読書と日々の記録2001.12下
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■読書記録: 31日短評9冊 30日『〈政治参加〉する7つの方法』 28日『日常生活の認知行動』 24日『ジャンヌ・ダルク』 20日『精神療法面接のコツ』 16日『てこ・滑車・仕事量』
■日々記録: 26日この1年 22日なぜクリティカル進化論は受け入れられるのか? 17日減量終了1ヶ月

 

■今月の読書生活
2001/12/31(月)

 今月は,強くインパクトを受けた本や,今後,大いに役に立ちそうな本があった。『「私」というもののなりたち』『教育方法学』『日常生活の認知行動』である。その他の本も割とおもしろかったような気がする。

 最近,本をいただいたりしたことがいくつか続き,積読本の山が高くなったりしたこともあって,読むペースが少し上がってるかもしれない。といっても今月分には,そういう本は入っていないのだけれど。

 ということで,今年1年に読んだ本は180冊(再読本13冊程度を含む。ダイエット本数冊は含まず)。やはり,去年末に考えた200冊の壁はなかなか破れそうにない。まあ無理してたくさん読むことはないのだが。

『子どもをはぐくむ授業づくり−シリーズ教育の挑戦−』(秋田喜代美 2000 岩波書店 ISBN: 4000264494 \1,700)

 教育における「育ち−育み」の関係の重要性を訴える本。内容は,欧米における関連研究の紹介,アクションリサーチも含め筆者が携わった研究の紹介,筆者が直接学校に通って見た授業の話など,盛りだくさんである。理論的(?)には,学びの共同体とか,関係とか,活動とか,協同とか,文化とか,同僚性など「文化実践としての学習論」の人たちがよく使う語が出てくるので,当然一派(?)だと思っていたが,本物の文化実践,外側の文化って何だろう(p.147)という疑問が呈されていたり,あいまいな語を用いて,私自身が出会った教室の出来事を記述し,これからの学校の展望を語ることは,研究者として実に危うい冒険この本を書くのを何度も中断しためらった(p.197)とためらいが表明されている。ああ,だから「出来事の記述」だけでなく,研究や欧米の理論家の話が出てきて,研究書っぽい雰囲気を残しているのか,と納得した。

『子どもの文化人類学』(原ひろ子 1979 晶文社 ISBN: 4794958056 \1,300)

 子どもや子育てに関する,文化人類学的なエッセイ。子育て雑誌に連載された文章を集めたもののようで,全体的な統一はないが,読者が日本の子育てを相対化できるよう,いろいろな形態の子育てが紹介されていたり,そこから文明批判的な話になっていたりする。なかでも,筆者自身が11ヶ月すごしたカナダのヘアー・インディアン(厳寒の地でテント生活をする狩猟採集民)の話が多い(そればかりではない)。ヘアー・インディアンは「教えない文化」をもつ(教えるという概念がない)ということで,読んでみた。確かにヘアー・インディアン語には「教える」「教えて」という語彙がなく,「〜を覚えたい」と教えを乞うても,相手にしてもらえないから,「自分で観察し,やってみて,自分で修正する」(p.188)ことによって自分で覚えないといけない。そこから,子育て教訓話的なものとして筆者は,日本に帰って来て,まわりを見まわしたとき,子どもも,青年も,「教えられる」ことに忙しすぎるのではないかとか,自分の心に浮かぶ好奇心を自分のペースで追及していくためのひまがない子どもが多いことは,悲しいことだと思いますとか,自分の世界を築く自信を失わないためには,「よく観て」,「自分でやってみる」という時間が必要です(p.201)と述べている。

『七つの科学事件ファイル』(ハリ−・コリンズ & T.ピンチ 1994/1997 化学同人 \1,800)

 再読。やはりおもしろい。科学に興味のある全ての人にお勧めしたい。以前読んだときは,科学論的な議論の実例集として読んだが,今回は,著者が社会学者ということもあって,社会学的な観点に着目した。著者も述べているが,ある論文の内容がそれほど決定的なものではないにも関わらず,その後の議論の行方に決定的な影響を与えた,という事例は結構多い(たとえばp.38)。こういうことからも,科学がいかに社会的な営みかがわかる。もっとも,自分自身がそのような社会的営みの土俵に乗るには,議論を巻き起こすような問題提起をする必要があるのだが。

『総合学習を創る−シリーズ教育の挑戦−』(稲垣忠彦 2000 岩波書店 ISBN: 4000264451 \1,700)

 総合学習を,過去,海外,現在に学ぶ本。「過去」は,日本で明治〜大正期に行われた総合的学習的な授業が紹介され,「海外」はイギリスのトピック学習が紹介される。イギリスでは日本とは逆で,従来はトピック学習が主だったのが,近年になったナショナルカリキュラムが導入されたという。「現在」は,日本で総合的な学習を行っている教師の紹介。長野の牛山氏は,長年小学校高学年だけを受け持ったあとで1年生担任となって壁に突き当たり,子どもを動かしてやろうなんてことより,とにかく彼らが動き出す場の中で学習を果たすことを考えざるを得なくなった(p.139)と言う。そういう話は興味深いが,そのような総合学習が具体的に,どのように展開されていくのかを,実感できるレベルで知ることはできなかったのが残念。それがないと,本当に自然な「総合・横断」的な学習になっているのか,あるテーマに教科内容を「こじつけ」ているのかがわからないので(そう見えなくもないものもあるので)。

『流言とデマの社会学』(広井脩 2001 文春新書 ISBN: 416660189X \700)

