読書と日々の記録1999.11
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■読書記録: 30日短評5冊 30日『小学校 思考力・判断力』 27日『インナーチャイルド』 27日『冷淡な傍観者』 21日『テレビとのつきあい方』 18日『敢闘言』 15日『KYOKO』 12日『生涯発達の心理学』 9日『科学の方法』 6日『うまくやるための強化の原理』 3日『学ぶ力をうばう教育』
■日々記録: 27日クリティカル・シンキングとストレス対処 24日勤労感謝の日は、糸満へ 21日千日のぜんざい 18日教養部/教養教育問題 15日娘のエイサー初体験 12日学生のお勧め本 9日卒論の中間発表会 6日土曜日の昼食 3日学生のお勧め本

 

1999/11/30(火)

■『小学校 思考力・判断力 −その考え方と指導と評価』(北尾倫彦編 1995 図書文化社 図文・指導と評価シリーズ \2300)

 新しい学力観における思考力・判断力について、それが何で、なぜ重視されるのか、どう育成・評価したらいいのかについて、理論と実践の両面から多角的に論じられた本。どれぐらい多角的かというと、執筆者が総勢49名で、その中には、心理学者、教育学者はもとより、文部省の調査官や小学校教諭も含まれている。

 実はこの本、9月に読み始めたのだが、9月の目ウロコ本の後だったせいか、なんだか細切れでとても読みにくいものに思われ、途中でほったらかしていた。しかし改めて(多少我慢しながら)読んでみると、それはそれで面白い点もいくつかあった。

 私の体験では、思考についての授業を教育学部の大学生や院生にすると、実技系(音・美・体)の学生からは、「思考力は自分たちの教科にはあまり関係ないから」との感想を聞くことがある。しかしそれは違うことが、この本からわかった。そういえば確かに、スポーツ競技の中で適切に振舞うためには、思考・判断が必要となる。ある技能を身につけるために、どのようにトレーニングを計画すればいいか、という問題もそうである。また、音楽や美術で表現するときにも、アイディアを出し、その内容を吟味して選び出すという、思考過程が含まれている。

 以下、その他気になった表現の抜き書き。

  • デューイ:故意に努力して特殊な結合関係を発見する思考を「反省的思考」(reflective thinking)とよび、その働きを通して構成される経験を「実験的経験」とよぶのである。デューイによれば、反省的思考は2つの特徴をもつが、それは「1つは疑問、躊躇、困惑、精神的苦悩の状態である。思考はここに始まる。2つはこの疑問を解決し、困惑を安定化し、処理する材料を発見し様と調査、探求、吟味する働きである」と述べる。(p.22)

  • ディベートと日本人:日本人は、相手の話を聞くとき、心を空しくしてすべてを受け入れようという構えで聞く。それに対し、アメリカ人は、頭を自分の考えでいっぱいにしておいて、相手の発言をすぐさま自分の見解の脈絡の中に位置づけようという構えで聞くらしい。(p.84)

  • 情報処理論的な考え:思考力・判断力は、情報の加工能力と言いかえることができる。加工とは、次のような3つの要件を満たす作業である。(p.129)

    • 素材がある(魚、油など) …資料・知識(情報)がある
    • 道具がある(鍋、釜、火など)…認知方略がある
    • できあがりイメージがある(「こんなグラタンが作りたい」など) …到達目標/仮説がある

  • 判断力を評価する要素:

    1. 可能な選択肢を考えつく能力
    2. 与えられた選択肢の中から状況判断して、1つを選ぶことのできる能力
    3. その意思決定に至るまでの選択の論拠の合理性(p.145)

  • 問題解決能力を評価する新しい試みとしてのシミュレーション・テスト:医師に必要な臨床問題解決能力を見るために、いろいろな種類のシミュレーション・テストが開発されている。植村教授(浜松医科大学)によって開発されたものは、患者の問題点に関する簡単な記述が述べられ、この患者の問題点を解決するために与えられている項目より役立つ情報を集めていき、これらをもとにして診断、治療、処置の判断・決定を行なっていくという診療プロセス全体を紙上でシミュレートするものである。(p.155)

■今月の目ウロコ本

 やっぱり『科学の方法』(中谷宇吉郎)かなぁ。次点を挙げるなら、『飼いネコから配偶者まで うまくやるための強化の原理』(カレン・プライア)。 

■今月ほかに読んだ本は5冊(+1冊)

 計15冊(も)読んだ。今月中旬頃までは、なんだか活字中毒みたいになって、夕食後や土日、暇があると本を読んでいたような気がする。トイレで踏ん張っていても、無性になんか読みたくなったりして。

 でも、下旬はちょっと息切れした感もある。ひょっとしたら息切れというよりも、「面白い本」を読んだ後に読む「まあまあの本」が、対比効果でつまらなく感じ、読む気が失せたのかもしれないが。

 ということで、5冊分の寸評。

・『さよなら古い講義 −質問書方式による会話型教育への招待』(田中 一 1999 北海道大学図書刊行会)
 大学の図書館にあったので読んでみた。紙に質問を書かせる、というやり方は、比較的一般的なものだと思うが、それをかなりの労力をかけてシステマティックにしたもの。それにしても、『超整理法』(野口悠紀雄 中公新書)もそうだけど、ワンアイディアで一冊の本にしているところがすごい。

・『影絵 −ある少年の愛と性の物語』(渡辺淳一 1990/1994 中公文庫 \544)
 渡辺淳一の自伝ものとしては、『何処へ』(新潮社)の方が面白かったなぁ。

・『開かれた社会−開かれた宇宙』(カール・R・ポパー 1992 未来社 \2000)
 テレビでの対談を本にしたもの。インタビュアーがある程度ポパー哲学について詳しい人のようで、どんどん難しい話題にも突き進んでいく。あまり体系的ではないし、初心者にはお勧めできないと思う。それにしても、3世界論はあいかわらずよく分からん。

