| 31日短評 28日『類似と思考』 24日『議論の技を学ぶ論法集』 20日『創造力をみがくヒント』 16日『日本語ウォッチング』 |
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| 30日万国津梁館見学 23日鏡映像の右と左(3) 22日さみっと一色 21日鏡映像の右と左(2) 19日鏡映像の右と左 18日ケーキバイキング |
■今月他に読んだ本は |
2000/07/31(月)
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■万国津梁館見学 |
2000/07/30(日)
3日間だけ一般開放,というので,今朝から車を飛ばして行ってきた。もちろん,いまだに頭の中がさみっと一色の妻の発案。 すっごい人出で,会場近辺の道路は大渋滞。会場の中も人,人,人。それぞれ各部屋に,ここでは何が行われた,みたいな張り紙がしてあって,博物館で大昔の出来事を見ているみたいだ。あんまり人が多いので,各首脳のサイン色紙,というのを見るのは断念したが,会議場だのレセプション棟だの休憩室だのを見ることができた。これで妻も満足したことでしょう。 コンベンションビューロー(今後万国津梁館を管理する)の人が説明していた。質問をしてみたところ,ここは300人までの会議が開催可能だそうだ。しかし会議場が1つしかない。もし分科会を開くような会議の場合は,すぐ下にホテルのコテージがあるので,そこを使うといいとのこと。なるほど。それならできそうだが,めちゃくちゃ高くつきそう。 せっかく北部に来たので,その後はグルメ行脚。名護と言えば沖縄そばのメッカだ。昼飯は「宮里そば」。ここもすごい人だった。それだけ人気店ということだ。そばは適度な歯ごたえ,スープはあっさりカツオだし。肉はよく味が染みていて,昆布も載っている(これはめずらしい)。そのバランスが絶妙で,非常にうまかった。 それから,本部町は伊豆味の山奥にあるの「やちむん喫茶」へ。ここは専門学校学生に教えてもらったところで,黒糖ぜんざい(氷ぜんざい)\350がおいしいと言う。確かに黒糖風味のするぜんざいはおいしかったが,氷は少なめ,ぜんざい(金時豆)は煮方がいまいちでやや固め。ちょっと不満だったので,もう一軒のぜんざいやさんを目指して,本部港まで足を伸ばすことにした。 たどり着いたのは「新垣ぜんざい店」。ここのぜんざいは200円ながら,氷は雪のよう(妻いわく,「きゅっきゅっと踏みしめる雪」だそうだ)。金時豆は甘くやわらかくとろりとしている。昔ながらのぜんざいを極めた正統派と言うかんじの店だ。まさか1日にぜんざい屋のはしごをするとは思わなかったが。せっかく北部まで来たんだからおいしいものが食べたい,という貧乏性夫婦の悲しい性(さが)か。
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■『類似と思考』(鈴木宏昭 1996 共立出版 認知科学モノグラフ \2400) |
2000/07/28(金)
〜類推から思考へ〜人の思考を考える上で,類推は重要である。なぜなら人は,形式論理学などの抽象的・内容独立的なルールを学べば論理的な判断ができるわけではなく,人間の思考は,領域固有の知識がかなり関与していることが明らかになっているからである。記憶,発達,文章理解と,広範な分野で知識や思考の領域固有性が明らかにされている。1980年代の認知科学は領域知識と思考との関係を探ってきた時代(p.10)とまで著者は述べている。では,新しい領域についての学習はどのように行われているか。ということで「類推」が重要になってくるわけである。本書では,1980年代中盤以降,膨大な数行われた類推研究の成果がまとめられ,さらに,それらの難点を克服するために,「準抽象化理論」が提案され,この理論を元に,類推だけに限らない思考一般の話が展開されている。 これまでの類推研究では,ベース領域からターゲット領域への写像,という2者間の関係で捉えられていた。準抽象化理論では,ベース←→抽象化←→ターゲットという3者関係で考える(p.86)。そこでなされる抽象化は「準抽象化」とよばれ,任意の抽象化ではなく,目標の達成に向けられ,意味的・機能的まとまりをもっている抽象化である。平たく言うと,人間の活動にとってどういう意味を持つか,という「観点」を持たせることによって,ベースとターゲットの同一性を保証する,という考え方らしい。このような抽象化を考えることによって,検索や変数の解釈の困難さ,という難点が解消される(らしい)。 