| 31日短評9冊 28日『図解 心理学のことが面白いほどわかる本』 24日『変わるニッポンの大学』 20日『ハーバーマス』 16日『自己と感情』 |
---|---|
| 30日心理学的な見方とは(その2) 29日メタクリシン 25日ニッキガ書ケナイ |
■今月他に読んだ本は9冊 |
2000/05/31(水)
|
■心理学的な見方とは(その2) |
2000/05/30(火)
「心理学的な見方とは」の続き。著者の渡邊さんにこのページのことを知らせたら,返事をいただいた。許可をもらったので,一部を転載させていただく。 さて「心理学的な考え方」の問題,私としては,心理学的な考え方はもちろん一定の心理学知識によって構成されると思いますが,その結果として得られる思考パターンの方が知識そのものより大切だし,思考パターンが成立すれば知識自体は忘れられてしまっても良いと思っています. その「思考パターン」とは,「真実は自分の目に見えているとおりではない」,つまり「自分のことはよくわかっているという認識はあてにならない」「人間は自分の行動の原因について実はよくわかっていない」「人間や人間のこころや行動について正しいと思っていることには間違いがたくさんある」と考える,ということです.これは「クリティカル・シンキング」ともつながることですね.だから,「錯視」はいまでも心理学の基本的な知識なのだと思います. ああ,そうだった。おっしゃるとおり。心理学の基本的な知識というのは確かにある。そう言えば私も,こういうものを5つぐらいまとめて,「心理学的人間観」と称して授業のまとめに使っていたはずなのに,すっかり忘れてしまっている。私の表現で言うと,まず最初に来るのは「人はありのままの世界を見ているとは限らない」というものだが,こういったものがベースになって,現代心理学が構築されている。まさにそのとおり。すっかり忘れていた。前回比喩的に使った「化学的な見方」の場合もそうだ。「物質の変化を分子の振る舞いという観点で記述する」という考えが根底にあるはずだ。 おかげでもう少し突っ込んで考えることができた。「心理学的なものの見方」は多分層状構造になっているんだと思う。3層ぐらいの。一番中核に来るのが,上記のような「心理学的人間観」。現代心理学なら,どれも根底に持っているような考えだ。次に,各分野に特有の基本的な考えが来る。認知心理学なら情報処理的な見方だし,行動主義なら効果の法則のようなもの。そしてその外側に,個々の実験や研究によって得られた個々の知識があり,それが具体的な行動を理解し予測する上で役に立つときに,「心理学的なものの見方をしている」と言うことができる。確かにその部分は,普遍的でも一般的でもない知識と直結しているが,それがすべてではないのであった。 心理学に限らず,各学問の持つ基本部分をちょっと強調し意識させることで,学んだことが単なる知識から,ものを見る視点にまで高められるんだと思う。そのようなものが,専門知識ではない,教養としての学問に必要なものなのかもしれない。
|
■メタクリシン |
2000/05/29(月)
『図解 心理学のことが面白いほどわかる本』を元にいろいろ考えた中で,「きざし」の1月24日の疑問に対して,ようやく(自分なりの)答えが見えてきた(...遅い)。元の疑問は以下のとおり。 クリシンがらみの本を読んでいると、大抵、最後の方に、「この本に私が書いてきたことをそのまま真に受けるあなたはまだ、クリティカルではないのですよ」みたいな一言が出てくる。 今改めて疑問の原文(↑)を読み返してみたが,「そのまま真に受けるあなたはまだ、クリティカルではない」と書いてあるのだとしたら,それは確かにズルい。いきなり突き放すのではなく,いったんその考えを受け取ってもらうのは大前提。でもいったん受け取った後にメタクリシン,すなわち「クリシンに対してクリシン」することを要請するのは,全く問題ないどころか,それがなければニセクリシンだ。 イメージとしては,剣術の師範が弟子を育て,最後にその弟子と勝負する。そして「ワシに勝ったら免許皆伝じゃ」という感じ。別に勝たなくてもいいんだけど,その剣術の腕を振るいうる相手として,師範を除外してはいけない。「ワシは天下無敵の剣術の技を教えるけど,ワシに向かってきちゃダメよ」と言ったとしたら,それこそズルい。そういう意味で,クリシンの場合も「メタのレベルをメタとして別扱いしない」のが正しい。もちろんトレーニング中は別だけど。この区別は重要で,トレーニングと実戦の区別をつけないと,すべてのメタクリシンがズルく見えてしまうのではないかしら? メタクリシンのないクリシンとは,自分への批判を封じる批判的思考。それは「真の意味での」批判的思考ではなく,批判的思考「もどき」でしかない。批判的思考を奨励・推進する根底には,可謬主義,すなわち正当化主義の放棄がなければならない。そうでないと,「(批判は必要だけど)自分は絶対正しい(から批判しちゃダメ)」という,一種の権威主義的,あるいは宗教的教義のような態度になってしまう。したがって当然,批判の対象として,自分自身も,そして,批判的思考技能そのものも含まれる。 ううむ。なんだか,批判的思考への道って,きびしい...
