読書と日々の記録1999.12
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■読書記録: 30日短評3冊 30日『赤ん坊から見た世界』 27日『英語アナログ上達法』 24日『心のメッセージを聴く』 21日『大学教育の創造』 18日『論理療法にまなぶ』 15日『シーラという子』 12日『数学者が新聞を読むと』 9日『「信じるこころ」の科学』 6日『言語を生み出す本能(下)』 3日『うわさの謎』
■日々記録: 27日そうじした 24日クリスマスあれこれ 21日さむいさむいさむい 18日ゆーじ小 15日行動分析学試験問題解答,多忙な日々 12日米軍の犯罪率=県民の犯罪率/2 12日島そば,行動分析学の試験問題 9日さむいねむいいそがしい 6日読書スピードの理由は? 3日最近読書記録が

 

1999/12/30(木)

■『赤ん坊から見た世界 −言語以前の光景』(無藤 隆 1994 講談社現代新書)

 2歳より前の子どもは不思議な存在である。うちの娘は現在1歳6ヶ月半だが、日本語ではない言葉をしゃべる。単語だけなら日本語(まま/これ/みず/だっこ、など)もしゃべるが、長くしゃべっている言葉は、おそらく地球上のどこの国の言葉でもない宇宙語のようなもので、何やら一生懸命「ゴニョゴニョゴニョゴニョネ!」と言っている。

 本書はそのような、言語を獲得する前の乳児の発達について、さまざまな研究例を挙げながら論じた本。最近の乳児研究から明らかになったことは、乳児から見た世界が混沌ではないこと。理解され得ないものは入力されないか無視され、ごく少数の理解できるものに集中しているため、彼らの世界はむしろ混沌とは反対の状態かもしれない。その集中の時間が、新生児の頃は1回20分程度で1日にせいぜい数回なのだが、それが次第に増えていき、1歳のにもなれば、ひたすら多くのものを見つめて吸収することができるようになる。その意味で発達とは、注意を向けて理解し、かかわっていける対象が広がっていくことだと言える(p.257-258)。

 そのことが、顔や物の知覚、感情や愛着、指差しや表情などの諸研究を通して解明されつつある。個人的に面白かったのは、1歳前後から見られる「指差し」という行為。これは単に、遠くにあるものに対して行われる手伸ばしの一種とは違う。母親の共同注意を引き起こすというコミュニケーションとしての機能を持っていることが、観察研究などから示唆されている。逆に、いまだに私がよく理解できないのが「愛着」。本書によると、愛着とは情緒的な絆をもとにして成立する「対人関係」(p.116)という書かれ方をしている。しかし、「愛着を示す」など、どう考えても単に対人関係だけを指しているとは思えない表現が出てくる。愛着を理解することは、今後の課題だ。

 乳児心理学の興味深い知見がたくさん紹介されているという点で、本書は面白い部分も多かったが、それが逆に、分野ごとの研究の羅列になってしまうきらいがあり、なかなか乳児の全体像がつかみにくかった。本書では最終章で全体像が示されているので、読みにくいと思ったら、先に最終章にざっと目を通すのも一つの手だろう。一通り全体像を知った上で、それがどのような研究によって支持されているのかを知るために各章を読むわけである。

 乳児は、教示が利かないし言語反応を求めることもできない。そういう制約の多い状況で発達心理学者は、巧みな手法を用いて乳児の世界を明らかにしているし、新しい実験方法が開発されることが新しい発見につながっている。たとえばピアジェは、「対象の永続性」を乳児が把握できるようになるのは1歳半ごろだと論じた。しかし馴化−脱馴化パラダイムを用いることで、4ヶ月半でも、隠されていていてもものが存在していることを把握していることが明らかにされた(p.70-75)。心理学の研究法の問題を考える上でも、乳児心理学は非常に興味深い分野であると思う。

■今月ほかに読んだ本は3冊

 暇がないといいつつも、半ば追いたてられるように読んだ感じ。1月からは、読書冊数の上限を設けるか?

『またたび読書録』(群ようこ 1999 新潮社)

大学図書館より。プロの読書日記を見てみたかったので。といってもこれは、読書日記ではなく読書エッセイか。7〜8ページのうち半分は、当該図書と関連した彼女自身の体験談で、さらりと読めた。さらりと読めたのはいいが、当該図書を読もうという気にはあまりならなかったなぁ。

『学問のヒント』(日垣 隆 1997 講談社現代新書 \660)

『敢闘言』では日垣氏のことを誉めたが、本書はちょっといただけなかった。いろいろな新しい学問分野のことを紹介しているのだが、中にはちょっと首を傾げたくなるような記述が見うけられた。例えば脳のラテラリティの問題が、単純な2分法(機械暗記は左脳、理解型暗記は右脳)になっていたり。彼自身は大変な読書家のようだが、非専門家の限界なのだろうか。各章末のブックガイドは、役に立ちそうだが。

『対人関係の心理学 −人間関係はどう形成されるか』(三井宏隆 1993 講談社ブルーバックス \860)

知らなかった社会心理学の研究が紹介されていたりして、勉強になった部分もあるが、全体としてはなんだかなぁという感じ。「いくつになっても、人間関係は悩みの種である。」みたいな書き出しで始まるマクラの部分が、紋切り型のへたなエッセイみたいで、どうも受け付けない。好みの問題なのかも知れないけど。

