読書と日々の記録2000.06下
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■読書記録: 30日短評11冊 28日『不思議現象 子どもの心と教育』 24日『実践としての統計学』 20日『大学改革1945〜1999』 16日『ジェンダーの心理学』 
■日々記録: 29日大学教育ワークショップ 26日コワイコワイさん 22日名護サミットのにおい 19日ジェンダー追記 

 

■今月他に読んだ本は
2000/06/30(金)
 ...11冊(計18冊)。当たり外れの大きい月だった。メがイタい。

『アドラー心理学入門−よりよい人間関係のために−』(岸見一郎 1999 KKベストセラーズ ワニのNEW新書 \648)

 アドラーはこう考えた,こう言った,という話が中心。うーん,こういうのを「心理学」と言うのだろうか。確かにいいこと言ってるけど,どっちかと言うと,人生哲学みたいなものじゃないの,と思っていたら,後書きに,アドラーが,自分の創始した心理学は理論であるばかりでなく「心の態度」である,といっていた(p.186)とあった。心についての理論であり,態度という意味での「心理学」か。それなら分かる。ま,定義の違いですな。

『心の理論−心を読む心の科学−』(子安増生 2000 岩波科学ライブラリー \1000)

 あっという間に読める本。心の理論というと,誤信念課題しか知らなかったが,これで扱われているような狭義の心の理論だけではなくて,意図検出・視線方向検出・共有注意としての心の理論(心を読むシステム)(p.32あたり)もあることが分かった。あと,「心の理論研究」が明らかにした世界は,まだごく小さなもの(p.119)ということとか,要するに心の理論(心の理解)研究(特に発達研究)は,「心理学者としての子ども」(p.27)という側面に着目しているのだ,ということも分かった。

『琉球歴史の謎とロマン その1 総集編&世界遺産』(亀島靖 2000 環境芸術研究所 \933)

 最近沖縄で売れているらしい。単に,沖縄の歴史をわかりやすく解説した本かと思ったら,そうでもなかった。「黒潮」「季節風」「倭寇」「客家人」という4つのキーワードによって,琉球史の謎が見えてくる(p.36)という。たとえば,琉球王朝をつくった人々は,なぜ北の伊平屋伊是名諸島の出身なのか?という謎を,「季節風」「倭寇」をキーワードを使って読み解くと... まあ,おそらく歴史学的には不十分な論証というか,単なる仮説の域を出ていないのではないかと思うが。あ,タイトルにある「ロマン」て,このことを指しているのか。壮大な(?)仮説を楽しむ,という点では面白かった本だ。

『状況に埋め込まれた学習−正統的周辺参加−』(レイヴ&ウェンガー 1991/1993 産業図書 \2472)

 本書には,原文の翻訳,日本人による解説,訳者(佐伯胖氏)あとがきがあるんだけど,訳者あとがきが一番わかりやすいというのは困ったもんだ。誰か,状況的学習についてわかりやすい解説書を書いてくれんかなぁ。

『経済のニュースが面白いほどわかる本(日本経済編)』(細野真宏 1999 中経出版 \1400)

 小学生向け学習参考書のようなつくりの本。確かに多少はわかったような気がする。が,なんだか「風が吹けば桶屋が儲かる」式の説明が多いという印象。「国が長期国債を大量に発行する」と,あーなってこーなって...結局「景気が悪くなる!」みたいな。実際に,必ずこのようになるんだろうか。こうならないケースはないんだろうか。そのあたりを十分に確信できないのが「わかったような気」という程度で終わっている原因かも。よくわからないけど。

『言語論理教育入門−国語科における思考−』(井上尚美 1989 明治図書 教育新書 \810)

 1977年に出された『言語論理教育への道』に一部手を加えて新書化した本。つまり基本的な内容は1977年のものだ。本書では,批判的思考と関係の深い,言語論理教育や一般意味論(これは初めて聞いた)について書かれている。この本から約20年間,批判的思考研究・実践が多くの教育・研究者によって継承され,継続発展してこなかったのが残念。

『オルグ学入門』(村田宏雄 1982 勁草書房 \1700)