「準抽象化」は,類推において利用されるだけではない。記憶構造中に存在している可能性や,物理の問題解決などにおいても準抽象化が自発的に用いられ,問題の理解や誤解に関与している可能性(p,136)が実験から示唆されている。さらに,準抽象化による説明を行うと転移がより生み出されることも示唆されている。特に転移に関しては,単に抽象化されたルールを獲得することが自動的に転移をもたらすわけではなく,実用的な意味(=観点)の設定された抽象化(=準抽象化)が転移を生み出すという。このあたりは興味深い。 このように,類推とは単に類推だけの話ではなく,記憶や問題解決,理解一般も含む思考全般にかかわっている可能性がある,という壮大な構想で締めくくられている。その当否はともかく,何かのヒントになりそうな発想だ。また,その意味では,本書のタイトルは,『類似と思考』よりも,『類推から思考へ』の方がいいのではないだろうか。
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■『議論の技を学ぶ論法集』(香西秀信 1996 明治図書 オピニオン叢書 \1650) |
2000/07/24(月)
〜当り障りのある語り口〜学校では,ディベートや討論がさかんになっているのに「議論に勝つための具体的な技」が教えられていない。そこで,基本的な論法についてのさまざまな情報を与えることを狙いとして書かれた本。議論指導のための補助資料(p.19という位置づけだ。 基本的な論法として本書では,次の5つが挙げられている。
このそれぞれについて,その意味や具体例(けっこう豊富)が提示されている。このような議論の分類は,修辞学的には一般的な分類なのだろうが,批判的思考的な発想による議論の分類とはかなり違って面白い。 ちょっと思ったのだが,類似と譬えと比較はどれも,何らかの類似点に着目して論を展開しているように見える。だから,これらはどれも,広い意味での「類似からの議論」と言っていいのではないだろうか。そうなると,議論の基本的な型は3つと考えていいのかな。あと,「因果関係の論証」については,日常議論という領域においては,不必要に「厳密」かつ「科学的」すぎて,実際の役に立たない(p.192)と著者は考えているが,この考えには反対だ。科学的な論証から我々は,日常の議論にも役に立つような基本的な考え方を学ぶことができると私は思う。 本書では,議論の型だけではなく,その議論に対する反論の仕方が挙げられている点はさすがである。ただし,この本を読めば「議論に勝てる」かというとそうではない。本書は議論の型と反撃法が分類されているだけなので,直接実戦に役立つわけではないと思う。前書きに書かれているとおり,あくまで「補助資料」なのだろう。 この著者の本ももう3冊目。当り障りがあるというか,ちょっととげのある物言いが随所に見られる点は相変わらずで,それがちょっとした快感であったりもする。たとえば,「議論指導において教科書教材はほとんど役に立たない。(中略)どれも「中立」かつ「上品」で,議論文としては余りにも「毒」のなさ過ぎるものばかりだからだ」(p.3)みたいなヤツだ。それが快感なのは,議論やレトリックに関する知識や論理展開が確かなものだからだのだが。
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■鏡映像の右と左(3)−いい体験でした |
2000/07/23(日)
この題材,思いもかけずいろいろと考えを広げたり深めたりすることができたので,私としては満足だ。あと1回分ぐらい書けるようなネタは頭の中にある。「鏡の左右が逆に見えるのは,人間が左右対称だからだ」という左右対称説についてだ(多分これは,当たらずと言えども遠からずだと思う)。が,それをきれいに整理して文章にするのが結構しんどくなったので,ヤメにした(途中までは書いてみたけど)。最後に,蛇足的な話を少し。 まず,はせぴぃ先生からは,いくつかの発展問題が出されている。「逆さメガネや天体望遠鏡の操作なんぞもそうだが、結局は慣れか」「ビデオカメラで自分をモニターに映して見ると、鏡以上に左右が逆転して見えるけれども、鏡とモニター映像との違いはどう説明すればよいのだろうか。」というものだ。 これをまじめに取り上げると,それだけで長文/長考になりそうなので,今回はやめておく。が,おそらくこれらは,どれも「動作」が関連しているという点で共通だろう。単に「鏡の中の左右を見る」という話は違うと思う。