読書と日々の記録2000.08下
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■読書記録: 31日短評8冊 28日『勉強法が変わる本』 24日『大学評価とその将来』 20日『コックリさんを楽しむ本』 16日『「社会調査」のウソ』
■日々記録: 30日だから何?という日記 26日たべあるき 21日沖縄全島エイサー祭り 18日追記いろいろ 

 

■ほかに読んだ本
2000/08/31(木)

 以下の8冊。今月全体で言うと,おもしろかった本は,『勉強法が変わる本』(市川伸一),『「社会調査」のウソ』(谷岡一郎),『推定有罪−あいつは……クロ−』(磯貝陽悟),『発達心理学とフェミニズム』(柏木惠子・高橋惠子編)あたりか。4冊もあるなんて当たり月かも。

『琉球歴史の謎とロマン その2 人物ものがたり』(亀島 靖 2000 環境芸術研究所 \933)

 琉球史の著名人20人が取り上げられた,歴史入門書。『その1』と違い,あまりロマン的な壮大な仮説は見られず,手短な人物紹介になっている(一人約10ページ)。紹介の中で,各人物を日本史の著名人になぞらえているのが,わかりやすいというかおもしろい。たとえば,初めて琉球を統一した尚巴志は織田信長タイプの天才&パイオニア(p.11),戦国時代の豪雄である護佐丸は加藤清正(p.35),第2尚家王統を創設した尚円王(金丸)は豊臣秀吉(p.65),琉球王朝の黄金時代を作った第2尚家3代目の尚真王は徳川家光(p.93),という具合である。これを読んだあとで,もうちょっとちゃんとした歴史の本を読むと,登場人物のイメージが作りやすくていいかも。

『脳のワナ−きっとあなたもだまされる−』(鈴木光太郎(監修) 2000 扶桑社 \1238)

 思いがけず著者さまからいただいた本。著者の別の本『錯覚のワンダーランド』を何年かの間,知覚心理学の教科書として採用していたからだそうだ。著者の手紙によると,本書はそのお子様バージョンだという。全部で3部構成。第1部は平面編。さまざまな錯視図形が紹介され,一口解説がある。カラーなのでなかなかいい。第2部は工作編。付録に小冊子がついており,それを使いながら、自分で錯視体験ができるようになっている。取り上げられているのはベンハムのコマ,ネッカーの立方体,運動残効など。第3部は解説編。視覚システムの5つの特性を中心に,脳と目がどのようにワナ(=錯覚)に陥るかが説明される。解説部分は,レベル的には高校生以上ではないかと思うが,子どもに体験させながら,親がここを読んで,それぞれが楽しむことも可能かも。前書きの最後には次のように書かれている。さて,本のページをめくると,そこから手品がはじまります。種もしかけもある手品です。種やしかけがどこにあるかというと,そう,それは,みなさんの目と脳の中にあるのです。 うまいね。

『43人が語る「心理学と社会」−21世紀の扉をひらく 第1巻 知覚・認知・感情』(佐藤隆夫(編) 1999 ブレーン出版 \1900)

 研究者に焦点を当てた,心理学の紹介書。以下はおもしろかった記述の抜粋。 心とは行動の原因として考え出されたフィクションである」(p.66: 坂上氏の言う行動分析学の大きな特徴)/ミッション(p.101: 長谷川氏が1995年にアメリカで人間行動進化学会に出席して以来,日本で総説を書き,ワークショップやシンポジウムを開催して仲間の輪を広げようとした行動を指して)/理解のプロセスは,「分かる」−「分からない」−「分かる」の繰り返しから成り立っている(p.161: 三宅氏。人がどうやったら今以上に賢くなれるかの研究)。

『韓国は一個の哲学である−<理>と<気>の社会システム』(小倉紀蔵 1998 講談社現代新書 \660)