■今月の目ウロコ本は

 ...なしかなぁ。どの本もそれなりに、面白かったり得るところはあった。中には、これなら挙げても悪くないかなぁと思い当たる本もないでもない。しかし、「目からウロコ」と言う言葉に照らし合わせながらその本のことを思い出してみると、今一つしっくりこない。残念ながら、これまで「目ウロコ本」ほどのものはなかったようだ。来年も、今年以上に良書にめぐり合えますように(なんて年末らしく締めくくってみたりして)

1999/12/27(月)

■『英語アナログ上達法』(本田 修 1997 講談社現代新書 \660)

 本屋に講談社現代新書のカタログが置いてあったので、もらってきた。昔からそうだが、こういうものをつらつらと眺めるうちに、いろんな本がほしくなる。おかげで、これからしばらくは、読書の中に講談社現代新書が増えそうである。

 思い起こせば、小学生のときに初めて『頭の体操』(多胡 輝)を買ったときがそうだった。巻末にカッパブックスの本のリストが載っており、どれも魅力的に見えるのだ。『読心術』『1万年後』『短時間睡眠法』なんて本を買ったのを思い出す。いまだに人の心は読めないし、あいかわらず睡眠時間も長いんだけど。

 『英語アナログ上達法』も、カタログだけを見てどんな本か知らないままに生協で注文して買った本。この手の新書には当たりハズレが大きいだろうと思ったが、予想外に面白かった。日本の英語教育は「公式」(=デジタル)に頼りすぎていて、英語の「こころ」(=アナログ)を伝えていない。たとえば、前置詞であるtoが、名詞だけではなく、動詞の原形の前について不定詞を導くのはなぜか。こういう問いにデジタル発想では答えられない。辞書にもこのtoは、前置詞に分類されているが前置詞とは感じられない用法、としか書かれていない。しかし著者によると、名詞につくtoも動詞につくtoも、「到達」(〜するに至る)という共通の「こころ」があるのだそうだ。これが分かっていると、動名詞(-ing)をとる動詞と不定詞(to -)をとる動詞の違いがどこにあるのか、という点も見えてくる。

 このほかにも、「じっと心の中に抱いて語らない」こころをあらわすit、積極的にこころを語るso、if節自体に「もし〜ならば」という仮定の意味があるわけではなくて過去形(仮定法過去)の中に仮定の「こころ」がある、などということが、分かりやすい例文とともに示される。

 本書は、決して英語を「身につける」のに役立つ本ではない。英語を身につける、という目的であれば、例えば『TOEIC最強の勉強法』(池田和弘 1995 日本実業出版社)のような本がいいと思う。しかし、何となく身につけた英語を、改めて理解・整理し直すのに、本書は役に立つのではないかと思う。

■そうじした

 週末、妻に「どこを掃除してくれるの?」と言われたので、エアコンを掃除することに。エアコン洗浄用スプレーはずっと以前に買ってあったので、これを活用。スプレーし、歯ブラシで冷却フィンを清掃、と手順はごく簡単。がんばったかいがあったのか、暖房の効きがよくなった気がする。

 これなら業者に頼まなくてもいいし、それほど大変でもないし、スプレー1本500円以下で、言うことなし。と思ったが、掃除の過程で、噴出し口の奥がカビているのを発見した。場所的に、スプレーも人の手も届きそうにない。やっぱりちゃんとやろうと思ったら、専門の業者に頼まんといかんのか。

1999/12/24(金)

■『心のメッセージを聴く −実感が語る心理学』(池見 陽 1995 講談社現代新書 \660)

 クライエント中心療法(ロジャーズ)や、体験過程理論とフォーカシング(ジェンドリン)について書かれた本。非常に分かりやすく、また面白かった。ロジャーズあたりの話は、授業で触れたりするにもかかわらず、概論書に載っているような通り一遍の知識しか持っていなかったが、この本のおかげで、これからはもう少しましな話ができそう。

 精神分析では、現象の裏にある本質(病因)を、熟練した知識を持った人間(分析家)が見極める。ロジャーズはこの発想に疑問を持ち、カウンセリングをはじめた。そこに「判断停止」という新しい視点を持ちこんだ。権威に盲従する「思考停止」ではない。クライエントの話を聞くに当たって、診断、理論的な判断、先入観による推理を一切やめ、「聴く」ことに専念することである。それまで、ロジャーズ自身、専門的な知識が多すぎて、クライエントの話を素直に聞けていなかったからだ(p.42-46)。

 記録を用いてカウンセリングの成功・失敗事例の比較分析を行ったのはロジャーズが初めてだそうである。その研究スタッフの一員であったジェンドリンは、成功事例と失敗事例で「クライエントの話し方」が違うことに着目した。成功事例のクライエントは、自分の実感を表現していたのである。このことから彼は、人の話し方において「実感に触れる度合い」を測る7段階のスケールを開発した(EXPスケール)。

 自我関与のない外的事象の話のみをするのがレベル1、自分のことを感情を伴わずに話すのがレベル2で、このレベルでは実感(感情)は語られない。それが上のレベルになるにつれて感情(3〜)、自己吟味や問題提起(5)が現れてきて、新しい側面への気づき(6)へと深まっていく。こうなると、カウンセリングは成功する可能性が高いらしい。

 さらにここから、フォーカシングというテクニックを使って、ここで得られた実感を展開し、気づきを促すのであるが、これに関しては省略。ただ、気がかりな実感に対して、直面でもなく回避でもない、「間をおいた」スタンスで接する(p.166)という点が興味深かった。これによって、冷静に自分が見つめられるような心の状態を作るのである。心理療法場面でなくても、問題解決に当たって、ついつい感情に振りまわされたり、単なる批評に終わりそうなときに有効そうなスタンスだ。

