読書と日々の記録2000.11上
[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'00] [索引] //  [ホーム]
このページについて

 

■読書記録: 12日『メディア・リテラシ−』 8日『社会的ジレンマ』 4日『新聞記者の仕事』
■日々記録: 14日授業実践ワークショップ 2日近況報告

 

■授業実践ワークショップ
2000/11/14(火)

 ううむ。今月はいろいろあって,日々の記録が更新できなかった。このままズルズルいってもいいか,とも思ったが,昨日,授業実践ワークショップなるものに参加してきたので,その記録をしておこう。

 講師は中京大学の浅野誠先生。ある人の話によると,FDと言えばアサノ,というほどの著名人だそうだ。大学教育センターのFD活動の一環だが,単なる講演ではなくて,実践活動を交えたワークショップということで,10時20分から午後4時までの約4時間半(昼食時間を除く)に渡って行われた。

 ワークショップの目的は,「参加者一人ひとりが,自らの授業の改善への一歩を作り出す」ということであった。ここで扱われた授業改善のポイントは,1.発問・課題設定,2.説明・提示,3.作業,4.グループ編成とグループ活動,5.討論,6.学生の授業参加の6つ,と先生のレジメには書いてあるが,実際には,授業導入のウォーミングアップについてもあったので,7つと言ったほうがいいだろう。

 面白かったのは,このワークショップ自体が,浅野授業の体験の場になっていた,という点である。たとえば討論で言うと,討論に関する説明は10分ぐらいで,「学生は討論に慣れていない」とか,「彼らは傷つきやすいので,怒らないでほめた方がいい」のような話があり,実践にはいる。今回行われたのは,ズラシ討論と代表肩たたき討論。ズラシ討論とは,「あるテーマに対する賛否の度合いによって1列に並び,番号点呼。1番の人と中央の人,と言う具合に列をずらして意見の違うペアをつくり,1対1で討論する」というものである。もちろん討論のテーマは,「授業改善」。このように,浅野式授業法を通して,授業について考えることができた。

 他のテーマについては,記憶に残った要点をメモしておこう。

説明・提示
・すべてを話すのではなく,授業外で学生自ら調べることを促進するように(浅野氏の授業では,教科書を2回ぐらい読まなければ単位が取れない仕掛けがあるそうだ)。
・結論をいうよりも,問いかけ中心に。
発問・課題設定
・一定期間(20分〜1週間?)でできるような課題設定を。
作業
・コースが定められたものよりも,物語を作るようなものを(ごっこ型)
学生の授業参加
・学生は授業の共同創造者。学生自身が授業展開に関わり,提案,意思決定,選択ができるようにする。

 午後は,「発問・課題設定」と「作業」を体験するために,グループで授業プランを作り,ポスター発表形式でお互いに論評しあった。

 まとめると,上にあるようにまさに「結論をいうよりも,問いかけ中心」の実践だった。したがって,ここで何を得たか,明日からの授業をどうすればいいかは,よくわからないのが正直なところである。まあ,この体験を「一歩」として,あとは自分で考えていかなければならないのだろう。

日記猿人 です(説明)。

 

■『メディア・リテラシ−−世界の現場から−』(菅谷明子 2000 岩波新書 \660)
2000/11/12(日)
〜メディア・リテラシ−の光と影〜

 サブタイトルにあるように,世界(イギリス,カナダ,アメリカ)におけるメディア・リテラシーの教育現場,メディア業界,市民団体の活動のルポ。現場レポート中心なので,各国の現場を知る上では役に立ったが,筆者自身の考えよりも,各国の実態を知ることに主眼が置かれている。

 本書ではメディア・リテラシーは,メディアが形作る「現実」を批判的(クリティカル)に読み取るとともに,メディアを使って表現していく能力(p.v)と定義されている。イギリスでは,メディア教育(イギリスではこう呼ぶ)が学校に取り入れられる理由として,子どもをメディアの悪影響から守る「保護主義」と,メディア文化を学校教育に取り入れようとする「教育の民主化」の2つがあり,80年以降は「民主化」傾向が顕著だという(p.31)。この2軸は有効かもしれない。

