読書と日々の記録2007.04下

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■読書記録: 30日短評3冊 25日『日本とフランス二つの民主主義』 20日『「勉強しなさい!」を言わない授業』
■日々記録: 30日GW前半戦 23日教育心理学実験・2回目 19日はてなRSS

■今月の読書生活

2007/04/30(月)

 あらら、10ヶ月ぶりに読書冊数が10冊を切って8冊になってしまった。なんでだろう。授業が始まったせいなのか。授業で新しいことを試みているせいなのか。おかげで1kgほどやせたのはいいんだけど(といいつつ、この4日授業がなかったせいか、1kg太ってしまったのだけれど)

 今月、良かった本は、『もっとすごい!非常識な会議』(確かにうまくいけばすごい)と、『「勉強しなさい!」を言わない授業』(若干わかりにくいが、基本的にはその通りだろうなと思う)だろうか。

『構成主義パラダイムと学習環境デザイン』(久保田 賢一 2000 関西大学出版部 ISBN: 4873543088 \1995)

 構成主義について確認しようと思って買ってみた。アマゾンで5つ星評価だったのだが...私にはイマイチだった。表面的というか。たとえば、構成主義の教育理論の視点として、次の3つが挙げられており、それぞれ1段落ずつの説明が加えられている。「(1)学習とは学習者自信が知識を構築していく過程である。(2)知識は状況に依存している。(3)学習は共同体の中での相互作用を通じて行われる。」これらはまあいい(本当は、この一つ一つについて、詳しい説明がほしいところだが)。そして次のページでは、構成主義の学習がなされるための教授上の留意点が4点挙げられている。「(1)まちがうことを尊重する。(2)探索することを奨励する。(3)学習者相互のやり取りを促す。(4)教師の役割は援助であり、学習者みずからが知識を構成していくのを「助ける」ことが求められる。」(p.30) この内容も悪くないような気はするのだが、しかしここでわからなくなる。それは、たとえばなぜ構成主義ではがちがうことを尊重するのか、ということが書かれていないのである。それは、前のページに書かれていた構成主義の教育論の視点とどのように関係するのだろうか(もちろん無関係ということはあるまい)。そういう、論述相互の関連がほとんどつけられていない点が、私には表面的に見え、イマイチだった部分である。辛口でいうならば、本書自体が、読者が知識を構成することを助けることなく、知識を単に伝達しようとしている本と言えるのではないかと思う。

『子どものことを子どもにきく』(杉山亮 1996/2000 新潮OH!文庫 ISBN: 4102900268 \550)

 この本のことは何かで読んだのだが(質的研究の本だったかな?)、アマゾンのマケプレで1円(+送料)で出ていたので買ってみた。自分の子どもが3歳の時から10歳になるまで、年1回ファミレスなどに連れ出し、45分程度インタビューするというのは、面白い試みではあるし、実際、おもしろくて一気に読んでしまった。内容もうまくまとめられているせいか、その変化がよく分かるようになっている。すなわち、読み物としてはとても成功していると思う。しかし、たまたま選ばれたある1日の45分に語ることは、その子の持つ世界のごく一部でしかないだろうなと思う。不思議に見える3歳児でも、ときと場合によってはごく常識的なことをいうこともあるだろうし、大人に近づいたように見える10歳児でも、まるで大人の理解を拒絶する考えを持っていることもあるだろうし。そういう意味で本書は、たまたま切り取られた45分×8回の時間からたまたま見えた、子どもの一側面の記録なのだろうと思う。

『論文の教室─レポ−トから卒論まで』(戸田山和久 2002 NHK出版 ISBN: 4140019549 \1,176)

 再読。問いを見つける工夫、問いを育てる工夫、論証を強くする工夫など、やはり興味深い本だった。こういったことをまじめに行うならば、論文を書くときだけでなく、たとえば研究にも大いに役立つだろうと思う。実際にはなかなかそうはできないのだけれど。

GW前半戦

2007/04/30(月)

