読書と日々の記録1999.10
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■読書記録: 30日短評3冊 30日『学ぶこと教えること』 28日『臨床心理学の科学的基礎』 24日『科学の解釈学』 21日『心理学実験で語る授業作りのヒント』 18日『言語を生み出す本能(上)』 15日『科学がきらわれる理由』 12日『心理療法』 9日『よりよき世界を求めて』 6日『クーン』 3日『学校と地域で育てるメディアリテラシー』
■日々記録: 24日自宅で本を読む 21日日記読み日記,学生と懇談会 18日日々の雑記 15日論理学概論 15日「琉球料理山本彩香」で 12日結婚記念日 9日ネットサーフィン 6日授業開始 4日日記猿人に登録 3日日々の雑感

 

今月の目ウロコ本
『言語を生み出す本能(上)』(スティーブン・ピンカー)
『クーン −パラダイム』(野家啓一)


1999/10/30(土)

■『学ぶこと教えること −学校教育の心理学』(鹿毛・那須(編) 1997 金子書房)

 何箇所かで引用されているのを見かけたので買ってみた本。「教師の日常のしごとに即した教育心理学のテキスト」で、実践的営みの構造をよりどころにした、というコンセプトの本だそうだ。といっても、まあ基本は、安心して読める標準的教育心理学のテキストの範囲内だと思う。

 章立ては、学習論、教師論、方法論、内容論(カリキュラム編成)、評価論、関係論と、やや毛色は変わっている。方法論の章のコラムには、寺子屋が取り上げられていた。いわく、ティーム・ティーチング、オープン・スペース、ノングレード・システムは、舶来思想だと思われがちだが、実は寺子屋では、すでにこのようなことが行なわれていたとのこと。むしろ、一斉指導こそ新しく、また海外からの直輸入品なのだ、という視点(p.87)は新鮮。その他、興味深い記述がいくつかあった。以下は、付箋をつけた個所の引用。

  • 学校はその名の通り学習(学び)のための場所であるべきである。ところが学校は、いつしか教育(教え)のための場所になってしまったのではないだろうか。(p.25)
  • 教師という職業の専門性は、「技能的熟達者」になることなのではなく、経験から形成した知識を用いて授業実践を反省(省察:reflection)し、授業を創り出していく「反省的実践家」(reflective practicioner)になるところにあるという考え方が、1980年代後半からの教師教育で重視されてきている。(p.65)
  • 学力には、知識や技能のようにペーパーテストなどによって測定しやすい「見えやすい学力」の側面(実体的学力)と、考える力(思考力)や学ぼうとする力(意欲)など、学力の知的な「働き」の側面(機能的学力)の、2つの側面があると考えられる(p.133)

■今月読んだ本は、合計13冊。

 今のところは、まあまあ無理のないペースか。でも、読むスピードより、注文した本が届くスピードが速いので、なかなか積んである本が減らない。週末に本屋に寄ったりすると、ついつい買ってしまうし、自宅の本棚を眺めていると、読まずに放ってある本が見つかるし。逆・賽の河原状態。

 以下3冊は、寸評のみ。

・『新訂版 カウンセリングと心理テスト』(林・瀧本・鈴木 1998 ブレーン出版)
 初版を読んだときはもう少し面白いと思った記憶があるんだが。ロジャーズや認知行動カウンセリング(帰属の再訓練など)については、割と詳しくてよろしい。
・『日本のレジスタンス』(竹本忠雄 1998 日本会議ブックレット)
 知人より借りる。「我々は国の主権を失っており、その回復には憲法改正が必要であり、大和魂が目覚めなければいけない」。天皇礼賛、日本軍(武士道)礼賛。「日本兵が、こんな残虐なことをやるはずがなかった」なんて、沖縄の人が聞いたら怒ると思う。直接体験者の生々しい話は、今でも耳にすることがあるしね。
・『はじめての心理統計 −統計モデルの役割と研究法を考える』(神宮英夫 1998 川島書店)
 「統計的検定では、個人内差のない人(general person)を仮定している」という考えや、「実験・調査・観察・面接のいずれであっても、基本は、刺激−反応関係から、こころのはたらきを考えようとしている」(その推論の仕方は、類型論か因果論)という指摘は新しく、統計の意味を考える上で役に立ちそう。しかしその他の部分は、「よくある平易な統計入門書」的。誉め言葉ではないが、もちろん悪い意味ではない。

1999/10/28(水)

■『臨床心理学の科学的基礎』(河合・福島・村瀬(編) 1991 金子書房 臨床心理学大系第1巻)

 ときどき「フロイトはトンデモだ」「精神分析は擬似科学だ」という意見を聞く(たとえば『ハインズ博士「超科学」をきるpart供(テレンス・ハインズ 1995 化学同人)や『改訂版 大予言の嘘』(志水一夫 1997 データハウス)などにも見られる)。これが適切な意見なのか、精神分析など心理療法はどう位置づければいいのかを知りたくて読んだ本。大学図書館より借りる。