 香西氏が『論争と「詭弁」』で「天下の奇書」と評した本。オルグ活動(ひとがひとに働きかけ,働きかけた相手のひとを組織化するという活動)を客観的にとらえ,効率よく行うための方法を組織だてて明らかにすることを試みており,主に社会心理学の知見を利用している。オルグなんて,1970年代以前の匂いのする言葉だが,視点を変えると,宗教的勧誘などにも通じるところがある「学」だ。レトリック的な興味で読む場合は,10章「理論闘争の技術」だけでいいと思う(ボクは全部読んだけど。ふぅ)

『教育における評価の理論機ヽ慘牢僉ι床全僂療彰后戞奮疆脹丹譟1994 金子書房 \2800)

 割とでかくて厚いので,読むのには苦労した。1980年代から,1990年代前半にかけて,筆者があちこちで書いた小文を集めたもの。書き下ろしもある。教員養成審議会委員や指導要録改訂協力者会議メンバーなどを歴任しているだけあって,「関心・意欲・態度」「思考力・判断力・表現力」重視に方向転換した真意や目指す方向性などが分かる。あと,大学改革でよく言われるようになった「自己評価」は,初等中等教育では,80年代半ばから言われていたわけね(こちらは「学習者の」自己評価だけど)。

『日常言語の論理とレトリック』(中村敦雄 1993 教育出版センター \2000)

 国語科教育において論理的思考力を高めるためには、どのような理論を裏づけにして、どのような実践を行えばいいかについて(まえがき)論じた本。レトリック、トゥルミンの議論分析モデル、ディベートなどが扱われている。興味深い分野だが、正直に言うと、あまり得るところは多くなかったような気がする。

『アメリカの表現教育とコンピュータ−小・中・高・大学の教育事情−』(入部明子 1996 教育出版センター \1200)

 作文は、出来上がった作品よりも出来上がるまでのプロセスが重要である、というアメリカの作文学習法の主流であるプロセスアプローチについて、小学校から大学までの実践を中心にかかれた本。向後さんの『自己表現力の教室』に引用されていたので買ってみたのだが、イメージマップ・構想マップ・ノンストップライティングについては、向後さんの本のほうが詳しくて丁寧だった。

『「議論の力」をどう鍛えるか』(宇佐美寛 1993 明治図書 オピニオン叢書 \980)

 少なくとも私にとっては,思ったような本ではなかった,という素材の問題に加えて,料理の方も,ちょっと口に合わなかった。うー,ムネヤケ。

日記猿人 です(説明)。

 

■大学教育ワークショップ
2000/06/29(木)

 今日の午後,大学内で行われた大学教育ワークショップに参加してきた。これは,琉大の大学教育センターが,FDの一環として行っているもの。FDといっても,相互研修・自己組織型で行われる,ボトムアップのFDではなく,伝達講習型のトップダウンFDだ。あるいはイベント型ともいうらしい。昨年の12月から数えて,もう3回目になる。

 講師は,国立学校財務センター教授の天野郁夫氏。タイトルは,「大学に教育革命を」というもので,大学や大学改革の歴史,および現状の問題点を概説する,大学の講義のような感じの講演だった。概要を列記すると,以下のとおり。

 大学改革に対する認識が不十分であること/戦後の改革/アメリカの大学と日本の大学/学力の保証装置の変化/大学審議会答申'91/同答申'98/'91から'98の間の変化/意識革命や真のFDの必要性。

 正直言って,半分以上は聞いたことがあるような話だった。どこで聞いたかと言うと,『大学改革1945〜1999』『大学−挑戦の時代』(これは天野氏の著書だ),『アメリカの大学』あたりだ。 ・・・ということなので,あまり多くは記さないが,何点か注意を引いた発言をメモしておこう。

  • 1991年の答申で導入された教育の「小道具」がある(シラバス,セメスター制,FD,授業評価,自己点検・評価など)。これらは,アメリカ製の小道具で,勉強したくない学生に勉強させるための装置であると同時に,研究重視に流れやすい教師に教育させる装置である。
  • 1991年の設置基準大綱化で,4年間教養教育をやる大学が出るのではないか,という期待が審議官にはあったが,実際にはそういうことはなかった。専門教育は変わらず,教養教育は減少し,しかもいろいろと科目を並べただけで理念のない教養教育が行われる結果となった。
  • 現在大学進学率は49.1%。13都府県では50%を超えている。ただし,沖縄では30%台らしい。
  • 真のFDとは,ボトムアップ型で,教師自身が行うFDである。