この問題を考えるためのキーワードは,S-R compatibility,すなわち,刺激と反応,知覚と運動の一致の問題ではないだろうか。 たとえば,ラジオ体操なんかで,前にいる人は,本当の動きと左右逆に動いた方が,フロアの人にとっては,やりやすい。入力刺激の左右(S)と反応方向の左右(R)が一致するからだ(観察者=動作者中心座標での話)。その逆で,ビデオで自分をモニターするときのように,自分の動きがそのまま180度回転して提示されると,刺激と反応がincompatibleになって,かえって邪魔になるのだろう。 そもそも鏡の左右の話題を初めて目にしたのは,中学生の頃だったと思うが,数学者の矢野健太郎氏のエッセイで見かけた。そこではもちろん数学的な説明がされていたのだが,わかったようなわからないような感じだった。それ以降も,ときどき本や雑誌で見かけたが,どれも今ひとつ,わかった感じがするものがなかった。 でも今回,自力でいろいろ考えた結果,だいぶ実感レベルでわかるような気がしてきた。考えたことの多くは,すでに(別の形で)述べられているものが多かったような気もするが,それを自分で,自分の実感に添う形で考えることができた,というのは大きい。これが,ちはるさんのいうWeb日記の効用なのかも。でも,何日も続けて日記書くのって,つかれるな〜。
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■さみっと一色 |
2000/07/22(土)
きのうの夜,気がついてみたら,サミット一色になっていた。うちのつまの頭の中が,だけど。 ことの起こりは数日前。夢の中でサミットを取材する記者になったという。どうやら,前の晩,新聞でサミット関連記事をじっくりじっくり読みすぎたようだ。 木曜日(海の日)は,嘉手納基地包囲行動−−人間の鎖−−が行われていた。運良く時間が合って,人間の鎖が見れたらラッキー,ぐらいに思って,昼ご飯を沖縄市に食べに行くことにした。ところが,食事をしながら妻が,しきりに時間を気にしている。「人間の鎖は,2時,2時半,3時から5分ずつあるの。3時のはウェーブもやるのよ。これなら間に合いそう」 え? なんでそんなに詳しいの?とびっくしりたが,妻のおかげで,3時の人間の鎖を見ることができた。確かに皆で手をつないで,ウェーブをしていた。なお,余談だが,嘉手納基地周囲約17.4キロあるが,その全部が道路に面しているわけではない。中には,人間の鎖を作るにはあまり適さないフェンスもあったのだろう。一部の人たちは,基地に隣接している本屋やホームセンターを包囲していた。あそこに立っていた人たちは,いったいどう感じていたんだろう。余談ついでに言うと,うちの近所(宜野湾市)の交差点には,静岡県警の機動隊バス(?)が止まっていて,警官が常駐している。サミット要員かと思ったら,今日もいた。彼らの役目は,何なのだろう。不思議だ。 話は戻してうちのつま。きのうは完全にサミット一色だった(娘が風邪を引いたので仕事にいけなかったのをいいことに・・・)。朝からサミット関連番組は全部チェック。番組がないときには新聞を熟読。その上,クリントン大統領が糸満の平和の礎(いしじ)で演説した後,ヘリコプターで名護に向かったと知るや,そのヘリを見るべく,ベランダで待機していたそうだ。おかげで,無事にヘリを見ることができたそうだ(ヤレヤレ)。余談だが,ヘリは琉大上空を通って名護方面に向かったという。クリントン氏は,外壁がきれいになった琉大を見てくれただろうか。 話は戻してうちのつま。夜は,サミット番組を見ながら,新聞で読んだ話や,昼間のテレビで仕入れた情報を,あれこれ解説してくれる。「10時からはニュースステーションで,御万人(うまんちゅ)カチャーシーよ」とわくわくしている。今朝は今朝で,「クリントンのスーツ,3着目よ」とチェックが細かい。うーん。つまがこんなにお祭り(?)好きだったとは。
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■鏡映像の右と左(2)−前回の説は間違っていた!? |
2000/07/21(金)