夢分析や自由連想によって、現実には存在しなかった過去の外傷的な体験が想起されることについて。

  • 患者によって想起されてくる過去の外傷的な体験というのは、実際に起こった事実とは食い違いがあることが分かってきた。そこでフロイトは、客観的事実よりも本人の記憶にとどまっている印象(心的事実)が症状形成において重要な意味を持っていると考えるようになった。(p.67)
  • 解釈というのは、多分に試行錯誤的なものであって、分析者はその内容の正しさを断言できる客観的な証拠はないし、それを主張できる自信もない。むしろそのときの解釈によって、それまでの連想がどのように変化するのかを見てゆくために与えることが多い。つまり、それによる反応の起こり方を重視する。(p.75-76)

精神分析が科学のふりをしようとしていること、あるいは、擬似科学的であることについて。

  • 哲学者のヤスパースが、フロイトの行なったことは「了解」であり、「説明」ではないと指摘した。この批判は当を得ていると筆者(=河合隼雄)は考える。(p.84)
  • ローレンツァーは、ドイツの精神分析家であり、解釈学的な立場から精神分析の現場とその資料的な価値について論じている人である。彼は著書『精神分析の認識論』(1974)を著して、経験科学としての精神分析の解釈学的な性質を明確にしようとしている。彼の述べている経験科学としての精神分析の特徴を要約するとおよそ次のようになるであろう。
    1. 患者のことばは、それが事実かどうかという客観的なことが重要ではなく、全体として論理的に一貫していて、何が表されているかが検討される。
    2. 面接記録の重要さは、話されたことば、つまりナレィティブから患者の心理的な状態についての理解ができるようになることである。心理的な意味内容が重要であるので、面接で行なわれる活動は歴史記述的探索ではなく、また自然科学的な観察でもない。
    3. 精神分析的な了解は、場面的な了解である。患者の話し言葉、つまりナレィティブの中に含まれている状況の場面的なゲシュタルトをとらえ、他の場面と関連させて場面の意味をとらえる。(それ)が、無意識的な資料を意識的な次元に引き上げることになる。(p.276)
  • このように色々の物語(個人の心理的な世界の意味の読み取り)を作るために、原資料をアレンジする「観点」とは何であろうか。そこには意味付与的なアレンジをする人の目ないし発見的な働きがある。この「観点」を歴史観、人間観、人格観といっているのである。心理学的世界観と言ってもよい。フロイトやユングのメタサイコロジーは、このような「観点」の性質をもつといってよいだろう。(p.282)

フロイトが、明らかに間違った夢分析(誤訳に基づくダビンチの夢分析)を披露していることについて

  • (夢の解釈は)「〜の夢を見ると〜です」とか「〜は〜の象徴です」などということは決してできないのである。夢の意味を知るためには本人の連想を聞くこと、および、その夢を見た頃の意識の状態について聞くことが必要である。同じように「蛇」の夢を見ても、蛇を大嫌いと思っている人と、田舎に住んでいて蛇など何も怖くなかったという人とでは意味が異なってくるであろう。(p.97)

 精神分析における理論は、科学的実在や法則について述べているわけではなく、解釈学のための「観点」である。また、精神分析療法は、このような「観点」に依拠しつつも、常にその妥当性が患者によって吟味される「経験科学」である。そう考えると、冒頭の意見は適切なものではない、と言うことが可能であろう。

1999/10/24(日)

■『科学の解釈学』(野家啓一 1993 新曜社)

 同著者による『クーン』末の推薦図書として挙げられていた本の一冊。『クーン』が読みやすく、面白かったので期待して読んだら、あまりに難しく、一度挫折。もう一度挑戦して、なんとか読み終えた。同書の紹介文によると、クーンの考えを受けて発展させたのが「解釈学」という方向性なのだそうだ。

 本書のモティーフは、「科学を御神体として後生大事に抱え込む哲学的傾向にみられる「俗悪さ」に対して反措定を提出すること」であり、「客観性の神話を非神話化すること」だそうだ。

 本書では、「論理実証主義」のような科学哲学を「科学の論理学」と呼ぶ。その特徴は「公理主義」「検証主義」「進歩主義」の3点であり、人文社会科学の方法を「自然科学化」することを要求している(統一科学運動)
 それに対して、ハンソンやクーンの新科学哲学は、「科学の解釈学」と呼ぶことができる。それは、「解釈」が見ることの中に不可分に織り合わされているからである(〜として見る/〜ことを見る)。そして、自然科学も実は解釈学的性格をもっていることが指摘される。いわく、「先入観は認識が科学的であるための不可欠な基盤」「自然法則もまた、科学者の読解行為(研究活動)によって発明される」「科学的真理の客観性と言われていたものは、科学者共同体の一般的合意に基礎を置く間主観性にほかならない」等々。

 なお、現在著者の興味は、科学のナラトロジー(科学的知を多元的な「物語知」の一形態として捉え直す)に移っており、「科学の専制」を廃し、多元的な知の共和制を確立することを目指しているそうだ。その成果が楽しみである。

 以下は、各章からの、要約しながら抜粋(をしようと思ったら、全10章中半分の章でしか、うまくまとめられなかった)。共約不可能性が「誇張」だという論には「やっぱそうだよなぁ」と思った(後知恵度50%?)。最後の2章で扱われるアスペクト知覚の話は、難しいけどおもしろい。知覚心理学とも親和性高そうだし。