 ここで扱われている3カ国は,メディア・リテラシーの発祥の地(イギリス),教師の活動が活発(カナダ),最近ダイナミックな取り組みがなされている(アメリカ)のだが,必ずしも全てがうまくいっているわけではなさそう。たとえばイギリスでは,メディア教育に積極的なのは労働者階級の子どもが多い公立学校で,名門校では,それよりも古典を教えた方がいい,という認識があると言う(p.72)。カナダでも,メディア学の知識が不十分な教師によって教えられているので,単純な図式で捉えられてしまっているという問題がある(p.112)。それに,時の政権によってカリキュラムが変動する(特に保守政権),という政治の影響も大きいと言う(p.126)。メディア・リテラシーが定着するかどうかは,まだまだこれからの課題のようだ。

 面白かったのは次のような指摘。

  • (生徒たちは)メディアを批判した番組は,なぜか鵜呑みにしてしまいがち(p.59)。
  • 学校では,ある種の無菌状態の中で,メディアが「公式」に沿って一方的に読み解かれることで完結してしまい,生徒の自由で主体的な思考を育むはずのメディア・リテラシーにダイナミックな学びの要素が欠如し,メディアの学習が形骸化しているように思えた(p.131)。
  • そもそも,メディア・リテラシーの基本である批判的思考を教え込むということにも矛盾がある(p.133)
 ごもっとも。メディア・リテラシー教育が本当に成功するかどうかの一番のポイントだろう。ちなみに,この世界の第一人者マスターマンは,生徒と教師の間にヒエラルキーを作らないことが,授業を進める上でもっとも大切(p.112)指摘している。もちろん難しいことだろうが,そのあたりにヒントがありそうだ。(自分用メモ:∽教育リテラシー)

 

■『社会的ジレンマ−「環境破壊」から「いじめ」まで−』(山岸俊男 2000 PHP新書 \660)
2000/11/08(水)
(学会&旅行疲れ)
〜ジレンマ実験から社会問題を読み解く〜

 環境破壊やいじめなどの問題を,社会的ジレンマ問題と捉え,進化心理学的な観点から,この問題を解決する方策を検討した本。社会的ジレンマ問題とは,

こうすれば良いと「わかっている」協力行動を取ると,その行動を取った本人にとっては,その行動を取らなかったときよりも好ましくない結果が生まれてしまう状態(p.17)
である。一言で言うと「わかっちゃいるけどやめられない」というスーダラ節の状況そのものである。ただし,はしご酒のような個人的な状況だけの話ではなく,個人の利益と社会の利益の葛藤・調和の問題のことなのだが。例えば,皆がバスや電車を使えば渋滞がなくなることはわかっているのに,マイカー通勤してしまうような状況である。著者によると,現代の社会問題のほとんどが,「社会的ジレンマ問題」の側面を含んでいるそうだ(p.25)。環境問題や資源問題などは,まさに社会的ジレンマ問題の典型である。

 本書ではこの問題を考えるために,囚人のジレンマゲーム研究が紹介される。そして,そこから,多くの人が「みんなが協力するなら自分も協力するが,誰も協力しないのに自分一人だけ協力して馬鹿を見るのはいやだ」という原理(略して「みんなが」原理)(p.142)で行動することが,結局利得を大きくすることを示す。ある研究では,合理的に行動した経済学教授たちよりも,直感的に行動した普通の学生達が得た利益の方が大きかったという(p.77)。つまり大事なのは,合理性よりも直観だというわけだ。そしてこのことについては,進化心理学的な裏づけも提出される。それは,コスミデスによる4枚カード問題を用いた研究で,我々の認知モジュールの中には,裏切り者探索モジュールがある,という研究だ。これが十分な裏づけだとは思えないが,一つの解釈としてはありうるだろう。

