| 私達の主食として重要なイネ、このイネはどこから来たと思いますか?アジアイネはアジア、オセアニアに分布する野生のOryza rufipogonから分化したと考えられています。ということはアジアイネの分化がどこで起こったか見当がつくのではないでしょうか。いくつかの説がありますが、インドのアッサム地方から中国雲南省が原産といわれています。 | ||
| Microsoft Encartaより一部改 | ||
| さて、このようにして登場したイネ(O.sativa)ですが、そのサブタイプの中でもっとも最初に現れたのはインド型であり、それがAman、Aus、Boroの3つに分かれ、さらに日本型およびジャワ型が分化したと考えられています。イネの種子、つまりお米は当初、現在の栽培イネのような白米ではなく、現在少しずつ見直されてきている赤米や紫黒米だったようです。その中から突然変異として白米が誕生し、それが栽培化されて現在に至ったと考えられています。 ではイネはどのようにして日本に入ってきたのでしょうか。一般的に、イネの文化は人の流入とともに始まったと考えられています。縄文末期頃、稲作文化を持った弥生人が九州北部、または九州南部に移住し、そこから日本の稲作が始まったという説は中学、高校の教科書でもおなじみですよね。しかし、その流入経路は朝鮮半島から壱岐・対馬を経て北九州に入ったという説が強いものの、南洋の島々や台湾から南西諸島経由で南九州に入ったという説が未だに否定されていないため、はっきりしていません。 |
||
| ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ここまではいろいろな書籍・ホームページなどで述べられているとおりで、これだけではここ「沖縄」とあまり関係がなく、面白くもありません。そこでここからは『琉球国由来記』を参考に沖縄にイネが入ってきた経緯を勝手に考察したいと思います。あくまで「勝手に」なのであしからず。 『琉球国由来記、田・陸田(見五穀之記)』によれば 當國、田・陸田、昔阿摩美久、ギライカナイヨリ、稻種子 持來、知念大川・玉城親田・高マシノマシカマノ田ニ、稻 植始也。此田始也。其制未備、景定年間、 英祖王、自四方巡狩、效周徹法、而正經界、均井地。 五穀豊饒、而萬民安寧也。 これを読み下すと「琉球国では昔、アマミキヨ(琉球の国生み神話の男神)がニライカナイ(沖縄の南方、海の彼方にあるとされる理想郷)から稲の種子を持ってきて知念大川・玉城親田、高マシノマシカマノ田に植えた。これが水田の始まりである。後の英祖王の時代、稲作の方法が整っていなかったので王自らが各地を回って井田法(中国、周代の税法)にならって境界を正し、治水を行った。それによって五穀豊穣となり、皆幸せに暮らせるようになった。」となり、イネが南方から渡ってきたことが伺えます。また、『琉球国由来記、稻ミシキヨマノ時、玉城行幸之由來』には 稻ミシキヨマノ時、玉城御行幸之由来者、上古、阿摩美 久、ギライカナイヨリ、稻種子持來、玉城間切、百名村之 人、作ヤウヘウケ、溝・小マシ田・苗代拵、稻蒔、百日成 時苗取、濱川ウラ原親田、高マシノマシカマノ田ニ、稻植 初也。 つまり「稲穂祭りに供えるもの、即ちイネは昔、アマミキヨがニライカナイより種子を持ってきて玉城村百名の人に作り方を教え、溝や苗代などを作らせて種を蒔かせ、百日後に苗を取って濱川ウラ原親田、高マシノマシカマノ田に植えさせた。これが稲作の始まりである。」とあり、アマミキヨが事細かに指示したことがうかがわれます。しかし沖縄県におけるイネの由来についてはもう一説あり、『島尻郡誌』に記されている伝承では 「昔、一羽の鶴が南から飛んできたが、暴風雨にあって進むことも引くこともできなくなり百名海岸のカラオカハというところに落ちてあわれにも死んでしまった。鶴は沖縄地方にそれまでなかったイネの穂をくわえており、それが水田に落ちて発芽した。これを見たアマミキヨは大変喜んで苗を受水走水(うきんじゅはいんじゅ)の田に移植した。霊水によってイネはぐんぐんと育ち、実がなって熟したのでアマミキヨはその食べ方を教えてくださった。」 と言われています。また、この米からは長い毛のようなものが生えていたという話が加わることもあるようです。この話からは「ツルが沖縄に?南から飛んできた?」と疑問をもたれる方もいるでしょう。しかし、昔はツルとコウノトリが混同されていたこともあるので、ここでは沖縄では見られない別の鳥を指してツルと言っていると思われます。『琉球国由来記』、『島尻郡誌』両方の話は玉城村の受水走水(別名:濱川ウケミゾハリ水、神名:ホリスマスミカキ君ガ御水御イベ)の御穂田が沖縄県初の田園であったということと、イネが南から渡ってきた(と推察される)ことが共通しており、これは柳田国男の『海上の道』に通ずるところがあります。柳田国男はその著書『海上の道』の中で、「新嘗」という言葉にふれながら、収穫祭が「海上の道」に点在する島々で行われており、イネの伝来もその道に従ってきたのではと示唆しています。 |
||
| 沖縄におけるイネの発祥地とされる玉城親田 | ||
| 知念大川(チニンウッカー)水量が豊富なことで知られていたが、最近ではその清水も水量が減りつつあるらしい | ||
![]() |
||
| 受水と御穂田(手前が御穂田、奥の石垣のようなものが受水) | ||
| さて、ここで話を元に戻しましょう。イネはいったいどこから沖縄に入ってきたのでしょうか。私はやはり「海上の道」を通って来たのではないかと思います。ただし中国南部から「海上の道」に入ったのではなく、南洋の島々から黒潮にのってあがってきたのではないでしょうか。またその際、イネのタイプはインド型であったと思われます。その根拠として泡盛があります。現在泡盛はタイからインド型の米を輸入して作っているそうです。その理由としてコストが安いということと、日本型ではうまくいかないというものがあるようです。また、長い毛、すなわち芒が生えていたということから、品種改良が進んだものではなく、原始的な形質が残っている赤米や紫黒米であったと考えられはしないでしょうか。 | ||
| ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | ||
| ここまでは民俗学的な説から勝手に検証を進めてきたわけですが、考古学から見るとどうでしょう。考古学的知見からは「海上の道」からの稲作の伝来はあり得ないそうです。しかしながら、その根拠として沖縄本島と宮古島の間を行き来する公開技術があったとは思えないということと、物的証拠がないということがあげられるため、あり得ないと言うよりむしろわかり得ないと言うところが実状のようです。今後農学を含め、これらの学問のコラボレーションが進めば新たな事実が判明するかもしれません。それまで「海上の道」説はロマンとして残り続けるでしょう。 | ||