  • 「科学の論理学」と「科学の解釈学」とは本来対立する位置にあるものではなく、それを科学哲学におけるインターナル・アプローチとエクスターナル・アプローチともいうべき相補的な方法であると考えるならば、両者はむしろ車の両輪として共働することによって<科学の全体像>を明らかにすべきものであろう。(p.35)
  • 「共約不可能性」なるものは一つの誇張にすぎない。理論負荷的事実あるいはパラダイムに制約を受ける事実とは、あくまでも生活世界兇棒立する「科学的事実」(文化的世界)であることに注意せねばならない。われわれは日常的知覚的事実(生活世界機芯樟楫亳海寮こΑを基盤とすることによって、異なった2つのパラダイム(例えば天動説と地動説)の差異について有意味に語りうるのである。(p.56-59)
  • 新カント学派以来、自然科学と人間科学との間には取り扱う対象の違いからくる方法論上の違いがあり、両者の間には越えがたい一線が存在するという見解が行き渡ってきた。前者が現象の因果的「説明」を目指すのに対し、後者は対象の内在的「理解」を目標にする、というわけである(科学の2元論)。「理解」こそは人間科学の固有性を象徴するものであり、その「理解」の方法論としての位置を占めてきたのがディルタイ以降の「解釈学」であった。われわれは、「科学の2元論」と「科学の論理学」との2者択一ではなく、科学の解釈学とも名づけるべき第3の立場が構想可能であると考える。(p.77-78)
  • 理解とは常に一定の立場からの絶えざる「解釈」の営みにほかならない。あるいは、理解には常に一定の視点を反映した遠近法的な「歪み」が伴う、と言ってもよい。異なるパラダイムを理解するためには、われわれはそのパラダイムにコミットする必要もなければ、またあらゆるパラダイムの外部に立つ中立的な傍観者となる必要もない。われわれには、自分が帰属するパラダイムの内部に身を置いて、そのパースペクティブから異なるパラダイムを「解釈」する道しか残されてはいないのである。(p.127-128)
  • アスペクト知覚(ウィトゲンシュタインの用語。〜として見ること。あるいは、多義図形において見え方を転換すること)は、文脈を創造し、補完し、転換する能力に他ならない。それを身につけそこねた人(アスペクト盲。多義図形を一義的にしか見ることができないこと)に欠落しているものは、「想像力」。「見る」(アスペクト転換を経験する以前の見え)を支えている受動性とは、アスペクトの「恒常的な見え」を構造化する契機としての受動性、すなわち「熟知性」にほかならないのである。「見る」が受動的状態であるとは、熟知性の地平に安住したままアスペクト転換の可能性に気づいていない状態と理解されねばならない。それゆえ、「見る」(アスペクト盲)と「として見る」(アスペクト知覚)との対比は、「熟知性」と「想像力」との間の緊張関係として捉え直されるべきものである。(p.260-269)

■自宅で本を読むのは

 たいてい夕食後か寝る前で、寝っ転がって読む。すると娘(1歳4ヶ月)がそれを見つけて、絵本を持ってくる。読めというわけである。それで、読書を中断して絵本を読む。

 絵本を読み終わったら、読書に戻る。しかし娘は、すかさず次の絵本を持ってくる。部屋の中のワゴンに積んであるのだ。それでまた、読書を中断して絵本を読んであげる。つまり私が読書できるのは、娘が絵本を取りに行っている短い時間だけなのである。

 ときどき、もう読んであげた絵本を、また持ってくることがある。それだと、読む方もおもしろくない。それに何より、これを許すと永遠に絵本を読みつづけなければいけない可能性が出てくる(ちょっと雪だるま式論法)。それで無視して読書を続けていると、大声で泣いたり、頭の上に絵本を投げられたりする(もちろんイタイと分かってやっているわけではない)。それで結局、絵本を読んであげることになる(2段落目↑に戻る)

 自宅で読書をするっていうのも、結構大変なんである。

1999/10/21(木)

■『心理学実験で語る授業作りのヒント』(伏見陽児 1999 北大路書房)

 筆者の伏見氏と研究仲間が行なった、教科学習に関する心理学実験を全部で16取り上げ、小学校授業の具体例に言及しながら、よい授業について語っている本。心理学のことを知らない人でも十分理解できるような、平易な語り口になっているので、教育学部の学生や、現職の先生たちにはお勧めである。

 前半の話題は、伏見氏も著者として参加している『認知心理学から理科学習への提言』『授業づくりの心理学』(国土社)とも重なるので、それほど新鮮味はなかった。インパクトは『授業づくりの心理学』の方が、はるかに上だった(この本で、初めて彼らの研究に触れたから、というせいもあるだろうが)。でも、後半には新しい話題もあって結構面白かったし、なによりも、同じようなテーマで、研究にこれだけバリエーションを持たせており、少数テーマを料理する際の参考になりそうだ。

 以下は興味をひいた記述(要約して引用)

