| 30日短評7冊 28日『7つの能力で生きる力を育む』 24日『哲学の謎』 20日『フィ−ルドワ−クの経験』 16日『認知心理学における論争』 |
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| 26日科学的な見方・考え方 22日誕生日雑感 |
■11月を振り返って |
2000/11/30(木)
下の7冊を含め,全部で14冊読んだが,前回書いたように,最後のほうは弾切れ状態。前半もボチボチ。今月はコレが読めてしあわせ〜的な本は,残念ながら,ない(もちろん私にとっては,という意味)。 強いて言えば,『フィ−ルドワ−クの経験』や『認知心理学における論争』あたりだろうけど,これも,よかった部分もあるという程度。来月はいい本にめぐりあえるかなー。
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■『7つの能力で生きる力を育む−子どもの多様性の発見−』(A.B.スクローム 1998/2000 北大路書房 \2200) |
2000/11/28(火)
〜総論賛成各論反対〜今月は,冊数的にはいつもとそんなに変わらないのだが,月末にして,取り上げたい本がなくなってしまった。しょうがないから,批判を交えつつ,この本を紹介することにした。 本書は,アカデミックIQ(学力や通常の意味のIQ)だけでなく,全部で7種類の能力(セブンアビィティ)を提唱している本。7種とは,アカデミックIQ(AIQ),創造性IQ(CIQ),巧緻性IQ(DIQ),共感性IQ(EIQ),判断力IQ(JIQ),モチベーションIQ(MIQ),パーソナリティIQ(PIQ)である。 これって,ガードナーの7種の知性や,スタンバーグの3種の知性,ゴールマンのEQとどう違うのか,と思っていたら,p.32に対応表が載っていた。この表は,非常にいい表である。これで見る限り,著者の7つの能力が一番被覆範囲が広そうだ。たとえば,ガードナーのものには,本書でいう創造性IQとモチベーションIQが含まれていない。あるいは,ゴールマンのEQは,本書でいうと共感性IQ,判断力IQ,モチベーションIQ,パーソナリティIQの複合概念であることがわかる。もっともこういう表は,自分の概念が一番良く見えるように作るものだろうけど(笑)。 しかし本書でよかったのは,ここだけ。あとはいろいろと,気になる点が目に付いた。たとえば,アカデミックIQを記憶力のみと同一視するとか,現在の教育現場でアカデミックIQのみが重視されたために,中途退学や女子生徒の妊娠,非行を作り出した(p.5)と,きわめて短絡的に論じていたりする。 しかし一番問題だと思うのは,セブンアビリティの測定。本書によると,前述のガードナーはその複雑さゆえテストを開発できなかったことを認めている(p.36)そうだ。それに対してセブンアビリティでは,各IQを測定するテストが作られている。全部で4時間半ほどかかるものだが,ここにはセブンアビリティ以外の,職業選択ガイドなども含まれている。各IQに関しては,短いもので10分,長いものは36分かけて測定される(p.50)。ここに問題がある。それは,こんなに短い時間で能力の測定が可能か,という時間の問題もあるし,一種類か二種類のテストで測れるのか,という被覆範囲の問題もある。『類似と思考』にあるように,最近の認知心理学は,さまざまな認知能力(例えば記憶や学習など)が領域固有性を示すことを明らかにしている。つまり,ある領域で能力が発揮できるとしても,全ての領域でその能力が発揮できるとは限らないのである。 それだけではない。ここには,パフォーマンスを測るテストと,自覚的な態度を測定する質問紙が混在している。創造性IQでは両方が使われているが,判断力IQは,30項目の質問に答える形で,自覚的な判断力のみを測定している。判断力IQとは,「良い決断をすることができる力」だそうだが,たとえば, 「自分の考えがまちがいと言われても考えを変えませんか? それとも,そのひとの方が正しいか聞いてみますか?」(p.48)というような質問である。そんなの,自分の考えの内容,自信/確信の程度とその根拠,相手のもっている知識,相手との関係,などによってまるで変わってくるだろうに。もっと言うなら,「相手の判断IQ」が高いか低いかによって,何が良い決断かは違ってくるだろう。判断IQが測定可能なら,という話ではあるが。 これから考えると,前述のガードナーがテストをテストを作成していないのは,むしろ適切とさえ言えるかもしれない。人には知能だけではなく,7つの能力があるというのは,まったく問題がない,好ましい主張である。しかしそれを,安易にテストという土俵の上に載せたとたん,測定される能力やその適用範囲はテストに縛られてしまうのではないだろうか。このような7つの能力は,教育者や親(あるいは子ども自身)が子どもを見たり対応する際に,念頭におかれるべき性質のものであって,決してテストによって一つの数値にすべきものではないだろう。