 ゴールデンウィーク前半最終日の今日は、日帰りで名護に出かけた。9時にうちを出て高速道路に乗ったら、特に渋滞することもなく、目的地のネオパーク沖縄に10時前についた。前に来た時は1時間ぐらいですべてを見て回った記憶があるのだが、今回は、妻と娘たちがキャーキャー騒ぎながらゆっくり回っていたし、鳥やヤギにえさをあげたりしていたし、娘たちはゾウガメに乗ったり(50分ぐらいやっていた)、ポニーに乗ったり(これは二人で8分)、シーサー絵付け体験をしたりしたので(これも50分ぐらい)、結局4時間もそこで過ごした。

 それから名護のおそば屋に行き、市民ビーチの波打ち際でちょっと遊び、帰りに北中城にぜんざい(氷ぜんざい)を食べに行き、5時すぎに家に着いた。帰りも特に渋滞はなかったのでよかった。

 ということで、なんとかゴールデンウィークの親としての義務は果たせた気がする。

■『日本とフランス二つの民主主義─不平等か、不自由か』(薬師院仁志 2006 光文社新書 ISBN: 4334033652 \777)

2007/04/25(水)
〜選択肢のない日本とフランス〜

  フランスの民主主義は日本やアメリカのものとはかなり違っている。そういう話は、私も『知っていそうで知らないフランス』を読んで少しは聞いたことがあったのだが(といってもこの本に書かれていたことが、本書で論じられているような内容であったかどうかは覚えていない)、本書は、現在のあり方だけでなく、その理念(哲学といってもいいだろうか)や歴史含めてフランスの民主主義を論じており、またそれを通して、日本の現在とこれからを考えようとしている。そういう意味では興味深かった。

 フランスの民主主義とは、いわゆる「社会民主主義」である。それは、自由主義ではなく平等主義的な民主主義である。そこでは、たとえ不自由があったとしても、不平等な状態はつくらないようにされている。そのためには、公的領域と考えられる事柄には、かなり強力に政府が規制を敷くのである。

 そのようなフランスの民主主義の実態を知るという意味では本書は興味深かったのだが、その一方で、ちょっとアレ?と思うような記述がないでもなかったので、それについて書いておく(ときどき書いているように、これはあくまでも政治オンチである私が捉えた範囲でのことなので、ひょっとしたら捉え違いがあるのかもしれないが)。

 筆者の基本的な問題意識は、「21世紀初頭の日本には、事実上、自由主義以外の選択肢が存在しない」(p.16)という点にあるようである。自民党も民主党も「リベラル」を標榜し、小さな政府的なものを目指している。このことがどのように問題になるのかというと、「自由か平等かという基本的な価値観に関する選択を全く顧みずして、目先の事柄だけを基準に政治的な選択を行ってしまえば、全体的な方向性が混乱して当然なのである」(p.251)と述べられている。そしてここがちょっとわからないのである。「全体的な方向性が混乱している」というのが何を指しているであろうか。平等という選択肢がなくに自由という選択肢しかないのであれば、全体的な方向性は混乱どころか明確に定まっていると思うのだが。ひょっとしたら「混乱」とは、たとえば左派政党が「消費税反対」などという右派的な(小さな政府的な)主張をしたこと(p.51)を述べているのだろうか。もしそうであるならば、ここで筆者が左派と呼んでいるものを右派と呼べばいいだけの話である(というか、筆者の「左派」という語の使い方にブレがあるということ)。それに、その政党とは別の政党が消費税賛成を述べているのであれば、日本には自由主義以外の選択肢も存在するということになるわけで、選択肢がないとした筆者の主張が間違っているというだけの話だと思う。