おとといの鏡映像の右と左には,多少の反応をいただいた。どうもありがとうございます。はせぴぃ先生は,日記読み日記_00719 で次のように書いてくださった。 【おおっ、ついに本命が登場されましたか。車の運転をしていてふと思ったのだが、車のバックミラーをチラと見るときに左右が逆転して感じられることは全くない。教習所時代の時はどうだったかなあ。逆さメガネや天体望遠鏡の操作なんぞもそうだが、結局は慣れか。】 車のバックミラーの件は,おととい書いた,観察者中心座標vs対象者中心座標という考え方で解釈できると思う。つまり,車のバックミラーにはたいていの場合,その対象を中心に左右を決定しなければいけないような対象者は存在しない。だから,わざわざ対象者中心座標を設定する必要がない。むしろドライバーにとって必要なのは,観察者(ドライバー)中心座標の中で,右または左に何があるかを把握すること。とすると,どの座標系を採用するのかは,どういう目的で鏡を見るかに依存すると言えそうである。 たとえば,自分の髪の毛をチェックする(長さとかハネ具合とか)のが目的のときは,どのように左右認識をするだろうか。少なくとも私の場合は,観察者中心座標で見ている。すなわち,観察者である自分から見て右側の髪の毛がハネていれば,「あ,右がハネてる」と(正しく)思う。けっして鏡の中の自分に向きを変えた(=対象者中心座標)上で「左がハネてる?」と誤解することはない。このように,同じ「自分の姿を鏡に映して左右を考える」という事態でも,単に鏡に映してみるときと,位置確認という目的をもって見るときでは,異なる見方(=座標設定)をしているようである。じゃあ「鏡では左右逆になっている」と思ってしまうときには,どういう目的,あるいはどういうつもりで見ているのか。という考察は,3段落下で。 あと,前回の考察でちょっと足りなかったと思う点の補足を。対象者中心座標は,鏡の中の任意の点に設定されるのではない。おそらく,対象者(鏡に映っているもの)が人間あるいは動物の場合に限られるのではないかと思う。特に人間,その中でも自分だ。その理由を前回は,「鏡の中に歩いていって回れ右して自分を重ね合わせるから」だと書いた。つまり,重ね合わせることの可能な対象に対してのみ,この操作が行われるのだ。 「重ね合わせることが可能な対象」というのはいいと思うのだが,しかし,この考察には不備があることに気がついた。それは,「自分を重ね合わせるのに,どうして回れ右をしなくちゃいけないのか」という点だ。それを前回は,「そのような動作が自然だから」と考えたが,動作が自然と言う点では,「鏡の中に歩いていってそのまま止まる」(上下,左右は一致,前後が不一致)という動作でもいいはずだ。でも,「鏡では前後が逆に映ってるね」と自然に思う人はあまり多くないような気がする。つまり,「動作の自然さ」という観点では,なぜ「回れ右を敢えてする」のかの説明になっていない。 この点から考えると,「自然な動作説」よりも,「鏡映人物を他人として見る」説の方がよさそうだ。つまり,「鏡の中の人物(たいていの場合は自分)を,他人を見るときのような見方で見ているから,左右が逆になって見える」という説だ。たとえば,私たちの目の前に,こちらを向いた人(鏡映像ではない。実在の人物)がいて,右手を挙げたとしよう。それを見て,「左手を挙げた」とは誰も思わない。当然だ。でも,そう認識するということは,対象者中心座標を設定していると言うことだ。この日常事態での見方を,鏡映人物にもナイーブに当てはめてしまうと,「鏡の中(の人)は左右が逆になる」という認識になる。 この考え方だと,「自然な動作」説の難点である「回れ右しなければならない理由」がはっきりする。私たちに正対している他人は,「こちらを向いて」立っているからだ。やれやこれで一件落着か。 ...あれ? そうすると,前回,カッコつけに最後に付け足した,「認識の原点が自分の身体にある」というもっともらしい説明が,逆に浮いてしまうなぁ。では,これをちょっと拡張(?)して,「認識の原点は,われわれの日常生活にある」とでもしておくか。 知覚などがその代表例だが,一つの場面に対して複数の解釈が可能な事態というのはよくある。そういうときでも,日常ありそうな事態を想定する(=日常なさそうな事態は考慮しない),という制約条件を入れることによって,解を一義的に決めることができる。われわれの知覚システムはそうやって,本来不良定義問題である逆光学(2次元の網膜像から3次元の外界を復元する)を可能にしている。逆に,日常ありそうもない事態を設定することによってわれわれの知覚システムをだまくらかすのが,錯視図形その他の錯覚現象だ。そういえば,現代哲学もそうだけど,やっぱり「生活世界」から出発しないとね。 #なんだか,単なる「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」の好例になってきたような気もするけど...