 あと、積極的傾聴の具体的手法として、リフレクションというものがある。これは、話し手の言葉の要点や実感、論理の展開や自己概念を言い返して、話し手のために映し出し(リフレクト)てあげることである(p.225)。その1つとして、相手が暗黙に仮定している論理を強調して返す「論理のリフレクション」というものがあるようだ(「AだしBだ」→「AだからBなのですか?」)。これも、自分の思考についてリフレクション(=熟考)する上で使えそう。

■クリスマスあれこれ

  • うちのゼミの3年生(男1、女2)に聞いたところ、サンタクロースの実在を信じていた年齢は、小学4年、小学5年、中学3年(!)までだそうだ。がんばれば、うちの娘も「サンタクロースを信じている高校生」にできるかも。

  • 今日はこれから、妻の特製クリスマス・ディナーを食べた後、カトリックの教会へ。私は違うが、妻が幼児洗礼を受けた信者なのだ。うちの近所の教会は英語対応なので、国際色豊かで結構おもしろい。

  • クリスマスとは関係ないが、今日の午後は、「大学教育ワークショップ」と題された、初任者研修会を兼ねた講演会があった。私も大学教育改善専門委員会委員ということで出席した。講師は京都大学高等教育教授システム開発センターの田中毎実先生。大学進学率が50%近くなった今日、大学教育はエリート教育でも何でもなく、「高等"普通"教育」なのだ、という話。先生が大学で行なっている授業研究の話が興味深かった。

1999/12/21(火)

■『大学教育の創造 −歴史・システム・カリキュラム』(寺崎昌男 1999 東信堂 \2500)

 教育学の先生に、「大学教育改革関連の、新しい本を教えてほしい」とお願いしたところ紹介された本。オビには「大学関係者の自己開発(FD)に最適の書!」と書かれている。著者は大学史研究者であり、考察の基本は「歴史のなかで、しかも実践的に大学問題を考える」だそうだ。そこから、現在の大学の諸制度の成り立ちや、今後の進む道について考察されている。

 ダイレクトに、FD(ファカルティ・ディベロップメント)についての示唆や意見が述べられているわけではないが、大学のこれからを考える上で、歴史を知り、制度変遷の意味を考えることが重要であることは、本書でよく分かった。

 日本の大学が本格的に今のような形になってからまだ120年と経っていない(p.196)。その中で、現在我々が当たり前のように考えている単位制が導入されたのは大正後半以降で、それまでは学年制だったという。ここには、カリキュラムを多様化し、学生の自学自習を重視するため(p.188)、という目的があったようだ。あるいは、1991年の大綱化で、学士号が学位に変わり、学位授与機構ができ、聴講制度が廃止されたことは、実は全て関連している。それは、大学相互間の関係をダイナミックに揺さぶる非常に大きな改革ポイント(p.96)なのだそうだ。歴史や制度を知らないと、このようなことはなかなか見えにくい。

 こちら側にあまり知識のない分野ということもあり、簡潔にまとめることができない。そこで以下は、本書から知ったことを、箇条書きで抜き書きしておく。文章は私が適宜要約。

  • 1950年代に大学基準協会が出した報告書によると、一般教育の目標は、リベラル・エデュケーションがめざした貴族主義的な自由学芸教育ではなく、現代の課題を正面に据えたジェネラル・エデュケーション(p.34)。
  • 大学改革の中心はカリキュラム改革にあるという理解・合意が形成されたのは、1991年以降(p.46)。(それまでカリキュラムは、一番いじりにくいポイントだった)
  • 敗戦後の大学カリキュラムの目標は「教養を持つ専門人の養成」。だが、科目に区分をつけない現制での目標は「専門性に立つ新しい教養人の育成」に置かれなければならない(p.82)。
  • 臨教審でも大学審議会答申でも、申し合わせたように演習を重視しているのは、効率的な教授ということだけではなく、自学の契機を与えること(p.111)
  • 明治初期に来日した「御雇外国人教師」は、政府宛報告書に、大学生の出席はどうか、どのようなテキストを使うか、いかなる成績を収めたか、今年度の反省は何で、次の学期はどう進めていくつもりかといった詳細な報告を記し、提出している(p.218)
  • 1970年代初めに立命館大学法学部で行なわれた教授改革運動では、シラバスを相互に徹底的に批判するとか、評価の基準をなるべく統一する話し合いを続けるとか、各クラスごとに小集団方式のディスカッションを指導していくというような努力が行なわれていた(p.228)

■さむいさむいさむい

 沖縄といえども寒いものは寒い。日刊OkiMagによると、最低気温13度だそうだ。ほんの5日前からすると、5度も下がっているので、寒く感じるのも無理はない。さらにいうと、琉大は丘の上にあるので、那覇などからするとさらに寒いに違いない。風もびゅんびゅん吹くし。

 道ゆく人はみんな、厚くて長くてもこもこしたものを着ている。マフラーをしている人も多少いる。今日は陽がさしているからまだいいが、昨日やおとといは本当に寒かった。うちの研究室は北向きで、しかもちょうど玄関の真上にあたる。床の下の空間は、寒風吹きすさんでいるわけで、他の研究室に比べてもいっとう寒いと思う。

