読書と日々の記録2000.06上
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■読書記録: 12日『論争と「詭弁」』 8日『哲学の最前線』 4日『「疑惑」は晴れようとも』
■日々記録: 6日外部評価 

 

■『論争と「詭弁」−レトリックのための弁明−』(香西秀信 1999 丸善ライブラリー \720)
2000/06/12(月)
〜レトリック,悪の魅力〜

 「生涯一ソフィスト」を目指す(p.18)著者が,過去の論争を「レトリック」という観点から解説した本。「実況中継」風の解説(3章)もあったりして,おもしろい。

 レトリックはその本性によって「詭弁」を志向する(p.5),と著者は言う。最近レトリックの「正当性」が認知されつつあるそうだが,その悪役ぶり,すなわち危険で狡猾で邪悪な技術であることを暴き立てることで,レトリックを日陰者の地位に追いやる(p.2)ことが著者の目論見だそうだ。

 特に面白かったのは3章と4章。3章では,信長の前で行われた,宣教師ロレンソと日本人僧侶日乗上人の宗教論争が取り上げられている。宗教論争は,教義の優劣ではなく,レトリックの優劣によって決定する,レトリック以外には何もない論争(p.93)なので,レトリックの詭弁性を暴き立てるには格好の題材なのだ。しかしこの論争では,論者よりも観客であった信長が,一番鋭い発言をしたらしい。詳細は述べないがそれは,ロレンソの申し立てをすべて認める。そして,その上でその論の中に入り込み,そこに矛盾・不合理を発見して,内部からそれを破壊しようとする(p.116)という,非常に強力な反論であったという。信長恐るべし。

 4章では,「奇跡は実在しない」というヒュームの論証を逆手にとって,「ナポレオンは実在しない」ことを論じた,ウェイトリーという修辞学者の議論が取り上げられる。ここで用いられているのは,相手の論の組み立てをそのまま認めて,それを拡張することによって自滅させる(p.142)という相手の主張を不条理に帰結させる論法である。ううむ。確かにレトリックは詭弁を志向しているようだ。

 ただし,本書を最後まで読んでわかったのは,レトリックの知識や経験をもつことで,詭弁の詭弁たる所以を見破ることができる,ということ。結局筆者が過去のレトリックを解説し,それがレトリックである所以を看破できたのは,レトリックの知識を用いることで可能になったわけなのだから。

 つまるところ本書は,「レトリックは役に立つ」ということを(著者の意図の有無にかかわらず)主張している本として読めるわけで,そういう意味では,「レトリックは悪役なので日陰に追いやる」とは,著者一流の「レトリック」(=詭弁?)なのではないかと思う。

 #YOMIURI BOOKSTAND on-lineに野矢茂樹氏による書評あり。

日記猿人 です(説明)。

 

■『哲学の最前線−ハーバードより愛をこめて−』(冨田恭彦 1998 講談社現代新書 \640)
2000/06/08(木)
〜とりあえずの解答を手に〜

 60年代以降のアメリカの主な哲学について,対話形式というか小説風な仕掛けの中で解説した本。サブタイトルがちょっとアレなので,あまり期待せずに読み始めたが,全体に読みやすく,また,おもしろかった。全3章を通して語られているのは,結局,理解とは何かということのようだ。

 第1章は,フィールド調査者が異文化理解をするときに生じる問題から始まる。相手のことを自分で勝手に加工して受け取っているのではないか,という問題である。この問題は結局解釈学の話へとつながっていき,「自分の考えを持ち込まないような理解」はありえないこと,むしろ大事なのは,理解がその内部や他の事柄と整合的かどうかということ,不整合が見当たらない限りは現行の理解のままでいいこと,などが結論づけられる。解釈には「理解と解釈の循環構造」(解釈が可能なためにはすでになんらかの理解が必要)が存在する。また、全体と部分の解釈の整合性にも循環構造が存在する。ニワトリと卵のようなものだ。だから結局,理解に関しては,何度も循環を繰り返し,とりあえずこのあたりで手を打つ。そんな暫定的均衡状態でもって,われわれは当面の結論とするしかない(p.51-2)のである。