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■『創造力をみがくヒント』(伊藤進 1998 講談社現代新書 \660) |
2000/07/20(木)
〜今日はうみ(産み=創造性)の日(笑)〜創造的になるにはどうしたらいいかを書いた,さらっと読める一般書。本書によると創造的になるには,(1)創造性とは何かを認識し,(2)創造的になるための戦略を立て,(3)それを実際の生活の中で実践する(p.14)の3つが基本だと言う。 まず「創造性とは何か」についてだが,本書における創造性の定義は,新たな問題にぶつかったときに,自分なりに対処する力(p.12)である。斬新だ。失敗してもOKだし(結果主義ではなく行為主義),社会的に価値のないものでもOKだ(社会的創造性ではなく個人的創造性)。従来的な定義(新しくて価値のあるものを生み出すこと)とは,ある意味まったく逆である。価値がなくても,産み出さなくてもOKだというのだから。ちょっと面食らうが,こういうのもアリか。 創造的になるための「戦略」は,創造性のMRS理論(第6章)が提唱されている。本書のオリジナルだそうだ。M=Motivationは内発的動機づけ,R=Resourceは知識,S=Skillは問題解決が中心に触れられている。ここで大事なのは,MRSが分野別である点である。ある分野で創造的だからといって,他の分野でも創造的とは限らない。つまり,分野が違えば,必要なMRSは基本的に別のもの(p.101)だという。常識的な話のようにも聞こえるが,まったくそのとおりだと思う。おそらく批判的思考に関しても同じことがいえるだろう。 この戦略の話の中に,創造性のことはあんまり出てこない。むしろ問題解決的な話が多い。実際,Skillとしては,BransfordのIDEAL理論(問題の発見,定義,解の探索,実行,評価の5ステップ)(p.207)が出てくるし。また,資源を柔軟に活用するためのスキルとして挙げられているのは,批判的思考の戦略の話,と言っても違和感がないぐらいだ。視点・視野の転換/逆転発想/馬鹿なことを考える/失敗をおそれるな/人の話を聞く/外に広がる知能を/ユーモアをどうぞ(p.224-230)などなど。うーん批判的思考的だ。「批判」という視点は本書には出てこないけど。 全体的な印象としては,本書の話の進め方は,基本的には雑談的だ。内容の説得性の根拠も,どちらかというと論理性よりも情緒性を重視しているようで,中には首を傾げたくなる記述もあった。学術的な期待を抱いて読むとちょっとがっかりするかもしれない。私は,創造性の定義や戦略がわりと興味深かったので,そんなには悪くなかったけど。
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■鏡映像の右と左 |
2000/07/19(水)
もう旬を過ぎた感がある話題だが,私も少しだけ。大事だと思うポイントが,論じられていない/強調されていないように思うので。 私の理解では,この問題を考えるときは,(数学的に)鏡映像をどう作るか,という問題と,(人間が)鏡映像をどう理解するか,という問題を分けた方がいいと思う。そして,数学的な問題に関しては,皆さんが指摘されるとおり,z軸反転=面対称操作を行うと,鏡映像ができる。これはまったく問題ない。 しかし,(多くの)人間は,鏡映像をそのように理解してないのではないか。そうじゃなくて,ワタシが右手を挙げると,「鏡の中の人」は左手を挙げる,のような理解をしている。つまり,鏡の中の人の左右を考えるときには,鏡の中の人を基準にして理解している。もちろん自分のことを考えるときは,自分の左右が基準。つまり,見る対象に応じて座標系を変える,対象者中心座標だ。見る人(観察者)の左右は関係なく,対象が変わると座標が変わり,見られる人にとって右手がある方が右,左手がある方が左となる。そう考えないと,「鏡で左右が逆になる」という発想にはならない。ついでに言うと,対象者中心座標では,上下の基準は頭−足,前後の基準は腹−背中だ。 それに対して,数学的操作は観察者中心座標に基づいている。座標はそれ1つのみで固定されている。誰が対象だろうが,観察者からの右−左を考える。つまり,観察者から見て右にあるものは,対象者がどこにいてどちらを向いていようが,右は右だ。「鏡では上にあるものは上に、右にあるものは右に写っている」という発想は,観察者中心座標に基づく発想だ。 ちょっと話が難しくなってきたので,操作的な話をすると,鏡映像が左右逆になっていると感じる人は,おそらく,鏡の中に自分が歩いていって,鏡映像のところで「回れ右」をしたところを想像しているんじゃないかと思う。