そこで最終章で,社会的ジレンマ解決に向けて提言される。それは,教育によって道徳心を育成するとか,厳しく「アメとムチ」を使う,というものではない。協力行動が一定以上の比率になれば,協力する方が得なので,協力者が一気に増えると言う。したがって,協力行動が一定比率以下にならないような,おだやかな「アメとムチ」は使うにしても,あとは,「みんなが」原理の有利さを教え,それがなぜ有利なのかを教えて(p.162)あげればいいという。

 ただここで疑問な点がある。それは,環境問題のような,最初にあげられた社会的問題は,「自分ひとりぐらいいいや」という非協力行動の結果が出てくるのは,行動をしてからずっと後になってからである。それに対して,囚人のジレンマゲームのような実験室実験では,そこで取った行動の結果はすぐに現れる。この差異を考えずに,研究結果を単純に当てはめて考えていいのだろうか

 ただ著者は最終章に,この章の目的は社会的ジレンマの解決法を提案することにあるのではなく,(中略)問題を整理する助けとなるいくつかの要点について議論することにあります(p.185)と書いているので,いいのかもしれないが。でも「問題を整理する助けとなるいくつかの要点について議論」って,何のことをさしてるんだろう? 基本的には,「解決法めいた」ことがほのめかしてあるようだし... あ,そうか。「要点の整理」はあっても,「問題点の指摘」(私がこの段落の最初に書いたような)がないから,最終章の位置づけがわかりにくいんだな。その点がちょっと残念。それ以外は,割と面白かった。

 

■『新聞記者の仕事』(坂本龍彦・生井久美子 1997 岩波ジュニア新書 \740)
2000/11/04(土)
〜批判的/無批判的思考者としての新聞記者〜

 朝日新聞の記者2人が,新聞記者の仕事について語っている本。対談もあるし,それぞれが自分の体験を文章でつづっている部分もある。そのあたりは,案外面白かった。また,この2人に限って言うと,記者の仕事を通して,単に報道するだけではなく,社会に役立つことをしたり社会を変えたい,という気持ちを持っていることもわかった。ちょっと意外だったけど。

 これは本書だけからの感想ではないのだが,新聞記者というものは,批判的思考者としての側面と,批判的思考者としての側面の2側面をもっているといえる。

 たとえば著者たちによると,先輩に言われる言葉として,「君は人の話を聞くときに疑って聞いているか」(p.24)とか,「百聞いて一書け」とか,対等な記者として取材するために,「政治家を絶対「先生」とは呼ぶな」(敬して臆せず,というのだそうだ)(p.52),などが紹介されている。あるいは,支局時代に現場に立つというシステムは,事実に目を開き,そこには背景があることを知り,その背景にはさまざまなものがあるんだということを知ることができる(p.43),と,その利点が強調されている。こちらは,批判的思考者としての側面。新聞記者というのは人の息づかいを聞いて仕事をするわけだから,どうしても人間を見る目,洞察力というのが育ってきますよね(p.33)という発言も出てきたりする。

 ところが,マスコミ関係者というと,よく,被害者や当事者を追いかけ回す,当事者の敵や加害者としての「新聞屋」「テレビ屋」のようないわれ方をする(『推定有罪』による)。あるいは警察発表を無批判的に垂れ流す点を指摘されることもある。本書でも医学医療記事について,医師側にすごく片寄っている,それも,学会の権威といわれる人たちや主流に沿った記事が多い(p.137)ことが指摘されている。著者の一人である生井氏は,乳ガン問題を追いかけて本にまとめているそうだ(本人の承諾なしに乳房を大きく切るのが,日本では当たり前だった)。これはそのとき彼女が感じたことである。このような無批判的思考者の側面もある。

 このように新聞記者には2側面あることを,筆者たちを含め,新聞記者はどのくらい自覚しているのであろうか,疑問である。もちろん人によってさまざまだろうが,この2段落上の最後の方の発言のように,どうしても人間を見る目が育ってくる,とナイーブに言い切ってしまっていいのか,という気はする。

