宮城先生と私の関係

 

琉球大学医学部保健学科学校保健学  高倉 実

 

宮城先生と小生は同郷人である。二人とも奈良県天理市出身で、それもきわめて近くに住んでいた。しかし、このことは小生が琉球大学に赴任するまで知らなかったし、ましてや宮城先生が保健学科の同僚となることなど夢にも思わなかった。その小生がこのような退官記念の拙文を書いていることに何かの因縁を感じられずにはいられない。

宮城先生の実家は宮城先生のお父さんが天理に開業された宮城医院である。今は移転した天理市立丹波市小学校の向かいにあって、地域住民からは「みやぎさん」と呼ばれ親しまれていた。小生は小学高学年まで丹波市小学校の隣にある親里5号館というアパートに住んでいた。したがって、三角形で結ばれる目と鼻の先に住んでいたことになる。その後、小生は奈良市に引っ越したが、学校は丹波市小学校、天理中学、天理高校に通い、天理の町で子ども時代を過ごした。丹波市小学校の校医でもあった「みやぎさん」には、健康診断も含めてよくお世話になった。子ども時代の小生はいささか原始的で野蛮であったことや中学・高校でラグビーをやっていたことから生傷が絶えなかったが、顔・頭部に今も残っている傷痕の多くは「みやぎさん」に縫ってもらったところである。また、風邪の時にのどに塗ってもらったルゴール液の味も鮮明に覚えている。このように、今でいうプライマリ・ケア医であった「みやぎさん」は小生の記憶に味覚的にも刷り込まれている。琉球大学の宮城先生とはあまり関係のない話であるが、小生の中では宮城先生といえば「みやぎさん」を思い出し、子どもの頃へのノスタルジアを感じるのである。

ちょっと文の趣旨がそれたので本題に戻る。1983年、小生が琉球大学に赴任するときに、「みやぎさん」の長男が琉球大学医学部にいるということを聞いていたが、その時は学部や専門も違っていたので出会う機会もなく、そのまま月日が過ぎていった。1997年に保健学科に分属して初めて宮城先生と会った。「みやぎさん」のこともあったので初めて会った気がしなかった。また、自分と同じ関西弁を使うので非常に親しみを覚えた。一方、宮城先生が世界的な蚊の研究者であることは知っていたが、それがどのような研究であるのかはよく分からなかった。しかし、ラオスにおける蚊媒介性感染症の疫学的調査研究に参加させてもらって、その仕事をかいま見ることができたのである。

宮城先生から声をかけてもらい、19997月、ラオス国カムアン県におけるマラリアの流行状況、媒介蚊の生態、住民の生活行動などマラリアに関する疫学的調査に参加した。小生にとってラオスは初めての国であり、マラリア関連研究も未経験の分野であることから、何事も珍しく興味津々たるものであった。研究班は血液検査、媒介蚊調査、住民面接調査に分かれていた。小生らは住民のマラリアに関連する知識、態度、保健行動などについての面接調査を行ったが、母集団数の確定しない地域で行う面接質問による疫学調査の難しさを思い知った。また、宮城先生らの媒介蚊調査では、人や動物をおとりにして蚊を採集する方法や顕微鏡で蚊を同定する方法などが使われていることが初めて分かった。特に、顕微鏡で一匹ずつ蚊をのぞいて、羽の縞が何本あるかないかというような作業は非常に細かく根気のいる仕事である。普段、大規模集団を相手にどんぶり勘定的な疫学研究を行っている小生は、このような緻密でプロフェッショナルな手作業の研究方法をみて驚かされたのと同時に一種のアートを感じた。その他にも、外国で調査する場合の研究計画の策定、相手国との交渉や調整、研究チームの組織などのいわゆる研究手順も大変参考になった。以上のような研究を企画し実施してきた宮城先生はやはり一流の学者である。しかし、ラオス行きの前に、どうみてもアキレス腱が断裂したようなケガをしながらも、カムアンの山村を固定もせずに足を引きずりながら歩く姿を見ていると、大学者も自分の体には無頓着なように思える。

本学保健学科は南に開かれた大学であると謳いつつも、実際には南を向いた国際学術研究がまだまだ少ないと言っても過言ではない。大学改革がかしましいなか、保健学科の特徴は東南アジアや太平洋島嶼国との国際交流・国際協力に基づく健康科学研究に求めるべきであろう。その中で、宮城先生は名実ともに国際交流・国際協力を積極的にすすめてきた先駆者であることは皆が認めることである。これまでに宮城先生が敷いてくれたレールに今後、保健学科がどのように乗っていくのかは、後に残された我々に課せられた大きな課題として認識しなければならない。

最後に、宮城先生には多くのことを学ばせていただき本当にありがとうございました。退官後もご指導のほどよろしくお願いいたします。