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■「科学的な見方・考え方」とは何か |
2000/11/26(日)
数日前のことになるが,附属小学校で行われた研究発表会に行ってきた。こういうものに参加するのは生まれて初めてだったのだが,いろいろと学んだことや考えたことがあったので,ここに記録しておく。 私は主に,理科の授業および分科会に参加したのだが,そこでのテーマは「自ら科学的な見方・考え方を追及し合う理科カリキュラム」というものであった。このタイトルに惹かれたから参加したのだ。 当日配布された附属小学校の研究紀要によると,ここで言う「科学的な見方・考え方」とは, 問題解決の活動において,実験・観察などによって仮説を検討でき,同じ条件下で同じ結果が得られたり,客観的に得られた結果や概念をいう(p.89)とある。後半部分は,「結果や概念=科学的な見方・考え方」と読めるのでちょっと不適切な(あるいは表現が不十分な)感じがするが,それを除けば要するに,「実験・観察などによって仮説を検討できること」を指して,科学的な見方・考え方と考えていると考えていいだろう。だがしかし,本当にこの考え方でいいのだろうか。 私はこれは,次の2つの点で,ちょっと不適切あるいは不十分に思った。一つは,「実験・観察などによって仮説を検討」と言っても,実験や観察を行いながらも,「科学的ではないやり方」で仮説を検討することも可能,ということである。つまり,単に実験や観察を行って仮説を検討すればいいのではなく,その検討のされ方や考え方こそが重要なのではないか,という点である。必要なのは,実験・観察などによって「適切に」仮説を検討することができる力ではないだろうか。ただしこの点は,先の表現に現れていないだけで,実際には先生方は既に考えていることかもしれない。 もう一点は,「科学的な見方・考え方」の「的」に関わる問題である。上述のように,実験や観察によって仮説を検討することは,もはや「科学的な見方・考え方」と呼ぶべきものではなく,「科学(的営為)」そのものではないのだろうか。科学「的」という場合はむしろ,実験や観察を「しない/できない」場合に行う思考のことなのではないだろうか(この場合の観察は,日常的なものではなく,科学的/組織的な観察と考えた方がいいだろう)。 つまり,日常生活の中において,直接実験などはしないけれども,論理的に推論を行うような場合である。実際,附属小学校の紀要にも,「目指す子ども像」として,自然に親しみ,主体的に課題に追求し,科学的な見方・考え方を高め合い,生活にいかそうとする子(p.91)とある。やはり,「生活にいかす」というのは,教育目標というか視野の中に入っている事柄のようである。 そもそも,実験や組織的観察をしなければ,科学的なものの見方や考え方ができないのであれば,それは日常生活ではほとんど役に立たないはずである。日常生活の中で,条件統制のされた実験ができるような事態は,それほど多くないからである。そのことからもやはり,科学的なものの見方や考え方とは,実験や組織的な観察をしない場合に発揮されるべき能力であろう。 ちなみに,研究発表会で私が見た授業は,これまで自分たちで調べた,各種環境と人間との関係を,グループごとに1枚の広用紙にまとめる,というものであった。もちろんこの時間内では,実験などが行われたわけではないが,このようなときにこそ,科学的な見方(特定の条件があったりなかったり変化したときに,他の条件がどのように変化するか,という着目の仕方)が必要なのではないか,と思われた。実際,当日配られた指導案では,予想される児童の反応として,授業者はきわめて「科学的な見方」に基づく反応を挙げられていた。このことから,これは小学校6年生にとってはそれほど難しいことではないはずである。