 この講演のおかげで,少しは参加教官の意識に変化が生じたかもしれない。それでも参加者は,多分100名はいなかったのではないかと思う。そもそも,いくら意識改革を叫んでも,意識が低い教官はなかなかこういう場には来ない。それに,イベント型のFDの場合,話を聞いたらそれでおしまいで,これがその後の継続的なFD活動にはなかなか結びつかないのではないかと思う。それでも,半年で3回も講演会を開いたりして,とりあえずできるところからやっていっている点は評価されるべきか。

 

■『不思議現象 子どもの心と教育』(菊地聡・木下孝司編 1997 北大路書房 \1900)
2000/06/28(水)
〜科学と不思議現象〜

 つまみ読みはしていたのだが,今回改めて通読してみた。この本は,『不思議現象なぜ信じるのか』(菊地・谷口・宮元 北大路書房)の教育心理学(テキスト)版かと思っていたら,そうではなかった。不思議現象研究から教育を考えよう,それを教育に活かそうという趣旨で,筆者たちが不思議現象と心の問題に対してもっている考えが,かなり前面に出されている,という点でも,単なる教科書とは異なる本であった。

 面白かったのは5章と7章。5章は「不思議現象に立ち向かう子どもたち」という題。ある学級でキューピットさま(こっくりさんの一種)が流行し始めたときの実践が紹介されている。そのときの先生は,すぐに,そんなの科学的じゃないよ,と言うのではなく,子どもの持つ探究心を刺激しようとした。先生が超能力者を演じるなどのしかけの後,最終的にはこっくりさんの正体を探る仮説実験授業が行われている。子どもたちの持つ日常知や探究心をうまく教育に結びつけた例だ。

 7章は「不思議現象からみた科学・理科教育」。科学の実験には思い入れ,思い込みが必要。科学がうまくいっているのは,意見の異なる人間同士が闘うからだ(p.159)というのがこの章の著者の基本的スタンス。だから科学を教えるのは,結論を説得することを目的とするのではなく,人間の営みとしての科学を教えなければ(p.175)だめだという。それなのに,理科教育のなかの科学は美化され単純化されすぎて(p.174)いる。それは,正しい説が最後に勝利をおさめるという,実際の経緯よりも合理化され単純化された「お話」でしかないため,科学における神話や伝説が生まれているという。

 理科教育に限らず,科学を美化・単純化して理解・信奉している人は結構いる。そういう人たちはたいてい不思議現象否定派なのだが,彼らの不思議現象批判は,不思議現象肯定派の議論とまったく相似形になっていることが多い。どちらも,自分の立場を擁護し相手の立場を攻撃するためだけに,都合のいい説明や権威(としての科学/疑似科学)をもちだしてくる。すなわち,悪い意味での「科学でっかち」だ。不思議現象研究の次に必要なのは,ひょっとしたら『科学 なぜ信じてしまうのか』なのかもしれない。

 

■コワイコワイさん
2000/06/26(月)

 うちの娘(2歳0ヶ月)は最近,すぐに「イヤーオ(イヤ!)」と言う。風呂上りに,お洋服を着なさいといってもイヤーオ,ご飯を食べていても,すぐに飽きてイヤーオ,テーブルに登っているときに,降りなさいといってもイヤーオ。自我の目覚めとか第一反抗期とでもいうのだろうか。発達上はもちろん必要なことなのだろうが,やはり育児をする上ではやっかいだ。追いまわしてひっつかまえて,イヤーオイヤーオと泣き叫ぶ娘に,無理やりパンツをはかせたりしている。

 ところで最近,沖縄では梅雨が明け,ピカピカの日が続いている。かなりまぶしいので,通勤時にはサングラスをかけ始めた。これだとだいぶ目が楽だ。

 その,サングラスをかけた私の顔を,娘が,怖そうなというか,けげんそうな顔で見ている。それでふと思いついて,娘がイヤーオを連発するときに,サングラスをかけて見ることにした。

