし,具体的な結果があれば研究者の推論プロセスを追体験することができる。研究のプロセスに擬似参加できるのである。

 それに加えて,心理学の本を読むなら物語性のある本がいい。心理学が扱うのは人間の行動や心理過程,すなわち私たち自身のことである。被験者になり,あるいは研究者になって人間行動の謎を解き明かすストーリーを読む。上質な心理学の本を読む楽しみは,推理小説を読む楽しみに似ている。

 具体性と物語性を兼ね備えた本としては,たとえば『服従の心理』がある。人が権威者の理不尽な命令に,どれほど簡単に服従するかを実証した研究である。有名な実験なので聞いたことがある人も多いだろうが,たいてい一つの実験しか紹介されない。しかしミルグラムは,少しずつ条件を変えた19個の実験を行っているのである。それによって巧みに他の解釈可能性を消去しつつ問題の本質に迫っている点は,推理小説の趣がある。残念ながらこの本は現在品切れだが,図書館や古書店で探して読むだけの価値はある。

 ラタネとダーリーによって行われた『冷淡な傍観者』研究は,ある女性が変質者に殺された事件が発端になっている。このとき38人の人が彼女の悲鳴を聞いていたのに,誰一人通報しなかった。それはなぜか,という疑問に答える研究だ。先にあげたミルグラムの研究は実験室でのみ行われたものだが,こちらは違う。街頭でのフィールド実験,実験室実験,質問紙調査が組み合わされているおり,多角的に人間行動に切り込んでいく醍醐味を楽しむことができる。

 この2冊は社会心理学の本である。心理学にはそれ以外にもさまざまな領域があり,さまざまなことが明らかにされている。それは多様ともいえるが,雑多な寄せ集めと言われればそうである。心理学全体を貫くメッセージが見えにくいからだ。それを明らかにしようとしたのが『サブリミナル・マインド』である。この本は,「人は自分で思っているほど,自分の心の動きをわかってはいない」ことを,さまざまな心理学研究から浮き彫りにしている。ここで描かれているのは,心理学における「大きな物語」である。

 そうではなく,一つ一つの研究の中に「小さな物語」を見いだすこともできる。『心は実験できるか』で行われていることである。有名な10個の心理学実験が,個人的な物語として描かれている。研究者やその周辺の人々の物語であり,心理学コミュニティの物語であり,被験者のその後の物語であり,心理学者である筆者自身の物語である。科学研究はあくまでも素材であり,それが編み上げられてさまざまな物語が生まれていることが見えてくる。なお本書には,ミルグラムの実験と,ラタネとダーリーの実験も収められている。

 心理学をさらに小さな,「私たち」の物語として捉えているのが『意味から言葉へ』である。発達心理学をはじめとして,知覚,学習,情動などの心理学研究が取り上げられ,関係論という視点で読み解かれている。それは,人間を客体視・対象化し「科学」として記述するのではなく,人の間に生まれ人の間で成長し,意味で編まれた物語を生きる主体としての人間として記述するということである。素材は同様に心理学研究であるのに,『サブリミナル・マインド』とは違う世界が描かれている。あなたにとって物語としてよりしっくりくるのはどちらか,読み比べてみるとおもしろいかもしれない。


読書案内「考えることを学ぶ本」

びぶりお(琉球大学附属図書館報) vol. 36(No. 1), p.2(2003.04)

『クリティカル進化論』(ぶん:道田泰司・宮元博章,マンガ:秋月りす 北大路書房)

 大学生たるもの,知識を溜め込むばかりではいけない。先達の議論を吟味し熟考し批判しつつ,主体的に考え総合的に判断し,最終的には知識の作り手とならなければいけないのだ。そのためには「武器」が必要である。『クリティカル進化論』(ぶん:道田泰司・宮元博章,マンガ:秋月りす 北大路書房)は,その武器となりうる本である。

 本書は,論理学や心理学をベースにした「考え方」についての本である。適切に推論し,自分の見方の偏りに気づくにはどうしたらいいかについて書かれている。難しそうに聞こえるかもしれないが大丈夫。本書では,4コママンガを素材としてふだんの私たちの考え方の特徴が浮き彫りにされ,そこから学ぶことができるようになっているからだ。ここで手に入れた武器は,一生役に立つ道具となるはずである。本書だけでなく,そのような武器を手に入れる場として大学や大学図書館を活用してほしい。


ブックレビュー 「学力低下論争」市川伸一著 筑摩書房 新書判 2002年8月刊 252頁 740円(税別)

視聴覚教育 2002年12月号

 「学力低下論争」は,全体像がつかみにくく,誤解されやすい論争である。実は学力低下論争は,学力低下論者と学力低下否定論者という2つの立場の論争ではない。論争の争点は「学力が低下したか否か」ではない。学力低下の有無を直接に明らかにできるデータは存在しない。それでは学力低下論争とはどういう論争なのか。

 本書は,学力低下論争の全体像を俯瞰した本である。全体像が描かれているだけではない。さまざまな議論を位置づけ,分析することによって,上記のような誤解が正されている。