 流言の中でも,ほかの本でほとんど扱われていない災害流言や風評被害に焦点を当てた本。流言は心理学者も社会学者も扱うが,心理学者は,流言を「人間の感情や欲求の表現」とみなすのに対し,社会学者は,これを「社会的相互行為の産物」と考えている(p.38)そうである。社会学者によると,「流言は情報の需要と供給のバランスが崩れたときに発生する」「流言は,集団の共同作業によって作られていく」(p.53)と考えるらしい。なるほど,心理学の本に載っている流言の話(ほとんどがオールポートの紹介だ)と違っていて面白い。本書全体は,それほどでもなかったけど。

『消える授業残る授業−学校神話の崩壊のなかで−』(小西正雄 1997 明治図書 ISBN: 4181661059) \1,320

 従来的な入力型の授業ではなく,出力型の授業を提唱している本。入力型の授業とは,教師が熱心に教材研究を行うことによって生徒よりも知識を増やし,その情報格差を解消するために知識を伝授する,という授業である。出力型授業は,一例として「名前の付いていない坂に名前を付けよう」という実践(小学校3年生対象)が紹介されていた。生徒たちはどの名前がいいかを論じるなかで,名づけのルールを共有したり,その地域の地理的な認識を身に付けていくようである。こちらは入力型のものと違い,教材研究はしない(場面設定をする)し,教師が情報を伝授するのではなく,生徒が意見を出し合うなかで情報格差を縮めていく(著者は価値観偏差縮小と言っている)。似たような授業を見たことがある,と思いながら読んでいたのだが,「文化実践への参加としての学習」論で,このような「作ってみよう」型の授業が紹介されていたように思う。あるいは,研究者様活動(RLA)を実践させる授業も同じではないかと思う。なお,筆者は入力型授業の典型として,有田和正氏の授業を挙げられていたが,『大愚問』(という雑学の本)を読めば答えが書いてあるような話題を真剣になって追求しようとは誰も思わない(p.29)という記述を見るかぎり,筆者は有田氏の実践をあまり知らずに書いているように見受けられた。

『養老孟司・学問の挑発−「脳」にいどむ11人の精鋭との論戦−』(日経サイエンス編集部 2000 日本経済新聞社 ISBN: 453216334X \1,400)

 サブタイトルどおりの本。知識を得るという部分以外で面白かった点。それぞれが,既存の考えを乗り越えようとして,それぞれに考え方や攻め方に工夫があるわけだが,それらが,読みようによっては他の対談者の批判風になっていること。たとえば工学系の人は生物系の方法論の限界を語り,生物系の人は工学系の発想の限界を指摘するとか。環境を重視する人もいれば,脳だけでいいと考える人もいるし。あと,11人の配列もナカナカで,一番最後の人のところで養老氏が,「研究を"安心して"やっているところ」が問題だとか,「既存の枠の中なら安心して研究をやっていけても,本当の姿は見えない」(p.244)と言っている。対談者もそれに応じて,「物理学などで典型的にやってきた方法そのまま」「脳の場合にはそれだけではたぶん駄目だろう」(p.245)と返している。

『サンタクロースっているんでしょうか?−子どもの質問にこたえて−』(フランシス・P.チャーチ 1897/1986 偕成社 ISBN: 4034210109 \800)

 学生のお勧め本にもあがっていた,有名な本。まあ,邪道な読み方だということは充分承知の上で言わせてもらうと,論証としては不十分である。強い言い方をするならば「いいくるめている」ともいえる。ことがらの性質上しょうがないという考え方もあるかもしれないが,もう少し別の説明の仕方もあるのではないかと思う。もちろん「科学にうったえる」みたいな話ではなく。たぶん,「いる」という結論が先にあるから,そのあとの展開に無理が生じるんだな。せめて「私はいると思っている。なぜならば・・・」みたいな話にすれば,ほかの部分はあまり変えなくても,無理が減るのではないだろうか。もとの質問者が8歳なので,娘が8歳になったら読ませてみるか。

『総合的学習の理論とカリキュラムづくり』(寺西和子 2001 明治図書 ISBN: 4180338122 \1,860)

 残念ながら私には,本書からは,総合的学習の理論に関してもカリキュラムづくりに関しても,得るものはなかった。

 

■『〈政治参加〉する7つの方法』(筑紫哲也編 2001 講談社現代新書 ISBN: 406149547X \680)
2001/12/30(日)
〜できそうな範囲での参加〜

 タイトルどおりの内容の本である。第一章では,情報公開制度を利用して,市民オンブズマンが,たとえば各都道府県庁の「食糧費」支出決済文書の開示請求を行う,とった活動が紹介されている。そういうことが全国的に行われた結果,現在では,食糧費を使った「官官接待」は消えた(p.45)そうである。その経費節減額は,全国合わせて年間330億円はくだらないという。

 なるほどこれは確かに効果的だ。そうは思った。しかし,タイトルにあるような(私たちの)「政治参加」とはちょっと遠いかな,とも思った。情報公開請求なんて,私がある日ふと思い立って,適当にやって効果があるというわけではないだろうし。それなりの知識と組織力があり,事情に明るい人でないと,本筋にたどり着く前にいろいろな障害(事務手続きとか法律的な問題とか)でもたついたりつまづいたりしそうである。もちろん本筋のところでも,何に対して情報公開請求し,出てきたものをどう見ればいいのかも,知識がなければわからないだろうし。結局のところ,政治参加なんて簡単なことじゃないんだな。そう思いながら,やや暗い気持ちで続きを読み始めたところ,次の章からは,様子が違っていた。

 結論からいうと,なるほどこれなら,私でも少しでも参加できそうだと思われるような方法が並んでいたのだ。しかも,どれも政治の現状を変えるのに十分だ,と思えるようなものだった。

 たとえば,吉野川河口堰住民投票の会の代表世話人が,そのときの経緯を執筆している。この件については私はほとんど知らなかったのだが,その具体的な経緯がわかった。それによると彼らは,賛成派でも反対派でもない「疑問派」というスタンスを取り,住民自身がいい情報も悪い情報も全部まずは知る。そのうえでどちらを選択するかという状況を作っていく(p.82)ことを目指したという。そのうえで,シンポジウムを重ね,河川技術者が仲間に加わり,建設省の過去の報告書や河川工学の専門書を勉強し,シンポジウムに建設省サイドの人間を呼んでいる。