 すると,びっくりするぐらいに効果てきめん。なぜだか娘はイヤーオなどとは言わず,,神妙な顔をして,パンツをはかせてくれたり服を着たりする。怖いぐらいである。妻は面白がって,コワイコワイさんなどと名づけて,娘を脅している。「ちゃんとお洋服を着ないと,コワイコワイさんが来るよ」 それでも言うことを聞かないときには,さっそく私がコワイコワイさんに変身するのである。物陰に隠れてサングラスをかけて。まるでスーパーマンか月光仮面のようである。

 娘も,当然父親(私)だとわかっていると思うのだが。声も服もまったく同じで,サングラスだけが違うのだから。それとも本当に「変身して別人になった」とでも思っているのであろうか。謎である。とりあえず,ここ数日はうまくいっている。こんな子供だまし,いったい,どのくらい通用するんだろう。

 

■『実践としての統計学』(佐伯胖・松原望 2000 東京大学出版会 \2600)
2000/06/24(土)
〜統計学的自文化中心主義〜

 統計学に関して,How-to以外のことを目指した,統計のWhatとWhyについての本。読む,考える,批判的思考する統計の本という感じで,非常に面白かった(理解できた部分に関しては,だけど)。ちゃんとした書評はこちらをどうぞ。

 本書の中心的な考えは,大学で教えられている統計(ネイマン−ピアソン理論)はひとつの教義にしか過ぎず(p.14),唯一のものでも絶対のものでもない,ということのよう。だから,実験にしても,その他のデータ収集にしても,統計的検定結果の解釈にしても,その意味や弱点を考えながら行わなければならないし,ベイズ統計学のような,別のタイプの統計もありうるのである。

 実験について次のような記述があった。どれほど精緻な実験を行っても,誤りの可能性はつねに残る。因果関係についての推定を少しでも確かなものにしていくためには,いろいろな視点からいろいろな実験を続けていくことが不可欠なのである。(p.145) つまり,一回の実験で真実がすべて明らかになるような,決定実験などというものは,ありえないということだ。

 統計に関しても同じで,たとえば因子分析は,決して「実在する普遍の因子」を抽出する手続きではない。因子構造を仮に想定するとこういう解釈が可能になる,という程度のものでしかないのだ。だから,因子構造の実在を証拠立てるためには,さまざまな他の理論や他の研究や他の観察事実とつき合わせて,全体として,整合性が保たれること(p.105)が確認されなければならない。

 ん? 整合性? なんか似たような話が前にもあったなぁ,と思って読んでいたら,さらに,似たような話が出てきた。

 社会調査において,ある質問文を回答者がどう理解したかは,当該質問への回答やその前後の回答から判断するしかない。もちろん,その前後の回答についても同じことがいえるから,全体として質問文=変数の意味は不確定にならざるをえない。統計学的にいえば,社会調査のデータも理工系の実験データもデータには変わりない。行列として処理される数字列である。だが,社会調査の場合,その行列の各列が何を意味するかは,あらかじめ決められてない。全体をながめながら,暫定的に解釈していくしかないのである。(p.201)

 ふーむ。「実践としての統計学」って,暫定的に,1つの教義としての統計的手法を使って何かを理解する「解釈学」であり,つまるところは統計的「自文化中心主義」ということなのか。 ...と私なりに勝手に意味づけたが,あっているかどうかわからないので,佐伯氏による「実践としての統計学の意味」を引用しておこう。これを見る限りは,当タラズト言エドモ遠カラズだと思うんだけど...