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■『哲学の謎』(野矢茂樹 1996 講談社現代新書 \640) |
2000/11/24(金)
〜哲学的思考の実況中継〜哲学とは,謎を可視化する技術(p.4)だそうだ。本書は,著者がうまく論文にのせることができないでいる大事な謎を,対話形式で,明瞭に立ち上がらせることを目指した本。扱われている謎は,「生物が絶滅しても夕焼けは赤いか」「自分が赤と呼んでいる色は,他人が赤と呼んでいる色と本当に同じ色なのか」「猫の顔洗いは行為なのか」など,全部で9つある。一部は『哲学・航海日誌』(1999)と重なっている感じがする。ということは,本書を元に,これらの謎を論文化し,さらに単行本化したということか。おいしすぎる。 それゆえか,本書では,謎を十分に解明する,というところまでは行っていない。謎を考える過程の実況中継という感じ(もちろんもっと整理されてはいるが)。こんなことができるのは哲学が,謎→一つの解釈→反論→新たな謎や解釈→・・・という過程の永久運動(?)であるからかもしれない。またその意味では,『哲学・航海日誌』を読む前に本書を読んだほうがいいような気がする。 興味深かったのは,一番最後に出てきた「自由」についての議論。具体的には, すべてのパーツが自然の因果に拘束されているのに,どうして全体としてのぼくが自由でいられるんだろう(p.182)という謎である。この時点での筆者の考えは,自由とは虚構の物語のうちにある,というものである。つまり,本当は自由ではないかもしれなくても,A地点からB地点へ移動した,という物理的運動に対して,「B地点を目指した」とか「A地点から逃げ出した」などという,複数のシナリオが可能であるとき,それが,本来一通りのしかない現実に対して,さまざまな意味を与えることができ,それを我々は自由と呼ぶのではないか,ということのようである。うーむ面白い。 ちなみにこの謎は,『哲学・航海日誌』では取り上げられていなかったと思うので,またそのうち著者の見解がどこかで発表されるかもしれない。楽しみである。
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■誕生日雑感 |
2000/11/22(水)
誕生日なので,つらつらと雑感を。 この年になると,自分の年齢がすぐにはわからなくなる。それは,年齢に頓着しなくなったから,というわけではない。その証拠に,こうやって誕生日が来て,自分の年齢を再確認するたびに,こんな歳になったのか,とちょっとガーンとくるのである。毎年毎年。それは二十台のころからそうだった。 それであるとき一計を案じ,年が明けた頃から,自分の年齢を+1で考えるようにした。つまり「今○×歳」と考えるのではなく,「今年は○△歳になる」と考えるわけである。おかげで,誕生日ごとの「ガーン」は小さくなったが,逆に,思い浮かんだ数字が実年齢なのか,誕生日後の年齢なのかが,すぐにはわからなくなってしまった。これは最近特に顕著だ。ひょっとしたら,年齢による記憶力低下が混じりはじめたのかも。 今日は歴史的には,ケネディ大統領暗殺の日(今日は何の日?)という以外には,あんまり大したことはなかった日である。ちなみにうちのゼミの卒業生に,沖縄が日本に復帰したまさにその日に生まれた学生がいた。私と違って華やかな誕生日ではあるが,年齢がバレバレという難点もあるそうだ。たしかに。 あとは今日は,通産省が設定した「夫婦の日」だそうだ。いい夫婦,という語呂合わせだ。そういえばこの話,自分の結婚披露宴で,自分でしゃべった記憶がある。小規模で,新郎がしゃべりまくる披露宴だったのだ。仲人を立てなかったので,新郎新婦紹介は,新郎と新婦が出席者にお互いを紹介しあう形にした。だから正確に言うと,いい夫婦の話をしたのは妻だ。ああ,今となってはいい思い出だ。おっと,誕生日の話題からちょっとそれてしまった。 そういえば私の記憶が確かなら,今日は,ある研究系Web日記作者のお子さんの誕生日でもあるはずだ。しかし去年の彼の日記を確認してみたら,その記述がなかった。記憶違いか?と一瞬思った。が,間違いなく書かれていたはずオフ会の記述も消えていた。おそらく彼は,「書く日記」と「残す日記」を分けているのだと思う。なるほど,その手で愚痴や悪口を書くのも手かも,と,ちょっとだけ思ったりして。 小学校4年生ぐらいのときに,「誕生日までは半そでで過ごす」と決めて実行したことがあった。九州だったのだが,最後は結構寒かったような気がする。でも実はその年は暖冬だったのだ。うーむ。なんという小学生的思いつき。 ところが温度感覚の違ううちの妻。夜寝るとき,いまだに薄い布団しか掛けていない。しかしさすがに,今朝起きてきたときには,「夕べは寒かったわね」と言っていた。そうだろうそうだろう,布団をもう一枚出そうか,と言ったら,「そろそろ長袖のパジャマにしなくっちゃ」だって。オイオイ,まだ半袖で寝てたのかよ(ちなみに彼女は数日前から風邪気味である)。