 ちなみに乳ガン問題で医者について,生井氏は次のようにコメントしている。

お医者さんはお医者さんなりに患者をめちゃくちゃにしたいと思っているのではなくて,その人たちの価値観や考えている範囲で,よりよいことをしようとはしているのだけれども,それが患者の思いとはまったくすれちがっていることに気づかない不幸がある(p.128)。
まったくそのとおりだと思う。そしてこの言葉は,医者→新聞記者,患者→報道対象者と置き換えてもそのまま成り立つ

 この両者はどちらも,前者と後者の間に権力関係がある点も同じだ(もちろんマスコミ関係者は権威者の一種だ)。このように権力関係が対等でないものが,いかに対等な関係を築くか,という点がポイントなのだろう。実は本書でも,まったく同様の指摘がある(p.135)。ただしそこで指摘されているのは,医者−患者,親−子ども,夫−妻,先生−生徒,上司−部下,男性−女性,政治家−国民の関係だけで,残念ながら新聞記者−報道対象者に関する指摘はないのだが。

日記猿人 です(説明)。

 

■近況報告
2000/11/02(木)

 数日前から,妻子が実家に行っている。この2ヶ月の育児疲れを癒すためだそうだ。それで,この場で近況報告(おーい,元気かー)。

 しつこかった私の風邪は,独身生活が始まったとたんに快癒した。気楽な独身生活が原因なのか,その日の朝に栄養ドリンクを飲んだせいなのか,自然治癒なのかは不明。

 独身だと,夜自宅でも仕事ができることに気づく。逆にいうと,妻や子どもがいると,そこまで自分の時間を自由に裁量できない(それがいいとか悪いとか言っているのではないので念のため > つま)。おかげで昨日は,いつもより1時間半ほど遅くまで起きて仕事をしていた。それでも,いつもより1時間早く目がさめた。ロングスリーパーなのに。気が張っているのか。それとも,ここしばらく風邪で休養を取っていたので,エネルギーが有り余っているのかも。

 昨日の午前中は,卒論の中間発表会。昨年の日記を見ると,「体力的にも、以前より疲労のダメージが大きい」と書いてあったが,今年はあんまり疲れず,結構多くの人にコメント/質問することができた。頭もまあまあ冴えていたようだ。やっぱり「エネルギー有り余り説」か。

 今日も,なぜか仕事がはかどる。名刺サイズのカードに,すべきことを書き上げて,順次消していく。会議や授業前のちょっとした空き時間も利用して,どんどんこなしている。なんだか,オレってやればできるじゃん,という心境(普段はこんなに能率よく仕事はできない)。実は,こういう能率期は,数ヶ月周期でめぐってくる。その期間はあまり長くなく,そのうちに,カードに仕事をさせられているような気分になったり,きちんとものごとを片付けるのがイヤになって,だんだんとだらだらした仕事ぶりに戻ってしまうのだが。まるでアルジャーノンに花束をみたいだ。

 ・・・あ,マーカー片手に英語を読んでたら,ピンクのシャツの上に,マーカーを落として,黄色く染めてしまった。とりあえず水でぬらしたティッシュでトントンしたけど,これ,どうやって落とすんだ? > つま

 新書書評をされている蘇我捨恥さん(なんて読むんだ?)のページの掲示板に書き込みをしたら,私のページも見ておられるようで,「そちらの書評は、読みが深いというか、将棋でたとえるなら何手も先を読んでいる印象があって、感心して読ませてもらっています」とのレスをいただいた。うれしかったのでここに記録しておく(へへへ)。

 蘇我捨恥さんのページは,その名の通り,新書だけを書評するページ。けっこう辛口。最後の1行にお勧めかどうか書かれているので,私はこのページを見るときはいつも,最後の行を真っ先に見る。「私は本書を薦めかねる」とか,「特に薦めることはしないが、それでも読んでみたいということであれば、読んでみても良いだろう、と私は判断する」という具合だ。私の書評は,内容を整理して理解/紹介することが主目的なので,対象本からの引用が多い。それに対して新書書評は内容紹介や引用は少なく,「テーマを著者が以下に論じているか」に焦点を当て,本の内容が冷静に分析されている。その冷静さに興味ひかれるページだ。

 


[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'00] [索引] //  [ホーム]