 おとといは母や姉が来たので、南部の南端である平和記念公園(摩文仁の丘)に行った。はじめて平和の礎(いしじ)を見ることができてよかったが、ともかく寒かった。息が白くなったりはしないけど、寒くてちょっと耳が痛くなるほどだった。沖縄で寒さで耳が痛くなるなんてびっくり。

 それにしてもすごいのはうちの娘(1歳6ヶ月)。夜寝るとき、決して布団を着ようとしない。着せてもじきにはねのけてしまう。おかげで、朝さわってみると手足が冷た〜くなっている。体温なんか、35度を切っていることもある。昼間は至って元気だからいいけど、本当にこれで大丈夫なんだろうか。

1999/12/18(土)

■『論理療法にまなぶ −アルバート・エリスとともに:非論理の思いこみに挑戦しよう』(日本学生相談学会編 1989 川島書店 \2000)

 妻が持っていたので読んでみた。エリスが来日して論理療法のワークショップが行なわれたことを記念して作られた本。論理療法の概説のほか、エリスの記念講演要旨や、エリスが行なった公開面接の逐語録があるので、これ一冊で一通りのことが分かるようになっている。クライエントはワークショップの参加者(医者など)なのだが、彼らやその他参加者の感想も載っているので、間近から見た論理療法の実感も分かって面白い。それによると、エリスの面接は意外にロジャーズ的らしい。

 エリスは若い頃、エピクテートスやデューイ、ポパーといった哲学をむさぼり読んでいたそうだ。そういえばエリスの発言として、次のようなポパー的な発言が本書に載っていた。「ただ1つの真実は、この世界に絶対こうでなければならないということなど何一つない、ということである。したがって私の言うこともRET(論理療法:Rational-Emotive Therapy)ももちろん絶対ではありえない」(p.149)

 論理療法といっても、「論理」や認知だけを対象にするのではない。認知−感情−行動を不可分のものと考え、それらを統合的に扱う。技法的にも、論駁法のような理性に働きかける方法だけでなく、感情に働きかける技法(論理療法的イメージ法など)や行動に働きかける技法(行動療法の諸技法)が多彩に用意されている。認知が修正されるのであれば何でも利用する、という徹底的な折衷主義も論理療法の特徴らしい。

 心理療法にはたくさんの流派があるが、エリスによると、どの心理療法も、実は「不合理な信念の修正」を行なっていると考えることができるらしい。そういえば心理療法の効果に関するメタ分析によると、治療成績に療法間の差は見られないそうで、各心理療法に共通の因子が存在する可能性が示唆されているが、それはもしかすると、このような認識の変化のことなのかもしれない。

 11月27日の日記に、認知療法系の心理療法を念頭において「クリティカルシンキングとストレス対処」について書いたが、少なくとも論理療法に関しては、少し理解が不十分であった点があることが分かった。それは1つには、論理療法では全ての不合理な感情や行動は、認知(信念)に由来すると考えていることである。つまり、「私たちのかかえる問題すべてが論理療法の守備範囲」と言ってもいいようなのだ(たぶん)。もう1つは、論理療法では不合理な信念を捨てる努力、練習、実践が重視されている。つまり、単に頭で理解していても、それだけでは不十分なのである。同じことは、「思考力育成」一般に関しても言えそうだ。

■今日のお昼は「ゆーじ小」のそば

 浦添の「ゆーじ小」は、さとなおさん『胃袋で感じた沖縄』(コスモの本)で、5つ星中4つ星のついていた店だ。営業時間は、11時から手打ち麺が売り切れるまで、ということだったので、ちょっと行きにくい気がして敬遠していた。同じような営業時間(要するに手打ち)の「首里そば」など、行ってみたら行列ができていて、ちょっと子連れでは入りにくかった記憶があるし。

 しかし今日は、この近くに用事があったので、思いきって足を運んでみた。そしたら、店は思ったより広かったのですぐに入れた。車も、止められるかどうか心配だったが、店の前に多少の駐車スペースがあり、運良くそこに止めることができたので、落ち着いてそばを食うことができた。

 メニューは3種類しかない。そば(大)、そば(小)、ソーキそばだ。そばの味は、これといって目立った特徴はないが、いい意味で一般的な沖縄そばの味だった。麺はややごわごわ、出し汁はうどん風。上にのっていた3枚肉は、非常によく煮てあるみたいで、味が染みていて、3切れものっていて、これは満足だった。

 前から、行きたいなぁ、でも入れなかったらヤだなぁ、と思っていた店だったので、制覇できてよかったよかった。案ずるより生むがヤスシのお昼ご飯だった。

1999/12/15(水)

■『シーラという子 −虐待されたある少女の物語』(トリイ・L・ヘイデン 1996 早川書房 \1748)

 学生のお勧め本に2人も取り上げていたので、買ってみた。奥付を見ると、3年半で67版も出ている。寡聞にして知らなかったが、結構有名な本のようだ。この本が彼女の初めての本らしいが、その後少なくともあと5冊は翻訳が出ているし、それ以外に、対談集や、トリイ・ヘイデン読書感想文集も出ているようだ。すごい。

 ストーリーは、70年代のアメリカ地方都市に住んでいた、精神的にも肉体的にも虐待を受け、愛を知らずに生きてきた6歳の少女シーラ(重度の情緒障害児)が、はじめて自分を受け入れ、愛してくれる教師に出会い、みごとに花開いていくまでの5ヶ月間の様子を、教師自身が書き綴った実話だ(訳者あとがきマル写し。失礼)