#これに対する「きざし」著者のコメント(5/28)は以下の通り。 あのときの私は、多分「いきなり」というところに違和感を感じていたのだと思います。「ここまで信じて読んできたのに、なんか裏切られた感じ」と思ったような気がします。 あと、「素のレベル」と「メタのレベル」とは<論理的には一応区別がある>のだけれども、でも<どちらも同じようにくりしんの対象になる>の二つの<>がきちんと整理されてしかも両方とも明示されていればそれでいいのかなとも思いました。 でも「メタ」なんて言葉を使ったら、理屈っぽい響きになりすぎて、本のターゲットにしている人々から敬遠されてしまうということにもなるのかもしれませんが。
|
■『図解 心理学のことが面白いほどわかる本』(渡邊芳之・佐藤達哉 2000 中経出版 \\1400) |
2000/05/28(日)
〜心理学的な見方とは?〜「心理学を学ぶ」ということは,他の学問のように「知識をたくさん身につける」ことではなく「心理学的な見方を身につける」こと(p.2)という考えに基づいて,「心理学的な見方」をできるだけ分かりやすく解説した本。この本については,すでにちはるさんが5月20日の日記で取り上げられているので,解説的なことはもうここでは書かないが,一般の人向けの心理学入門書としては,割と成功していると言ってもいいと思う。心理学って,教科書や専門書はたくさんあっても,「心理学をぜんぜん知らないんだけど,何かいい本ない?」と聞かれたときに,すぐに推薦できそうな本は,あんまりなかった。でもこの本なら推薦できそうだ。 あと,本書には心理学のうまい定義がしてあって感心した。心理学の定義って,結構むずかしい問題だ。「心(行動)の科学的理解」では狭すぎるし,「(人間の)心を理解する学問」では広すぎるし。本書では,人の心だけに限らず,人の行動の理解に役立つものは何でも研究する「人の行動理解の学問」という,とても守備範囲の広い学問(p.16)となっている。実にうまい。座布団1枚,て感じだ。 ...と,本書の紹介はこれぐらいにして,本書の意義は十分に認めた上で,ちょっと思ったことを。「知識ではなく心理学的な見方を身につける」ってどういうことだろう。この問題は,本書に特有の問題点などと言うわけではなく,たとえば心理学教育をする上においても考えなければいけない問題だと思うので,本書をきっかけに考えてみた。 まずは具体的な疑問から。結局本書でも,心理学的概念はたくさん出てくる。やっぱり学んでるのは知識じゃないの? それに,「心理学的な」見方と言っても,本書で中心的に扱われているのは行動主義であって,心理学全般ではない。例えば,相性なんて単なるご都合主義(p.102)という論が展開されているが,心理学者の中には『思考スタイル』やタイプ論などという,一種の相性を概念化している人もいるわけで,「相性がない」=心理学(の一般)的な見方,というか心理学の全てではない。また,本書中に,現在自分が考えていることでも,ちょっと前には「当たり前」ではなかったことがわかったりします(p.184)という記述があるが,それと同じで,ここで取り上げられている心理学的な見方も,おそらく時代が変われば変わるに違いない。つまり本書で取り上げられているのは「知識ではない」ではないし,「一般的」でもなければ,「普遍的」でもない。 じゃあ,「心理学的な見方」と言うのにふさわしいようなものは,他にないだろうか。心理学研究法(実験とか調査とか)はどうだろう。これは知識そのものというよりも,知識を生み出す源の方だから,ひょっとしたらいいかな? でも結局これも,時代によって変化している。それに何よりも,心理学的な見方を身につける,と言うときには,「日常で出会う問題に対して,いちいち実験や調査をする」ことを目指しているわけではないはずだ。どうやらこれも駄目そうだ。 日常で出会う問題に対して,○×学的な見方ができる,というのはどういうことだろう。心理学以外のケースで考えてみよう。化学的な目で日常を見る,という見方があると思う。たとえば料理の過程を化学的な目で見ると,食材の化学的変化の意味がよく分かって,上手に作れるようになるかもしれない。その場合に,第一に必要なのは,化学の「知識」だ。