 第2章は指示理論の話で,ちょっと分かりにくかったが,どうやら落ち着く先は,実在する対象と思っているものが本当に実在する対象なのかどうかは,結局われわれの信念とか考えとかに委ねられてしまう(p.145)ということのようだ。そしてここでも結論は,第1章のものと非常に似たものになる。すなわち,他人の言葉や考えを理解する場合でも,事実を確認する場合でも,私たちは今自分たちが正しいと思っていることをもとに,あれこれ思いをめぐらせ,とりあえずの解答を手に,その都度生きていくしかない(p.155-6)ということである。

 第3章では,これまで出てきた考え方が,自文化中心主義(エスノセントリズム:自文化「帝国」主義ではない)という概念に結実する。われわれは、すでにもっている考えに基づいて,何が正しいか,何が正しくないかを判断しているし,そうするしかない,という考え方であり,われわれは今自分たちがよしとするものをさしあたってはよしとするしかない(p.169)という立場だ。それは,人の思考や信念とは独立に,絶対的な真理が客観的に成立しているという態度とは反対の態度であり,とりあえず正しいと思えることから始めて,それが具合が悪いとわかれば別のものを模索するということしかない(p.194)と考える態度である。必要なのは絶対的真理ではなく,「連帯志向」である。つまり、共に生きたいと思う者どうしで,意見を交換し合って,何をとりあえずよしとするかを考え,それに従って生きていく(p.200)ことだ。連帯って、ハーバーマスみたいだ...と思っていたら、どうやら親交があったようだ。

 こうやって全体を眺めて見ると,とりあえずが本書のキーワードなのかもしれない。絶対とか客観的という言葉とは違って,頼りない言葉だ。しかし著者は,それだからこそ,どんなに情況が悪くても,なにかもっといい考えに,もっといい生き方に,もっといい解決策に,われわれは行き当たるんじゃないか(p.156)とか,完璧じゃないけど自分たちの可能性に期待をかけてみる方が,よほど人間的じゃないだろうか?(p.156)と述べている。なるほどねぇ。アメリカ哲学って,けっこう面白そうじゃん。

 #こちらのページに書評あり。

 

■外部評価
2000/06/06(火)

 昨日は,琉大共通教育の外部評価のための集まりが行われた。外部評価といっても,強制的に行われる(と言われている),大学評価機関による評価ではない。琉大共通教育センターが自主的に企画した,外部評価である。昨日が初回の集まりで,これから,約1年かけて,外部評価のための作業が行われる。

 外部評価者は,東京から沖縄まで計4名。琉大側も,学長,副学長,大学教育センター長をはじめ,10名以上が参加した。私は,大学教育改善専門委員会内の自己評価ワーキンググループメンバーとして参加。

 最初に,3時間ほどかけて,琉大や共通教育,これから行おうとしている自己評価の説明が行われた。その間に,外部評価者には,施設見学や授業見学もしてもらっている。その後,各外部評価者のコメントをいただいた。せっかくなので,ここにメモしておく。

 沖縄県人材育成財団の安室氏は,学生一人一人に創造性を育てる教育がどう行われているか知りたい,とおっしゃっていた。というのは,財団から派遣されて留学した人が,外国で苦労しているのが,この創造力の問題だからだ。

 九州大学大学教育センターの押川氏からは,たくさんのコメントをいただいた。まず,大学教育においては「教育理念・目標」が基盤であることから,それがどこまで公開されているか,内容が充実しているか,どういう人材を育てようとしているのか,また,共通教育の理念が,琉大の理念,各学部や大学院の教育,各科目群の理念とどうつながっているのかについて,自己点検してほしいと言われた。その他に,学力低下の問題として,論理的思考力の育成や,社会や自然に対する関心をどう育てているのかについてや,需要と供給の問題,つまり学生が受けたい授業を,どういうシステムで供給しており,その質をどう維持しているのか,などについても知りたいと言われた。

 東大の苅谷教授は,改善の対象に応じて評価の切り口が違うということを言われ,例えばシラバス(カリキュラムか?)については,組織レベルと個人レベルが考えられる,組織レベルでは,体系性や連続性などの編成原理が評価できる。個人レベルのうち,教師については,関心が低い教師の改善をどうするかが問題。これは,情報公開(授業評価などの?)で対応可能ではないか。個人レベルのうち学生については,学生側の問題があったり,要望があるのではないか,ということだった(と思う)。