  • 教授学習プロセスは、帰納プロセス(たくさんの事例の後にルールを導入)や演繹プロセス(ルール学習の後に、たくさんの事例を導入)ではなく、験証プロセス(事例⇒ルール⇒事例⇒ルール⇒事例・・・)の方が、ルールに対する確信度も徐々に上がるし、人間の知的探求のプロセスに近い(p.18)
  • 日常生活場面の事例を使ってルールを教えると、
    1. 「理科の法則を学習すると、身の回りの現象が説明できるので面白い」「理科の法則は日常生活で役に立つ」などの望ましい知識観をもちやすい
    2. 今学習している内容に高い興味をもちやすい
    3. 高い学習継続の意欲をもちやすい(p.80)
  • ルールを理解させるための事例提示法には2種類ある。学習者の素朴ルール(ル・バー)がそれほど強くない場合はドヒャ−型(意外な事例を最初に持ってくる)、素朴ルールが強い場合はじわじわ型(受け入れられやすい事例を最初に)が素朴ルールを覆すのに有効(p.90)
  • 「なぜ〜なるのだろう」とか「〜を左右している条件は何だろうか」という質問より、「できるだけ〜するにはどうすればよいだろう」というような工作的質問の方が、仮説を思いつきやすく、学習(検証)活動が活発になり、学習効果が高い(p.102)
  • 文学作品において、我々はよく、結末によって登場人物の読み取りを変えてしまう。ラストが悲劇なら登場人物の性格や行動も否定的に、ラストがハッピーなら、登場人物も肯定的に受け取ってしまう、というように(結果論的受け止め)。しかし教育的観点から言うと、結末に左右されない読み取りが必要。そのひとつの方法として、登場人物の行動や性格について、肯定的/否定的解釈を含む多様な解釈を提示するのが有効。具体的には、「登場人物のこの行動を、あなたはどう思いますか」みたいな質問に対する選択肢としていろいろな可能性を提示する。そうすると、ラストに左右されない、多様な解釈を受け入れるようになる(p.156)

 蛇足ながら、最近の北大路書房の本のタイトルって、やけに長いものが多いような気が...

じぶん更新日記日記読み日記(はせぴぃ先生)に2度も取り上げていただいた

 猿人界の片隅にいる実感があり、とってもうれしい。見つけたら空メールボタンを押しているのだが、本当に届いているのだろうか。慣れていないので、はじめてファックスで送信したときと同じような不安感がある。

 はせぴぃ先生には、「ますます「がくもん系」(←あっ、これは死語だったっけ)の議論が活発になりそうだ」とのお言葉を頂いた(丁寧な言葉は、猿人界の先輩に対する大敬意です)。が、私としては、他人の議論に絡んだりするのは、もう少し先だと思っている。他人に読まれることを意識しすぎて、足元がおぼつかなくなりそうな気がするので。ま、ある程度自分のスタイルが確立されて、「自分のための覚え書き」だけでは飽き足らなくなったら、しゃしゃり出てくるでしょうが。

■学生と懇談会をした

 各学科、学年ごとに、チューターとか指導教官を置いている大学は多いと思うが、うちの大学ではさらに、年に2回「懇談会」がある。今日の昼休みは、私が指導教官をしている2年次学生と懇談会をした。こんな制度、私の出身校ではなかったが、ほかの大学はどうなのだろう。

 教育学部に配置換になってはじめて指導教官をやった(それまでは教養部)が、コレはすごい、と思ったことがある。それは、大学から現物&お金が支給されること。学生部からはジュース引換券、学部からは、一人あたり100円強の補助金が出るので、それでお菓子を買う。あとは持参の弁当を食べながら、懇談する。

 懇談といっても、私の学生はまだ2年次なので履修・就職相談もなく、近況を聞いて、みんなでワイワイやって終わった。もちろん簡単な注意事項(大学祭でうかれて飲みすぎるなとか、事故に気をつけろ、など)はしたけれども。みんな元気そうで一安心。

1999/10/18(月)

■『言語を生み出す本能(上)』(スティーブン・ピンカー 1995 日本放送協会 NHKブックス740)

 まだ上巻だけしか読んでいないが、面白かった。「言語が文化的発明ではなく生得の本能」であることが、未開部族の言語、黒人日常英語、クレオール、手話、障害、子どもなどから証明されていく。

 それも、単に言語が「普遍的である」ことを示すだけではない(それだと、本能以外でも説明可能)。こどもに言語を教えるのは両親だ(=文化的産物)、という迷信を打破するためには、親が子どもに教えないような表現に関しても、子どもがルールをちゃんと理解して使いこなしている、という実験例が挙げられている。言語が思考を規定する、という説は、巧みに論理を用いて否定されていく。このように、言語についての我々の思いこみが明快に訂正されていく、というのが本書の面白いところである。

 それだけではない。文法は「非連続要素の結合体系」であり、そのせいで、単語という「有限個の材料を無限に使いこなす」ことで無限の表現が可能である(このあたりから、句構造文法の逆さツリーが出てきたりして、ちょっと難しくなってくるが。こういう方法で表現すれば、スーパールールが2つあれば、話し手の頭の中で起きていることを全て説明できるのだそうだ(原理とパラメータ理論)