その知識を,試験管(やペーパーテスト)の中だけの出来事を見るときに使うだけではなく,日常の現象にあてはめる。それが「化学的なものの見方」ということだろう。そしてその知識とは,時代によって変わらない普遍的,一般的なものではなく,現時点での,特定領域における見方にならざるを得ないに違いない。 そう考えると,「心理学的な見方」というのは結局,「ある時点の特定分野における心理学的な知識を元にした考え方」なのだろう。ということは,「知識をたくさん身につけること」がいけないのではない。知識を知識で終わらせるのではなく,現実に利用・応用してみることが,「心理学的なものの見方」につながるのだ。とするとそこから,そのような「ものの見方」を身につけさせるにあたって,留意すべき点が見えてくる。 まずは,知識を教えるだけではなく,現実に応用して見せること(これは本書でたくさんやられている)。さらには,(可能であれば)読者にもやらせてみたりすることが必要だろう。やって見せたりやらせたりするのは多いほうがいい。逆に,教える知識は少ないほうがいいのではないか。というのは,あまり知識部分が多いと,「見方の学習」よりも「知識の学習」が主になってしまうのでまずいだろう。それに,多くの局面に対応できる知識とは,汎用性のある,切れ味のいい視点だからであり,「ものの見方」のベースとして有用だと思われるからである。 また,その知識を得るために使われた方法論,すなわち心理学実験であるとか,そこから一定の結論を得る論理の理解があった方がいいような気がする。それがなければ,「マニュアル」の理解にとどまってしまいがちになり,「考え方」の理解にはなりにくい。また,さらに広げて,心理学にはさまざまな考え方があり,ここで取り上げたものが,「一つの見方」に過ぎないこと,つまり変わりうることも知っているとなお良いように思われる。心理学は自然科学に比べて解釈学的な側面が強く,人を見る視点としてたくさんの違ったものがあるのだから。 ...なんだか最後のほうは,クリシン的心理学のすすめになっちゃったような... #著者のコメントあり。
|
■ニッキガ書ケナイ |
2000/05/25(木)
日記が書けない。日々の記録が。5月に入ってから読書記録と日々記録の更新日を分けることにしたので,ちょっと日々記録にも力を入れてみるか,と思っていたのだが,何だか書けない。月初めに旅行したり,月半ばに風邪を引いていたりしたのもあるが,風邪が治ってからもやっぱり書けない。「日記が書けないという日記」なんて愚ノコッチョー,とも思ったが,ともかくこれから始めなければ前に進まないようなので,とりあえず書いてみる。 書けないのは,書くことがないから書けないのではなさそうだ。ネタになりそうなものも思いつかないでもない。でもそれを,どう扱っていいかわからない。雲みたいな不定形のイメージだ。日記に限らず文章を書くということは,その雲みたいなものを適当なアングルから適当な大きさに切り取って,さらにそれを文字の形で定着させる作業だろうと思う。そのやり方が分からないというか思いつかない。文章なんて,仕事柄,これまでにもいくらでも書いて来ただろうに,今回は何だかそれができなくて困っている。 切り取ったり定着させたりする仕方がわからないということは,もっとつきつめて考えてみると,どんな読者を想定して書いていいのか分からない,ということなのかもしれない。雲というよりは,料理みたいな気がしてきた。誰が食べるか分からないから,素材をどう調理していいのか分からないのだ。もちろんWeb日記だから,潜在的読者は全世界に不特定多数いると考えるべきなのかもしれない。それにしても,代表的な読者のイメージというものが必要だろう。それが見えていない。 考えてみたら,これまで書いてきた文章は,比較的読者イメージがはっきりしていた。読書記録の場合は,未来の自分が第一読者であり,それ以外に,心理学を受講している学生であったり,名前や顔を知っている少数の固定客(主に心理学&猿人関係者)だったりしていたので,あんまり調理に悩むことは(少なくとも最近は)なかった。その他にも,論文を書くときに想定するのは同業者だし,教科書を書くときに想定するのは学生。一般書である『クリティカル進化論』の場合は,学生やら妻やらをミックスして,やっぱり具体的なイメージを持って書いていた。 まぁでも考えてみたら,読書記録の場合も,ある程度読者イメージが固定されてきて,文章スタイルが決まってきたのは,ごく最近だ。つまり半年以上はかかっているわけだ。はじめのうちなんかは,文章の半分以上が本の引用なんていう,著作権法的にかなり問題のある書き方をしたりしていた。最近はもうだいぶ文章スタイル的には安定してきたと思うけど。それを考えると,いま日々の記録が書けないのは当然で,書けるようになるまでには,ある程度の試行錯誤が必要なのだろう。ということで,しばらくは修行のつもりで,いろいろと試してみますか。