 しかし、単に教師(ヘイデン)に愛があったから、というそれだけの理由でシーラが「花開いて」いったわけではないと思う。本書を読んで私が感じたのは、教師である著者の認識能力やマネジメント能力の高さだ。児童の様子を的確に判断して適切に課題を与えたり、問題が生じると子どもたちにどうやって乗り切ったらいいか話し合わせたり、場合によっては6歳の子どもに、自分の行動の非を認めて素直に謝ったり、問題について対等に話し合ったりしている。単なる愛情(情)ではなく、理性(知)の部分での関わり方が、シーラを変えた大きな原因なのではないかと思う。

 ちなみにシーラは前の学校では、校内心理学者が作った行動管理プログラムを行っていたようだ。行儀よくすれば報酬がもらえるというプログラムである。しかしシーラは、教師たちがよしとすることを決してしないことに喜びを感じているようで、そのプログラム開始以降は、わざとプログラムが失敗するように行動していたという。つまり行動分析的手法が通用しなかったということだ。

 私の思い込みかもしれないが、この手の「教育成功物語」(おおざっぱにまとめすぎですが)の前段階(失敗例)として、行動分析学的手法が出てくるケースが多いような印象がある。具体的に挙げろ、と言われてもすぐには思いつかないが、そのような印象は確かに存在する。これは、行動分析学的手法によくありがちな問題なのか。それとも、そこで関係した心理学者の不手際によるものなのか。あるいは、行動分析学的手法が適用しやすいケースとしにくいケースがあるのか。いずれにしても、こういう話が、行動分析に対する(感情的なレベルのみでの)不信感につながっているような気がする。

 まぁそれはさておき、本書は、教師が子どもを適度に大人扱いしながら、教室をうまくマネジメントする1事例としても、興味深い本だと思う。もちろん本書の帯にあるように「愛と癒しの奇跡」「感動のノンフィクション」として読んでもいいわけだが。機会があったら、著者のほかの本も読んでみたい。シーラに関しては、続編(『タイガーと呼ばれた子』)があるようだし。

■行動分析学試験問題解答

 「いずれも言語反応であるが、「寒い」は外部刺激であり嫌子になりうるもの。「眠い」は内部の生理変化、「忙しい」は高頻度のオペラント行動が阻止の随伴性により維持されている状態というところだろうか。前2者は行動と随伴関係によっていろいろに機能するし、確立操作としても有効。3者の中で異質なのは「忙しい」でしょうねえ。」とのこと。模範解答(ヒント?)、どうもありがとうございます。

 といっても、なるほど!という感じではなく、ふーんそういう答え方になるのか、という程度で留まっている。そうだ。来年の抱負として、この解答の意味を理解できるようになる、というのを掲げるか。

■多忙な日々

 面接調査みたいなことをやっていて、スケジュールがぎっしり。夕方には、ヘロヘロになっている。就寝時刻までもたないので、夕食後仮眠をとって、元気が回復したところで、自宅でひと仕事したり本を読んだり娘と遊んだり。今度は就寝時、すぐに寝つかれないので、島酒(泡盛)飲んだり。朝から疲労感があるときは、栄養ドリンク飲んだり。いかにも心身に悪そうな日々。早く年末にならんかなぁ。

1999/12/12(日)

■『数学者が新聞を読むと』(ジョン・A・パウロス 1998 飛鳥新社 \1600)

 たまたま雑誌の広告欄で見かけ、面白そうなので早速注文してみた。著者は、幼少期以来の新聞マニアである数学者。本書の構成も「政治・経済」「社会・企業」「メディア・世論」と、新聞風の部構成の元に、それぞれ10本前後のトピックが扱われている。一言で言うと、数学という観点から、新聞記事を批判的に読んでみせよう、という本だ。ただし、実在の新聞記事が直接に調理されているわけではない。その点は、期待ハズレであった。

 数学だけではなく、中には心理学的と言ってもいい話題も結構見られる。利用可能性、偶然の一致、因果関係と相関関係の混同、などがそうである。その他の話題も興味深い。例えば、もっともらしい数学的議論に基づいて、「携帯電話が脳腫瘍の形成を抑制(誘発ではなく)することを証明する」ように見せることもできる(p.85)。

 あるいは、『買ってはいけない』に見られるような、些細な危険を大げさに見せるためのテクニックも紹介される。たとえば、海水に危険な化学物質を、約500mlの缶ジュース1本分注いでよくかき混ぜる。するとその物質の割合(物質の量/全世界の海水量)は、1/2.6×1021(26垓分の1ということか)となる。しかしその物質が含まれる量を分子量であらわすと、缶ジュース1本分の海水あたり、分子6000個という値がでる。前者の数字からは「ものすごく小さい」ことが分かるが、後者の数字を使えば、人々の不安を(過大に)かき立てることも可能である(p.154-156)。

 このように、感心し納得する論も多い。むやみに数式が出てくるわけでもない。しかし残念ながら、全体的には、やけに読みにくかった。原文のせいなのか翻訳のせいなのかは分からない(たぶん両方だろう)。アメリカの話題が多く取り上げられている、という点も読みにくさの一因か。本のコンセプト自体はすごく面白いだけに、残念というかもったいない。誰か、日本版「心理学者が新聞を読むと」を作るといいのになぁ。

 以下は、結論部分からの抜粋:(p.217-218)