 文法だけではない。単語の表記や意味についても、音声言語の理解についても文章理解についても、非連続要素の結合体として、ツリー構造で統一的に説明される。たとえば、一つの単語や文は意味的/文法的に正しい複数の解釈をもちうることは多い(たとえばTime flies like an arrowは5通りに解釈可能)が、人間は場違いな選択肢には惑わされず、妥当な文構造だけに目をつけることが出来る。そのとき人間は、「個々の単語のレベルでは横幅優先検索をして、二義性のある単語については短時間であっても複数の可能性を記憶するようである」(p.284)。「しかし、句や分のレベルになると、可能性のある全てのツリーを点検」はせず、「深度優先検索をして、うまく当てはまりそうなツリーを選び、壁にぶつからない限りその線で文を解釈していく」(p.286-7)。このあたりは、人間の思考過程や思考の誤りを考える上で示唆的である。

■日々の雑記

 昨日は、開南教会でザビエル聖椀見学。別に信者ではないのだが、次に来るとしたら50年後だろうと聞いて。腕を型どりしたブロンズ像みたいなものかと思っていたら、本当に腕の骨で、びっくりした。

 昨日からやけに涼しくなり、徒歩通勤(20分)でもあまり汗をかかなくなった。でも研究室は、まだまだ要クーラー。

 大学院の演習初回。受講生は1人であったが、現職の英語教員で、アメリカの大学院への留学経験もあるといのこと。ちょうどいい機会なので、以前から読みたかったcritical thinking関係の洋書(一般向け)を一緒に読むことにした。途中で息切れしなければいいのだが(お互いに)

1999/10/15(金)

■『科学がきらわれる理由』(ロビン・ダンバー 1997 青土社)

 心の進化論を専門にしたイギリスの心理学者が、人類学の学部学生向けの講義を元にして作った本。われわれは、科学についてきちんとした教育を受けないので、次のような記述があると、普段何となく考えていることや疑問に思っていることが確認できて、ほっとしたりする。

  • 実験は仮説が検証されるための一つの方法であるが、唯一の方法ではない。観察によっても検証できる。内部の論理的整合性によって検証することもできる(p.29)
  • 科学は、世界について何かを見出すための方法であり、ある理論の総体というわけではないことになる。(中略)一部の哲学者は、アメリカの哲学者ジョージ・ゲイルが「手引き(クックブック)の科学」と「説明のための科学」と呼んだものの区別をつけるようになった。この対比は、科学が2つの別の段階からなるということを認めている。つまり、経験的観察の蓄積(一般論という形でまとめられる)と、これらの一般論がなぜ存在するかを教えてくれる説明の発明である(p.32)
  • ポパーの理論の難点の一つは、科学の大部分は、理論が間違っていることを証明しようとすることではなく、理論が通用しなくなる地点を定めることによって、利用できる範囲(即ち、科学者が間違った予測をする範囲)を定めようとすることにあるという事実である(p.37)

 3章では、科学の面でそれほど進んでいない文化でも、立派な経験科学(=クックブックの科学)が行なわれている証拠を、いくつかの民族を例に挙げて示され、4章ではさらに、科学的方法が多くの鳥類や哺乳類の生活でも重要な特徴であることが論じられている。ここから筆者は、人間だけでなく高等動物全てにとって、科学が普遍的なものである(つまり近代西洋のみの特徴ではない)と結論づけている。

 しかしこれは、やや論理的説得性が低いように感じられた。というのは、科学が普遍的というにしては、人間はよく直感的・非論理的でまちがった推論をするからだ。先ほどの引用の、ということは、ポパーに対するくだりを当てはめて考える必要があると思う。つまり、人間や高等動物が単に科学的である、というだけではなく、「科学的に推論できる地点とできなくなる地点の限界点」をこそ明らかにすべきだからである。

 6章には、「日常の論議の脈絡では、我々が用いる論証は、たいていがあやふやに組み立てられている」(p.164)という話とともに、ウェイソン課題などが出てくるが、この話と、前半出てくる科学の普遍性の話(日常の暮らしが広く、略式の仮説−検証で成り立っている)とが、つなげられていない(ように感じる)のが残念な点。でも、科学という営みを見つめ直してみる一つのきっかけとしては、よい本だと思う。

西川先生の「論理学概論」を受講

 思考の研究をしようと思うならば、やはり基本は押さえておかないと、と思ったので。失礼ながら、予想外に面白かった。これまで論理学は、本『論理学』(サモン 1987 培風館)『論理トレーニング』(野矢茂樹 1997 産業図書)で勉強しようと試みて見たが、今一つ分かった気にはならなかった。それが今日の講義では大丈夫だった。適度な時間の流れが作られていることと、生身の人間(先生)が、相手の反応を見ながら進めていくからだろう。

 内容は、文論理学と真理表(このまとめ方であっているかどうかは自信がない)。記号化したりするヤツで、簡単簡単、と思っていたら、ちょっと複雑な練習問題で間違えてしまった(学生の中にはできているものもいた。優秀優秀)。適度な予備知識と適度な難しさ、というのもオモシロさの一因か。そう言えば、大学時代にも論理学を受講したことがあるが、あの時は途中から行かなくなった。こちらのレディネス不足(逆に言えば、先生が生徒のレベルを見極めていない)だったのだろう。