 問題はこれだけではない。筆者によると、「アメリカの左派である民主党と、フランスの右派とを比べれば、明らかに、フランスの右派のほうが平等主義的なのだ」(p.62)という。別の箇所では、(フランスでは)「近年は特に、右派と左派の違いはあまり大きくない。実際、1995年に大統領に就任した右派のシラク大統領も、アメリカ型の自由主義経済に対してかなり否定的な見方をしている」(p.126)とも書かれている。これがまたわからない。筆者は日本に自由主義以外の選択肢がないことを問題視しているが、フランスには平等主義以外の選択肢はないようである。そのことは問題ではないのだろうか。フランスでも「自由か平等かという基本的な価値観に関する選択」は全く顧みられていないようなのだが、そのことが混乱を生んではないのだろうか。混乱を生んでいないとするならばそれはなぜか(選択肢がないことは問題ではないということなのか)、混乱を生んでいるとするならばそれはどのようなものなのか(平等主義の問題点は何なのか)。本書で本来論じられるべきはこのような点だったのではないだろうか。

教育心理学実験・2回目

2007/04/23(月)

 教育心理学実験の2回目。今日の狙いは,本格的な実験の体験をすること,実験の基本的な考え方を知ること,レポートの書き方のための簡単なガイドラインを示すことである。

 まず各グループの先頭の学生を立たせ,あの人に出席表とレポートを出してねとお願いして,出席表とレポートを回収,押印した。これが5分ぐらいか。続いて今週の実験である。詳細は書かないが,いわゆるルール学習の集団実験である。とある先行研究のものをそのまま使っている。2条件ある質問紙を交互にして配布し,まずは個別に回答させた。回答時間が20分弱というところだろうか。その間に私は,回収したレポートから,比較的良くかけているものを2つピックアップした。主な着眼点は,平均値のグラフを書いていることである。それらにさらに,修正すべき点や,他の学生のレポートでできていない点を書き込み,印刷をした(最初はできの悪いレポートも一つピックアップして悪い点を指摘しようかと思ったが,これはやめにした。そのレポートを書いた学生がショックを受けるかもしれないので)。

 全学生が質問紙を書き終わったのを確認して,しばし講義タイム。まず前回のおさらいをして(実験における比較の重要性),それに加えて,統制と測定について簡単に述べた(今回は言葉に触れるだけに終わってしまったので,統制の話はもう少し時間をかけたほうがよさそうだ)。さらに,今回覚えてほしい言葉として「独立変数」「従属変数」を紹介した。教科書にこれらの言葉が載っているのでそれを確認し,また,教科書に,独立変数と従属変数を指摘する課題が載っているのでやらせてみた。10問あり,隣同士で相談してもいいよといって時間をあげたのだが,5分では終わらず,10分ぐらいかかっていたようだ。何人かに当てて答を聞いてみたが,難しかったようだ。次年度はこの問題は,私の自作のものを中心にするか。

 ここで,先ほどやった質問紙は,隣同士で条件が違うんだよ,何が違うか,どういう条件か考えてごらんといって,隣同士で質問紙を見比べさせた。違いはすぐに分かるのだが,どういう条件設定かを何人かに聞いてみると,実験者が想定したものとはまったく違うものが出てくる。そこでプリントを配布して実験条件を説明し,黒板に自分たちの結果を書き込ませて4時間目が終了した。

 5時間目は,レポートの書き方を説明し,また,レポートの参考にと,教育心理学会総会論文集から抜粋した論文を2つ印刷したものを配布し,論文がどういうものか,こういうのを読んで慣れてね,といって少し全体構成を解説して終了とした。終了予定時刻よりも30分以上早く終わったが,何か説明漏れはなかっただろうか。

■『「勉強しなさい!」を言わない授業─年間を通して、クラス全員の成績を上げ続けるなんて簡単』(西川純 2006 東洋館出版社 ISBN: 4491022143 \2,310)

2007/04/20(金)
〜方法を語らないことで生まれる学び〜

 本書は、筆者の提唱する「学び合い」の授業の考え方を、実例を交えながら説明している本である。学び合いが成立すると、タイトルにあるように「勉強しなさい」を言う必要がなくなるという。それだけではない。「我々の学び合いをやれば、成績は上がる、子どもたちの人間関係はよくなり、教師は気が楽になる、とよいことづくめである(ちなみに、もう一つ、簡単というのもある)」(p.198)という。では学び合いとはどのようなものか。以下、自分自身の理解を確認するために、学び合いについてまとめてみる(我流の解釈にならないよう、直接引用をできるだけ使いながら)。