 具体的な実践課題に則して統計学を適用しようとするとき,実践課題が本当にもっている意味が,統計的な考え方によって,どう解明されるのか,ということと同時に,どう隠蔽されるのか,ということが,「実践としての統計学」の意味である。(p.109)

 

■名護サミットのにおい
2000/06/22(木)

 サミットなんて,私たちシモジモのものにはあんまり関係ないが,でもやっぱり沖縄にいると,サミットのニオイを感じることがある。新聞にサミット関連記事が多い,なんてのではなく,もっと身近なものだ。それを列挙してみた。

 あちこちに国旗が下がっている。サミット参加国は8カ国のはずなのに,たいてい9つある。なんでだ?と思って妻が調べたら,9つ目はEUの旗だった。ロシアの旗もはじめてみた。うーん,なんだかロシアって雰囲気じゃないぞ(←偏見?)。

 授業を取っている大学院生が通訳ボランティアをするので,7月21日は授業に来れないと言っていた。カッコいい。休むのは別にかまわないから,次の週にみんなの前でレポートしてね。

 大学の外壁塗り替え 4月ごろからずっと工事が行われている。なんでもサミット効果なんだそうである。でも,建物がすっぽり覆われているので,窓から十分に外光は入ってこないし,シンナーくさいし,音がうるさいときには仕事に身が入らないし,(今のところは)あまりいいことはない。

 大学のトイレ 小便器が自動洗浄になった。便器から離れると自動的に水がジャーっと流れるヤツである。トイレの手洗いも自動だ。こんなところは,サミットとは直接関係なさそうだが,多分同じ予算でやってるんだろう。きっと何年たっても,トイレに行くたびに名護サミットのことを思い出すに違いない。

 サミット関連メニューを出している食べ物屋がある。サミットバイキングとか。我が家では,ブルーシールアイスクリームを食べに行ったら,8カ国にちなんだアイスクリームが出ていた。ま,便乗商法ってヤツですか。

 オリオンビールサミット記念缶ビール 最近ビールは必ずこれを飲んでいる。単なる便乗商法じゃないぞ。一缶につき,1円がサミットのために寄付されるのだ。あとひと月。どんどん寄付するぞー。

 サミット期間はマイカー自粛だそうだ。うーむ。ずっとうちにいろというのか。ま,いいけど。

 高速道路がきれいになった気がする。入り口の発券機もそうだし,高速道路の壁もそうだ。沖縄の高速は,多くの場所が一般道路よりも低いところにあるので,壁がある。その壁がきれいになっている気がする。たぶん。自信ないけど。

 道路のフェンス 私は徒歩通勤しているのだが,途中にある一般道と高速道路の間にはフェンスが数ヶ月前から,突然30cmほど高くなっていた。本当にサミットと関係あるのかどうかは自信がないが,きっとそうに違いない,と勝手に思っている。30cm高でごるごさーてぃーんを阻止できるのか,それ以前に要人が高速道路を使うのどうかはさておき。

 あと挙げるとすれば,クリントン大統領が琉大にくるかもしれない,ということぐらいか。私の場合は,行動範囲が狭く,ほとんど自宅と大学の往復しかしていないから,この程度だ。それでもこれだけあるというべきか。あんまりたいしたものはないけど。他の人はどうなんだろう。

 

■『大学改革1945〜1999−新制大学一元化から「21世紀の大学像」へ−』(大崎 仁 1999 有斐閣 \2400)
2000/06/20(火)
〜占領下改革の再消化と再改革〜

 昭和30年文部省入省以来今日まで,大学畑を歩いてきた(元?)文部官僚である著者の,卒業論文のようなもの(p.ii)という本。行政よりの話が中心なので読みにくい部分もあるが,現在の大学がなぜ現在のような形になったのかが,占領下の改革から「21世紀の大学像」答申(1998)後までの大学改革の流れを通して,非常に詳しく分かって面白かった。現在の大学のことが,非常によく見通せるようになったような気がする。

 まず出発点として,占領下の高等教育改革には,2つの柱があった。1つは,さまざまな形態で存在していた高等教育諸機関(帝大,大学,高校,予科,専門学校,師範学校,高女,実業学校,高師など)一元化して,すべて4年制の新制大学にしたこと。これは,戦前の学校系統が複数化していたことが,社会の階層化を助長していたので,教育の民主化を促進(p.33)することが目的であった。しかしこのことによって,旧制大学以外の学校も大学化し,先生たちの意識が教育者から研究者へと移行,大学「教育」の質の低下の一因となった。