そのようにすると,右と左は逆になってしまう。 この動作は数学的には,左右と前後を入れ替える,2軸反転=線対称(垂直軸まわりの)だ。だから,本来1軸反転である鏡映像と重ね合わせると,1軸分ズレる。人間は3次元の対象に対して,2軸反転=回転操作(メリーゴーラウンドのような)をすることしかできない。1軸反転=裏返し人間(とは言わないか?)を作るのは,現実的に無理。だから,想像するのが難しい。トポロジーや数学に堪能な人は別だろうけど。 その1軸反転のやり方として自然なのは「鏡の中に入って回れ右」という動作だ。その動作を頭の中でシミュレーションしているからこそ,2軸反転と1軸反転のズレが「左右のズレ」として露呈するのだろう。 実際には,他の方法で鏡の中に入る(ところを想像する)こともできる。たとえば,鏡の中で「逆立ち」(2軸反転)をした場合,2軸が一致(右手−左手,腹−背中),1軸(頭−足=上下)だけが逆になる。鏡映像のところにまっすぐ進んでいって回れ右せずに止まれば(0軸反転の平行移動),やっぱり2軸(右手−左手,頭−足)が一致して,1軸(腹−背中)だけが反転する。でも,鏡の中の人のところに行く(=対象者中心座標を設定する)のに,逆立ちする人は(あんまり)いないよね。普通は自然な動作である,「回れ右」を使って鏡の中に入る。だから鏡映像は左右が反転して感じられるんだと思う。 この考え方は,認識の原点が自分の身体にあるという認知心理学/知覚協応研究/アフォーダンスなどの考え方とも合致するし,私自身の実感とも合う。悪くない考えだと思うのだがどうだろうか。 #続きあり。
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■ケーキバイキング |
2000/07/18(火)
先週末に,ふと思い立ってケーキバイキングに行った。結果は,試合に勝って勝負に負けたという感じ。元は取ったが食べすぎでちょっとキモチワルクなったのだ。夫婦そろって貧乏性なもんで... 気持ち悪くなりながら,もうしばらくはケーキは食わんぞ,と帰りの車の中で思った。 行ったのは,Jimmy'sというアメリカンっぽいスーパーの中にあるレストラン。このスーパーでは,惣菜から雑貨からお酒からパンやケーキや輸入菓子まで,いろんなものが売られている。そしてその奥には,ランチバイキングなどをやっているレストランがあるのだ。ちなみにこのスーパー内のケーキコーナーにあるパイはおいしいので,よく我が家では買っている。 こういうケーキバイキングに行くのは生まれてから3度目。ふつうはケーキバイキングと言うと,ランチバイキングなんかといっしょで,レストラン内に食べ物がいっぱい置いてあるコーナーがあって,そこにあるものを好きなだけ取ってくる,というシステムだ。ところがジミーのケーキバイキングは違っていた! レストラン内を見渡すと,ランチバイキングのコーナーはあるがケーキバイキングのコーナーはない。え? 今日はケーキバイキングやってないの? それとも,ランチバイキングの残りの,シケたデザートを食べろと言うの? と一瞬当惑した。すると,ウェイトレスさんが皿を持ってやってきて,驚くべきことを言った。「このお皿を持って,スーパー内のケーキコーナーでお好きなケーキをもらってきてください」 すなわち,ジミーのレストランにおけるケーキバイキングとは,スーパー内のケーキ屋さんで売っているケーキを,有償(1000円)&ドリンクつきで好きなだけ試食できるシステムだったのだ。スーパーといっても,ガラスケースの中に,手作りの立派なショートケーキがたくさんある。なかなかこってりしたケーキが多くておいしかった。 このシステムのいいところは,今度ケーキを買いに来たときに,どれがおいしくてどれがイマイチか,およそ検討がついた点だ。ブラマンジェ(\250)はけっこうおいしかったなぁ。それより,バイキングとしては,客に大きなメリットがある。それは,値札がついているので,元が取れたかどうかが簡単に分かるところだ。逆にそれにはまってしまって,食べすぎで気持ち悪くなったのだが。 敗因は,昼食との間隔が1時間と短かったこと。それに昼食は,ハンバーガーとフライドポテトとソフトクリーム(安かったので...)だった。消化のよくない油ものと血糖値を上げやすいデザートはやっぱりまずかった。次に行くときには,雑炊みたいな消化のいい昼食を早めに食べて,間を空けてからケーキバイキングに挑むのがいいと見た。ようし,今度こそは...って,あれ? もうしばらくはケーキは食わないって誓ったはずなのに...