 治水や利水という専門性の高いことがらに素人が口を出していいのか,という疑問もあるかもしれないが,建設省はその直前ごろから,ダム計画のあるところでは「ダム審議委員会」というものをつくり,その計画を地元で審議をする方針にしていた。しかし人選が推進派に偏っているのが実態であった。つまり建設省も民意は重要だと認識していたわけだ。一方住民としては,もし仮に民意と違いそうな結論が出たとすれば不本意だろうし,何らかの形できちんと民意を示したいと思うであろう。その意味で,住民投票を頂点とする一連の活動は,住民なりの「ダム審議」であり,建設省の方針の理念から考えても,さほどおかしいことのようには私には思えなかった。

 実際,県内世論は反対多数(参院選でも反対の民意が示されたらしい)であるにもかかわらず,県内自治体は推進決議を出し,ダム審議会も建設妥当の答申を出した。そこで彼らは,住民の意思をきちんと表示するためには住民投票しかない,と考えるようになったようである。そこで10万人の署名を集めて住民の直接請求による住民投票条例案が提出されたのだが,議会では否決されてしまう。その後,住民投票が最大の争点となった市議会議員選挙を経て,改めて住民投票条例案が提出され,ようやく可決に至るのである。住民投票の結果は,投票率55%,そのうち反対票が90%以上であった。さらにその後の市長選挙で,可動堰反対を公約に掲げた現職が当選している。

 この過程の中で,選挙の投票率がそれ以前に比べてアップするなど,市民の政治に対する意識が変化している。筆者も,第十堰問題がある限り,政治家も政党も市民の考えを真剣に意識せざるをえず,一方市民は一人一人の弱い存在ではなく政治をコントロールできる立場にあることをしっかりと実感できる(p.102)と述べている。そのような立場での政治参加なら,誰にでも可能だろう。もちろん最初から反対派である必要はなく,「疑問派」として,情報を求めたり,疑問を表明したりすることは可能だろう。

 このほかに本書で紹介されているものは,以下のものである。岐阜県御嵩町の産廃処分場建設に関する住民投票(後者は全国で3番目のものだそうだ),全国の選挙戦で行われつつある候補者同士の公開討論会,田中康夫長野県知事誕生を応援したインターネットを中心とした勝手連の活動,政策提言を行うNPO,議会であれ首長であれ,女性候補者を支援する超党ネットワーク(WIN WIN)の活動,選挙に行こうと訴える「選挙に行こう勢!」という団体行動。このほとんどが,個人個人が会として活動しなくても,選挙に行く,投票をする,討論会に出席する,など,行えることがある。そしてそれは,私たちがが政治をよく知り,よく考える,よく行動するための材料を提供してくれるものである。

 政治というと私は,『レオニーの選択』を読んで,現代の民主主義がいかに問題点をはらんでおり,行き詰まりがあるかを知り,暗い気持ちでいたところだ。しかし本書で語られているのは,そういう理屈の話ではない。

 本書で書かれている例の多くが,政治家ではない一般の人々が,疑問に思ったことや必要だと思ったことを,行動を通して具体化したものであり,結果的として,有権者の意識が変わり政治自身が変わっているのである。語られているのは理念ではなく,現実レベル,行動レベルである。議員に投票したらあとは白紙委任ではなく,住民は住民なりに住民のやり方で考え,情報や意見を求め,行動する。投票にしても,投票という行為自体よりも,投票のために情報を集め,あるいは公開討論会のような形でほしい情報が利用しやすい形で提示されたときに,それを積極的に利用することが重要なのであり,投票はその結果として生まれると考えた方がいいのかもしれない。そうやって,できることをやっていくなかで政治に参加し,その過程で政治が変わっていく。私たち一人一人が政治に参加し意見表明するのも,単なる投票や立候補だけではない道があるということを教えてくれた,興味深い一冊であった。

 

■『日常生活の認知行動−ひとは日常生活でどう計算し,実践するか−』(ジーン・レイヴ 1988/1995 新曜社 ISBN: 4788505169 \3,200)
2001/12/28(金)
〜学校数学とは違う数学のもつ理〜

 実に難しい本だった。しかし,非常に重要そうなアイディアのはいった本なので,わからないながらも,自分の復習がてら,ここにまとめておく。

 本書の原題は"Cognition in practice",邦題どおり,実践(=日常生活)のなかで人がどのように認知活動を行っているかを明らかにした本である。それは,従来考えられているような,「頭の外の世界の出来事を,頭の中で処理して認知する」という形をとるのではない,と筆者は考える。ではどう考えるのか。

頭のなかにある知識の構成が,頭の外である社会的世界と複雑な関わり方をしているということではなくて,どうにも分けることの不可能なあり方で社会的に組織されている(p.1)
このことが,日常の認知活動(主に計算)をエスノグラフィを中心とした研究を通して見えてくる。そのような内容の本である。筆者の基本的立場は,状況的学習論と言われるもの,学習を状況に埋め込まれたものと捉える立場である。

 本書の中核をなすのは,AMP(Adult Math Project:成人数学プロジェクト)である。これは,日常の状況のなかでの認知の実践としてどのような計算がされているか(p.5)に関する研究である。それは「食料品の買物をするときにはどういった数学を使っているのか?」というエスノグラフィックな疑問から始まった(p.168)。そこでこのプロジェクトは,食料品を買う一連の過程(自宅での買い物の準備,スーパーでの買い物,その後の自宅での買った物の収納)をすべて観察することからはじめられている。また,買い物時の計算に関する面接や数学テストも行っている。これらから得られた知見をもとに,買い物において数学が使われる状況として,2つの類似品のどちらが得かを決める場面が選び出され,「お買い得問題」という形で実験室実験(面接の入った模擬実験)が行われている。それによって,観察から得られた仮説が検証されているのである。