・『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房編集部編 1999 夏目booklet3 \1000)
 主に化学の見地からの『買ってはいけない』批判本。『買ってはいけない』のような、化学の知識を背景とした本を批判する勘どころを知るのに役に立つ。そういえばインターネット上でも、パロディー「買ってはいけない」というページがあり、参考になる(というか、笑える)。

・『現代学力形成論』(長谷川栄編 1996 協同出版 \2500)
 教育学者の本。樋口直宏氏の「授業における児童・生徒の批判的思考の形成」が載っているので買ってみた。その他の論文は、面白かったり面白くなかったり。
 ひとつ面白かったのは、1950年代に出された報告書に、「今の6年生は計算問題では、昔の3年生よりは力があるが、昔の5年生、6年生に対しては例外なしにどの種目でも足元にもよりつけない」なんていう記述があること。「今の学生は勉強ができん」なんて言い方、今に始まったことではないわけね。

・『ガラスの仮面 23巻』(美内すずえ 白泉社文庫 \600)
 ...なんてのも読んでたりして。
1999/11/27(土)

■『インナーチャイルド −本当のあなたを取り戻す方法』(ジョン・ブラッドショー 1993 NHK出版 \2300

 監訳者から頂いておきながら、棚に積んでいた本。なんせ400ページ以上あるので。インナーチャイルドとは、子ども時代に傷ついた心のことで、交流分析でいう「従順な子どもの自我状態(AC)」のことだ。傷ついたインナーチャイルドを持ち、未解決の問題をおきざりにしたままで成長した大人は、アダルトチャイルドと言う。3歳の大人だ。傷ついたインナーチャイルドが作られるのは、アダルトチャイルドに育てられたから。そうしてインナーチャイルドは永遠に再生産されていく。本書は、傷ついたインナーチャイルドを再生し、擁護するためのワークを中心にした本だ。

 以下、私の興味に合致する、思考関連の部分を中心に。まず第1部では、「傷ついたインナーチャイルドが人生を汚染する仕組み」が述べられる。たとえば思考歪曲がそうである。子どもの時に、発達上の依存欲求が満たされていないと、歪曲というインナーチャイルドの思考様式で汚染される。「パパが僕と遊ぶ時間がないのは、僕に何か悪いところがあるからだ」(自己中心的思考、2分法論法)とか、「自分が定年後に年金の金が不足したらどうしよう」(恐怖的思考)などというのがそうである。

 このようなインナーチャイルドを再生するには、過去の発達段階に逆戻りして、そこでやり残したことをやりとげる必要がある。特に、満たされなかった依存欲求を主張できるように、自我防衛を解き放つことがワークの中心になる。そのための方策として、大人のあなたが子どものあなたに向けて手紙を書く、瞑想の中で子どものあなたを受け入れる、子どもの時期のあなたを他人とシェアする、などが挙げられている。

 続いて、過去の学習不足によって受けた傷を、新しい学習によって埋めるエクササイズとなる。思考関連では、両極性思考の訓練がある。これは、2分法思考ではなく、「両方とも」が理解できるようになることである。たとえば、人々の中に長所と短所を見る練習をすることで、すべてのものにはプラスとマイナスがあることを自分に分からせるのである。また質問を多くする練習によって、人の言葉を鵜呑みにせず、他人を理解するのは簡単なことではないのだ、と自分のインナーチャイルドに教えてあげることができる。

 本書は基本的には、自分のインナーチャイルドの問題をどうにかしたい、と具体的な助言を求めている人向きの本だろう(私は必要に駆られて読んだわけではないので、たいくつな部分もあった)。でも、いつも臨床の本を読んで思うことだが、ときどきドキッとするような表現がズバッと書かれていることがある。「アダルトチャイルドが悩みから逃げる方法には、薬物やギャンブル、仕事中毒になる方法と、分析したり議論したり、頭デッカチになる方法がある」みたいな言葉である。時には臨床の本を読みながら、自分について考えてみるのも面白いよな、と再確認をしたことが、400ページ超の本から得たことか。

■クリティカル・シンキングとストレス対処

 胡桃の中の航海日誌の11月24日夜 の日記に、拙著『クリティカル進化論』が取り上げられた。その中で、「意識的にクリティカルシンキングをするようにできるようになると、うまくストレス対処できるようになるのだろうか」という疑問があったので、それについて考えてみた。

 まず、この考え方は認知療法の考え方に近い。認知療法とは、「不快な感情や不適切な行動を解決するために、歪んだ自動思考の修正を図ろうとする治療法」(『こころのつぶやきがあなたを変える −認知療法自習マニュアル』井上和臣 星和書店)である。もっと極端に言うと、「考え方次第で悩みは消える」(『自己発見の心理学』国分康孝 講談社新書)のである。

 しかしそこから単純に、「クリティカル・シンカー」が「うまくストレス対処できる」と言うのがいいのかどうかは、別問題の部分もあると思う。というよりも、うまく対処できる可能性は十分あるだろうが、そういう面だけではないのではないだろうか。

 その理由の第1は、11月12日の日記で取り上げた『生涯発達の心理学』にもあったように、「(ある領域の)エキスパートが他の領域でも有能だということはまったく保証されない」ことである。つまり、一般的能力としてクリティカル・シンキングがある程度できるとしても、それをストレス対処という特定領域に、すぐに応用できるとは限らない。特定領域で有能に振舞えるためには、領域特殊的な技能を身につける必要性があるのではないだろうか。

 第2に、私たちのかかえる問題すべてが認知療法の守備範囲ではない点が挙げられる。その点はクリティカル・シンキングでも同じであろう。具体的には、「歪んだ認知がその問題に関与していると判断されたとき」のみ、認知療法は効果を発揮するのである。別次元の問題には、別次元の対処法が必要になる。