 授業後、我流論理学が正しいかどうか、一つ質問をした(できれば毎回質問しようと思っている)。今回の質問は「論理的」の定義は何かである。我流論理学では「前提から必然的に結論を導き出すこと」と考えているが、「それでは狭い」と言われた。帰納が入らないからだ。「必然的に」を「高い可能性で」に変えたら、まあいいだろうとのこと。でもこの場合は、「非論理的」との境界があいまいになってくる。定義一つでもなかなか難しいものだ。

■「琉球料理山本彩香」で(10月12日後日談)

 女将(=山本彩香)さんに「大学の先生でしょう。雰囲気で分かるわ」と言われた。一瞬、そんな勘の鋭い人もいるのか、と思ったが、やはり、どう考えても、私の服装やしゃべり方という前提条件から、論理的必然的に、大学の先生という帰結が出るはずがない。食事中は、料理の味よりも、このことと、娘のお世話(結構騒いだ)に気を取られてしまった。

 ではどうして分かったのか。いろいろな可能性を考えたが、どうしても「きっとこれだ」と思えるアイデアが沸かない。結局最後に分かったことだが、料理を給仕していた人のうちの一人が琉大生で、以前私の講義を取ったことがあるのだそうだ。な〜んだ。でも、推論の難しさを実感したできごとであった。

 娘がいつぐずり始めるかとひやひやし通しだったけど、お店の人にも回りのお客さんにも、娘をかわいがってもらえたし、女将さんには、結婚記念日のお祝いだといって、琉球ガラスのミニグラスをもらったし(もちろん初対面。「これが沖縄のチムグクル」なんだそうだ)、楽しい一日だった。

1999/10/12(火)

■『心理療法』(岡田・田畑・東山(編) 1992 創元社 臨床心理学第3巻)

 心理療法の基礎問題、技法論、過程などを扱った書だが、読みたかったのは、最終章の「心理療法の評価」。

 新しく知ったことや、改めて確認したこととしては、

  • 事例研究の主な目的は、治療者の成長、心理療法家としての社会的責任、治療者−クライエントの相互主観的な世界の客観化、新しい技法や概念化、など。
  • 臨床心理学関係の雑誌に占める単一事例研究の割合は、おおむね50%以下と、思ったほど多くない。それ以外は、複数事例研究、調査その他の統計的研究、理論的考察。
  • アイゼンク(1952, 1966)は、7000余りの事例の心理療法に関する19の研究を丹念に検討した結果、「それらの資料は、心理療法が施されようとされまいと、一群の神経症者のざっと3分の2は、疾患が始まって2年以内に回復したり、著しく改善するであろうことを示している」ことを見出した。
  • 心理療法の評価法としては、治療者によるもの、クライエントによるもの、心理テスト(標準化、投影法)によるもの、第3者によるもの、生理的指標によるもの、実験的方法によるもの、などがなされている。
  • 心理療法の評価のために従来から行なわれてきたのは、「統制群法」だが、統制群が健常者だったりして、厳密な方法が採用されているものは少ないようである。
  • ミール(1955)は、心理療法の効果判定の必要最小条件として、(a)対照群(統制群)、(b)治療前後の「客観的」な、あるいはなるべく欠点のない評価手順、(c)できれば何回もの追跡、をあげている。

 こういう厳密な研究計画は、遂行が可能であれば、どんどん行なわれればいいと思うが、現実的には、倫理的な問題を考えると、厳密な研究計画はまず無理であろう(特に、想定される治療期間が長くなればなるほど)。私見では、心理療法はそこまで厳密な「科学的」方法論にこだわることはないと思う。主に治療者の主観に基づく1事例研究であっても、最低限治療者が、自分のものの見方の偏りに関する知識と注意心をもち、心理療法の過程や意味を、他の技法や他の治療者の事例も念頭におきながら、第3者的な目で相対化できればいいのではないだろうか。

 それに関しては、本文中にも次の記述がある。

  • 解釈は、治療者の一方的な思いこみになる恐れがある。しかし、これなくしてはクライエントの非言語的な表現は理解できない等矛盾したものを含んでいる。したがって、治療者の一方的な思いこみのままにしておかない工夫がいる。たとえば、治療者が教育分析を受けて、自分自身、および、自分の考え方の特徴をよく知ること(以下略)。(p.108)
  • 治療者が自分なりの「理論」に縛られすぎていると、それによって満足の行く治療を行なおうとして、終結を治療者が引き伸ばすことがある。(中略)。治療者はこのようなとき、きわめて理論的に考えているようであるが、自分自身の依存性について分析してみる必要があろう。(p.176)

■今日は結婚記念日

ということで、「琉球料理山本綾香」に予約を入れる。娘がむずがらなければいいのだが。

1999/10/09(土)

■『よりよき世界を求めて』(ポパー 1995 未來社)

 ポパー自身の講演集。大学図書館で借りた。小河原の書で、入門として一番入りやすいポパーの本、と紹介されていたが、かなり難しいものもあり、最後のほうはきちんと読めていない。