 計算に関する結果は興味深い。参加者は,数学テストでは平均59%しかできなかったのに,お買い得場面実験では93%,日用品の買い物では98%正解しているのである(p.84)。このような結果は,テストの成績で測られる能力が,日常での計算の正確さの指標とはなりえないことを示している。

 この研究と表面的には類似しているが,外界を頭の中で認知するという従来的な二分法にもとづいているものとして,ケーポンとクーンという人たちがスーパーマーケットの品物の単価計算に焦点を当てて,大人における認知発達の水準を調べた(p.151)ものがある。こちらは正解率が平均44%と,AMPのお買い得実験の半分以下である。その理由は問題の立て方の違いにあると,筆者は考えている。ケーンとクーポンはどうやら,「日常場面のどこに比率の比較が見出されるか?」と考えた(p.168)ようなのだ。この問いの立て方は,「形式的操作による計算」を自明かつ理想と考えたものである。だからそれが存在することを前提として,「どこに見られるか」という問いになっているのである。その結果,日常場面とはいいつつも,きわめて学校におけるテストのようなセッティングになっており,被験者もそのつもりで答えたために成績が低かったと筆者は考える。

 しかし日常では,計算のような形式的操作的,脱文脈的な認知が自明なものであるとは限らない。だから筆者は「どういった数学が使われるのか」という問いを立て,観察(エスノグラフィ)から研究を始めているのである。そして学校での問題とは違って日常では,問題は自分で自分の状況や価値観に応じて自分なりに設定され,解けそうにない問題は放棄されるし,買い物やダイエット計算のようなルーチン的な事柄に対しては,汎用性は低くてもその場の状況に最も適した簡便な(しかし正確な)解き方が採用されることが多いことが明らかにされている。

 また,AMP参加者への面接で明らかになった,金銭管理についての考え方も興味深い。彼らは,価値の普遍的規準や交換の媒体といったことに重きをおいておらず,お金の使い道や流れを作り出すことに努力が向けられており,それはさまざまな価値の表明である日常の活動の固有の性質を作り出し,反映してもいる(p.196)という。なんだかわかりにくい文章だが,簡単にいうと,用途に応じて収納場所を変えており,そこに価値観が反映されているということのようだ。このようなことは,『賢いはずのあなたが、なぜお金で失敗するのか』では,お金に失敗する原因として問題視されていたが,本書では(というか日常の実践のなかでは)それが意味あることとして扱われているのである。このように,どういう立場や視点をとるかによって,人の金銭管理の意味や是非に対する考え方が変わってくる。どちらが適切かに対する答えは,どちらの研究や考え方が,人の日常における認知をうまく捉えてていると感じるかによって,まったく違ってくるだろう。

 本書の後半ではこれらのような特徴が,弁証法的とか,矛盾とか,ギャップを埋めるという言葉を用いて説明されているが,そのあたりはあまりよくわからなかった。ただ,日常における実践が,ルーティンだが生成的であり,ルーティン化した選択に矛盾がある(p.234)という特徴をもっていることは,なんとなくわかった。そして,その制約のなかで問題を自ら設定し,彼らなりの方法で解決するため,高い正解率を示すし,それが学校数学的な解き方ではなくても,それなりの理(ことわり)をもっていることもわかった。もっと深く理解するためには,再読するか,日本語で書かれた,もっとこなれた解説を読むかせねば。

 

■この1年
2001/12/26(水)

 世間的にはちょっと早いが,日々の記録を更新するのはおそらく今日が今年最後なので,この1年を振り返ってみたりしてみる。私的10大ニュースとでもいおうか。重要度順ではなく,なんとなくジャンル別,時間順に。

まずは日常生活から。

  • このページを読んでくれた方との交流があった。メールをいただいたり,Webページなどで取り上げてくれているのをみて,こちらからコンタクトを取ったり。そうこうするなかで,ご著書をいただいたり。昨年は,面識のない方からのメールはたしか1件しかなかったと思う。それからすると,えらく増えている。ありがたいことである。

  • 単なる知識伝達ではない授業を模索した。「答のわかっていない問い」に対して,討論を中心にした授業をやってみたのだ。まだ一歩を踏み出しただけの状態で,ぜんぜんうまくいかないし,思い通りにも行かないのだけれど。

  • 妻と一緒にメールにはまった。妻や妻の知人と,毎日何通も雑談的やり取りをしたりして。考えてみたら,これがもう5ヶ月も続いている。

  • 減量できた。とてもできないだろうと思っていたのに,できた。おかげで,風邪を引きにくくなった。1年後には,「体重を維持できた」と書きたいものである。

続いて読書生活から。

  • 考えることについて,目を開かせてくれ,いろいろと考えさせてくれる本数冊にめぐり合えた。これは大きな収穫であった。

  • 仮説実験授業について,知見を深めることができ,同時に,その意味についていろいろと考えることができた。

  • 状況的学習論を知った。まだ十分にわかったとはいいがたいが,もっと自分なりに消化して,研究や教育に役立てたいものである。

  • 反省的実践を知った。まだ十分にわかったとはいいがたいが(以下略)。こういうよい概念に出会うと,それまでなんとなくモヤモヤとしていたものが,すっきりして気持ちいいものである。

  • 関係論的発達観・自己観を知った。まだ十分にわかっ(以下略)。これら3つはおそらく,別々のものというよりは同根もしくはつながりがあるものであり,従来的なパラダイムや人間観に代わるものになりうるのではないかと思う。