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■『フィ−ルドワ−クの経験』(好井裕明・桜井厚編 2000 せりか書房 \2,400 ) |
2000/11/20(月)
〜フィールドワークとは「対話」である〜14人の研究者による,フィールドワークの経験を論じた論集。民俗学の大学院に進んだ学生から教えてもらった。全部が全部面白かったわけではないが,こういうものを読むと,フィールドワークをしたくなってくる。というか,今の私にとって知りたいことを知るための格好の手段のように思える。 本書の内容は,うまく論じられる自信はまったくないので,付箋をつけた箇所を抜書きしてコメントしておく。 フィールドワークの実践とは,調査者がどのような位置から自己の経験を語っているのか,そして,それがどのような文脈において,誰に対して語られているのか,対話的に明らかにしていくことである(p.77)これは,ある精神病院をフィールドワークした結果,そこがスタッフが望んでいるような治療共同体ではなく,権力関係のある擬似学校であることを明らかにした山田氏の言葉。そのフィールドワークの結果,スタッフは怒ったが,しかし議論の結果,彼の報告書を参考にした改善がなされたという。このようなやり取りをさして「対話」と呼んでいるようである。フィールドワークとは対話かぁ。なるほどなるほど。この言葉からすると,いわゆる科学的客観的手法はモノローグ的と言えそうである。このことと考え合わせると,フィールドワークの位置づけが見えてきそうな気がする。 (フィールドワークとは)質問紙調査でもなく,こちらの知りたいことだけを「取材」するのでもなく,メンバーの意味の世界に少しでも近づく試み(p.85)この筆者(蘭氏)は,ハンセン病療養所入所者のライフヒストリー聞き取りをしている。その彼女が,アメリカで社会学の授業を受けたときにエスノメソドロジー的フィールドワークにであったときの喜び(?)を表現した言葉だ。以上の2つの箇所は,フィールドワークとは何か,という私の関心から付箋をつけた箇所。 (痴呆老人に対して我々は)「どうせ今言ったことも忘れるだろう」と,その時々の受け答えで適当にごまかすことが可能な対象とみなしがちになる。それは,彼らが我々と同様「それ自体が情緒的活動であるような主体」であることを見失い,「呆けゆく」当事者の声を失効化し,彼らの存在を不可視なものにする契機でもある。(p.207)フィールドワークの結果,痴呆老人の問題行動は管理者側が作り出している面があり,痴呆老人にも呆けることからくる気づきや不安,悲嘆の体験をしており,自己存在の確認を行っていることを示した,出口氏の実践。この部分は,個人的な興味から付箋をつけた部分ではあるが,フィールドワークによって何が明らかにできるかが示された部分ともいえる。 それらは単なるアンケートの回答なのではなく,私への<手紙>のようなものだとみなすことは許されるのではないだろうか。(中略)フィールドワークと銘打っているにもかかわらずアンケート調査を行うことを不思議に思われる方もおられるかもしれないが,「恥知らずな折衷主義」のフィールドワークではよくあることなのである。(p.237)非常勤先の専門学校の授業で行ったアンケート結果を報告した宮内氏の実践。彼の授業では,学生のニーズを踏まえ,学生のコード(仲間内だけで通用する言葉)を学び,それを使って講義をするという。また,授業外での学生との交流も多い。確かにそのような状況では,学生アンケートの分析(記述データの分類が主)もフィールドワークになりうるだろう。著者は,そこに書かれていることには,書かれているまさにそのときの私たちの関係が色濃く反映されている点からも,フィールドワークの産物(上で<手紙>と表現されている)と考えているようだ。とはいってもそれらはまったく十分ではないとの注釈はついているが。いずれにしても,やりようによっては授業でフィールドワークできる,というのは収穫だ。