|
■『変わるニッポンの大学−改革か迷走か−』(苅谷剛彦 1998 玉川大学出版部 \2500) |
2000/05/24(水)
〜大学改革に教育の論理を!〜私はここ何年も,琉球大学大学教育センター内に設置されている「大学教育改善等専門委員会委員」を拝命している。その関係で,共通教育の外部評価に関わる仕事をさせられている。琉球大学でも,今年から本格的に外部評価を導入することになったからだ。外部評価者は4名なのだが,その中に,本書の著者である苅谷剛彦氏の名前があった。苅谷氏と言えば『知的複眼思考』というクリシン的本が有名だが,社会学者として,大学を含む学校教育に関する本も書かれている。早速生協で購入したのがこの本。本書で扱われている問題は大きく2つ。入学者選抜など,大学大衆化の下で大学が学生をどのように受け入れるかという問題と,大学における教育実践の改革に関する問題だ(p.2)。 目ウロコな考察があった。なぜ今カリキュラム改革が行われているのか,その背景についての考察だ(p.77-)。現在のカリキュラム改革の隆盛は,教育学的には説明がつかない。教育学的には,カリキュラムは「教育理念−カリキュラム−評価」と位置づけられる。いわゆる"plan-do-see"のdoにあたるのがカリキュラムだ。このdoを改革しなければいけない理由は2つ。教育理念や目的(plan)に変更があった場合と,理念にふさわしいカリキュラムになっていないことが評価(see)の結果明らかになった場合だ。しかし現在のカリキュラム改革は違う。理念の変更も,改定以前についての評価もないのに,改革だけが行われている。 かといって,経済学的にも説明がつかない。現在のカリキュラム改革が,入学志願者増に直結しているわけではないからだ。ではどのように説明できるかというと,カリキュラム改革を行っているということ自体が,大学の正当性を確保する上で役に立つ,という組織社会学的な説明のみが可能である(p.82)。つまり,社会へのエクスキューズ(あるいはポーズ)としての改革というわけだ。そしてその背後には,教育目的の達成という合理的選択以外の要素を,こっそりカリキュラム改革に含みこませることも可能(p.82)なのである。というより,その目的(たとえば教養部教官の格差問題や,研究重視体制の推進)を覆い隠す隠れ蓑として,カリキュラム改革が利用されている可能性が大である(意識する,しないに関わらず)。 このほかに,一体なぜ,いま大学の教育改革が進んでいるのか,その原動力になるものの考察があった(p.182-)。大学紛争時とは違い,学生が原動力になっているわけではない。教室の中で学生の反応を全く無視して話しつづけるという,旧来的な大学のありかたに無意味さを感じ,耐え切れなくなった若い大学教員が,その無意味さから逃れるために,相手に通じるコミュニケーションを求めることが,日本の大学においてティーチングが組織的に見直される下地となった。そう著者は考察する。妥当性はさておき,新しい視点ではっとさせられる。ただ,本書には一貫して「文部省」の存在は出てこないのは不思議だけど。 また,教育改善のシステムが機能するための問題点(p.148)などについても,アメリカの現状との比較考察がなされている。授業評価の結果を一部人事評価にも組み込んでいるアメリカの場合でも,教育面での改善に対する報酬システムの整備は,必ずしもうまくいっているとはいえない(p.148)そうだ。そこで苅谷氏は,金銭以外の報酬として,教育改善のためのサバティカルであるとか,アメリカの大学でも行っているような優れた教育実践に対する表彰制度のようなもの(p.148)を案として挙げている。 