  • 今年も,あまりペースを落とすことなく本を読みながら考えることができた。もっとも読書のスタイルは,妻や娘たちの出方によって大きく左右される。とくに娘が成長しつつあるいま,だんだん読書時間が取りにくくなっているのだけれど。

 こうして見てみると,私のこの1年の重要なできごとは,大半がこのページのなかにあるなあ。

 

■『ジャンヌ・ダルク−超異端の聖女−』(竹下節子 1997 講談社現代新書 ISBN: 406149337X \660)
2001/12/24(月)
〜正統−異端の二分法を越えて〜

 クリスマス・イブだからというわけではないが(というわけも少しあるが),カトリックの聖人についての本を。本書は,どんな本か知らずに買ったのだが,案外おもしろかった。

 ジャンヌ・ダルクって,名前はよく聞くのだが,どんな人なのかは,ほとんど知らなかった。簡単にいうと,15世紀,イギリス軍に侵攻されて陥落寸前だったフランスの窮地を救った人である。鎧を着て戦争に参加して勝利をもたらし,フランス王の戴冠を実現させたのだ。それがどうしてカトリックと関係するかというと,彼女が行動を起こしたのが,聖ミカエル,聖カタリナなどの聖人からの「声」に基づいているからなのだ。しかしそのことが後に,異端,魔女として対立勢力に糾弾され,最後には火刑に処せられてしまう。19歳のときのことである。その対立勢力には教会の有力会派も含まれる。しかし1920年には「聖人」に列せられているのである。この点が,本書が着目している「超異端」である。

 無名の神懸り少女がフランスを救う,という話は,異端が正統を活性化する話,と捉えることができる。それだけでなく,ジャンヌの生涯やその後の扱われ方を見ると,正統と異端という歴史上の区別そのものが未分化である(p.34)ことが言える。そのことを著者は「超異端」と呼んでいる。それは,正統−異端という二分法からはみ出た部分であり,それらのカテゴリーを超えたものである。それは次のような形で,時代を映す鏡となる。

一方で,超異端の動きのあるものは,見せしめの異端として正統の地平に引きずり降ろされて公式に弾劾されることがある。けれどもまた,それとほとんど同じものでも,別の文脈の中では,正統のレッテルを貼られるばかりか時代の模範として賞揚されることさえあるのだ。(p.36)

ジャンヌ・ダルクの場合も,生きていた当時からはじまって,長い間,魔女と見る人と聖女と見る人とが常に両方いた(p.44)という。正統としてフランス国王に迎え入れ,異端として火刑に処せられ,正統として聖人に列せられたという彼女の扱いは,まさに超異端である。

 超異端は,ジャンヌ・ダルクによって突然あらわれたわけではない。中世は,カトリックという男性中心の思想によって女性が表舞台から排除された。しかしそれゆえに,子どもの教育者,民間療法やおとぎ話の伝承者として女性は時代を深く担っており,そのなかから多くの「超異端的聖女」が現れたのだ。ジャンヌ・ダルクはそのような系譜のピークに存在すると見ることができる。

 本書で取り上げられている,超異端としてジャンヌ・ダルクへの道をつけた女性(聖人だけではない)として,復讐の女神として戦場で戦ったジャンヌ・ド・ベルヴィル,火刑台で死にながらベストセラーを後世に残したマルグリット・ポレート,神秘体験に翻弄されながら行動の人であることをやめなかったシエナのカタリナなどがいる(p.212)。聖カタリナなんて,その名前を冠している大学もあり,どんな人かと思ったら,空中浮揚を体験したり無茶な苦行をしたりイエスの声を聞いたり,死刑台の上で死刑囚の血まみれの首を抱えて恍惚境に入ったり(p.83)した結構変わった人だったことが本書で分かった。

 そのような人たちは,民衆のヒロインとして,中世という時代を担い,民間信仰や民衆の共同幻想の対象になったりしている。そして興味深いのは,カトリックの聖者のシステムが,そのような人たちを回収して聖者として正統の系譜に位置づける役割を果たしているのである。その意味では『聖者伝』はまるで「超異端」の温床のようなもの(p.199)と筆者は述べている。

 結局本書は,ジャンヌ・ダルクの本ではない。いや,もちろんジャンヌ・ダルクの本で,彼女に一番スペースは割かれているのだが,それだけではなく,ジャンヌ・ダルクが生み出され,受け入れられた中世という時代を論じる本であり,民衆とカトリックの関係がわかり,フランス人の心性がわかる本である。そして,「超異端」という,正統−異端の二分法を越えたものについて教えてくれる。この考え方は,あらゆる二分法,あらゆる異端を相対的に見るうえで役に立つ見方であるように思う。

 

■なぜクリティカル進化論は受け入れられるのか?
2001/12/22(土)

 Web書評をやっている知人が,拙著『クリティカル進化論』を紹介してくれた。書評ページはこちら。評されている本は,ミステリやハードボイルドなど,娯楽系というかワクワクしそうな本が中心である。彼は,週2冊の書評をはじめて半年なのだが,つい読みたくなってしまうような,読者心をそそる書評を書くのがうまい。しかも,(私のように)パターン化された読書記録ではなく,毎回のようにひねりや一工夫を加えている,意欲的で頭のいいアマチュア書評家である。私は彼を「師匠」と呼び,日に何通もメールのやり取りをしている(そのほとんどはバカ話。師匠と呼ぶ理由の一つは,彼が私を「大先生」と呼ぶからなのだが)。

 ところで今回,彼に「クリティカル進化論はこれまでに書評されているのか」と聞かれて,久々にWeb上でクリティカル進化論に言及しているページをいくつか眺めてみた。好意的に取り上げてくれているページが多いのだが,それを見ながら,「なぜクリティカル進化論はこのように受け入れられているのか?」と思った。

