読書と日々の記録2000.10上
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■読書記録: 12日『「考える」ための小論文』 8日『哲学・航海日誌』 4日『心理学と教育実践の間で』
■日々記録: 15日子育ての魔法 10日眠いけど読書 2日子育て

 

■子育ての魔法
2000/10/15(日)

 子育てにおいては,さまざまな魔法が生み出され,駆使される。

 うちの妻は,上の娘(2歳4ヶ月)のしゃっくりを,いつでもすぐに止めることができる。といっても,ぬるま湯を飲ませるだけなのだが。でもこれが本当に,魔法のように止まる。たまたま入ったレストランで教えてもらった「魔法」だ。

 上の娘が乳児の頃,泣いているのをピタリと止める魔法もあった。これは,背後からわきの下に手を入れて高く掲げる,というものだ。どこかのホームページでたまたま見つけたのだが,これも魔法のように泣き止むことが多かった。成功率は8割以上ではなかったかと思う。といってもこれは,首がすわっていないと使えないし,ある時期(多分1歳ぐらい)からは,ピタリと効かなくなったのだけれど。

 育児でこういう魔法がたくさん生み出されるのは,ひとつには,結果がはっきりしている(泣き止む,など)のと,発生頻度が多いので,試行錯誤が繰り返されやすい,ということがあると思う。それと,大人の常識とは違うやり方が多いので,それが魔法に感じられるのだろう。こういうことが楽しめるのも,この時期だけだ。

 で最近,妻が,下の娘(1ヶ月)をすやすや眠らせる魔法を編み出した。以前書いたように,下の娘はなかなか続けて寝ない。すぐにふにゃーとないて起きてしまう。特に昼間にこれをやられると,何もできない。妻はさぞ大変だと思う。ところが,うつ伏せで寝かせてみると,結構続けて寝てくれるようになった(足をちんまりと丸めさせるのがポイント,だそうだ)。おかげで妻は昼間,上の娘とゆっくり遊んであげたりして,優雅に過ごせるようになったという。よかったよかった。

 しかし何事にも副作用はあるものだ。昼間,下の娘がよく寝る分,夕方以降,私が帰ってから,なかなか寝ないのだ。先日書いたように,夜は娘を抱っこして本を読む貴重な時間だったのに,おなかの上でおとなしく寝ていてくれなくなった。おかげで私は,二宮金次郎のように立って抱きながら本を読んだり,それもできないときは,効かない魔法(現在開発中)をあれこれ駆使して,苦心惨憺,娘をなだめすかすことになる。ああ,数日前の極楽はどこへ行ったのやら...

日記猿人 です(説明)。

 

■『「考える」ための小論文』(西研・森下育彦 1999 ちくま新書 \660)
2000/10/12(木)
(ネムネムの毎日)
〜批判的作文のすすめ〜

 最近知ったのだが,critical writingという言葉がある。言葉を用いて,次のような事柄に関して,自分を表現することである:表現される事柄は,何が論題か,どのように支持できるか,どのように述べると他人に理解できるか,他の視点からどのような反論が可能か,自分の見解にはどのような限界があるか,などなど。訓練された作文は訓練された思考が必要であり,訓練された思考は,訓練された作文によって達成される(Paul, 1995)。

 本書では,タイトルにあるように「考えること」が重視されているcritical writingの本である。確かに小論文では,問題文をきちんと読み(critical reading),自分が論じる主題を探し出し,その意味を自分とのかかわりの中でじっくり考え(critical thinking),それを適切に表現する(critical writing)という要素が含まれている。著者らによると,論文入試で求められている思考力とは,「自発的に考えを掘り進めることによって,自分なりの物の見方をつくっていく能力」(p.17)である。そのために必要なのは,疑う力・広く生き生きした関心・自問自答の能力だという。あるいは,思考に必要なのは,しつこさ,粘り強さだ。しつこく「問い」をくりかえして考えること(p.126)というフレーズもある。まさに批判的思考である。そういう意味で,単なる作文技術の本と違って,おもしろかった。