最初の論点(カリキュラム改革の社会学的理由)に関する私見を述べると,「現状としてそうなっている場合が多い」というだけであって,「そうしなければならない」わけではもちろんない。今からでも,大学改革を教育の論理の土俵に引き戻すことは可能であり,また,そうすべきであろう。そのためには,評価を重視し,評価を全ての出発点とすることが必要である。もちろん評価と名のつくものであれば何でもいいわけではなく,改善を前提とし,十分に練られた評価項目に基づく,多面的な評価だ。評価の結果に基づいて,つまり「誤りから学ぶ」ことによって,改善を繰り返すことによってのみ前進できる。改革も,いっぺんやってしまえば終わりではない。理念も,カリキュラムも,そして評価自身さえも,「評価」によって常に見直していく。大学が「迷走」しないためには,そうするしかないのではないだろうか。 なお,評価に対する私の意見は1月27日の日記にある。また,大学教育を見直す一助とするために,学生のレポートを元にこのようなものを作ってみた。いい授業はいいのだが,悪い授業はひどい。これでは学生がかわいそう。
|
■『ハーバーマス−コミュニケーション行為−』(中岡成文 1996 講談社 現代思想の冒険者たち \2545) |
2000/05/20(土)
〜話し合えば全ては解決する?〜『小説・倫理学講義』の中で,ハーバーマスの思想が私の研究テーマ(思考)と関係しそうな感じのことが書いてあったので,読んでみた本。はっきり言ってよく分からなかった部分が多い。いまだに,そもそもハーバーマスって何者?と聞かれたら答えられそうにない。しかし,やっぱり関係しそうな部分もあったわけで,ここはひとまず,学生のレポートじゃないけど,分からない部分は分からないなりに,分かった部分や,関係ありそうな部分を中心に,まとめるだけまとめてみた。 まず本書のサブタイトルにもあるように,どうやらハーバーマスのキーワードは「コミュニケーション」らしい。同一ではない人格や利害をもった人間たちが,それでも相互に意思を疎通し,行為を調整しあう(p.13)という人間同士の対話=コミュニケーション行為こそ真に生産的な力なのであり,対話的・コミュニケーション的合理性を十全な形で実現していくことが,彼の社会理論の目指すところ(p.19)らしい。。 そしてハーバーマスはどうやら,ポパーと同じく可謬主義らしい。つまり,すべての知識は誤りに陥りがちであるから,公共的な批判につねにさらされ,改善される必要がある(p.149)という考え方。その改善の方法がコミュニケーションというわけだ。しかし,どうやらハーバーマスは,ポパーとは論敵で,実証主義論争なんてのをしていたらしい。ポパーのような分析的科学論では,対象は物理学的に,中立的に観察されることを前提にしている(p.57)。それに対してポパーのような弁証法的批判理論は,もっと解釈学的であり,「事実」なるものは社会性をもっており,日常生活から独立した抽象的な空間,科学者が支配する物理学的空間においてのみ通用すればよいわけではない(p.58)。ハーバーマスにとっては,経験に関するわれわれ全ての判断の基準は,人間集団における「討論」によって合意される(p.60)ものである。つまり真理の根拠はコミュニケーション(討論)だというのだ。ふうむ。ちょっと分かった感じ。 さらにハーバーマスは,討議論理学というものを提唱しているらしい。何が普遍的な道徳規範かという問題に直接答えることは不可能である。だから,「みんな(当事者)が従うことのできる実質的な規範は,みんなの参加する話し合い(討議)で決めることにしよう」という,間接的,形式的な規範しかありえない(p.226-7)というのだ。つまり,何が善いかは決められないけれども,決めるプロセスについては普遍的な原則が成り立つ,というわけだ。これが,コミュニケーションにおいてこそ,平等や自由という人間の道徳的理想が実現されると信じる,討議倫理学の基本的な立場(p.227)という。なんとも意表をついた倫理学だ。...あ,そうか。この「普遍的規範は(決められ)ないから皆で合意しましょう」という発想は,科学において「中立的な事実はないから,討議で合意しましょう」というさっきの発想と同根なんだな,きっと。 とりあえず分かったことはこれぐらい。当分は,ハーバーマス関連のものは目にしないと思うけど,もうしばらくたって私の考えも成熟してきたら,もう一度読んで考えてみたくなるかもしれない。以上,れぽーと終わり。