 第3に、「分かってはいるけどできない」こともあるのではないだろうか。つまり問題の所在は認知にあるのだが、容易に認知の変容が図れないケースである。ストレスの場合にそういうケースがあるかどうかは、実はよく知らない。でもおそらく、「対象喪失」(親しい人の死など)の場合には、その事実を受け入れざるをえない、ということを頭では分かっても、そうできるまでには、ある程度の期間が必要ではないだろうか。つまり、時期を待たずして、単純に認知だけを変えるわけにはいかないように思う。

 と、いろいろ考えられることを挙げてみたが、それにしても、適切な、あるいは幅広い認知や思考を身につけることは、いろいろな面で有効であるのは、間違いないと思う。その一般的原理を抽出したのがクリティカル・シンキングだが、心理臨床も、患者を理解するという特定領域については、かなりクリティカル・シンキング的な面を持ち合わせていると思う。私が折に触れて、専門でもないのに臨床心理学の本を読む理由の一端は、そこにある。

1999/11/24(水)

■『新装版 冷淡な傍観者 −思いやりの社会心理学』(ラタネ&ダーリー 1997 ブレーン出版 \1900)

 緊急事態で傍観者がどう振舞うかについて明らかにした一連の研究を、専門外の人にも分かりやすく解説した本。確か1年ほど前に買ったまま、ほったらかしていた。なんだか本の雰囲気が古臭い気がしたし、それに、この研究については、一応の知識はもっているつもりだったので。でも、来週から一般教養の授業で、社会心理学の話をする予定なので、この機会に読んでみた。

 で、読んでみたらすごく面白かった。この一連の研究は、キティ・ジェノヴィースという女性が変質者に襲われて殺された事件が発端になっている。この事件では、少なくとも38人がキティの悲鳴を聞いていたのに、誰一人通報しなかった。それはなぜか、という疑問から始まった研究だ。この本には全部で12の実験が紹介されているが、このような形で、現実の出来事を実験のパラダイムに載せながら、一歩一歩明らかにしていくスタイルは、先行研究に頼らずに、日常生活にヒントを得て研究をしようとするものにとっては、多いに参考になるであろう。専攻分野に寄らず、大学院生などには、ぜひ読んでほしい一冊だ。

 この手の事件に対する論評で一般に言及されるのは、都会人や現代人の無関心さ、冷淡さ、規範意識の欠如である。しかしラタネらは、状況を少し変える(要請の内容、要請者の数、周りの人の反応など)だけで、途端に援助行動が増減することを、5つのフィールド実験で明らかにする。実験といっても、街中で通りすがりの人にお金を貸してくれるよう要請したり、地下鉄の乗り方を聞いたりする、という実験だ。そしてこれらの実験を元に、援助行動が生じるまでの過程のモデルが提出される。すなわち、

 (1)緊急事態の知覚 → (2)緊急性の判断 → (3)自分の個人的責任の判断 → (4)介入行動である。そして、状況によって、各段階での判断が変化し、援助行動が生じたり生じなくなったりすることが、実験室実験によって明らかにされる。

 まず、自分以外にも周りに人がいると、(1)緊急事態に気づくのが遅くなる場合があり(実験6。ただし実験7,8では差なし)、また、(2)事の緊急性を低く、楽観的に判断しがちになる(実験6〜9)。さらに、(3)他人の存在を知っているときに、責任感が分散され、個人的責任を感じにくいことが実験11で明らかにされる。最後に、フィールド実験(実験12)で、被験者の個人的要因(社会経済的地位など)よりも、場面への慣れの度合いが援助行動の生起/非生起と関係することが示される。

 一連の実験の被験者で、援助行動を起こさなかった者は、行動すべきかどうか判断に迷い、葛藤のさなかにいた。つまり、この手の事件の傍観者のことを、冷淡だの無関心だのと考察するのは、単純過ぎるということだ。実際、実験状況を第3者に説明した上で、あなたならどのような行動をとるかを訊ねたところ、実際の実験の結果とは違って、多くの者が援助行動を起こすと答えている。つまり、何か事件が起きた後に誰かが「良識のある」コメントをしたとしても、実際に行動するとは限らないのだ。大事なことは、自分も含めて、このような人間の弱さを認めること、そして、その事を踏まえた上で、いかに状況を適切に判断して自分の行動を決定するか、ということであろう。そのために、この研究を知ることは、おおいに役立つものと思われる。

■勤労感謝の日は、糸満へ

 用件は3つ。一つ目は、学生が南部の施設で介護体験実習を行っているので、様子を見に行ったこと。介護体験実習は、平成10年度入学生より、教員免許取得の条件となっており、琉大では今年から学生が派遣されている。様子を見る限りでは、なかなかいい勉強をさせてもらっているようだ。

 残りの2つの用事は、糸満(うちから結構遠い)に行ったついでのグルメ行脚。まずは昼ご飯を、「匠」という沖縄そば屋で。ここのそばは、麺は京風ラーメン風の柔らかさで、今一つ感心しなかったが、汁がおいしかった。あと、ジューシー(たきこみご飯)も結構イケた。

 その後腹ごなしに、西崎運動公園に行って見たら、結構娘が楽しめそうな遊具がそろっていた。ただ惜しむらくは、私達の服装がそのつもりになっていなかったこと。ジーパンをはいていれば、滑り台なんかで遊べたのに。残念。

 最後の用事は、10月3日の日記でも触れた「丸三冷やし物店」の再訪。妻が白熊(ミルク金時のかき氷にちょっとフルーツが載っているもの。デカい)、私がクリームぜんざい(氷ぜんざいの上にアイスクリーム)を食べた。やっぱりウマい。こんなにおいしいのに、もう秋だからか、客がほとんどいなかった。もったいないなぁ。