  • ジャーナリストの問いは、5W1Hの他に、次のような問いも含めるべきである。「どのくらい多く」「どのくらい確かに」「他の量と比べるとどうなるのか」「ニュースはどのくらいまで、それを報道するという行為から独立しているのか」などなど
  • 統計が掲げられていれば、こう問わねばならない。「どうやって手に入れたのか」「どのくらい信頼できるのか」「計算方法は他にもあるのか」「数字の精確さには意味があるのか」などなど

■米軍の犯罪率=県民の犯罪率/2

 上の続きのような話になるが、12月10日の琉球新報によると、在沖米軍関係者の事件事故率よりも、沖縄県民の事件事故率のほうが高いそうだ(前者は1万人あたり9人、沖縄県民は1万人あたり18人。県警の統計資料に基づく)。米軍の犯罪が多いようなイメージがあるが、この数字からは、逆であることが示唆される。

 しかし、米軍資料(星条旗紙報道)による、県内で1989年から1994年の間に起きた凶悪犯罪でみると、これが逆転する。全逮捕者数495人中、米軍関係者は57人(12%)だそうだ。米軍関係者は沖縄の全人口の4.2%に過ぎないので、この数字で言えば、米軍関係者は沖縄県民より3倍も凶悪犯罪を犯していることになる。

 「数字をどうやって手に入れたのか」「計算方法は他にもあるのか」を考える練習問題によさそうだ。

■「島そば」の中味そば

 土曜日は、妻が用事があるというので勝連半島方面に行き、ついでに具志川市の「島そば」に行ってみた。場所は、国道329号線の栄野比十字路から石川向けにちょっと行ったところ。

 妻はそば定食、私は中味そばというものがあったのでたのんでみた。中味とは、豚の内臓のこと。いわゆるモツである。妻は以前は、豚の内臓なんて、と敬遠していたのだが、最近近所の方に、中味汁をいただいてそれが変わった。妻は「目からうろこが落ちる」ほどおいしかったそうだ。それで我が家では最近、もう少し中味を極めてみよう、ということになっているのだ。

 中味そばは、ようするに沖縄そばの上に、しょうゆで煮込まれた中味やコンニャクやシイタケが載っているそばだ。代表的な沖縄そば(3枚肉やかまぼこ)やソーキそば(ソーキ)以外にも、載せものそばはいくつかある。たとえば、ゆしどうふそば(ゆしどうふ=固める前のとうふ)とか、野菜そば(野菜炒め)などである。これらは正直言って、1+1=2という感じで、格別の美味しさを感じたことはなかった。しかし中味そばはうまかった。

 というのは、島そばの汁が、薄くてほの甘く、ちょっとうどんのような感じだったのである。これだけだと私には、沖縄そばとしてはちょっと物足りない感じがする。しかし中味そばは、中味によって、適度に濃厚さがプラスされる形になっていたのだ。これは、最近では結構ヒットの部類に入りそう。中味そばって、よそでもやってるんだろうか。今度からは、そば屋めぐりのときには、意識的に中味そばを探してみよう。

■行動分析学の試験問題

「“さむい、ねむい、いそがしい”とはどういうことか、確立操作、嫌子、レスポンデント、オペラント、阻止の随伴性概念、を使って説明せよ」という問題の答えが、まったく分からない... いずれ、あのでかくて分厚い本を読まんといかんか。

 でもこの問題、少なくとも一部の岡大生は答えられる(と考えられている)わけだ。それを考えると、大学生って、いろんな勉強ができていいよなぁ、と思う。

1999/12/09(木)

■『「信じるこころ」の科学 −マインド・コントロールとビリーフ・システムの社会心理学』(西田公昭 1998 サイエンス社 セレクション社会心理学18 \1480)

 マインド・コントロールのメカニズムを、社会心理学的に解明した本。これによると破壊的カルトは、不一致の程度の低い(つまり受け入れやすい)しかも反論できないような内容の情報を記憶させることからはじめて、徐々に新しい信念(ビリーフ)を形成させ、ついには多くのビリーフ変容を導くプログラムなのだそうだ。

 そこには、実に様々なテクニックが駆使されているので列挙しておく。解決困難な問題をつきつける/賛美のシャワー/講師の権威性を高めた紹介をする/被伝道者間だけの会話をさせない集合的無知/強制を感じさせない/恐怖心・切迫感・無力感、などなど。

 もともともっているビリーフが新しいビリーフに切り替えられる過程が、部屋の模様替えのアナロジーで語られるのも分かりやすい。つまり、最初は新しい家具のコマーシャルからはじめ、それが部屋のすみに持ちこまれる。その時点では旧来のビリーフは特に否定されるわけではない。しかしそのうちに、新しいビリーフが役に立つことが示され、徐々に目立つ存在になり、中心部に移動してきて、システムとして機能し始めるのである。

 本書はマインド・コントロールの解明だけに留まっているわけではない。最終的には、ビリーフ・システム(構造化された複数のスキーマによる認知システム)という視点で「信じるこころ」にアプローチすることにより、より広範な社会現象を検討していくのに有効であること、また、従来の態度理論やスキーマ理論を統合し、動機や感情の影響も取り入れた認知システムのモデル構築が可能になる、ということが提案されている。

 信念は諸刃の剣であり、こころの支えにもなれば、私たちを苦しめることもある。だから、上手に信念に対処、あるいは仲良くつきあっていく必要があることを、カルトの事例も交えながら、また、これまでの心理学的な信念研究も広範にレビューしながら語られる。特に、「統合的なアプローチ」という点が興味深い一冊であった。