 これは今回はじめて思ったことではない。そもそも2年前,クリティカル進化論が出たときから,私自身思っていたことなのだ。最初からこういう疑問の形をとっていたわけではない。最初に私が思ったのは,「これはいったい何についての本なのか?」ということである。へんな話なのだが,私は出版当時,それをうまく簡潔に表現することができなかった。しょうがないから,本書のことを紹介するときには,すでにいくつか出ていた書評を参考にしながら,この本がどういう本なのか,ということを私自身,捉えなおしていたような状態なのである。

 もちろん,もう2年半たっているので,今ではそれなりの見解をもっている。しかしそこから派生した疑問が「なぜ受け入れられているのか?」である。マンガを使っていて語り口が平易,という表面的なことはさておき,いったい何をもって「おもしろい」とか「オススメ」と思っているのだろう。ものごとをじっくり考えることは重要なことだし,理念としてそれに反対する人はいないのだろうが,あんまり考えてばかりいたら,世の中がスムーズに流れていかないのではないか。

 実際,学校教育にしても会社にしても,なんやかんや言っても,最後は「効率」である。効率よく知識を身につけさせ,効率よく社員を動かして儲けを得る。そこには思考停止が必要である。学校の先生にしても,生徒が先生の言うことにいちいち疑問をもったり批判したりしたら,困るであろう。よっぽどの覚悟をしている人以外は。世の中のすべての読書人が書評家になる必要がないのと同じように,世の中のすべての人がクリティカルシンカーになる必要があるのだろうか,などと思ったりするのである。ちょっと極論かもしれないが。

 そこで「師匠」である彼に,そのようなことを書いてみた。そこで来たのが次のメールである(一部のみ)。

思うに、世の中単純な人のほうが多いんですよ。 クリシン読む前から、今度のビンラディンのビデオ見ても 状況証拠としては弱い材料だと思うのに、米国政府の人間でなくても 犯人に間違いないと言う人のなんと多いことか。 犯人である可能性が何も材料のない段階から、ワンステップしただけなのにと、 単純さに欠ける私は思っていたのです。 まあ、単純さに欠ける嫌いはあるのですが。
単純に、面白いですよ。 わかりやすいから。 嫁さんに短絡的発想はやめろ!というかわりに、 クリシンのあのOLと一緒の発想じゃんと言えますから。

 なるほど,ポイントは「単純」。そして単純の対象は2つある。

 1つは「世の中単純な人のほうが多い」という意味の単純。だからそういう人に対して,あるいはそういう人に対処するときに,啓蒙として役に立つ,ということだ。まあこちらは,そのような「人の単純さ,誤りやすさ」を念頭において作ったわけだから,よくわかる。

 そしてもう一つ。「単純に、面白い」という単純である。クリティカル進化論自体がもつ単純さ,おもしろさ,わかりやすさである。こちらも,意識的にマンガやくだけた表現を使ったり,スローペースの導入にしたりして,意識していた部分ではある。

 しかしこの2つの「単純さ」を結ぶことができることに,このメールで気づいた。つまり,「世の中の人の多くは単純なので,クリティカル進化論のような単純なものを好む」ということである(実際にはそこまで売れているわけではないが(^^;;)。この本を買ったり評価している人が単純だ,といいたいわけではもちろんない。しかし,単純におもしろいからこそ,そこそこ受け入れられた,ということは言えそうである。手軽に啓蒙の香りを嗅がせてくれる,というわけである。

 そういう「お手軽な啓蒙」という意味では本書は,この本の冒頭で批判している『脳内革命』のたぐいの本と同系列ということもできる。もちろんこちらとしては全然違うと思っているし,単純なところで収まらないように,読者に考えるような余地を残す努力をしている。しかし「単純,おもしろい,わかりやすい」路線を目指そうとすると,ある程度はそういう側面をもってしまうのである。受け入れられるためにはある程度単純でなければならないというか。なかにはクリティカル進化論でも難しい,という感想を漏らす人もいるが,これ以上やさしくすると,ますます『脳内革命』的になってしまうであろう。この路線でいこうと思えば,これが限度かもしれない。

 もっとも師匠のメールが,そういうところまで意図しているのかどうかはわからないのだが。説明が少なく行間の多い文章なので。しかし私としては,上記のような説明を考えて,大いに納得した次第である。

 

■『精神療法面接のコツ』(神田橋條治 1990 岩崎学術出版社 ISBN: 4753390055 \3,000)
2001/12/20(木)
〜技法は異物,理論は方便〜

 筆者は著名な精神療法家(医者)である。本書の内容はタイトルどおりであるが,このタイトルから一般的にイメージされることがらとは,だいぶ違うかもしれない。一般的には「精神療法面接のコツ」というと,技法の紹介と,その理論的な説明を想像するのではないかと思う。しかし,技能や理論に対する筆者の考えは,実に興味深い。

 筆者は技法を,異物であり平和を乱すものであり不自然な人工産物であり必要悪であり劇薬(p.28-30)と捉えている。ほかにも,毒,贋物であり逃げ(p.41),能率志向により創作された自然な促成栽培法(p.232),理想的には「正直」という技能以外は要らない(p.231)とも述べられている。

 というのは,患者を治すのは第一に主体(自然治癒力)であり,第二にそれを助ける環境(抱え関係)だからである。的確な「読み取り」に導かれさえすれば,抱え関係を作成し維持できる(p.29)。それができないことが,精神療法における治療の失敗のほとんどを占める(p.2)というわけである。

 しかし技能が無用というわけではない(理想的には不用と言っているが)。劇薬だと心得,少量を恐る恐る用いるのがよいとか,上記のようなことを充分承知のうえで用いられるとき,技法は,凡々たる魂との生の出会いより優れている(p.41)と述べられている。基本的には反「技法万能」主義とでもいうべき立場だと思うが,だからと言って単純な技能無用論ではない点が,好感がもてる。技能についてのこのような考えは,教育も含め,技能が関わるあらゆる分野に適用可能なように思う。