 ということで、抜き書きのみ。

  • われわれの知識の源泉についての(中略)伝統的な問いは、「なにがわれわれの知識の最良の源泉(中略)なのか」ということでした。(中略)
     わたくしは、理想的で誤ることのない支配者などいないのと同様に、理想的で誤ることのない知識の源泉などもないし、知識の「源泉」はなんであれ時としてわれわれを惑わせるものであるという事実から出発することを提案します。ですから、知識の源泉についての問いを、これとは根本的に異なる問い、すなわち、「誤りを発見し、排除する方法はあるか」という問いで置き換えることを提案するのです。(中略)
     「誤りを認識し、それを排除する見込みは、どのようにしたら得られるのか」というわたくしの問いに対する的確な答えは、「ほかの理論や推測を批判し−われわれが自分自身を教育できるならば−われわれ自身の理論や思弁的な問題解決の試みを批判することによって」ということであると思われます。(p.86-88)
  • 科学の方法とは、もっとも鋭い批判によって制御されるような暫定的な解決の試み(あるいは、思いつき)という方法なのです。それは、試みと誤り(トライアル・アンド・エラー)の方法を批判的に発展させたものです。
     いわゆる科学の客観性は、批判的方法の客観性にあります。それは、とくに、いかなる理論も批判を免れないということ、そして、批判の論理的な補助手段−論理的矛盾のカテゴリー−が客観的であるということにあります。(p.118)
  • カントにとって啓蒙の決定的な理念が何であったか(中略)、それは、知による自己解放という理念でありました。(中略)
     それにもかかわらず、彼は、人生の意味が、たとえば、知による自己解放という課題のような主として知的な課題にあるとは考えてもいませんでした。(中略)それにもかかわらず、知による自己教育、知による自己解放は、彼には、すべての人に、ここで今、直ちに行為するよう呼びかける哲学的必然性をもった課題と見えました。なぜなら、われわれはただ知によってのみ、精神的に解放されうる、すなわち、誤った理念、偏見、偶像の奴隷とされている状態から、解放されうるからです。(p.216)(カントの論文『啓蒙とは何か』について)
  • 真理に近づくことは容易ではありません。ただひとつの道、つまり、われわれの誤りを通っていく道があるのみです。われわれの犯した誤りからのみわれわれは学ぶことができるのです。そして他人の誤りを真理への歩みと評価する用意のある者、自分自身の誤りをさがして、それから解放されようとする者だけが学ぶのであると言えましょう。(p.234)

■ネットサーフィンをしていたら

ネットサーフィンをしていたら、「原子力施設臨界事故」に関して書かれたコラムで、次のような記述にぶつかった。「もうすぐ西暦2000年になる。世の中には愛玩用の犬型ロボットまで出てきた。回転寿司だってロボットが握る時代だ。それなのに、なぜこんな原始的な事(沈殿槽の水抜き)を人間が決死の覚悟でしなければならないか。」

 原子力発電に関しては、もっと原始的なことを人間がやっている、ということが、『いのちに触れる −生と性と死の授業』(鳥山敏子 1985 太郎次郎社)に書かれている。この本は、小学校教員であった著者の、一種の実践記録だが、内容が壮絶。

 「原子力発電所」を考える授業では、原発推進側のPR映画を見た後に、元原発労働者に話を聞く。そこで語られるのは、「原子炉内にたまったヘドロを取り除くために、年に一度、人間が原子炉内に入り(ガムテープで作業用服の隙間に目張りして!)、放射性物質がごっそりつまったヘドロを書き出している」という事実である。といっても著者は、子どもたちを簡単に「原発反対」という子にしたいわけではない。しかし、原発がどういう仕組みになっていて、どういう問題を抱えていて、どういう人たちによって支えられているかを知らせたいのだ。

 その他に、「生命を考える」授業では、小学校4年生を対象に、「にわとりを殺して食べる」実践が行なわれる。もちろん子どもたちは泣く。しかし、そうやって事実を突きつけることによって、「いのちとは」「人間とは」などについて考えさせよう、ということだ。ちょっと他にはないような、さまざまなことを考えさせられる実践記録である。

1999/10/06(水)

■『クーン −パラダイム』(野家啓一 1998 講談社 現代思想の冒険者たち24)

 これは面白い。本書の目標は、「パラダイム」という概念の誕生と変遷をたどりながら、科学哲学という舞台の上で展開された知的ドラマを描き出すこと。そのドラマを、クーンが「<科学>殺人事件」の嫌疑をかけられた被告に見たてて、「被告人クーンの人定質問」「<科学>殺人の動機解明」「現場検証」などという形で話が進められていく。もちろんこれだけではなく、「科学」の成立過程や「科学史・科学哲学」の形成過程まで触れてあるので、これで一通り、科学論関連の知識が学べるようになっているのがありがたい(もちろん視点が「新科学哲学」寄りであることは致し方ないが)

 面白いのは、クーンもポパーも、進化論メタファーを取り入れているところ。ポパーのは、「反証主義=自然淘汰」というメタファーだが、クーンのは、「進化の方向性には一定の目的がない」というところ。ダーウィンが、「神や自然によって定められた目標」の存在を否定しているように、クーンは、科学が「真理という目的」に向かって(toward)進化することを否定する。すなわち科学の進化とは、「現在われわれが知っていることからの(from)進化」なのである。どちらもなるほどという感じ。