 その他、興味を引いた記述の抜き書き。

  • ストレス状況は、ボトム・アップの情報処理への動機づけを低下させることになり、トップ・ダウンの情報処理を優勢にする。(p.172)

  • (カルト信者の)多くの両親らは、「信仰の間違いにさえ気づいてくれたら」と脱会させることのみを考えがちのよう。しかし、苦難の道はその時点からもうしばらく続くと理解し、支援していく覚悟を持っていなければならない。(p.178)

  • ビリーフ・システムのモデルは、外側から、個人的現実性、社会的現実性、対象価値性、連結価値性の4層からなるボールのような球体。(p.203)

■さむいねむいいそがしい

さむい
さすがに昨日から冬ものを着用&エアコン使用。でも、いまだに半袖の人を見かけたりもする(昨日は二人)
ねむい
娘の夜泣き&ここ数日いつもより早出。週末はたくさん寝るぞ−。
いそがしい
調査&被験者探し&授業&会議&その他の仕事などなど。この1年で一番忙しい月になりそう。

1999/12/06(月)

■『言語を生み出す本能(下)』(スティーブン・ピンカー 1994/1995 NHKブックス \1280)

 10月に上巻を読んでから、すっかり間が空いてしまった。すぐに下巻を買えなかったのも、間が空いた一因だが、本書の最初の2章(なぜ複数の言語が存在するのか、母語を習得するプロセス)が「すごく」面白いわけではなかったことも、なかなか読み進まなかった一因かもしれない。しかし、そこから先は「どんどん」面白くなっていった。最終的には、読んでよかった、としみじみ思った。

 10章と11章(脳の中にある文法遺伝子/言語本能の進化)では、「定説」だと思っていた研究結果の解釈が覆されている。10章では、ブローカ野やウェルニッケ野が、以前考えられていたように、発語や言語理解に関する部位ではない、とある。著者は、ブローカ野は文法処理一般、ウェルニッケ野は心的辞書から単語を探し出して文を組み立て/理解する部位だと考えているが、実際これらがどんな役割を担っているかは、誰にも正確には分かっていない(p.118-123)。また、チンパンジーが言語を操ることができるという主張の大半は、すでに過去のものになっているそうだ(11章)。以前テレビで見て結構すごい、と思った「カンジ」も、シンボルを使う率はよくいって4%だという。そして、ヒト「だけ」が言語を持っているというナゾが、進化論に基づいて論理的に説明される。進化論が循環論である(適者生存の適者とは、進化の過程で生き延びたもの)という主張のあやまりも、11章で指摘されている(p.185-)。

 これは本書全体に言えることだが、主張が非常に論理的である。論理的ということは、ある現象がある理論で説明できる、というだけでなく、可能な限り考えられる対立仮説を論駁する必要がある。本書の著者は、その点を実によく配慮している。言語という対象の性質上、何でもかんでも実験のような方法で決着をつけるわけにはいかないので、そうせざるを得ない面もあるのだろうが。実験室実験のできない対象をいかに論理的に扱うか、という思考法を学ぶ上で、本書は非常にいい教材になるだろう。

 12章では、自分の母語を日常的に話している人をつかまえて「非文法的」とか「ルールを破っている」と言って非難する「言語指南役たち」のお節介を徹底的に斬っていく。彼らは、規範ルールが言語の本質とはなんの関係もないことに気づいていないのだ。

 最終章では、言語が文化に相対的なものではなく普遍的である、という本書の一貫した主張がまとめられ、言語に限らず人間の普遍的メカニズムを説明するモデルが提出される。このあたりの、相対主義者を論破している議論も興味深い。

 本書で述べられたような、言語に関して言えることの一部は、思考に関しても当てはまると言えそうである。以下は、最後の2章を中心に、そういう観点からの抜き書き。

  • (人間は格式ばった場面では間違いを犯しやすいが)気楽な場であれば、普通の話し手でも学歴の有無に関係なく、精緻な文法ルールに従って、力強く、すっきりと自己表現をすることができる。言語の使い方に関して、変える価値がある側面があるとすればそれは、書き言葉の文体だろう。(p.248-252)

  • 文法演算には普遍的構造があるのと同様に、それ以外の心的ソフトウェア(知覚、推論、行動)にも普遍的構造が存在する(総合的惹起モデル)。(p.264-265)

  • 民俗学の論文が詳細に検討された結果明らかになった、普遍人の特徴(一部)明瞭な話し方をよしとする/男女、白黒、善悪などの2分法/否定・かつ・同じなどの論理的関係の認識/感知できる痕跡から、現在は存在しないものや目に見えないものを推測/行動から意図を読み取ること/表情から楽しさや悲しさなどを読み取ること/社会的推論/超自然的なものを信じること/幸不幸を説明づけること/病気と死を説明づけること/夢と夢占い

  • 言語と知覚以外に存在すると著者が推測するモジュール(一部)力学的直観/生物学的直観/心理学的直観(他人の信条や欲求から、その人がどんな行動を取るかを予測)

■読書スピードの理由は?