 考えることについては,フッサールの「本質観取」本質直観ともいう)的なアプローチ(p.65)が説明されている。それはたとえば,「自由」が小論文のテーマなのであれば,「自分が自由を感じるとき,つまり,具体的体験を(いくつか)挙げてみて,そこから,自由とは何か,つまりそれらの体験の「本質」をうまく言葉にしてみる」というやり方である。これはもはや,単なる受験テクニックを超えて,哲学入門の一歩手前になっている。

 これとの関連で,私が以前悩んだだから何?という文章についても書かれていた。本書によると論文とは,具体的・現実的な世界を足がかりにして,抽象的な世界で,「自分なりの言葉」を成立させようとする営みであるという(p.121)。そのためには,自分の経験を十分にとらえ返して考えたり,その意味を説明する必要がある。しかしそれをせずに,抽象的な場所だけでぐるぐる回ってしまったり,具体的なエピソードを「おしゃべり」して終わってしまうと,「それで?」と聞きたくなるような,言いたいことがわからないものになる(p.123)。なるほど,具体と抽象の両方が必要なわけね。

 もうひとつ。『哲学・航海日誌』と似たようなことを言っている,と感じられる部分があった。野矢氏は,「私の見方と他人の見方のズレを私たちは他人の心として理解する」ということを指摘していた。本書でも課題文を読みながら,何かを感じる。(中略)その,共感,反発,違和感などなどに「自分」が存在している(p.101)という記述がある。これらをまとめると,小論文とは(そして批判的思考とは),自分と他者のズレを認識し,そこに他者の心を認識し,自分の独自性を発見すること,と言えるかも知れない。かな?

 

■眠いけど本が読める
2000/10/10(火)

 眠いけど本が読める。現在の私の,家での状況を一言で表すとこうなる。

 眠いのは,下の娘(0歳1ヶ月)のせい。夜中,何度も泣く。たいていはおっぱいなので,私が直接何かをするわけではないし,そのたびごとにきちんと覚醒しているわけではないのだが,朝起きてみると,どよーんと体が重たい。

 下の娘は夜中に泣くだけではない。すやすや眠るのは,午前とかごく限られた時間だけで,あとは,ダッコされていないと泣くことが多い。オムツがぬれたとかゲップがたまっているとかお腹がすいたとか,何かがあると必ず泣く。何もなくてもしょっちゅう泣く。夜,私たちが寝ようとするときに限ってなく。上の娘が乳児だった頃は,こんなことはなかった。今思えば,手のかからない赤ちゃんだったのね。

 私が夕方帰宅した後は,妻は家事に忙しいので,私がもっぱら下の娘を抱っこすることになる。はじめは,重いし何もできないし,何テ大変ナンダ,と思っていたが,下の娘は,だっこさえされていればおとなしいことに気がついた。一度体勢が決まってしまえば,ぐっすり眠り込んでしまうのだ。

 これはちゃーんす,と思って,ソファに寝転がって,お腹の上に下の娘を乗せた。この体勢なら,身体はそれほどきつくないし,その上,読書だけはできる。そんなわけで,ここ数日,本が読めて読めてウハウハである。特に私たちが就寝する0時前後,下の娘が寝つくまでの時間は,みんな寝ていて静かなので,最高の読書時間である。

 実は数日前までは,家事と育児で妻が大変なのに,私は何もできない(とくにおっぱい)ので,ちょっと後ろめたくて,読書時間を削ったり,日々の記録を更新するのをストップしていたのだ(読書記録は,読後すぐに書いているメモにちょっと加筆修正してしのいだ)。

 でも,ダッコつき読書なら,本を読んでいる罪悪感もない。おかげでここ数日,娘が泣くのが待ち遠しくなってしまった。てなわけで,最近の私は眠いけど本が読めるのである。

 昨日は,はじめて一家4人で外出した。生後1ヶ月では,もちろんまだ首もすわっていないが,ベビーシートにバスタオルを詰めたりして工夫すれば,案外安定することがわかった。行った先は,コンピュータ屋と食堂とサーティーワン。食堂は,沖縄市のセニョール・ターコというメキシカン料理屋。タコライスは量が少なめ,タコス(3ピースで500円)は皮がパリッとしておらず,イマイチだった。ルートビアは,A&Wのものと違って,なんだか野性味あふれる味。これだけは,ここでしか食べられない味だと思う。