 筆者の分析によるとこの論争は,一つには学力低下を「憂慮」するか「楽観」するかの論争である。しかし対立軸はこれだけではない。現在の教育改革路線に「賛成」か「反対」かという対立軸があり,実はこれが論争の主役である。この2つの対立軸が作る2次元平面の中に,3つの立場が存在する。このように理解してはじめて,論争の全貌が見えてくる。

 そして,影の主役である「教育改革路線に対する賛否」の,さらにその背後には,教育観や基本的な人間観の違いが存在する。「観」の違いの争いならば,この論争はみのりのない論争なのか。いやそうではない。

 この論争からどんな教訓が得られ,それをどう生かすことができるか。筆者は「みのりある教育」という方向性を打ち出している。「ゆとりか知識か」という2分法を脱し,論争を生産的に活かす一つの方向性として,これは重要な指摘である。


■教育改革を通して公共性の復権を

メールマガジン 日本国の研究(編集長 猪瀬直樹)2002年07月12日発行 第195号 書評号

佐藤学著『教育改革をデザインする』 (岩波書店 1999年10月 ISBN 4-00-026441-9 本体価格1900円)

 現在、新指導要領に代表される教育改革が進行中である。この改革は、臨時教育審議会(1984年設置)にはじまる新保守主義と新自由主義にもとづく改革である。新保守主義はナショナリズムや家庭教育の強調、奉仕活動の義務化という方向性に見ることができる。新自由主義は、学校のスリム化、公立学校での中高一貫校の選択導入、選択中心の教育課程など自由な選択と自己責任を基礎とする改革に見ることができる(佐藤学『「学び」から逃走する子どもたち』2000年、岩波書店)。そして筆者は、この改革は失敗していると見ている。文部省は、すでに10年近く創造的な思考や個性的な表現力を追求してきたはずなのに、国際教育到達度評価学会(IEA)の国際比較調査によると、日本の子どもは暗記的な知識力はあるものの、想像的な思考や問題解決的な思考を必要とする問題の正答率が非常に低いことがその根拠である。

 改革には必ず、その前提として改革されるべき現状の問題点がある。その現状認識自体が混乱していることが、教育改革が混乱している原因の一つと筆者は考えている。そのような実態の捉え直しから本書は始まる。教育について、マスコミを通して根拠のない俗論が流布している。そのような「教育改革論議のウソ」10項目を筆者は挙げている。一例を挙げると、「日本の子どもは勉強に追われてゆとりを失っている」という「常識」がある(13頁)。しかし実際は、学校外での日本の子どもの学習時間は世界の中でも下位のレベルである。求められるべきはゆとりや教育内容のレベル・ダウンではない。学ぶ意味を見失ったまま、強制や競争によって「勉強」に駆り立てられるのではなく、学ぶことが意味のある楽しいことであることを子どもが認識できるようにすることである。筆者はそれを、「学びの意味の復権と学びの快楽」(16頁)と言っている。

●筆者の立場と改革案の実際

 教育方法学者である筆者は、過去20年間にわたって毎週数校の学校に出向き、現場の教師たちと協同で教育実践を創造し、学校改革に携わっている。それでも子どもの問題が教師や学校の機構、地域の経済や文化と結びついて見えるようになるまでには5000回の授業参観が必要であったという(大瀬敏昭・佐藤学ほか『学校を創る』2000年、小学館)。本書は、筆者が経験のなかで実践し、構想してきた教育改革を全体的なデザインとして提示したものである。提示されている教育改革の多くは実際に筆者が実現してきたものであり、それ以外のものも現在の教育財政の枠内で遂行可能な、現実的なものにかぎられている。 現実的な教育改革像を示すことで「教育改革は私たちの手で達成できる」(198頁)というメッセージが発信されている。

 筆者がデザインする教育改革は、現在おこなわれているような自由な選択と競争を基礎とする新自由主義の路線ではない。新自由主義による改革は、教育の地域差や階層差を拡大し、質の低下を招き、民主主義と公共性を破壊してしまう。筆者が提言する改革は、「多様な人々が共生し合う社会を求める社会民主主義」(52頁)の路線である。それは多様な個性を尊重しあう「民主主義」と、地域に生きる子どもや親や市民や教師のネットワークを基盤とする「公共性」 を基本原理とするものである。

 具体的な改革は学校、入試、教師、行政と多岐にわたっている。学校レベルの改革の中心は教室の改革であり、その基本は、先に述べたように「学びの意味を復権」することである。これからの社会が多様な人びとが共生し合う社会であるとするならば、授業においても「協同学習」によって子どもの学び合いを促進することが、その一歩となる。協同学習は、一斉学習でも個別学習でもなく、小グループで学び合いながら協同で主題を探究する学習である。それは教師と生徒の権威的一方向的な関係ではなく、モノと対話し他者と対話する活動であり、知識や技能の蓄積ではなく、表現し分かちあう活動である。その他の学校レベル改革としては、研究授業の活発化、時間割の柔軟運用、教師組織の単純化、父兄や一般市民の学習参加などがあげられる。最後のものは、授業参観ではない。保護者がアシスタント的に授業に参加したり、地域の人が経験を子どもたちに伝えたり、地域の産業の将来を生徒たちも参加して考える「学習参加」(62頁)なのである。筆者のいう「公共性」の核をなすものである。これらはどれも筆者が現実におこなっていることで成功例とともに紹介されるため、具体的かつ説得力が高い提言となっている。