 実に変わった本。1ページ1テーマで骨格だけが述べられ,肉づけをするための引用や説明はほとんどない。おかげで,少なくとも韓国についての知識も体験もない私にとっては,非常に理解の難しい本であった。内容は,<理>と<気>の概念に基づいて韓国を意味読み解くこと。<理の世界>は気むずかしく,頑固できちょうめんで厳格な<ゆるさない>世界であるのに対し,<気の世界>は鷹揚で心が広く,いい加減でルーズで人情深い,<ゆるす世界>(p.54)。この両面で韓国の社会歴史や考え方を読み解くことができるし,また,韓国人は体のどこかに<理気のスイッチ>をもっており,機敏に切り替えていると言う(p.55)。ただ,理気は単なるデュアリズムではなく,分離しつつくっついている「相離れぬ」関係にある(p.70-71)らしいが,その辺はよくわからなかった。ま,私自身の韓国の知識・体験が変わってくるとまた意味も見えてくるのかもしれないが。

『心理学マニュアル 面接法』(保坂 亨・中澤 潤・大野木 2000 北大路書房 \1500)

 面接法を用いた卒業論文が書けるよう,方法論を中心に具体的に解説された入門書。前半が,カウンセリングなどの相談面接の概観と実習,後半が,調査面接の概観と実習となっている。調査面接の一つとして,グループ・インタビューが紹介されており,興味深い。これは,6〜12名ほどのグループで,質問やディスカッションを1〜2時間程度行うことによって情報収集する面接手法の一つ(p.147)だそうである。イメージ的には,日曜朝にテレビでやっている政治家たちの集団討論みたいなやつか。一度にそれなりの数の被調査者が相手にできること,他者の発言に刺激されて多角的な意見が出ること,幅広い意見を収集することができる,などの利点があるようだ。本書でも例として挙がっているが,大学生を対象に,「大学の授業をどう評価するか」なんてテーマでグループ・インタビューしてみると面白いかも。機会があれば一度やってみたい。

『わかりやすい統計学』(松原望 1996 丸善 \1800)

 『実践としての統計学』に紹介されていた本。統計学の最も重要な部分を,わかりやすく,面白く,ためになるという3ヶ条のモットーにしたがって書いた本。...と序文には書いてあるが,少なくとも私に関して言えば,期待したほどではなかった。確かにある程度はわかりやすくはあるけど。やっぱり統計の本って,読む人のレベルや理解力によって,どんな本が適切かがかなり変わってくると思う。あと,ものに流されない,これが最も重要な統計学の態度である(p.iv)という記述は納得。

『ローン・レンジャーとトント天国で殴り合う』(シャーマン・アレクシー 東京創元社 \1700)

 インディアン小説短編集。うーん,私にとっては,あんまり得意なタイプの小説ではなかった学生の感想文では面白そうだったんだけど。カバー袖の紹介文を抜粋しておくと,現代を生き抜くインディアンの,等身大の姿をさまざまな形で写し出す。若さと奔放な想像力で自由自在に時空を超える,アレクシー・マジック22篇。 多分,この「奔放な想像力で自由自在に時空を超える」部分にうまく入っていけるかどうかが,好みの分かれ目になるんじゃないかな。

『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』(日垣隆 1999 北大路書房 \1800)

 かつて日垣氏が岩波書店から出して絶版になった『<ルポ>高校って何だ』(1992)と『<検証>大学の冒険』(1994)を合本にして,序章として不登校中学生のインタビューを付け加えて出された本。つまり本2冊分+αの本だ。高校の方では,神戸「校門圧死」事件,農業高校,朝鮮学校などがルポされている。大学の方は,改革のジレンマ,おもしろい授業とは,北の街,南の島(日本最北端と最南端の大学)などについて。こちらでは,ルポだけでなく,豊富な参考文献を使って大学が<検証>される。あとがきによると合本のメッセージは「背伸びをしに学校に行こう」だという。
 でも正直言って,私にはそのメッセージが今ひとつよく伝わってこなかったし,何よりも,タイトルにあるように「学校へ行くとはどういうことなのか」に対する著者の答えも,答えの方向性も読み取れなかった。「高校と大学がこれからどこへ向かおうとしているのか」(p.27)ということであれば,多少は分からないでもないけれども。

日記猿人 です(説明)。

 

■だから何?という日記
2000/08/30(水)