1999/11/21(日)

■『テレビとのつきあい方』(佐藤二雄 1996 岩波ジュニア新書 \640)

放送局勤務経験のある大学講師が書いたテレビ・リテラシーの本。レベル的には中高生向けか。高校生の甥がおじさんに、テレビについての質問状を出し、それに答えるという形式を取っている。1話が4ページ完結だし、すぐに読めてしまう。内容は、「人は、なぜ、テレビを見るか」からはじまり、「人は、テレビとのつきあい方を見直すようになるか」で終わる4章立てだ。

 「気楽さ、楽しさ、とっつきやすさ、理屈のないところがテレビの最大の魅力」(p.9)であり、「私たちが画面の中の動きに疑問を持ったり、私たちの側から意味づ付けすることを許さない」(p.28)のがテレビの特徴という。テレビの3大症状として、スピード病(ものごとを持続的に考えようとしなくなる)、目立ちたがり病(みんながテレビに出たがる)、甘口病(すぐにわかったつもりになるほどの分かりやすさ)が挙げられる。(これは利根川裕氏の考えらしい)(p.152-153)

 そこで必要になってくるのがテレビ・リテラシーである。よくリテラシーは「読み解く能力」という意味で使われるが、筆者は、テレビ・リテラシーに限っては、読み解く能力よりも批判する力だと考えている。以下は関連ヵ所の引用。

  • 批判する力が求められる理由は、ひとつは、テレビの圧倒的な総合力に正面から立ち向かうためであり、もうひとつは、現代の新聞、テレビがますます巨大になりつつあるから。(p.102-103)

  • 世論を誘導するのに、効率的で効果的なのがマス・メディア、とくに扇動に適したテレビだ。送り手が必要ならば繰り返し、不都合ならば覆い隠す。やっかいなのは送り手に自覚がなく、結果として作用することもあるということだ。(p.159)

  • テレビは「深く考える」ことを許さない。テレビはその対極にある強い磁力だ。(p.189)

  • あらゆることに素朴に疑問を持つ、そして考える、とことん考え抜く……、これは最も「非テレビ的」なことだ。(p.205)

■今日のおやつは千日のぜんざい

 ふつう本土でぜんざいといえば、あずきを甘く煮たあたたかい食べ物のことを指すが、沖縄では違う。金時豆を甘く煮たものを冷やして、上にかき氷を山のようにかけたものがぜんざい。まぁ言うなれば、ほとんど別物である。

 来沖当初、1回食べてみたが、そんなにおいしいものではないと思ったので、それ以来まったく食べていなかった。しかし今年に入って、(1)おいしいぜんざい屋さんを学生に教えてもらった、(2)新聞でぜんざい屋さんについて、ちょっとした特集があった、(3)妻が異様に冷たいもの好き、という条件が重なり、おいしいぜんざい屋を求めて、本島内をうろつくようになった。

 今日行ったのは、那覇にある「千日」という、老舗のぜんざい屋。ここのぜんざいの氷は、妻に言わせると「ふわふわの雪のようなおいしさ」なのだそうだ。ここに来るのは2度目だ。さすがにもう秋だからか、客は少なかったし、夏に食べたときよりは感動が少なかった(もちろんおいしかったけど)。でも、久しぶりに雪のようなぜんざいを堪能して、親子3人大満足の午後であった。

1999/11/18(木)

■『敢闘言』(日垣隆 1999 太田出版 \1550)

 「文芸春秋」や「サンデー毎日」で、『買ってはいけない』について論じているのを見て、日垣氏に興味を持ち、買って見た。

 内容は、物書きとして父親として様々な偽善と闘いつづけた週刊「エコノミスト」の名物コラム(巻頭言)を6年分収録したもの。

 その他にも、「ダイオキシン猛毒説の虚構」「心神喪失のタブーを突く」という2つのルポが収録されている。感心したのは、日垣氏のジャーナリストとしての姿勢。きちんとした取材および豊富なデータや知識を元に、論理的かつ客観的に事実や結論が述べられていること。そのせいで、納得することが多い。

 コラムで扱われたテーマは多岐に渡るため、考えることや読むことに関する文章のみを抜粋。

  • 私は居直って、いくつかのルールを決めている。一冊の本を読むに際しては10ヵ所以上ラインを引かない、新聞の切り抜きは一紙につき2ヵ所以内にとどめる。(p.103)
  • 思考修行者は最低、毎日1冊書物を読まんとあかん。(p.141)
  • 理解するためには、やや強引にでも「要するに」と概括してみる。仮説−検証がヒト的知恵の基本。(p.230)
  • 盲信的とは、自ら一次資料にあたる努力もせず、複眼的な視点を拒絶する態度のことである。(p.313)
  • 丸山工作『筋肉の謎を追って』には、「ワープロに10編ほど関連分野の論文全文を打ち込むのが、英語論文の書き方を習う一番よい方法」とある。(p.314)

 そういえば、「およそ読書ノートにメモらなければ忘れてしまうような内容は、忘れてしまうべき程度のものなのであり云々」という記述もあった(p.196)。万一このページを日垣氏に見られたら、笑われてしまうかなぁ。でも、私はこの意見は妥当ではないと思う。要は広さと深さのトレードオフだと思うからだ。それに、一口に読書ノートといっても、中身や使い方によって効用の有無はまったく変わってくるだろう。それを個々に具体的に検討せずに、一般論として否定してしまうのは、短絡的ではなかろうか。