 もう1つの柱は,一般教育や課程制大学院などのアメリカをモデルに導入したことである。これは,日本の高等教育機関のカリキュラムは,専門化が,早すぎ,狭すぎ,職業的色彩が強すぎ,「ジェネラル・エデュケーション」が少なすぎるため,カリキュラムを自由化し,普通教育、特に人文教育を拡充する(p.106)ことを目的としたものであった。しかも占領軍の民間情報教育局(CIE)の構想では,大学は一般教育重視,充実した専門教育は大学院で行うことを念頭において,一般教育と課程制大学院をワンセットで導入しようとしたのである。しかし,占領下の統治は,占領軍が直接行ったわけではなく,占領軍が日本政府を間接統治するという複雑な制度の中で行われた。そのために,責任者不在の改革となり,アメリカモデルを,似て非なる形で一律に強制(p.2)するという,結果的には,誰も望まない形の大学になってしまった。

 その後の日本における一連の大学改革は,基本的には占領下改革の再改革と再消化(p.i)という形を取っている。現在の大学改革の方向性は,大学院との接続を視野に置いた学部のリベラルアーツ・カレッジ化(p.348)であり,それはまさに,CIEが目指していた,新制大学構想の姿(p.347),つまり占領下改革の再消化である。さらにこれに,大学の種別化(研究中心大学と教育中心大学)が加わる。これは1951年,占領終結に伴う善後措置を検討する委員会で提起された,古くからある構想で,一元化という占領下改革の再改革にあたる。この案はその後も何度も出てくるが,一元化された新制大学の形式的平等志向の強さの前に,具体化され実現されることはなかった。それが50年たった今,ようやく実現されようとしている。

 このような改革を実現させるためには,大学人の意識改革が必要である,と著者は言う。旧制高校・専門学校から新制大学への移行で,先生方の意識は教育者から研究者へと移行したが,それとは逆に,大学の先生方に意識のうえで研究者から教育者に移行していただかなければ,学部教育の本格的再構築はおぼつかない(p.348)。ごもっとも。おそらくここが現在の大学改革の一番のネックになっているのではないだろうか。意識改革は,果たしていつ,どのような形で実現するのか。ここしばらくが正念場なのかもしれない。あるいは,21世紀の大学像の消化・改革に,さらに50年かかったりして。

 

■ジェンダー追記
2000/06/19(月)

 おお,前回の読書記録に,複数の日記で反応していただいた。

 ジェンダーでっかち、とは、言い得て妙ですな。帰って『オカルトでっかち』、読了すべし。 (6/17)

 へへ。でも,ほめられるべきは松尾貴史氏の言語感覚。私は,この言葉はちょっとキツい感じがするというか揶揄的な響きがあるので,ジェンダーにくっつけたり1行コメントにしたりするのはどうしようか,とちょっと迷ったのですが。

 イデオロギー的にあらかじめ結論が決まっていてそれに後づけ的に議論を付け足していくというスタイルのひとびとに論理的な観点から疑問を呈すると、それだけで「あんち」の烙印を押されることがあるような気がします。(6/18)

 うーむたしかに。わたしとしては,純粋に論証のされ方や説得方法に興味があるからああいう観点から書いたわけで,ま,あんちの烙印を押すひとには,「ろんりでっかち」とでもよんでもらいましょうか。

 (前回の引用部分に対して) ふーむ。仮説が互いに排他的ではないのでしょう。僕はどちらとも言い難い、というか両方だと思います。
 生物学の言葉で言えば、前者は女性が男性に比べて遺伝的に感受性や愛嬌という形質をもつという仮説で、後者が女性の感受性や愛嬌という形質は、全て男女間の環境の違いによって発現したものだということでしょう? もちろん遺伝的な性差が関与している部分もあるだろうし、環境が関与している部分もあるだろうけど、どちらか片方の影響しか受けていないということは、滅多にあることではないと思うのです。えーと、以前の「独り言」で書いたのですが、性格というような形質は、量的形質という「多数の遺伝子と環境が同時に関与した結果として発現される形質」だと思うのです。例えば、親の持つ感受性が全て子に受け継がれるとか、まったく受け継がれないとかそういうことはないだろうし(つまり、ある程度は遺伝的要素)、小さいときに絵本を読んでもらったとかもらってないというのが全く影響しないということもないだろう(ある程度は環境的要素)ということです。
(6/16)