 クーンは、理論選択における基準の不在を説くところから、主観主義、非合理主義、神秘主義と称されるが、選択基準がないわけではない。彼が挙げているのは、(1)精確性、(2)無矛盾性、(3)広範囲性、(4)単純性、(5)多産性。要するに、これらのどこに基準を置くかによって、どの理論(パラダイム)が最適か、という答えが変わってくるわけである。

 彼は科学を、「唯一の方法によって縛り付けられた単一の一枚岩的な活動」ではなく、「異なった専門分野ないしは種からなる、複雑ではあるが非体系的な構造」として特徴づけられる、「多元的」な活動として見た。科学に限らず、思考や論理を考える上でも重要な視点であろう。

  • 自らを相対化する視点をもたないところにこそ、狂信は芽生えるのである。(p.24)
  • (クーンはアリストテレスの『自然学』の)テクストの内的整合性が最大となり、真理値が最も多く配分されるような読み方を模索した(=クワインとデイヴィドソンが提唱する「善意解釈の原理」)(p.115)

■明日から後期授業開始

 あ〜あ。

1999/10/04(月)

■日記猿人に登録

 日記猿人に登録した。ただし投票システムには不参加。このあたりの事情を以下に説明。本ページは、学会中のちはるさんとのオフ会に影響を受けて作ろうと思ったのだが、どう考えても自分には、不特定多数の人紹介できるほどの日常を送っているわけでもないし、私の好きな思索系日記やオモシロ系日記が自分にかけるとは思わない。

 という躊躇はあったのだが、1年半ほど日記読みをしながら、形にして何かを残すことへの憧れは感じていた。・・・なんてことを、学会帰りのバス〜飛行機の中で考えながら、ふと思いついたのが、読書の記録。ちょうど最近、学会などで買いこんだ本がたまりまくっていたし、Web上にある書評のページからは、いろいろと貴重な情報を得ることがあったので、これならばいいのではないか、という気になった。

 私が読む本なので、当然ながらジャンルとしては、認知心理学・教育心理学が一番多くなる。それ以外には、これまでのところ、科学論、臨床心理学などが入っている。もちろん特定ジャンルにこだわるわけではなく、これから私が読む(通読する)本の9割は入れようと思っている。おそらくここに記録される本はかなり玉石混交になるだろう。

 当面は、他人の存在はほとんど考えず、自分用のメモ半分、大量に買いこんだ書籍を読む動機づけを高める目的半分とする(要するに、100%自分のため)。読者を想定しながら書くと、うまく書こう、分かりやすく丁寧に書こう、などと文章内容に対する要求水準が高くなってしまい、そのうちに書くのがいやになってしまうのではないかと思ったからだ。というわけで投票システムには、当面の間不参加。あと、手動更新報告もしない予定なので、このページを定期的に読まれたい方(いるのかな?)は、マイニッキエンジンを使われるのがいいのではないかと思う。

 更新は、週2回程度を予定。具体的には、9月に関しては原則として3で割り切れる日を更新日とした。1ヶ月近くやってみて、今のところはこのペースでいけそうだという感触。このペースだと、年間120冊の本を読むことになる。果たして順調に行くのだろうか、という不安もあるが、とりあえず行けるところまで行ってみることにした。

1999/10/03(日)

■『学校と地域で育てるメディアリテラシー』(村野井・三嶋・乾・大野木(編) 1999 ナカニシヤ出版)

 メディアリテラシー(教育)とは、これまで支配的だったメディア提供情報を「受ける学び」だけでなく、メディア提供情報からよい情報を「選ぶ学び」、さらに新しい情報を「作る」「発する」学びだとある。本書は、問題提起(第1部)、具体的な実践の報告(第2部)、展望(第3部)という構成だが、半分以上を実践報告が占めており、しかもほとんどが「作る」「発する」学びの話で、「選ぶ」学びが見られず、私としては期待はずれ。まぁ、現場では「作る」だけでも大変なことなのでしょうが。

 でも、メディアリテラシー先進国のカナダでは、もっと「選ぶ」(分析する)学びが重視されているんじゃなかったかなぁ、と思っていたら、そのあたりの事情がこの本に簡単に出ていた。

 カナダは、「アメリカ合衆国の電波が国境を越えて映る」ためにリテラシー教育が進まざるを得ないようである。彼らの立場は、「放送事業者の自主的基準が1割、Vチップなどの技術発展が1割の影響を与え、残りの8割は市民の意識の覚醒とメディアリテラシー教育で育てる」ということだそうだ。どおりで進んでいるわけね。

■日々の雑感

 今日からちょっと形式を変更。日々の記録や雑感も入れられるようにした。ちなみに今日は、主にうちでごろ寝の日。昨日、糸満に遠出をしたりしたので。昨日の収穫は「丸三冷やしもの店」このページの下のほうに紹介あり)。ここの白熊(330円)は、気合を入れて挑まないと負けてしまうほどの迫力だった。


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