 ようやく8月が終わる。例年だと9月1日から授業だが,今年から9月末まで夏休みなので,まだまだ折り返し地点だ。

 今月は,はじめて「読書」と「日々」の交互更新ができた。これでようやく看板(読書と日々の記録)に偽りなしだ。5月に読書記録の更新頻度を下げてから,交互更新のスタイルにしようと思っていたのに,7月までの3ヶ月間はできなかった。数えてみたら10回以上も「日々」が抜けている。

 日記ネタがなかったわけではない。娘の誕生日にイラブー(ウミヘビ)汁を食べに行ったり,りんけんバンドのライブに行ったり,サミット時にブレア首相の車とすれ違ったりした。そういう事じゃなくても,日常のちょっとした出来事や,ふと思ったことなども書いていいはずだ。でも書いていない。というか書けなかった。

 書けなかったのは,頭の中でストーリーを組み立てても,「だから何?」と思ってしまうからだ。事実は書ける。ちょっと思ったことも書ける。でもそれだけ。何が足りないのかわからない。多分,どのように着地していいのかが分からないのだろう。ともかく,最初の読者である自分自身が「だから何?」と思ってしまっては,書こうにも書けない。それで交互更新できなかった。

 今月は授業もなく,時間的精神的に余裕があったせいか,一応そういう状況にはならずにすんだ。前々回までは。でも前回は書きながら,ちょっと「だから何?」という気分になった。でも,せっかくここまで交互更新できたことだし,とりあえず書いてみることにした。書き終わって,やっぱり「だから何?」と思った。そんなときでも,いつものように読みに来て,投票ボタンを押してくれる人は同じくらいいる。読者の皆さんごめんなさい,と内心思った。別にそんなこと思う必要ないのかもしれないけど。

 この「だから何?」問題は,ちはるさんが7月15日の日記で取り上げている。そこで言われていることは,易しすぎるのでもなく、難しすぎるのでもなく、自分がほんの少し努力しなければできないような課題を設定し,それができなくてもともかく毎日書き続けるということだ(と思う)。とりあえず,しばらくはそれを目指して,文章&思考の修行だと思って,試行錯誤してみるつもりだ(私の場合は隔日更新,日々の記録だけだと4日に一回だが)。具体的にどういう課題を設定してどのようなつもりでどのように書いていったらいいかはまだ不明なのだけど。

 

■『勉強法が変わる本−心理学からのアドバイス−』(市川伸一 2000 岩波ジュニア新書 \700)
2000/08/28(月)
〜教育に生きる心理学〜

 心理学の考え方を紹介しながら,勉強法や学習観について考え直してみようという,高校生向けの本。主に英語,数学,小論文が取り上げられている。「おわりに」に書かれている学校の勉強にしろ,受験勉強にしろ,やり方と生かし方しだいで,プラスにもマイナスにもなる(p.194)という言葉は,高校生におくるにはいい言葉だ。もちろんこれは大学生にも当てはまるだろう。

 学習の根本にある学習観(学習のしくみややり方についての考え方)としては,勉強がはかどらない生徒たちは,結果主義,暗記主義,物量主義を採用していることが多い。しかし著者は,「丸暗記より理解へ」「結果より問題を解く過程へ」「勉強量より身についた内容へ」(p.29)という学習観を提案する。ふむふむ。おそらく前者の学習観は,「教師に押しつけがましさを感じつつも反論しない」認識論8月10日の日記参照)に通ずるものがあるのではないだろうか。

 あと,学習には日常モードと学問モードがある(p.69)という指摘もナカナカ。日常モードの学習とは,日常生活の中で私たちが概念を覚えるときのように,経験の中で具体例を通して意味を知るが,定義を説明せよと言われてもうまく言えないような学習。日常的にはこれで十分なのだが,あいまいさが残る。それに対して学問モードの学習とは,教科書にあるように,きちんと定義からはじめる学習のこと。こちらはあいまいさはないが,非常にわかりにくいという欠点がある。わかりやすい説明のためには,定義を具体例とセットにするなど,この両方が必要(p.106)。