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■『認知心理学における論争』(丸野俊一編 1998 ナカニシヤ出版 シリーズ心理学のなかの論争1 \2800) |
2000/11/16(木)
〜論争を通して認知心理学の将来を知る〜日常生活の文脈から学問としての心理学を問い直し,創造的・批判的な知的対話状況を生成する(p.i)ことを目的として,認知心理学における11の論争を取り扱った本。最近の流行り(?)である,身体,創造,状況に開かれた認識,日常性,文化固有性が扱われており,興味深い話も多いし,ここから,認知威信理学の今後の方向性が見えそうな感じがする内容もある。というか,それを狙った本なのだろうと思う。とはいっても,私が本書の題からイメージしていたような内容の章ばかりではなかった。論争とは言っても著者がすでに一方の立場に立っており,他方に対するそちらの優位性を述べているような章もあったりして。 論争を中立的な立場で扱った章で面白かったのは,5章の「イメージは創造をささえうるか:イメージ論争再び」。イメージ論争というと,イメージが「絵のようなもの」か「命題」かで争われた論争しか知らなかったが,これは1970年代に活発に議論された末,1980年代を迎えて明確な結論を得ることなく,消えていってしまった(p.122)。というか,表象のかたちを実証的に決定することの不可能性が説かれるようになり,それが多くの研究者に受け入れられるようになった(p.129)そうだ。なんと,そうだったのか。 しかし現在,多義図形問題という新たなイメージ論争が起きている。これは,多義図形がイメージの中では多義的に見ることができない,という現象をめぐっての論争だ。そこから,イメージのもつ創造性,創造的な思考でイメージが果たす役割についての疑問(p.126)が生じる。しかし,イメージの再解釈を可能にする条件もいくつか明らかになったりしているようだ。なかなか面白そうな状況ではないか。 その他,興味を引いた記述の抜書きとコメント。 心理学の歴史をみてみると,いろいろな考え方の対立は,”心とは何か”と,”科学とは何か”の2つの問題をめぐって,生じていることがわかる。(p.7)うまい。確かに,心理学の理論や方法論の揺れは,この振り子に由来していることが多い。すべてではないにしても,ある程度はこの観点から心理学の論争が整理できそう。ただこの観点で整理できるということは,結局は「定義」や「人間観」の問題になってしまうようだが...(たとえば2章「認知が先か情動が先か」がそうである) (既有知識と理解について)物理学者7人に学会誌を読む活動についてインタビューしたところ,(中略)自分の知識を洗練させたり,確証をあたえたりするような情報をとりだすことは巧みだが,自分の知識を変えるような情報には鈍感であることを見いだしている。(p.185)「文章を理解する過程はトップダウンかボトムアップか」という章から。章の問題設定自体は,「結局両方」に落ち着く,あまり面白くないもので,内容も概論書的なものだったが,この記述は面白かった。結局,科学者の科学活動でも,信念バイアスが中心的に働いているということか。 (仮説と矛盾するデータが得られたときの7反応)1)そのデータを無視する。2)方法論上の問題や誤差のせいにしてそのデータを棄却する。3)自分の理論の対象外であると判断して,そのデータを除外する。4)自分の理論は現在のところそのデータを説明できないが,将来的に理論が精緻化されるとその理論で説明できると考える。5)そのデータを自分の理論にあてはまるように再解釈する。6)そのデータを受けいれて,自分の理論のあまり重要でない周辺部分を変更する。7)そのデータを受けいれて,理論を変更する。(p.201)「仮説をめぐるいくつかの仮説」という章。研究に仮説は必要か,いつ必要かという問題で,これは論争になっているトピックというより,著者がこれから論争を仕掛けようとして常識に挑戦している,という感じの内容だ。上記の記述も,科学が論理実証主義者の言うような単純かつ論理的な過程ではないことがよくわかる。
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