■教養部/教養教育問題について

 今日は特に書くことがないなぁ、と思っていたら、11月17日じぶん更新日記に触発されたので、ちょっとだけ教養部/教養教育問題について。

 私は、1991年(大学設置基準の改正の年)〜1997年まで教養部に所属していた関係上、教養部/教養教育問題についてはある程度知っているつもりだが、この両者(教養部問題と教養教育問題)を直接にリンクさせて論じるのは、あまり適当ではないのではないかと思う。そのことを歴史的な経緯を元に確認するために、『続 大学は変わる −大学教員懇談会10年の軌跡』(大学セミナー・ハウス編 1995 国際書院)の中にある、戸田修三氏(大学審議会委員・中央大学)を参考に、以下にまとめてみた(残念ながら、文部省のページには、1991年の答申は載せられていなかった)。

 昨今の大学改革は、1991年の大学設置基準改正に端を発しているが、この改正の2本柱は、設置基準の大綱化(規制緩和)と、大学の自己点検・自己評価である。両者の関係は、後者が、前者による教育・研究水準低下防止、という面を持っているのであろう。つまり、メインは「大綱化」ということになる。大綱化の一環として、専任教官の内訳が、それぞれの大学の自主的な判断にまかされることになった。つまり教養部を置かなくてもよくなったわけである。これが引き金となり、全国の大学で教養部の改組/解体が行われるようになった。

 また、教育課程の編成に関しては、一般教育科目と専門科目の区分が廃止されている。しかしそのことは、一般教養の軽視に直結してるわけではない。この点については、19条第2項に次の文言がある。「教育課程の編成に当たっては、大学は、学部等の専攻に係る専門の学芸を教授するとともに、幅広く深い教養及び総合的な判断力を培い、豊かな人間性を涵養するよう適切に配慮しなければならない。」 つまり、決して教養教育を無視してはいけないのである。しかし設置基準大綱化のねらいである、「自由で個性的な教育」のあり方の一つとして、教養教育/専門教育の重視/軽視、ということはありうる。もちろんどのような道を選択するかは、各大学の選択に任されている(はずである)。

 以上が、教養部問題(大学設置基準の改正に伴う)と、教養教育の問題(各大学の自由裁量)が、基本的には別物である、という主張の根拠である。しかしもちろん、これらは全く別物ではない。教養部解体に伴う(比較的直接的な)教養教育関連の変化としては、次のような点が挙げられるだろうか。

  • 教育課程を前期・後期に2分する必要がなくなったので、教養教育と専門教育の有機的な連携を作りやすくなったこと
  • 特定学部の教員のみではなく、全学の教員が教養教育に携わったり、教養教育のことを考える必要が出てきたこと
  • そのことは逆に言うと、恒常的に教養教育について考える集団がなくなったとも言える。多くの大学で取られている「委員会」方式では、数年でメンバーが入れ替わるために、特定集団が恒常的に教養教育(の質の向上)について考える、という形にはなりにくいと思われる。

1999/11/15(月)

■『KYOKO』(村上龍 1995 集英社文庫 \500)

 学生の推薦文を見て、面白そうだったので買って見た(まずはこちらをご覧下さい)。実際面白かった。

 ただ、ちょっとしっくりこない点があった。キョウコが魅力的に書かれすぎている感じがするのだ。たとえば、ホセの叔父であるバーのマスターは、キョウコのことを「こんな不思議な女性には会ったことがない、とわたしは思った。僅かに角度が変わるだけで、キョウコはすべてを知り尽くした聖母のようにも見えたし、イノセントな天使のようにも見えた。」(p.84)と語る。現実味がなく共感できない、と言われても仕方がないかも知れない。現に巻末には、読者のそういう感想も載せられている。

 しかし、著者による文庫版あとがきに、『KYOKO』は一種の妖精譚であり、悪意が存在しない寓話だとあるのを見て、合点がいった。なるほど、妖精なわけね。

 妖精といっても、キョウコは単に魅力的な妖精役に徹しているわけではない。物語の主な話者は、キョウコと関わった人たちだが、何箇所かに、キョウコの短いモノローグが挟まれている。そこでは、キョウコ自身の迷いが表明され、キョウコが成長の途上にあることが示される。つまりキョウコは、完全な妖精ではなく、「周りの人から見ると妖精に見える普通の人」なのだ。

 そう考えると、この話は単なるオトギバナシに留まらなくなってくる。キョウコは、周りの人から見れば、勇気や感動を与えてくれる妖精だ。しかしキョウコから見れば、13年前にダンスを教えてくれたホセこそが妖精だ。つまり、13年前にホセという妖精に救われたキョウコが、今度は妖精として、ホセを含むニューヨークの人たちに影響を与える、という関係だ。次は、キョウコに影響を受けた人たちが、妖精として、他の人に影響を与えることだろう。

 ここで思い出すのが、中島らものエッセイ『恋は底ぢから』(JICC出版)の中の、「その日の天使」という話。人には毎日一人、天使がついており、様々な形で現れる、という話である。これと同じで、我々は、時として妖精になったりなられたりしながら、他人との関わりの中で、救ったり救われたりしているのかもしれない。

■娘のエイサー初体験

 週末は琉大祭だった。我が家は土日とも出かけ、法政学科と琉球國祭り太鼓エイサーを見てきた。妻が大ファンなのだ。

 琉球國祭り太鼓では、最後のカチャーシーのとき、祭り太鼓の団員の1人が1歳5ヶ月の娘を抱きかかえて一緒に踊ってくれた。娘もうれしそうだったが、妻も大喜び。将来は娘にエイサーを踊らせるために、どんどんエイサーを見せて英才教育(エイサーいきょういく)をするのだ、と張り切っていた(最後のダジャレは私です。失礼)

 うちに帰ってから、娘に「ハイヤイヤサッサ」と掛け声をかけてあげると、足踏みしたり、くるくるまわったり、手をグーパーグーパーしたりしている。将来有望かも(すみません親ばかで)

■前回の読書記録に追記

 なぜ「高齢者の知的有能さを生かし、できるかぎりその有能さを発揮できるように助けること」が求められるのかというはせぴぃ先生の疑問に答えるべく、もう一度本をざっと見なおしたところ、見つけた答えは2つ。