 また,習ったはずなのにわからない,説明できない場合は,学習が日常モードでとどまっている可能性が高い。ついつい「これでうまくできてるんだから,めんどくさい理屈はいいよ」と思ってしまうときも同じだ。そのようなときは,定義と具体例に注意しながら教科書を改めて読み,さらに自分で説明できるかどうか試してみる(p.74)と良いという。提案が具体的でいいね。ここから考えたことだが,おそらく思考に関しても,日常モードと学問モードがあるに違いない。

 本書の心理学的な側面としては,記憶,理解(スキーマ),問題解決などが説明されており,教育心理学の授業のネタ本として使えそう。もちろん高校生にもお勧め。勉強法を見直すことができるのと同時に,心理学についても知ることができるから。ああ,高校生のときにこんな本があったら,と思った。

 

■たべあるき
2000/08/26(土)

 今週,研究室前の廊下のペンキ塗りが始まった。壁以外をすべてビニールで覆った上での作業だ。何でもかんでも覆う芸術があったと思うが,そんな感じだ(よくは知らないけど)。

 それはいいのだが,シンナー臭いのと,ペンキ吹き付け機械の音がうるさいので,仕事にならない。それで今週は,在宅勤務を中心にすることにした(1日1回は研究室に行ったけど)。

 先週,エイサーが終わったとき,妻が「うちの夏休みはもう終わったのね...」なんて言っていたので,家族サービスも兼ねて,何度か,昼食を妻子と外に食べに行ったりした。

 水曜日は「首里そば」。ここは,12時ごろ行くと,外で人が並んでいたりするので,早めに行くことにした。11時半にはもう人が並んでいた。うちは2番手だった。そばは大変おいしかった。伝説のそば屋,さくら屋直伝のことだけはある。でも,娘(2歳2ヶ月)がなかなか食べ終わらないし,入り口には人は待っているしで,ちょっとあせった。

 金曜日は,近所の焼肉食べ放題の店に。以前ここでバイトしている学生がいて,「あそこの肉はあんまりよくない」みたいなことを言っていたので,行こうかどうしようかと思っていたのだが,行ってみたらそれほど悪くなかった。ま,私たちは,食べるのは好きだけどそれほど味にうるさい方ではないので,ちょうどいいのかもしれない。デザートは,ソフトクリームやフローズンソーダがあって,満足した。

 今日は,那覇(寄宮)で手打ちそばを食べた後,糸満(うちから約25km)にぜんざいを食べに。ここは,白熊というでっかいカキ氷(鹿児島名産?)があって,妻が沖縄のおいしいぜんざい屋第2位にランキングしている店だ。遠くてめったに行けないが,もう8月も終わるので意を決して行って来た。途中結構車は進まないし,車の中にいても陽射しは暑いしで,けっこうつらかったが,9ヶ月ぶりに食べられて満足した。

 これで道田家の8月は終わりだぞ。 > つま

 

■『大学評価とその将来』(大学の研究教育を考える会 1999 丸善 \1500)
2000/08/24(木)
〜評価とは継続する対話である〜

 大学評価に関して,できるだけ新しい本を読んでみよう、と思って探した本。内容は,1999年に国連大学で行われた国際シンポジウム「大学のアカウンタビリティと社会」という講演が元になっており,イギリスやフランスにおける大学評価の実態が紹介されている。

 イギリスでは1980年代半ばより,ピアレビューによる研究評価が行われており,すべての大学で研究活動が改善され,質が高くなってきたと言う(p.130)。評価は4〜5年ごとに学部・学科単位で行われる。大学は「積極的に研究している研究者(RAS)」の一覧表(人数割合が6段階で評価される: p.123)と重要な論文4つ,契約研究による収入,大学院生の数,大学の戦略的研究などを提出し,7段階で評価される(p.92-3)。最高位の5*は「当該専門分野の多くの領域において世界的に卓越した水準にあり,残領域においても英国内で卓越した水準に達している」である。上位5段階にのみ予算の配分がある。ちなみに,予算配分のない評点2は「当該専門分野の半数程度の領域において英国内で卓越した水準にある」だそうだ。ナカナカきびしい。