 お天気の話のてらおさんから、「3日に一度更新という道田先生の読書ペース、執筆ペースはとても速いと思います。どうしたらそんなふうに読んで書けるのでしょう?」というメールを頂いたので、それについて考えてみた。

 理由の一つは、先月末に書いたように「中毒」だ。これは、多少ムラがありはするものの、昔からこうだった。そういえば、高校1年のときに、ふと本をたくさん読もうと思いたって、年間100冊読んだことがある。今回と同じペースだ。でもあの時は、本の選び方があまり適切ではなく(岩波文庫の100冊、見たいなところから選んだりしていた)、消化不良に終った感がある。こんな試みは、あれ以来だ。

 たくさん読める理由は、やはり基本的には、「道のり=時間×速さ」の公式であろう。つまり、時間を確保することと、速く読むことだ。時間を確保する方は、10分でも15分でも空いている時間があり、かつ読む気があるときは、とにかく読む(もちろん仕事や、家庭サービスや、自分の休養に差し支えない範囲で)。それで20ページ前後は読める。これを10回繰り返せば、200ページの本を1冊読めることになる。この細切れ時間を、1日に2〜4回確保する(週末はもうちょっと)。これが現在の読書ペースにつながっている。

 速さのほうは、やはり「自分の知識レベルに合っており」かつ「面白い本、読みたい本」を読むしかないだろう。そういうものは、どんどん入ってくるし、早く読み終えたくなる。ではどうやって面白い本を読むか。私は、いいやり方かどうかは分からないが、「面白くなかったらやめ」ている。これは結局、「水におぼれないためにはひざより上の水につからない」という極意と同じだ(落語か何かにあるお話)。そうやって、読みかけて放ってある本がたまっていく(幸いなことに、今はそれほど多くない)。ま、実際には、私の場合テーマ(思考関連)というものがあるわけで、それに関連している部分があれば、結構面白く読めるわけだが。

 あと、もう一つ実践的なテクニックを挙げておくと、「むずかし目の本とやさし目の本を同時平行して読む」というものがある。こうすると、一方でつまずいたり時間がかかっても、他方は読み進められるからだ。そういえばどこかで、「研究テーマは、結果が出る可能性が高いものと半々のものとを同時並行するのが、生産性につながる」みたいなことを読んだことがある。考え方はこれに近いかもしれない。といっても、研究に関しては、自分にはこんな器用なことはできそうにないけど。

1999/12/3(金)

■『うわさの謎』(川上善郎・佐藤達哉・松田美佐 1997 日本実業出版社 \1300)

 著者の一人から頂いていたのに、パラパラ見ただけで置いていた本。失礼ながら、パッと見た感じが、よくある一般書のようで、内容的にも、きっと知っているようなことが多いだろう、と勝手に推測していた。が、教養の授業で流言について触れることでもあるし、この機会に読んで見た。そうしたら、知らないことが多く、視点も新鮮で、結構面白かった。

 本書のテーマは、うわさ。うわさには、悪いイメージがつきまとっている。しかし、うわさ=ウソではない(真実かどうか確かめられていないだけ)。またうわさは、現代社会の中で、とても積極的な役割を果たしている、というのが本書の基本的な主張。

 扱われているうわさとしては、オウムのうわさ、チェーンレター、プルトップ伝説、エイズのうわさ、携帯電話の電磁波が危ないといううわさ、地震襲来流言、当たり屋チラシ、などなど、多岐に渡る。

 今日はあまり時間がないので、細かい点には触れられないが、これらの中で面白かったのは、エイズのうわさや携帯電話の有害性についてのうわさ。まず、携帯電話の電磁波が身体にどのような影響を持つかは、今だ定かではない。しかしこれまでにも、明治時代の電話の導入時など、新しい技術が普及する過程で、同様なうわさが流布しているようだ。つまり一種の「伝説」としてのうわさになっている、というのだ。
 といってもこういう話は、社会学的な分析なので、心理学の授業では使えそうにないけど。

 思考関連としては、次のような記述があった。

  • うわさの拡大を防ぐ上で批判能力が重要。(p.172)

  • (火星人が襲ってくるというラジオドラマがきっかけで起こったパニックの時に)内在的チェック(放送内容の非現実性に気づく)や外在的チェック(番組表をチェックしたり、ダイヤルをまわしたりして本物のニュースかどうかを確かめる)が可能であった人はパニックに陥らなかった(p.173)

■最近読書記録が

...長くなってきている。少なくとも初期(9月頃)の記録は、もっと簡潔だった。これは、更新日の夕方に30分程度かけて書く、という方針を決めていたからだ。それが、更新日がなんだか待ちきれなくなり、更新日前から、自宅で書くようになった。これ自体は、仕事の時間を取られなくていいのでいいのだが、おかげで、ついついダラダラと長くなってしまったようだ。時間的に余裕があるから、あれもこれも書いておこう、という風になりがちだし。

 先月末あたりからこの点を反省し、記録があまり長くならないように気をつけている。というのは、自分で読み返してみたときに、あまり長いのは読む気がしないことが分かったからだ。要領よくまとめる。これがここしばらくの課題になりそうだ。

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■このページについて(1999.12)
  • このページの第1の目的は、私が読んだ本の備忘録です。最近は、多少気をつけて、書評(つまり他人向け)的な性格も持たせるようにしています。
  • 記録するのは、私が最近読んだ本です。心理学の本が中心で、中でも思考関連のものに興味があります。しかしこれに限らず、私の興味にひっかかった雑多なものを扱う予定です。
  • 更新は、原則的に、3日に1回です。現在のところ、3で割り切れる日に更新するようにしています。
  • これ以外に、日々の記録や思ったことが入ることもあります。最近のお気に入りは、沖縄で出会ったウマイものです。


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