  • 我々は高齢者の知的機能が衰退する、という概念にとらわれすぎていて、無意図的に、高齢者が知的有能さを発揮する機会をせばめていること。
  • 必要以上に世話を焼こうとするのは、高齢者の知的有能さを認めていないことになるし、それを低めることにもなるから。

 では「なぜ能力発揮の機会を狭め、有能さを認めないことがよくないことなのか」についての答えは、特に見当たらなかった。全くの素人考えだが、内発的に動機づけられた行動の有効性や、そのような行動を外的にコントロールしようとすることの有害性は、もはや当然のこととして、あえて言及されないのかもしれない。この点については、今後機会があれば深めていきたい。

1999/11/12(金)

■『生涯発達の心理学』(高橋恵子・波多野誼余夫 1990 岩波新書 新赤版 \640)

 生涯発達心理学、つまり、人間の一生涯を見通す心理学を通して、中高年であっても人間は常に有能でありつづけること、だから年をとることを恐れる必要はないことを主張・提案している本。

 たとえば私たちは、中高年を衰えるいやな時期、と捉えがちだ。しかし著者たちは、中高年者は実は有能さをいっそう伸ばしていることさえあるという。老年期でさえ、いやな時期ではなく明るく、楽しい生活の可能性がある。

 とは言ってもそれは、すでに何らかのエキスパートとして有能さを獲得している場合であり、人的ネットワーク(愛情のネットワーク)を作り上げている場合である。単なる会社人間に徹してしまって、知的有能さも人的ネットワークも獲得していない場合は、老年期はあまり楽しいものではないかもしれない(これは道田の私見)

 これから老いる人(自分も含めて)にも、老いた人が身近にいる場合も、意義のある知見が書かれた本である。とくに高齢者との付き合い方については、10章で具体的に提案されている。それは一言で言うと、「高齢者の知的有能さを生かし、できるかぎりその有能さを発揮できるように助けること」だそうだ。日常での実践が見据えられた心理学研究/知識、ということができよう。

  • ものの感じ方や考え方が、年齢によって質的に異なることはめったにない。年齢差といわれるものの多くは、量的な差として解釈した方がよい。(p.11)

  • エキスパートが他の領域でも有能だということはまったく保証されない。その理由は、結局彼らの有能さが、領域固有の生きて働く知識やそれを効果的に用いる技能に依存していることによる。(p.16)

  • 人々は一方では領域ごとの豊富で構造化された内容的知識を身につける、つまりエキスパートになることによって、また他方では、自分の強みを生かして不得手な分野を補うというやり方で、ずっと後になるまで知的に有能であり続ける選択的最適化とそれによる補償。(p.60)

  • 知的有能さの生涯発達には、概念的変化ないし知識の構造化と、その量的増大ないし減少という2つの過程が含まれている。(p.122)

  • 乳幼児の成長はたしかにすばらしい(「吸い取り紙が水を吸い取るように」)が、どの時期にもましてすばらしいかというと、決してそうではない。記憶の研究によれば、外国語の習得が最も早かったのは幼児ではなく、10代前半の子どもたちであったという報告がある。「吸い取り紙が水を吸い取るように」というのは、年齢から期待されるよりは覚えがいい、という印象のせいであろう。(p.156)

  • 日常生活(の中で学ぶ場合)では、結果や効率を重視し、失敗や時間的無駄をできるだけ避けようとする傾向がある。このような直接の生産性からはひとまず自由である学校は、物事をより深く理解しようとするのに好都合な場所である。(p.177)

学生のお勧め本に3冊追加

 今回は『悪魔の弁護人』『かぎりなくやさしい花々』『影絵 −ある少年の愛と性の物語』の3冊。

 ちなみにこれは、次のようなの基準で選んでいる。まず、面白そう、読みたい、と思わせた文章は無条件に採用。これは今のところ、毎回1つぐらいしかない。そこで、(1)レポート自体(その日の授業内容をまとめるノートレポート)の出来が悪くないものの中で、(2)できるだけ特定学部に偏らないようにした上で、(3)書評自体が悪くないもの。これでさらに数人分が追加される。

 つまり、レポート自体の出来が悪い場合は、書評は採用しない。学生の個人名は出さないが、自分の書評が採用されていることを見れば、「自分のレポートの評価は低くない」ことを確認することができるはずだ。ただし逆は真ならずなので要注意。

1999/11/09(火)

■『科学の方法』(中谷宇吉郎 1958 岩波新書 青版 \660)

 雪の研究で有名な中谷氏の随筆集。NHKの教養大学講座で放送した講義内容に加筆したものだそうだ。あまり期待せずに読み始めたが、異様に面白かった。

われわれはつい、科学を万能視してしまうが、「科学が力強いというのは、ある限界の中の話であって、その限界の外では、案外に無力なものであることを、つい忘れがちになっている」(p.1)のである。こういう話は、新科学哲学についての本などにはよく書かれている。あるいは、科学的真実が、われわれとは無関係に外界に実在するという考えを、新科学哲学の人は、素朴実在論などと称して退ける。しかし、その手の本でいままで不満だったのは、具体的に何がどう無力なのか、限界があるのか、どのように実在していないのか、ということが明確に示されていないことであった。逆に、『科学が嫌われる理由』みたいな本だと、科学の理論が有効である証拠として、アポロ13号が綿密な軌道計算のもとに、無事帰還したという話を挙げ、「物理学理論が太陽系の規模では実在を正しく記述していると考えられる」などと書かれている。こちらの方がはるかに具体的なので、ついつい実在論に傾いてしまいそうになる。