 イギリスでの教育評価は,自己評価を基本として,外部評価者による視察(通常3日半程度)が行われ,結果が公表されている。視察チーム(高等教育の研究者,専門職能団体の代表,非専門家より構成)は,授業・実習・個別指導を参観し,添削された宿題,答案用紙,実習・研究計画をサンプルとして集め,教職員と協議し,卒業生や雇用主から意見徴収を行う(p.183)。教育評価は研究評価と違って,単純に一律には行かないという問題点があるが,しかし,教育が個人ではなく学部や学科,大学全体の責任として捉えられ,よりシステマティックな取り組みがなされるようになり,また,成果が着実に蓄積されつつあるという。

 各大学は,これらの評価以外にも教育の質を高める措置をとっている。たとえばノッチンガム大学では,「新任講師の研修制度」を持っているほか,教育の質の高い先生を報奨する制度がある。これは,学生による推薦を受け,研究教育業績の一覧表を提出させて審査し,適当と認められたものは報奨される制度である(賞状が与えられるらしい)(p.166)。

 上に挙げた2つの評価(研究・教育)はいずれも,「組織」に対する「ピアレビュー」である。これから考えると評価は,対象(組織・個人)×機能(研究・教育)×形態(自己評価・ピアレビュー)というマトリクスが考えられる(p.45を参照して道田が考えた)。この視点で考えると,どのような評価がありうるのか,足りないのかを考える手がかりになるかもしれない。たとえば,7月14日に書いた「相互参観」は,「ピア」による「個人」の「教育」評価だ。研究で言うとこれはちょうど通常の学会誌のような,「ピア」による「個人」の「研究」評価に対応している。ということは授業の相互参観も,全員に強制するのではなく,評価を受けたいと挙手したものだけを評価すればいいのではないか(論文を投稿するみたいに)。そしてその行為は,教育業績としてカウントされる仕組みを作ったらどうだろう。

 また研究の中に「紀要論文」という,ピアレビューを経ない成果の公表形態がある。それに対応したような,個人の教育活動の自己評価もありうるだろう。この場合は,自分で自発的に教育成果を,ポートフォリオみたいな形で公表するわけである。この場合,明確な評価や改善には直結しにくいが,公表されて皆の目にとまる可能性があるというだけでも,(紀要論文と同程度には)意味がある。もちろんこれら以外にも,イギリスがやっているような,組織対象の評価も必要だが。

 あと,フランスにおける大学評価の冊子か何かに,評価とは継続する対話である(p.299)という言葉が載っているらしい。これは,一律の基準に基づいて定量化するのではなく,全評価プロセスを通して,評価側と被評価側との意見交換が頻繁に繰り返されることを指している。特に教育評価は,評点化すること自体が目的なのではなく,そのような対話を通して,教育改善を行うことが目的であるはずである。そのことを的確にあらわした,いい言葉だと思った。

 

■沖縄全島エイサー祭り
2000/08/21(月)

 予定通り,日曜日に行って来た。次に行くときのための覚え書きを兼ねてその一部始終を。

 新聞によると,当日昼12時より,スタンド席の入場整理券(5000人分)を配布するという。私は別にスタンド席じゃなくてもいいかと思ったが,妻が異様に張り切っており,娘と二人で取りに行った。昼前に着いて無事ゲット。その間に私は,英気を養っていた(すなわち昼寝)。

 会場(沖縄市コザ運動公園陸上競技場)は暑いだろう,ということで,妻は長袖を着たり,クーラーボックスにジュースとおしぼりを入れたりして準備万端整えて,4時過ぎに我が家を出発。本当は3時から始まっているのだが,あんまり早く行くと暑いに違いないと思って,ちょっと遅く出発したのだ。途中,腹ごしらえと暑さ対策(?)を兼ねて,北中城のぜんざい屋(中部一ウマい)で,黒糖ぜんざいだのコーヒーぜんざいだのを食す。中之町の駐車場に車をとめて,5時半前に会場に到着した。