 沖縄国際大学学長の波平教授は,教育業績の評価のあり方が制度化できないか,また,学生評価だけではなく,授業者側の満足度を測る方法がないか,とおっしゃっていた。そのほかにも,成績評価と学生のモチベーションの関係であるとか,レポートやテストを返却するなどの工夫が,アメリカの大学のように行えないだろうか,という風に,現に大学改革の真っ只中にいる私立大学学長らしいコメントであった。

 われわれワーキンググループでは,学生や教員の意識調査や,履修状況や成績分布など,数値的に把握できる実態調査を中心に考えていたが,どうやら外部評価者は,いったい琉大でどのような教育が行われており,どのような人材が育っているのか,という点に対する興味が大きいようだ。「教育」改善のための外部評価なわけだから,それは当然といえば当然なのだが,どうも我々は,「調査者」的な視点に傾きすぎていたようだ。それにしても,教育や人材について,どうやって把握し点検し評価し改善していくことになるのであろうか。これからのワーキンググループの課題となりそうであろる。

 

■『「疑惑」は晴れようとも−松本サリン事件の犯人とされた私−』(河野義行 1995 文藝春秋 \1262)
2000/06/04(日)
〜人を疑う前に自分を疑え〜

  おもしろかった。思い込み,聞き間違い,警察のリーク情報とマスコミの無批判報道,いいかげんなことを言う専門家,確証バイアス,映像のトリック,逆向き推論の不完全性など,思考教育の材料に事欠かない...などとのんきに言っている場合ではない。これが現実の事件だったのだ。事件を総括して河野氏は書く。

 事件発生からわずか23時間で警察が犯人のレッテルを作り,マスコミが2日でそれをはってしまった。(中略)それに引き替え,潔白の証明が如何に困難で,時間がかかるか身をもって体験した。(中略)捜査当局は頭で考えず,体で考えていたのではないだろうか。(中略)現場に残された客観的事実のみを積み上げ,「人を疑う前に,自分たちの捜査結果を疑う」捜査本部はこんな心構えが必要なのではないだろうか。(p.234-235)

 この事件では特に,マスコミが果たした役割が大きい。本書には,各マスコミの初期報道が引用されているが,6月29日の信濃毎日新聞朝刊を,サンプルとして見てみよう。

  惨事に第一通報者がかかわっていたとは……。(中略)静かな住宅街にいい知れない衝撃が走り,なぞに包まれていた大事件が真相解明に向け,一気に緊迫した。(中略)近所の女性(62)は「自宅でそんな恐ろしいことをしていたなんて……」とあ然とした口調。(後略)(p.59)

 ここには,第一通報者(河野さん)が何をしたか,警察が何を発見したか,などの事実関係は,まったく書かれていない。しかも,第一通報者が犯人だとか容疑者だとも書かれてない。しかし「かかわっていたとは」など,あたかも犯人であるかのようなイメージを持たせる仕掛けだけは用意されている。それに,「いい知れない衝撃」「真相解明に向け,一気に緊迫」って,具体的には何のことだ? 「そんな恐ろしいこと」の内容は全く書かれていないのに,「していた」ことだけは確定された事実であるかのような住民の証言だ。イメージのみが先行し,なんとも客観性にかける報道だ。

 マスコミもマスコミなら,警察も警察だ。ほんのちょっと関連があるかもしれないような,証拠ともいえないようなものを見つけてきては「調べれば調べるほど,(疑惑は)全部河野さんの方に向いている」(p.174)と言ったりしている。

 とはいえ,すべてがそうだったわけではない。事実をきちんと検証しようとする人や捜査や報道の問題を取り上げる人たちがマスコミのなかにもいることがわかった(p.227)と河野さんの息子は言う。もちろんその一方で,事件と全く関係のないプライバシーを映像や活字で暴くことがスクープだと思っている人たち(p.227)もいたわけだが。どんな局面でも,後者ではなく前者の志向性をもってものごとを眺めることができる人間を育てるには,大学は何ができるのだろうか...

 



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