 学び合いとは一言でいうと、子ども同士が教え合い、学び合い、考え合うような授業である。おそらくそこで第一に大事なのは、「子どもが有能であるという子ども観、教師は場の設定者であるべきであるという授業観」(p.14)にもとづくものだということである(ちなみにこの子ども観(人間観)と授業観は、ワークショップでも同様だろうと思う)。ではそれらの考えに立ったとき、教師は具体的には何をするのか。第一に必要なのは、目標を明確に語り、子どもと共有することのようである。最初に語るべきこととしては、「自分が向上することだけではなく、集団全員が向上することが大事」(p.38)であること、「どのような方法で目的を解決してもよい。ただし、なぜその方法を選んだかを、全員が一人一人説明できなければならない」(p.39)こと、そして「どのようなことを成り立たせたいのかを明確に語る」(p.39)ことである。到達目標に関しては、たとえば問題集の指定箇所について、「2時間かけて全部の問題が説明できるようにしっかりやってみてください。相談しながらみんなで」(p.58)というような具合である。

 この語りが済み、学び合いが始まったら教師は、「「教えない」「褒める」「つぶやく」」(p.40)という働きかけをおこなう。褒めるといっても個人の達成度を褒めるのではなく、「「○○さん、教えることがうまいね〜」のように関わりを褒める」(p.42)。あるいは、できた子のことをみんなに聞こえるように褒めることによって、「有効な情報源があることを示す」(p.42)のである。「つぶやく」も同様で、わからない子に対して、教えるのではなく「「BさんやCさんはどんなやり方でやってるかな」「D君はEさんにとっても上手に教えていたよ。先生に聞くよりも上手なんじゃないかな」」(p.21)と促すのである。これらの関わりを筆者は、有効な情報を広げるという意味で「可視化」と呼んでいる(実際には教師はそういうかかわりだけをするわけではないのだが、ではどういうかかわりがあるのかは、本書に収められている詳細な実践記録をみるとわかる)。

 この考え方ややり方は、とてもうまいなと思えるものであった。「学び合い」という言葉自体はあちこちで使われているものであるし、筆者がいうような子ども観や授業観と同じものを表明する先生は少なくないだろうと思う。しかし具体レベルで導入されている工夫がうまいと思うのである(「うまい」という表現が適切かどうかはわからないが、私の率直な感想としては「うまい」であった。)第一に、目標設定がうまいなと思う。「集団全員が向上する」という制約を入れることで、学び合いをせざるを得ない状況が作られるのだろう。

 また、「どのような方法で目的を解決してもよい」という指示もいい。ここには、「教師は目標を語るべきで、方法を語ることは控えるべき」(p.107)という考え方があるわけだが、これはもうまったくもってその通りだと思う。下手に方法のレベルでそろえようとしても、子どもたちは一様ではないので、その方法が合う子と合わない子は必ず出てしまう(あるいは好き嫌いとか)。それよりも、どういう方法を用いるかや、誰に教わるかは本人が最適と思うものを選択すればいいわけである。選択できない子もいるかもしれないが、学び合う環境さえあれば、この方法を繰り返す中で自然と最適な選択ができてくる(パーキンソンのような言い方でいうならば、自由で援助的で応答的な環境で批判的フィードバックがうまく働く、ということだろう)。教師が方法を語ることの問題は向き不向きの問題だけではない。方法を示してやらせようとしてもうまくいかないと、往々にしてそれを達成することが目的になってしまう。目的がすりかわってしまうのである。それは授業だけではない。さまざまなところでそういう現象が生じてしまうことを私は最近つくづく感じていたので、ここの考え方に関しては私は筆者に一も二もなく賛成してしまった(しかしこの考えに賛成するということは、ある程度方法を示しておこなっている今の私の授業を批判的に見ることにつながってしまうわけで、それをどうするかは現在検討中なのだが)。

 とまあ基本的にはとても納得のいく内容だったのだが、わかりにくい点もあった。それは、授業の達成目標がどのようなものにするのがいいかである。筆者は次のように書いている。