 本書ではこの点について具体的に示されている。たとえば科学の限界については「X線の波長を精密に測ることは、とうていできない」「自由落下の問題も本当の意味では解けていない」「雷の電気がどうして発生するか、ということさえ、まだ分かっていない」という具合に。もちろん分かっていることについての説明もある。しかしそこには「仮定」や「とりきめ」に基づいて分かる範囲だけを対象にあるいは分かったことにしてしまっている実態が、わかりやすく紹介されている。

 寺田寅彦の弟子であったせいだろうか。文章も非常に平易で読みやすく、しかも内容は、レベルが落とされていない。大学生をはじめ、多くの人に読んでほしい、良質の科学論であると思う。

  • ものは自然界にそのままにあるというのは、一種のごまかしであって、この問題はそう簡単にはいえないのである。自然現象とか、自然の実際の姿とか、あるいはその間の法則はすべて人間が見つけるのであって、それは、科学の目を通じて見た自然の実態なのである。(p.18-19)

  • (天体の軌道計算時に誤差のため)二百年と永久の区別がつかないということは、二様に解釈できる。1つは、科学も案外無力であるという見方である。しかし同時に、二百年も先のことまで分かるのであるから、非常に強力なものとも考えられる。どっちの見方をするかは、趣味の問題である。(p.56)

  • 機械的エネルギーが熱エネルギーに変わっても、エネルギーの量は不変である、といわれている(エネルギー不滅の法則)が、実験的に精密に確かめられているわけではない。(しかしそれを)公理と見て、それに基づいて、学問を組み立てたのが、今日の科学であった。それが、必要とする精度の範囲内で、自然現象をよく説明し、また役にもたつので、その公理は正しいものとされてきたわけである。(p.65-66)

  • 自然界に起こっている現象では、厳密にいえば、同じ事は決して二度とは繰り返して起こらない。そういう現象を、もし条件が全く一様ならば、同じ事が繰り返して起こるはずであるという見方で、取り扱うのが、科学である。(p.80)

  • (現在の物質の科学で一番基本的な方法である)分析と綜合の方法は、分析して調べた一つ一つの要素についての法則が、それを寄せ集めたときに、そのままのかたちで効いて、全体の性質をそれで説明できる場合にしか、適用できない。(p.99)

  • 測定しているものの性質があまりはっきりしていないような場合には、いわゆる定量的に、いくらくわしく測ってあっても、それは全く意味がない場合もある。測定によって得られた数字が、自然の実態をあらわしていないか、あるいは実態のうちのごく一部の性質しかあらわしていない場合は、科学的の価値は少ないのである。(p.132)

  • 一体自然界に法則というものがあるかないか。今までの考え方では、法則があるということは、証明できることではないので、法則があると仮定して組み立てたものが科学なのである。(p.188)

  • もし自然界に、人間をはなれて、真理というものが、隠されているものならば、それを発掘すれば、それでおしまいである。しかし科学の真理が、自然と人間との共同作品であるならば、科学は永久に進化し、変貌していくものである。このいずれの見方をするかは、趣味の問題である。(p.197)

■今日は卒論の中間発表会

 以前よりも規模が小さくなったので、丸一日とられることはなくなったが、それでも午後3時間まるまるつぶれると、結構きつい。体力的にも、以前より疲労のダメージが大きい気がする。トシか。

 琉大にはじめてきて感心したのは、もうこの時期でデータを取り終わり、あらかた分析も終わっていること。前にいた大学(の私の所属講座)では、考えられない早さだ(少なくとも10年前は。今はどうか知らないが)。

 あとは、もう少し細かくデータ分析をして、論文を書くのみ。最後までがんばってほしいものだ。

1999/11/06(土)

■『飼いネコから配偶者まで うまくやるための強化の原理』(カレン・プライア 1998 二瓶社 \1400)

 行動分析学を土台にして書かれた、人間や動物との関係を円滑にするための本。著者は、生物学者にして犬のしつけ訓練の第一人者。実は私は、『行動分析学入門』(杉山ら 産業図書)という本を、分量の多さと難しさゆえ、途中まで読んでほったらかしてある。しかしこの本は、小さ目のサイズで200ページ弱だし、平易に書かれているので、引っかかることなくすぐに読みとおせた。多くの人にお勧めできる良書である。

 行動分析というと、大学時代に教養課程に行動主義の先生がいて、授業を受けたことがある。その時の印象は、「行動理論は簡潔にして効果絶大、すげー面白そー」というものであった。でも、その理屈を日常生活で応用してみようとしても、なかなかうまくいかない。おかしい。要するにうまくできたら誉めたり報酬を与えればいいんじゃないの? ・・・それで、「行動理論の実践はすげー難しー」に印象が変わったまま、現在に至っている。

 しかし本書の読後感は、「やっぱり行動理論は役に立ちそう」というものであった。それは、書かれていることが理論中心ではなく、具体的・実践的だからである。それに、「強化にもとづく訓練とは、報酬や罰を与えることではない」(p.3)なんて、どうやら私が誤解していたらしいことも判明して、勉強になったりする。イルカにジャンプさせるのって、単に飛んだ後にえさをあげればいいわけじゃなかったのね。

 これで今日から、妻も子どもも自分の行動も思いのまま、となるといいんだけど・・・。この本で、理屈と現実のギャップは少し埋められたような気はするが、多分そんなに簡単じゃないんだろうなぁ。でも、下の引用の1番目なんかは、なかなか仕事にとりかかる気分にならないときに使えそう。ちょっと進むたびにWeb日記読んだりしてね。
 専門家(行動主義者)は、配偶者も子どもも自分の行動も思いのまま、なのかなぁ。