 なるほど,量的形質か。最終的には,生物学的理論武装が必要かも(別にけんかする気はないけど)。

 ただこの場合,性格が親からどの程度遺伝するか,というだけの問題ではなく,性格に「遺伝的な性差が」どの程度関与しているか,という問題なんですね。つまり基本的な問題の構造は,「血液型と性格」論と全く同じ。しかも性差による環境の違いは,血液型よりも意識無意識に縦横無尽に入り込んでおり,遺伝と環境を分離して捉えることは,はるかに難しかろうと思うわけです。その上,(通状況的)性格は存在しないだの,多数の遺伝子と環境の同時関与だのを考え始めた日には,果たして答えは出るんかいな?と思いたくなる。

 いつの日にか,自然科学者も言語学者も論理でっかち者も納得させくれるようなジェンダー論が出てきてくれるといいんだけど(ひょっとして,もうあるのか? 情報求ム)。

 

■『ジェンダーの心理学−「男女の思い込み」を科学する−』(青野篤子・森永康子・土肥伊都子 1999 ミネルヴァ書房 \2000)
2000/06/16(金)
〜ジェンダーでっかち〜

 「女はやさしく,男は強い」のような男女差に対する意識がなぜ生まれ,どのように定着するのかについて,ステレオタイプをキーワードに,社会心理学の立場から解き明かした本。この本の長所は,ジェンダー関連の心理学研究が非常によくまとめられていること。この分野を概観するのに適した本だった。短所は,論理の組み立てが弱いこと。対案が出されているだけで,元の案(筆者らが「思い込み」とみなしているもの)が否定されていないのだ。たとえば次のとおり。

 「アメリカでもヨーロッパでも日本でも,感受性や愛嬌は女性のものとされている。これほど普遍的ならば,きっと女性は感受性や愛嬌のある生き物なのだろう」と多くの人たちは考えてしまうかもしれない。
 しかしそれは間違いである。日本を含めた欧米諸国のジェンダー・ステレオタイプが共通してもっているのは,それらの国々が,たまたま近代産業社会という共通の社会制度を持っていて,そこでの「合理的」なパーソナリティ特性を,男女に対して期待しているからなのである。
(p.60)

 ここでは,「感受性が生物学的な男女差と考えるのは間違いで,期待に基づくもの」と説明されている。しかし,「それは間違い」の根拠は何も示されていない。確かに「期待」だとしても説明はつく。しかしまったく同様に,「生物学的性差」だと考えても,相変わらず説明はつくのである。その証拠に,「しかしそれは間違いである」の前の文と後ろの文を入れ替えても,同じ論理を持つ,同程度に説得的で,まったく逆の議論を作ることができる。つまり(1)感受性は期待の差と思うかもしれない。(2)しかしそれは間違い。(3)これは普遍的な,生物学的な差なのだ。という具合である。残念ながら本書ではこのように,対案としてステレオタイプを使って説明しただけの主張が目に付いた。そういう意味で本書は,「ジェンダーでっかち(的な要素が目につく)本と言っていいかもしれない。

 もっとも,ジェンダーという概念の性質上,明確に因果関係を特定しにくいので,こういう書き方になりがちなのかもしれない。社会学のジェンダー・スタディにも,そういうところがあるようだし。しかしある程度は,「生物学的差異に基づく男女差」という他の解釈可能性を排除する可能性のある事実を持ってこないと,本書全体の説得性が低くなってしまうのではないだろうか。それは,難しいかもしれないが,不可能ではないはずだ。実際,『言語を生み出す本能(上)(下)』では,言語という,ジェンダー同様因果関係を特定しにくい分野で,言語=本能説を説得的に展開されている。

 と,いろいろと問題はあるが,ステレオタイプに気づこう,振り回されないようにしようという本書の基本主張は,要するにクリシンの勧めであり,そういう意味でも面白い。最終章では,今日からあなたにできることとして,「メタ認知を持とう」「自分の殻を破ろう」「世界や自分についての考え方をいろいろ変えてみよう」などの提言がなされている。

 



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