|
■『自己と感情−文化心理学による問いかけ−』(北山 忍 1998 共立出版 認知科学モノグラフ \2600) |
2000/05/16(火)
〜心理学のパラダイムシフト?〜これからは文化心理学がトレンドなんだそうである。たとえば佐伯 胖氏は近年文化的研究に転じているそうだが,文化心理学はこれまでの心理学の研究を根源から反省し,『出直し』をせまるところがあるはずであると述べている(p.181)。また本書の前書きでも,文化心理学が現在,限りなく脳科学化してしまった認知心理学にかわって,心理学への進化論的アプローチとともに行動・人間科学のパラダイムシフトに一役かっていることに疑いの余地はない(p.vii)とある。これからは進化心理学と文化心理学か。 ただしその進化心理学(と行動主義)に対しては,次のような問題点が指摘される。一般的理論からの演繹によって立とうとする様々な学問的営み,例えば,行動主義的心理学理論における「強化」の概念や進化心理学理論における「適応」の概念などは,仮説構成力の強さが,実際の現象をはるかに凌駕している結果,「その気にさえなれば」いかなる現象でも説明できてしまうという問題を抱えている(p.185)。つまり何でも事後的な説明はできでしまうが,それに見合うだけの事前の予測はできないということだ(あ,前に書いたこれと同じだ)。となると,これからはやっぱり文化心理学かぁ(←ちょっと単純)。 で,その文化心理学とは何か。実は,あんまりきれいにまとまった理解はできなかったのだが,一応それらしいものを挙げておこう。まず,(文化心理学以前の)現代心理学では,心性普遍性の仮定(p.4)がなされている。つまり文化差=普遍的心性+文化の影響というとらえ方であり,基本的な「心」は,どの文化でも同一だと考えていた。しかし,文化は実質的に心を作り上げており,また同時に文化そのものも,多くの心がより集まって働くことによって,維持,変容されていく(p.10)と考えるならば,心と文化を区別することは不可能である。このように,心と文化を,ともに互いを取り込んだ双方の一部であるとする考えが,どうやら文化心理学の基本的前提である。何でもこれは,西田哲学や,和辻の風土概念など,東洋的認識論に通じるものがあるらしい(p.11)。これってなんだか,アフォーダンスの考え方に似てる? と思っていたら,そのようなメタファーも語られていた。すなわち,杖を使って自由に歩き回る目の不自由な人にとって,杖は心理的機能とは独立なのではなく,その人にとっての杖は,すでに「歩く」という心理的行為の不可欠な部分として組み込まれている(p.34)と言える。ああやっぱり。これにさらに,その人にとっての知覚の意味,という話をくっつければ,もうこれは立派なアフォーダンス理論(だと思う)。 そして著者らは,欧米文化に優勢な相互独立的自己観と,日本を含む東洋文化で優勢な相互協調的自己観,という2つの典型的な文化的自己観(p.37)を提出している。この言葉だけ聞くと,何だかありがちなことを言っているようにも聞こえるが,先に述べたように,これは単に(心に付随する)文化差を形作っているのではなく,心そのものを形作るものであり,現実を構成する機能(p.37)をもっている。たとえば,対人認知においてアメリカ人は「基本的な帰属錯誤」を犯しがちだが,これは普遍的なものではなく,人の行動をその内的属性の発現として理解する相互独立的自己観に特有なものであることが,研究データから示唆される。また,日本人を対象に行われた原因帰属研究の一覧表(p.112)から,日本においては自己高揚/防衛バイアスが見られないばかりか,逆の傾向(自己批判的バイアス)が見られることも指摘されており,その意味が文化的に考察されている。後知恵的に言えば,こんなこと,一覧表さえ作れば誰でも分かりそうなことなのに,今まで分からなかったなんて,いかに事実を見る眼が理論負荷的か,ということだろうか。 最初に述べたように,まだ十分に理解しているとはいえないが,今後の心理学を考える上で,重要な観点になりそうなものだ。
|
■このページについて(2000.05)
|