 スタンド席は,西日があたらない向きにあって,完全な日陰。想像と違って涼しくて快適だった。はじめは座るところがなくて通路に座っていたのだが,前の方にあいているところを見つけて,前から5列目ぐらいに座ることができた。やっぱりエイサーは,近くで見た方が迫力が断然違うので,次回はもっと早く来た方がいいかも。場所はやっぱりスタンド席で正解だった。本当はもっと近い場所もあるのだが,日差しが暑いだろうし,あそこを取るのはそうとう早くから来なければいけないはずだ。スタンド席も真中より後ろだと,小さくしか見えなくてあまりよくないので,がんばって前の方に行かなければいけない。あと,5時間近く座りっぱなしなので,クッションがあった方がよかった。それから,飲み物よりは食べ物があった方がよかったかもしれない。なんせ長いからね。

 見たのは,嘉手納町千原エイサー保存会から8団体。印象に残った団体を書いておく。「琉球國祭り太鼓」は,全国10支部から総勢250人が参加したのだそうだ。壮観。演技は,一般受け(本土受け)しそうな感じ。逆にいえば,エイサーとしては邪道かも。エイサー+空手+マーチングといった感じか。「沖縄市久保田青年会」は相変わらずよかったねぇ。「勝連町平敷屋青年会(西)」は異色。「華美にして奇異」(8/18の日記参照)とは反対の,白黒のモノトーンの衣装。大太鼓や締太鼓はなく,パーランクー(締太鼓より小さい,片面のみの太鼓)のみの簡素さ。右足を高く挙げ,手首を返してパーランクーを叩く,独特の動き。禁欲の美という感じだった。うーんおもしろい。

 「具志川市赤野青年会」は,チョンダラー(京太郎。道化回しみたいな役)がおらず,整然とした隊列と動きが印象的だった。トリは「沖縄市園田青年会」。道じゅねー(8月15日)の時とは違い,会場を広く使って大きな踊り。改めて感動した。最後の最後は,参加者観客入り乱れての大カチャーシー大会になったあと,花火がすぐ向かいの野球場から打ち上げられた(約30分間)。娘(2歳2ヶ月)は,花火を見るのは初めてだった。途中,コワいと言って妻に抱きついていたが,すぐに慣れて,じっと見ていた。

 帰路途中,A&W(ファーストフード)で軽く晩飯を食べて,うちにたどり着いたのが12時前。すっかり堪能させていただきました(疲れも大きかったが)。娘は会場では,近くにいたおばあちゃんにダッコされたり,アメや焼き鳥をもらったり,モテモテだった。娘の方は人馴れしてなくて,硬い表情だったのがちょっと残念。しょうがないか。あと,近くにいた3歳ぐらいの子と遊んだり,エイサーにあわせて踊ったり,結構楽しそうだった。もちろん一番楽しんだのは妻だけど。また来るぞー。

 #琉球新報に記事あり。20日だけでのべ16万人,土日合計でのべ24万人が見に来たと言う。どうやって数えたんだろう。

 

■『コックリさんを楽しむ本』(荒木葉子・塩野広次(著)・板倉聖宣(監) 1986/1988 国土社 \500)
2000/08/20(日)
〜非常にいい試みなのだけれども〜

 『不思議現象 子どもの心と教育』の中でも紹介されていた,コックリさんの正体を探る仮説実験授業の本。小学生でも読めるように書かれており,この本を読むことで,その授業が追体験できる。小学生の持つコックリさんへの興味と,探究心を上手にかみ合わせようとした試みだと思う。監修者の板倉氏はあとがきで,「コックリさん(霊の力)はおそろしい」といって弾圧すると,かえって「コックリさんは,本当にふしぎな霊の力によるものだ」という考えを強めてしまいます。それでは,「子どもたちに,何でも科学的に考える能力をあたえる」という科学教育の大きな目標に反することになります。(p.143)と言う。

 それはもう,大変ごもっともだと思う。特に前半部分(弾圧はよくない)は。しかし,後半部分で言っていること(科学的に考える能力)に,この本が見合っているかというと,ちょっと疑問だ。この本で紹介されている荒木先生の授業は,大きく言うと次の3つからなる。(1)コックリさんは,かくした文字を当てられるか(p.60),(2)意志とは関係なく,しぜんに体が動くことがあるか(p.64),(3)コックリさんの正体は何か(p.74)。(1)はグループを作って子供たちに実験させ,全グループ(8グループか?)ともハズれる。これは問題ない。次の(2)は,人間の体が本人の意志とは関係なくしぜんに動くという例を,子どもたちに挙げさせている。また,板倉氏の著書(『科学的とはどういうことか』)に出てくるダウジング(L字型の棒で水道管が埋まっている位置を当てること)の話を,先生が生徒に読んで聞かせている。最後の(3)も,この板倉氏の本を読むことで行われている。