 「理論」については,次のように述べられている。先人の技法や理論はあくまでも,自分流の技法と理論を築くための通過駅であるに過ぎない(p.257)。理論はあくまでも「という目で見てみる」ための道具であり,理論や概念を適用することの是非を十分に検討し,場合によっては撤回されることがしば起こるのが望ましい(p.152)。概念や用語は誕生の経緯にさかのぼって理解することが,その悪影響を避けるコツ(p.217)。というのは,すべての文化産物(としての概念・用語)は,流布した結果,公害を生み出す(p.151)からである。理論が教条として現場に再流入すると,現場は不毛の場となる(p.25)。また別の場所では,現在治療中の患者とのある場面での体験を,種々の異なった理論で説明してみせるという知的遊びに喜びを感じるようであってほしい(p.112)とも言う。全体としては,特定の理論に固執しない,相対化のススメ,とでもいえるであろうか。

 このような著者のスタンスは,反省的実践家と呼べると思う。実践を通して反省(reflection-in-practice)し,自分流の見方を作っていく過程は,たとえば次のような形で示されている(内容ではなく,思考の変遷に着目したいので,内容は記号で置き換える)。

Aと思っていた。途中でBに気づいた。そこでCと考えることにした。数年はそれで納得していたが,次第に不愉快になった。Dではないか,と迷い始めた。その後,Eと確信するようになって,考えが転回した。(p.76-77をもとに作成)

 ちなみに,この反対とでもいうべき,技術的合理的な姿勢に対しては,「転移」「逆転移」という精神療法の用語が治療に導入される場面を取り上げ,次のようにたしなめている。

昨今の流行を眺めていると,「という目で見てみる」作業はそこそこに,行動の指針へと進んでいく流れが多い。用語を導入するや否や,自動的に行動の指針が生まれると誤解している向きもあるように見える。いったん導入された「転移」「逆転移」という仮説が撤回される結末があまりに少ない。(中略)精神療法は,「転移」「逆転移」概念という特殊文化を導入しないですむような,複雑さの少ない流れとなるように心がけるのが正道である。(p.153)

 筆者はこのようなスタンスを若い頃,うまくいかずにもがき苦しみながら道が開けた体験から得ているようである。そのことを著者は「窮すれば則ち変じ,変ずれば則ち通ず」という語を引用して,次のように述べている。

通じるためには変化しなくてはならず,変化するには充分に窮しなくてはならない。早め早めに窮していくのがコツであると連想した。そして,道が拓けず困っているときは,実は,窮していることを心のどこかで否認していることに気づいた。窮している自己のありさまに充分に直面しさえすれば,ほどなく,自分の内部に崩壊感を伴った変化が生起し,引き続いて新鮮な連想が突然湧いてくることをくりかえし体験した。(p.228)

 「早め早めに窮していくのがコツ」とは,現実には楽なことではないのだろうが,自分が窮したときの支えになりそうなコトバである。反省的実践家とは,変じるために窮する人ということができそうであり,その意味でも,窮し方を知っている(あるいは心構えを持っている)ことが必要であるように思った。

 本書では理論や技法は,上記のように相対化され半ば敵視されるような扱いはされるものの,本の性質上,理論ぽい説明や図式的・物語的な説明は本書にも含まれている。しかしそれに対して筆者は,「物語は方便であり,重要な意義はない。辻褄が合うようにこしらえた作り物にすぎない」(p.68)とか,「理論図式は伝達の便法であり,実務の基盤ではない」(p.256:どちらも要約して引用)と述べている。実に興味深いスタンスである。おかげで,反省的実践家のイメージがよりクリアになったような気がする。

 

■減量終了1ヶ月
2001/12/17(月)

 減量に一区切りをつけてから,1ヶ月がたった。この1ヶ月で,体重は200g減。おおむね維持されていると言っていい。

 この1ヶ月にやったことは,(1)徒歩通勤の距離を今までより減らした,(2)筋トレ(もどき)は,1日2セットに増やした,(3)間食をあまり気にしなくなった。あまりおなかがすくと仕事に差し支えるので,朝は牛乳,午後はみかんやアメが今までの食生活にプラスされている。

 それだけならいいのかもしれないが,夕食後も,つい何か食べてしまう。だって戸棚や冷蔵庫を見るとあるんだもん。チョコにせんべいにアイスが。どうやら私が減量している間,妻がお菓子の誘惑のとりこになってしまったらしい。妻も,今はやせ気味だからいいけど,そういう食生活を続けて大丈夫なのか?

 私も,誘惑に負けちゃったりしたせいかもしれないが,この3日ほど,体重が増えつつある(つまり,4日前まではもっと軽かった)。一時的にプチ減量モードに戻るか,と思っている。

 減量って,その気になって集中してやっている間はよくても,難しいのは,やめてからではないかと思う。いつまでも減量にばかり集中しているわけにはいかないが,だからといって忘れてしまうと,すぐに元の木阿弥になりそうである。実際に私も,気の緩みがちな週末に,体重が増えることが多い。

 減量のことを適度に忘れつつ,体重を維持するにはどうしたらいいか。これが当面の課題である。

 #年末には,帰省という(減量にとっての)鬼門イベントが控えているし(笑)

 

■『てこ・滑車・仕事量−授業書研究双書−』(板倉聖宣編 1988 国土社 ISBN: 4337587012 \2,500)
2001/12/16(日)
〜発見学習的なプログラム学習〜

 本書は,大きく分けて3つの仮説実験授業書からなっている本である。以下は,本書の内容そのものよりも,それを元に,仮説実験授業について私が考えたことが中心なので,あしからず(おかげで長くなってしまった)。