 

■『哲学・航海日誌』(野矢茂樹 1999 春秋社 \2500)
2000/10/08(日)
〜アスペクト・他者・コミュニケーション〜

 哲学書はコワい。全然わけがわからなくて,途中で中断している本が何冊かある。本書は(久々に)何とか読み終えることができた。この本は,ある程度のまとまりがあるけれどもある程度独立に読める35の論考からなっている。そしてそれらは「他者」という一つの方向に向かっている(p.ii)。

 まずは「他人の痛みがわかるということはどういうことなのか」という問題から始まる。この時点では,「感覚・知覚から哲学できるんだなぁ」という感想。内容はまあまあ理解できた。次が「規範の他者」という話題で,ちょっと挫折しかけたが,アスペクト(〜として見ること)論を通して,「心とは何か」についての著者の意見が語られるに及んで,俄然面白くなった。

 著者によると心とは,人々の間の不一致を安定的に吸収しようとする仕掛け(p.174)に他ならないという。難しいし,うまく説明できないけど面白い。一応,私なりの理解を書くと,こうなる。知覚にはアスペクト的な側面がある。ひとつの物体にさまざまなアスペクトが開ける「多重性」,私とは違う他者の観点を有する「多相性」,アスペクトの意味が,行為の一歩ごとに対話者相互の場において作られる「不確定性」である(p.176-7)。

 このように知覚が多重・多相・不確定であるということは,私の見方と他人の見方には,常にズレが生じる可能性がある。そのようなズレが上の文章にある「不一致」であり,それを私たちは「他人の心として」理解する,と考えているわけである(と私は理解した)。逆にいうと,ズレがなければ他者の心も存在しない(というか,そのようにとらえる意味がない)。乳児の知覚世界がそうかもしれない。

 第3部は「行為の意味」論。そこでは,行為の意図が身体と環境の相互作用によって生まれることが指摘される。上の,アスペクトの多重性なども同じなのだが,環境とどのように相互作用するかは,人によって,身体によって,あるいは環境によって変わってくるわけで,このあたりの話は,ちょっとアフォーンダンスっぽくて,やっぱり面白い(詳しい議論の内容はうまく要約できないけど)。

 最後は「他者の言葉」という題のコミュニケーション論。言語的なコミュニケーションにおいて意味は,固定された規則や規約によって決定されているのではない。その場その場で意味が取り決められる場当たり的なものである。つまりコミュニケーションとは,意味理論を改定していく運動(p.334)と考えられる(とディヴィドソンは言っているらしい:根源的解釈モデル)。

 しかし実際には,どのような言葉も,どんなに不適切に見えても寛容の原則(principle of charity)に基づいて「解釈」されるわけではない。言語が道具である以上,道具には標準的使用があり(p.344),逆に「間違った日本語」も存在する。つまり規範性を持っている。そこで筆者はコミュニケーションを,上記のような「解釈モデル」を超えて,「ゲーム・モデル」として捉える(p.364)。私の言語ゲームと他者の言語ゲームには,アスペクトのズレが存在する。そこで,私が相手のゲームに参加しようとすると同時に,相手もまた自分と異なる私のゲームに参加しようとする。(中略)私とあなたは,そこにおいて同じゲームをもう一度プレイできるように,むしろ新たなゲームを共同制作するのである(p.375)。

 こうしてみてみると,アスペクトというのが,本書の議論を捉える上でのキーワードのようだ。また,この「解釈からゲームへ」という捉え方は,理解の主観性と客観性に対応するようで,何かのヒントになりそうだ。要再読。その前にウィトゲンシュタイン関連書を読まねば。

 

■『心理学と教育実践の間で』(佐伯胖・宮崎清孝・佐藤学・石黒広昭 1998 東大出版会 \2800)
2000/10/04(水)
〜従来の心理学の批判と乗り越え〜