 つまり,実際に実験されたのは(1)だけなのだ。子どもたちが「無意識に行った行動」を,自分の経験から思い起こしたとしても,コックリさんがそれと同じ原理だということは,何も保証されない。強いて言えば板倉氏→先生のお話という「権威」に基づく論証しかされていない。板倉氏の本では,ダウジングについて,次のように書かれている。(水道課の人が)長年同じ仕事をしていれば勘がよくあたるようになります。ですから,そういう勘のよく発達した人が,たとえば「コックリさん探知機」というものを信じてやればうまく当たるが,ふつうの人がやったのでは当たらないということになります。(本書p.82) ここでも,こういう説明が可能,という話はあるが,その説明の正当性がいかに保証されているか,という話はない。また別の個所には,じつはこのコックリさんのナゾはもうずっと前に解明済みなのです。(本書p.78)とある。これでは生徒は,誰かが解明したということを知識としていただいているだけで,「科学的に考える能力」はちっとも与えられていないではないか。

 本書後半には,荒木実践以外の例として,「小学生がやっているコックリさんに,大人が英語で質問する」などの実験が紹介されている。これはまあいいのだが,実験のまとめとして,コックリさん占いの答えは,じつは指をのせている人たち自身の答えなのです(p.121)と結論づけられている。この「じつは」というくだりも,「実験によって何か(新しいこと)を知る」という姿勢というよりも,「正しい答えを先生が教えてあげる」という上意下達的な姿勢のように感じるのは私だけだろうか。

 実際,あとがき(読者の皆さんへ)によると,読者の子どもから,次のような手紙が来たという。「私たちはこの本を信じています。だから,この本を信じてコックリさんをやっていいですよね。(中略)だいじょうぶか,教えてください!」 うーん,信じるだなんて,少なくともこの子は,コックリさんについて「科学的に考える」よりも,「著者に教えてもらって」いる。教えてもらって,その上念を押してもらわないと不安なようだ。このような子どもを作ることを,著者たちは意図したのだろうか。

 せっかくいい(方向性の)実践だけに,苦言をたくさん呈するが,「コックリさんを盲信する」「コックリさんを弾圧する」の反対方向に向かうことを意図しているのに,結局,先人の科学的知識を盲信し,コックリさんの代わりに科学的権威をすげ替えるだけになってしまいそうで,非常に残念である。つくづく,科学(教育)というものは扱いが難しいものだと思う。

 

■追記いろいろ
2000/08/18(金)

 日々の記録にいただいたコメントに対するコメントなど。

 押しつけがましさ (8/10)。よく感じるのは、相手が自分の「意見」を噛まずに飲み込んでるなあというところ。とりわけ、こちらにとっては議論のしたい内容の場合、その態度は残念でもあれば、腹立ちもする。そんなことでは研究者にはなれないぞ(別になりたいと思ってないかもしれないが)と叱りつけたくなるけど、叱りつけてもそれを飲み込むだけなんだろうなあ。反感を持ち、なんとか抵抗しようとして、必死で理論武装するという育ち方は、ひねくれてはいるけど、たくましい。

やどかりの独り言8/13)

 「噛まずに飲み込む」かぁ。うまいこと言いますね。学生は噛まずに飲み込んだあげく,お腹をくだしたりもどしたりしているようだ。教えるべきは,噛む(味わう?)ことか。あと,「意見を噛まない」点に関しては,教師も同じことをする可能性がある。こちらの場合は噛まずに吐き出してしまう。この点についてはもう少し考えてみなければ。

 琉球大学の道田さんの日記にエイサーについて書かれてあった。沖縄のお盆におこなわれる踊りとは知らなかった。この前、沖縄に行ったときには観光用のエイサーを見ただけだったので...(^_^;)