 まずは簡単に本書の内容を。第一部は「てこ・トルク・りんじく・重心」である。天秤のようなものを,つりあいに着目するのではなく,トルク(おもりがものを回そうとする力)に着目して教えようというものである。第二部は「やじろべえ・おきあがりこぼし,ふね」という,バランスを取るための技術的なコツを会得させようという意図で作られた授業書群である。第三部は「まさつ力・滑車・仕事量」。動滑車や定滑車が出てくる。大きくは3部に分かれるが,小さいまとまりで言えば,7つの授業書と授業記録が載せられているので,かなりお得感がある。

 私が本書を読もうと思ったのは,10月に考えた,「仮説実験授業は押しつけはないけれども自由ではない」という私なりの仮説を,実際の授業書や授業記録で確認することを目的に読んだ。そして,そのことはほぼ確認できたと思う。たとえば次の記述(後半)にあるように,子どもの迷いも計算に入れた上で,レールがなかりはっきりと敷かれているのである。

(トルクを教える目的の一つは,)その法則どおりに考えていけば,いつもトルクの釣合いや回転方向をドンピシャリと予言できるような法則を自ら発見させたり,体得させることにあります。このような授業を効果的に実現するためには,いろいろな問題を出して少しまよわせたのちに適当な時期にトルクの概念を導入し,それをもちいればドンピシャリあたるような問題をあたえたり,子どもたち自身に作らせたりすることが大切だと思います(p.16)。

 本書に載せられている授業書の多くが,7問前後の問題をたたみかけながら,ある法則なり概念なりが定着することを狙っている。また上記引用の前半に「自ら発見させたり,体得させる」と2つの事柄が併記されていることからすると,7月に考えた「仮説が利用可能になるルートは複数ある」(自分で発見/討論を通して他人から/教師から)という仮説も,悪くなさそうだ。

 ちょっと話は変わる。最近,教育心理学の教科書を何冊も見る機会があったのだが,そのうちのいくつかには,「発見学習」(基本原理ような知識を学習者自身に発見させる授業)の項に,「仮説実験授業は発見学習である」と書かれていた。これは,間違いとまではいかなくても,あまり適当ではないのではないだろうか。

 というのは,上にあるように,早いうちに教師から概念が導入され,それ以降は,その概念を適用する練習になっているからだ。もちろん予想,討論,実験を通して,仮説を自分で発見,形成する子どももいるだろうが,それは複数あるルートの一つであって,本質的に重要な事柄ではない。発見ができない子どもでも,楽しく法則が身につくように工夫されているのが仮説実験授業だ。だから早めに概念が導入され,概念を適用する練習が行われるのだろう。

 概念導入以降だけに限ってみると,仮説実験授業はむしろ,プログラム学習的でさえある。スモール・ステップで問題が組まれているし,予想という形で生徒は反応しなければならないし(積極的反応の原理),実験という形で正解がフィードバックされるし(即時強化の原理)。それに授業書は,学習者の反応に基づいて改変される(学習者検証の原理)。プログラム学習の基本原理のうち,「自己ペースの原理」だけが採用されていない。しかし授業は,生徒たちの様子を見て,討論を心ゆくまでやってもいいし,しなくてもいいことになっている。これは,通常の一斉授業と比べると,かなり学習者中心のペースであり。自己ペースの原理の代わりに「学習者ペースの原理」が組み込まれている,といっても良さそうである。

 つまり仮説実験授業は,考えたい子には発見授業,法則を効率よく身につけたい子にはプログラム学習的に働く,きわめて巧妙な教授法といえるのではないだろうか。全体としても,前半は発見学習的,後半はプログラム学習的である。こういう説は聞いたことがないが,私としてはかなりいい線をいっているのではないかと思っている。。

 仮説実験授業の基本原理に関して考えたことは以上である。仮説実験授業は,教師側から見た授業としてはそのように理解してよさそうだが,授業記録を見た限り,かならずしもそれだけで終わってはない。佐藤学氏風に言うならば,「授業の周縁ではドラマが生まれている」ことが授業記録から読み取れ,興味深い。

 たとえば,討論のなかで,ちょっと思いつかないような比ゆを持ち出したり,元の問題を変形して見せて,巧みに自説を(あるいは他説の間違いを)説明する子がいる。他人の意見を聞いて自分の意見を変えた結果予想がはずれたとき,「あいつはひとをつれこむのがうまい。あたまにきた」という感想をもらす子がいる。最初の授業書では100点と完璧に理解を示し,「計算どおりにいくから(おもしろい)」と感想を述べていたのに,その続きの授業書では,そのときに体得したはずの原理をまったく使用せず,自分流の素朴理論に固執して予想を立てている子がいる。教師のほうが誤解しており,生徒の発言の正当性を認めてあげられないシーンが出てくる。

 しかし「仮説実験授業」というシステムは,そのようなドラマにはあまり興味がないようだ。そういうことまでを相手にしていたのでは,「誰にでもできる,確実に楽しくてよくわかる授業」にはならないからだろう。もっともそういう状況を軽く流してしまう教師もいるが,その場にせよ終わったあとにせよ,反省・省察を行っている教師もいる。

 あと,仮設実験授業で言う「わかる」とは,「できる」(問題が解ける)ことのようだ。ある討論で,「計算したらこうなる(から,お前の説は間違い)」と言われた子が,「そんなことはよう知ってる。けれど,ぼくは納得できんのや」(p.286)と返答するくだりがある。仮説実験授業では,そういう状況にどう対処するわけでもなく,最終的には「実験」で答えが出ればおしまいである。教師も(別の箇所で)実験が子どもをわからしてくれる(p.312)と述べている。ここでいう「わからせる」は明らかに,「その子なりに理解し,納得する」ではなく「問題が解けるようになる」という意味だろう(あるいは「その法則を使うしかないことをわからせる=観念させる」か)。こういうところも,発見学習的というよりはプログラム学習的であると思う。

 


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