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■『日本語ウォッチング』(井上史雄 1998 岩波新書 \660) |
2000/07/16(日)
〜生きたことばの合理性〜ことばが変わるプロセスについて取り扱った本。取り上げられているのは,国語審議会で問題視されている(らしい)ラ抜き言葉(見ラれる→見れる,など)から始まって,じゃん/ちった(←ちゃった)/うざったい/いいっしょ/…じゃないですか/鼻濁音/アクセントの平板化/半疑問イントネーションなど,多彩である。ワタシ的には,ラ抜き言葉は,自分では使わないけど「そんなにいじめなくてもいいジャン」と思う。鼻濁音は衰退して当然。でも,「…じゃないですか」の多用と半疑問イントネーションは,うざったいってゆーかー,感覚的に?イヤなのよね。 でも本書では,これらはみんな同等に扱われている。基本的な考えは,ことばはいつも変わるもの(p.i)で,その変化が千年単位の変化として論じられている。たとえば,日本語の動詞の活用形は,平安時代には9種類だった。それが現在は5段動詞,1段動詞,変格動詞の3種類に減っている。ラ抜き言葉も,この千年におよぶ簡略化の流れに位置づけることができる。つまり,ラ(正確には-aru)を抜くことによって,1段活用動詞をラ行5段動詞へ変身させようとしている,と見レルのだ。そもそも,ラ抜き言葉は最近出てきた表現ではない。すくなくとも昭和初期には記録されているという。小林多喜二の『蟹工船』ってあるじゃないですか。アレにもラ抜き言葉が出て来るんだって。 ここでおきていることは,経済的な方向への変化(単純化,明晰化,省エネ,活用体系の整備)(p.197)ということができる。つまり,現在の文法体系に添ってはいなくても,ある意味,合理的な変化なのである。このあたり,合理2性と合理1性の区別に対応するようで面白い。 また,文法的な考察だけではなく,豊富な調査データが使用されているところが本書の特徴。実証的でいいっしょ。ラ抜き言葉でいうと,明治時代,1950年代,1980年代生まれの人の地域別使用率が挙げられている。そこから推測すると,ラ抜き言葉は,百年程前にまず中部地方と中国地方という,近畿地方を取り囲む地域に生まれ,徐々に広がり,山梨県か神奈川県を経て東京に流入し,そこからあっという間に広がったようだ。 ここに,本書のもう1つのテーマ(たぶん)がある。それは,東京の言葉の変化が地方の変化(方言)に由来するという,言語変化の空間的な次元の話である。これを筆者は,言語変化の雨傘モデルとしてまとめている。つまり,傘のヘリにあたる地方で生じた言語変化が,時間をかけて中央の言葉に影響を与えていく(下からの変化)。それが中央に入ると,傘のてっぺんからヘリに向かって水が滴るように,急速に全体に普及する(上からの変化)。このように,地方と中央を対等に位置づけ,双方向性を考えたモデルである。 これって,「あるパラダイムのもとでの変則事態が増大しはじめ、抵抗を受けながらも最終的にパラダイム変換が起こる」という科学革命の構造に,ちょっと似ているような気がする。まあ,言語の場合は,「経済的な方向」という同一パラダイム上での変化なので,あくまでイメージ的な類似なんだけど。それにしても,素人向けのわかりやすい本ながら,知的興味をそそる,面白い本だったなぁ。おかげで,ついつい文章も長くなっちったけど。 #産經Webに書評あり。
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