  • (固定強化で)スタートが遅いという欠点を乗り越えるための1つの方法は、スタートしたばかりのときに何かの好子が得られるようにすることである。(p.29)
  • 1つのシェイピング手続きが十分な進歩をもたらさないときには、別のやり方を見つけよ。(中略)優れた教師なら誰でも、1つの方法に子どもが飽きたり怖がっていることがわかったら、別の方法に切り替えるものである。(p.50)
  • 1つの命令に従う行動を強化する(=刺激制御)と、他の命令にはもっと速く従うようになる(=般化)。私の友人の教師は、新学期の初めには、いつも、生徒がチューインガムを噛まないようにする訓練からはじめる。強制はしない。それからあとは、生徒たちは彼の要求には何でも従うようになる。(p.97)
  • 嫌子法(罰)を使った場合、悪い行動をどう改めればいいのかについては教えることができない。嫌子が効果を持つのは、初めて与えられた場合や、嫌子に慣れっこになっていない場合である。嫌子を使いそうになったら、こう考えなさい。「自分はこの犬、この子、この妻、この夫、この社員の行動を改めようと思っているのか? もしそうなら、やるべきことは(嫌子ではなく)教育や訓練である。」(p.116-119)
  • 強化は情報でもある。自分がしていることが好かをもたらすという情報である。どうすれば環境が自分の行動を強化するかがわかれば、今度は環境の方をコントロールすることができる。(中略)人や動物が強化を使った学習が好きなのは、エサなどの好子が得られるといううわべの理由からではなく、来るべき出来事をある程度コントロールできるようになるからなのである。(p.184)

■追記

 この本は、ちはるさん@富山大学が、書評のページや1999年6月24日の日記、1998年8月5日の日記で取り上げています。ご参照ください(はせぴぃ先生、情報ありがとうございました)。

■最近、土曜日の昼食は

 たいてい沖縄そば屋に行っている。以前は、沖縄そばなんてどこも味に大差ない、と思っていたが、『胃袋で感じた沖縄』(さとなお 1999 コスモの本)を読んで、考え方が変わった。確かに麺にしてもスープにしても、店によってかなり違いがある。それがわかってきた。

 先週行った「どらえもん」(浦添市)のそばは、可もなく不可もなくだったが、今日行った「御殿山(うどぅんやま)」(那覇市首里)は、麺がツルツルしていて、しかも歯ごたえがあり、なかなかおいしかった。食後に食べたぜんざいも、黒糖が使われており、コクがあって美味だった。残念だったのは、量的にちょっと物足りなかったところ。それをのぞけば大満足の昼食であった。

1999/11/03(水)

■『学ぶ力をうばう教育 −考えない学生がなぜ生まれるのか』(武田 忠 1998 新曜社 \1900)

 8月の日本教育心理学会のシンポジウムの、内田伸子先生の話題提供(考える力を奪う教育から育む教育へ)の原稿で、次の文言があった。「現在の日本の学校教育の問題点」の1つとして、「教科書には真実が書かれていると信じられているため、国語の説明文の読解授業でさえ、問いを発し批判的に読む経験が与えられていない」(武田, 1998)。これで興味をもち、ブックサービスで検索して行き当たったのがこの本。

 わかるとは、一定の物事について、その物事をそれとして成立させている「こと」(事実)や「わけ」(論理)が何かが、自分のもっている知識と結びつき、自分自身にとって、その物事の「意味」がわかることである。「意味」を見出していくためには、自分自身に「問い」かけ、自分自身で答えていく「自問自答」の思考が必要である。教師の仕事は、子どもたちに「問い」を立てさせることである(p.4-5)。これが、筆者の中心的な考えである。

 筆者はそれを、大学の授業「教育原理」で実践している。教材としては、小学校の国語の教科書に出てくる説明文教材を用い、その中に見られる間違った記述や、不適切というべき内容を、学生に探させる。15週の半分ほどを使い、もっと考えろと学生をせめ立てながら、問いを立てさせ、それを発表し合うことから授業は展開していく。結論の根拠はどこに書かれているか。記述された内容だけから、必然的に結論が導き出せるか。説明内容は整合的か。教科書は正しい、と思っている学生に対するショック療法である。

 このようなことを行なうのは、書かれている内容が確認でき、要点を押さえることができれば、それで「理解した」と考えてしまう習性を学生が身に付けており、「こと」「わけ」を考えながら、自分の意味理解に掘り下げていくことが不得手だからである(p.37)。それは、そのような学習経験をほとんどもっていないことに起因するのだが。この調子で、学生の学習観や教科書の記述だけではなく、その教科書を用いた授業実践や、教科書編集者に対しても批判の矛先が向けられる。学生にとっては、なかなかにショックの大きい、ハードな授業であろうと推察される。

 外なる権威によって何が真実かを教え込む教育(真実の外在性)は、子どもたちから「自ら生きる力」を奪うことにつながる。必要なのは、何が真実であり、何が価値であるかを、学習者自身が自分自身のうちに追及し、発見し、納得していくことのできる「真実の内在化」である、と筆者は主張する(p.179)。基本的な主張は多いに賛成。自分の授業にも、参考にできそうな個所はいくつかあった。しかし、やや疑問だったのは、著者自身は自分の授業を相対化しているのか、という点。学生が立てる「問い」の正誤を決める「真実の外在的基準」として、教師(筆者)が位置づけられてしまっていないか。この筆者の場合はどうか分からないが、授業で「自ら考える力」を育成しようと考える場合に、必ず生じる問題ではないかと思う。

学生のお勧め本

 共通教育科目(教養科目)である「人間関係論」では、毎週15名程度を指名してレポートを出させている(受講者数140人)。今年はオマケとして、「私の推薦する本」について、半ページほど書かせている。その中からいくつかをピックアップして、毎週Webページにも載せることにした。今週は、『ソロモンの指輪』『KYOKO』『アルジャーノンに花束を』の3本。私が選ぶので、多少恣意的な選択にはなると思うが、学生の興味が分かって面白いかもしれない。


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