MONOLOGUE8/16)

 ふふ,そう思っている人は多いかも。私の印象では,玉●洞のエイサーはなかなか気合が入ってるけど,琉●村のは,なんだかダラダラしていたような。一度お盆に,ホンマモンを見ることをお勧めしますよ。もちろんホンマモンもピンキリだけど。

 エイサーと言えば,よく「沖縄の盆踊り」と紹介されることがあるが,あれはいかがなものか。確かに「盆に踊る」という意味では,盆踊りに違いはないが... やっぱり盆踊りのイメージって,浴衣着て輪になってやぐらの周りを民謡に合わせて...だと思うけど,それとは全然イメージが違う。もう少し別の紹介の仕方がないだろうか。ちなみにうちの妻は,多分衣装のことだと思うが,「たけのこ族」のようだと言う。「エイサーの方がはるかにカッコいい」と続くんだけど。

 エイサーと言えば,たしか以前,高校野球全国大会(いわゆる甲子園)で沖縄代表が,応援席でエイサーをやろうとして高野連に「華美にして奇異」という理由で中止させられたことがあったはずだ(沖縄尚学高校が優勝したときは,エイサーはやっていたと思うが)。「盆踊り」なのに... サミットの晩餐会でも披露された沖縄の伝統的な踊りなのに... そもそも,チアガールとどっちがハデなんだか。

 

■『「社会調査」のウソ−リサーチ・リテラシーのすすめ−』(谷岡一郎 2000 文春新書 \690)
2000/08/16(水)
〜非常に良書なのだけれども〜

 これももう,あちこちで言及されている本ではあるのだが...

 世の中のいわゆる「社会調査」は過半数がゴミ(p.9)ということで,そのゴミぶりをめった切りにしている本。引用されている社会調査のほとんどが,新聞などのメディアを通して流された情報なので,そういう意味では,ほとんどメディア・リテラシーの本だと言っても過言ではない。また,新聞で印象操作を行うテクニックであるとか,社会調査でゆがんだ結果を出すさまざまなバイアスが紹介されており,そういう意味では批判的思考の本だと言っても過言ではない。

 ただ本書は,正しい調査や研究についての本であるだけに,気になる部分があった。似たような論法は何ヶ所かに出てくるのだが,1箇所だけ指摘しておこう。p.38に,「ごみ,ドーム130杯分/最高,5000万トンに迫る」という厚生省の緊急集計についての新聞記事が紹介されている。この表現は,故意に人を驚かすような表現をしながら,その実,何の情報も与えていないの例として出されている。

 この指摘に関しては,問題はない。しかし続けて著者は指摘する。この調査報告記事のすぐ脇に,「粗大ごみ有料化/減量めざし東京都方針」という,記事も載っている。なぜ厚生省が突然「緊急集計」を行ったか,これで明らかとなる。「ゴミが増加しているので有料化します」という政策に対する反対を,事前に抑えるためである。そう著者は結論づける。

 もちろん,著者が指摘するような可能性も十分に考えられるとは思う。しかし,特にそう主張する理由を明確にすることなしに,可能性だけでこのように断定するのはいかがなものだろうか。本書は「データにだまされるな」ということを主張した本だ。上の話も,新聞に載った2つの記事という「データ」を元に,筆者が「反対を事前に抑えるための報道」と結論を出しているわけで,ある意味,社会調査と言えなくもない。もちろん典型的な社会調査とは全く違うが,しかし,データをもとにして,推論によって結論を出すという点では一緒だ。そしてこの結論は,著者の言葉を借りるなら,導き出された推論は妥当なものか(p.66)という基準にひっかかるものだし,「単なる偶然」「こうしたケースは結構多い」(p.137)に該当する可能性がある。そして,その可能性を排除するような論拠は何も示されていない。

 その他の部分が非常にいいだけに,ときどきこのような論法が見られるのはたいへん残念だ。

 #讀賣BOOK Chaseに書評あり。

 #この本に対しては,好意的な書評ばっかりかと思っていたら,鈴木督久氏や中澤 港氏による,批判的なコメントがあることを,メーリングリストfprで知った(2000/09/04)

 


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