 まだ実現してはいないが、実現可能な学校レベルの改革として、教育委員会などの形で教室を離れた中間管理職を見直すことで現行の体制内で実現可能な「30人学級」、無償配布ではなく図書館に常備し貸与することで現行の予算でも5倍の分量が可能な「教科書の改善」(121頁)、つぎに述べる「入試改革」 などがあげられる。

 入試に関しては、筆者は高校入試の全廃を提案し、そのための現実的な方策を挙げている。私立学校を私学助成金と地方交付税を受ける「準公立」と、交付を受けない「私立」の2種類とし、各学校に選択させるという方策である(87頁)。公立学校と準公立は指導要領に準じたカリキュラムとし、高校入試はおこなわない。助成を拒否する「私立」は、入試もカリキュラムも自由とする。こうすると、私立を選ぶ少数の学校はますます進学エリート校になるだろうが、授業料も高くせざるを得ないため、受験競争の過熱は防げる。高校入試のほぼ全廃と私立学校の自律や多様化が実現できる改革案である。

●疑問点がないわけではないが

 本書の改革案には興味深いものが多いが、気になる点もある。一つは「教育改革論議のウソ」の捉え方である。たとえば、「日本の教育は画一的である」という俗論に対して筆者は、「日本の高校ほど多様化され序列化された学校は世界に例を見ることができない」(21頁)と反論している。日本の高校には無数の小学科やコース、類型があり、多くの選択教科があるからである。しかし、教育で問題視される画一性は「文部科学省を頂点とした中央統制システム」から来る画一性(検定教科書、指導要領、学校の設置基準など)であり、一斉授業を中心とした授業形態の画一性であるはずである。これらは論じられていないままに教育の画一性が俗論=ウソと論じられているのである。本評冒頭に挙げた「ゆとり」にしても、学校外でのゆとりのみが議論の対象とされているが、文部科学省や各種答申でいわれるゆとりには、学校生活や授業におけるゆとりも含まれている。その点は本書では論じられていない。

 また、前述のように筆者は「協同学習」を重視している。「教室の改革においてもっとも重要な課題」(101頁)と述べているほどである。しかし、なぜ協同学習が重要なのか、その理由は明確ではない。本書で指摘されているのは、世界の教室と比較して日本では協同学習が少ないことと、最近の学習理論の中心的な主題の一つが「協同」であることのみである。これらの理由だけでは、協同学習が最も重要と言うにはあまりにも弱い。本書には改革の実例として、筆者が改革を指導した学校で協同学習が成果を収めていることが示されていることから、協同学習の重要性をうかがい知ることはできないでもない。しかし本書は、「改革の全体的なデザイン」を提示することを目的としている本である。この重要なポイントについては、もっと深く論じられてもよかったのではないだろうか。

 このような疑問や問題点はあるが、そのことで筆者の豊富な経験に裏打ちされた改革の提言自体の価値が下がるわけではない。新指導要領が充分な議論を経ないままにスタートして半年経ったいま、なしくずし的な「新自由主義的改革」に対する反対論や代替案として、筆者の提言に汲むべき点はないのかどうか、見直してみる必要があろう。


ワイルド・スワン(ユン・チアン 講談社 1993 ISBN:4062056534(上)、4062062542(下)

琉球大学教職員が推薦するこの一冊(琉球大学附属図書館)2000年

 本書は、著者、著者の母、著者の祖母の3代にわたる女性が体験した、1909年から1978年までの中国現代史だ。中でも、著者が体験した文化大革命前後の生活には、想像を絶するものがある。たとえば、1967年ごろというと、日本はだんだん暮らしが豊かになっていった頃だと思うが、著者(当時15歳)は、文化大革命のせいで学校は機能が停止したまま、砂糖も石鹸も手に入らない、本も音楽も映画もなく、劇場も美術館も茶館も閉まっている中で暮らしていたという。

 毛沢東の中国では、自分の心をさぐり、誤りを正して、もっと良い人間に生まれ変わるために、という名目で自己査問や自己批判が行われていた。しかしほんとうのところは、自分の考えを一切持たない人間を作るのが目的だったという。ここで行われていたことは批判と言いながらも、批判からまったくかけ離れた行為である。ちゃんとした批判がなされるためには、その批判自体も批判の対象として、その適切さが評価可能な状況が準備されていなければならない。

 他国の歴史を知るということは、同じ過ちを繰り返さないためには必要なことである。ものごとを多面的に見ること、なされたことをきちんと評価/批判すること、そしてその批判がすべてのものに開かれていることがいかに大事なことなのか、改めて考えさせられる本である。