 心理学と教育実践の関係に関する本であるが,単に「心理学と教育実践との間を埋めよう」という本ではない。これまでの心理学研究と教育実践の関わりを反省し,教育実践を「研究する」とことがそもそも可能なのかという根源的な問いから出発した書(p.3)。本書の詳しい要約は,序章(p.3-6)にあり,およその内容はそこで押さえられる。また本書では,4人の著者の論文だけでなく,それに対する5人のコメンテーターのコメント,著者たちの再コメントがあり,そこでなされている対話が興味深い。

 結局本書で中心的に論じられているのは,従来の心理学の批判と乗り越え(p.210)である。本書では実践に関わる心理学に対して,次のような批判が展開されている。活動より思考が,実践より理論が優位に立つという従来の立場(p.23)は適切なのか? 「発達段階」のような心理学的な概念は,事後的な説明のためのレトリックとして機能(p.35)しているのではないか? このような,外部から建前として持ち込まれた心理学理論が実践知をいわば覆ってしまった(p.62)のではないか? 科学は部分を捉えているだけで,現実の全体性を捉えていない(p.148)のではないか? 

 このような批判から出発して,「乗り越え」のために,異質な視点と発想を持った者(すなわち研究者と実践者),違った状況の中での実践や経験を持ってきた者どうしの対話的交流の中から新しい発想や創造性が生まれる(p.246)ことが提案される。そこで要請されているのは,対等な者どうしの対話を通した心理学自体の批判・反省ということのようだ。

 もっと詳しく言うと,実際に現場での省察と関係の編み直しに参加し,そこでの場をデザインしていく「アクション・リサーチ」(1章),実践を研究の対象としてみようとするモードと,実践の中に入り込み浸るモードを行ったり来たりすることで実践を「研究者の根底を揺さぶる場とする」こと(2章),リソース分析,関係論的見方,物語による問題の外在化などを通して多様な視点から読みかえる作業(3章)などが提案されている。

 あと,学習の転移についての佐伯氏の考察も興味深かった。認知心理学の分野で有名な4つの論文の実験結果を「実験室文化」のエスノグラフィーとして分析したレイヴによると,転移が実験室では実質的にほとんど生じていない(p.174)ことが明らかになっている。とはいえ,日常ではやはり転移という現象は生じている。その違いは何かというと,転移がおきるためには,その(既習の)手続きを使うということが当然のことになるなんらかの「必然性の文脈」が知覚されなければならない(p.184)ということのようだ。

 全体に難解な文章が多かったが,再読の必要がありそうだ。

 

■子育て
2000/10/02(月)

 下の娘が生まれた日から助っ人として来てくれた義母が,今日,帰っていった。約1ヶ月。おかげでたいへん助かった。

 妻が下の子の世話をしているあいだ,お義母さんは家事全般から,上の子の相手から,すべてを担ってくれた。下の子が泣いたときなど,泣き止ませたり寝かしつけたりするのは,私たち3人の中で一番上手だったのではないかと思う(妻の必殺技のおっぱい攻撃を除くと)。おかげで私は,心置きなく仕事をすることができた。休日出勤も含めて。

 でもそれも昨日で終わり。今日からは,妻と私ですべてをやらねばならない。いきおい,私は睡眠時間も読書時間も短くなり,また,いつもより少しは早めに仕事から帰ることになるだろうから,仕事時間も実質短くなるはずだ。しばらくは,そうするしかない。これはしょうがないことだ。

 妻が出産したとき,「幸か不幸か,うちの妻は物忘れがいい」と書いたが,それは私も同じだったことに気がついた。上の子が0〜2ヶ月ぐらいの間は,夜泣きのせいで夜はあまり寝られなかったし,昼間も,始終ダッコしている必要があった。そのことを,だんだん思い出してきた。そういう記憶は,なくなっていたわけではないが,過小評価されてしまいこまれていたようだ。

 知り合いにも,「こういう時期は今しかないのだから,この時期にしかできないことをちゃんとしてあげないと」と言われた。そのとおりだと思う。まずは,下の子を抱いたまま本が読めるようになる練習からはじめるか。

 



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