課題レベルをクラスの中で中位(やや下)に合わせると、成績上位者の過半数は立ち歩きもせず、他者とも相談せず、自席で課題を解いているはずである。なぜなら、そのレベルであれば、そのようなことをせずに解決できるからである。〔中略〕学び合いを成立させるか否かは、目標の設定に尽きる。学力上位者も、他者の協力がなければ解決できないような高い目標を、教師は考えなければならない。そして、そのような目標であるにもかかわらず、クラス全員に「やろう」と思わせるような目標を設定し、環境を整えることが教師の本当の職能である。(p.171)

 目標を高く設定すべきだということは、佐藤学氏もまったく同じことを言っている(ジャンプのある学び)。実際にそういう場面を私は見たことがないのでなんとも言えないのだが、そういうことはありそうだという気はする。

 ここで述べられているのは、「学力上位者も自力では解けないような課題設定にすべきだ」ということである。解けないからこそ、他者の力を借りるために率先して学び合うというのである。しかし別の箇所では、学力上位者も自力では解けないような課題では学び合いは難しい、と読み取れるような記述もあるのである(p.199-)。ここがよくわからなかった。

 具体的にいうと、筆者がゼミ生に「子どもたちの学び合いをさせようとしても、もし、誰も知らなかったらどうするのか?」(p.198-199)と聞かれたとき、筆者は、たいていのことに関してはクラスに数人は知っている子がいることを挙げ、「4人いたら十分だよね」(p.199)と述べているのである。「4人いたら十分」ということは、知っている子がいれば(おそらく知っている子が知らない子に教えるという形で)学び合いができる、という意味だろうと思う。上のブロック引用箇所では、上位者でも解決できない課題を出すのがいいと言っているわけだが、そうであるならば、ゼミ生の問いに対して、どうして「誰も知っている人がいなくても大丈夫」という答えにならなかったのだろうか。どのような課題が適当なのか、筆者のなかでも考えがぶれているのか、それとも学ぶ内容によって異なるのか、どうなんだろう、と感じたくだりである。

 ちなみに課題に関しては、難しいほうがいいとはいっても、子どもたちが協力しても解けないような難しすぎるものでは当然だめなわけで、しかし易しすぎたら学び合いがおきにくくなるわけで、程よく難しい課題を出すというのはけっこう難しいことのようにみえる(実際私がワークショップスタイルの授業をやっていてもそれは感じる)。そこには課題設定の経験の蓄積があるはずで、そういう部分についてもわかるといいなあと思った。

はてなRSS

2007/04/19(木)

 はてなRSSを使ってみている。けっこう面白いことがわかってきた。

 といっても単なるRSSリーダとしてではなく、はてなが独自にやっている「キーワードウォッチ機能」なのだが。自分が関心のあるキーワードをはてなRSSに登録しておくだけで、そのキーワードに関連する新着記事・動画がはてなRSS上に届けられる、という機能である。いちいち検索しなくても、登録しているキーワードが使われているブログなどを勝手に知らせてくれるのである。

 「思考力」「考える力」というキーワードだと、子どもに考える力をつけさせようと努力している先生のページがヒットしていたりする。なかでも塾の先生のページには面白いものがある。

 「批判的思考」というキーワードだと、中国語のページがときどきヒットする。「最后一个要点是,批判地思考??到的和听到的。」なんて書かれている(さっぱり意味はわからない)。

 「クリティカル・シンキング」だと、やたら多いのが、G社のクリティカルシンキングの講座を受けているという人のページ。ビジネスマン向けの講座のようである。あるブログによると、1回3時間の6回で受講料が12万円ほどするのだという。すごいね。

 「critical thinking」だと、YouTubeの動画(洋モノ)がやたらヒットする。まだあまり見てはないのだが、論文や本で得られる以外の、一般の人のもつ批判的思考のイメージがわかるかも、と思っている。

 ということで、はてなRSSのキーワードウォッチってけっこう面白いなあと思っている次第である。毎日新着情報が来るわけではなく、ときどきまとめて10個以上も新着が届いたりするのがたまにきずなのだが。


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