読書と日々の記録2000.03
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■読書記録: 30日短評5冊 30日『沖縄のうた』 27日『アメリカの大学』 24日『人間科学のための研究法ハンドブック』 21日『哀しい予感』 18日『私たちは消費者』 15日『沖縄の怒り』 12日『<対話>のない社会』 9日『小説・倫理学講義』 6日『沖縄からアジアが見える』 3日『論理学』
■日々記録: 30日また風邪 21日恩納村の「なかむらそば」とビーチ遊び 18日沖縄そば「しまぶく」 15日ホワイトデー 12日はせぴぃ先生の民主主義論 9日ようやく半年経ちました 6日心理学関係者の読書案内ページ第3弾 3日扇子びな

 

2000/03/30(木)

■『沖縄のうた −名曲101選&CDガイド』(藤田 正編 1998 音楽之友社 \1800)

〜シーヤープーの謎〜

 先月、娘(当時1歳7ヶ月)が時々行っている保育園で、おゆうぎ会があった。1歳児はちゃんとした芸は難しいので、「生活遊び」と称して、普段やっている手遊び唄を舞台の上で披露していた。「げんこつ山のたぬきさん」とか「ひげじいさん」みたいなやつだ。なかなかちゃんとしたおゆうぎにはならなかったが。

 1歳児のおゆうぎの最後に、沖縄民謡らしい曲がかかった。かわいいし、それでいて沖縄っぽい雰囲気の曲だったので、後日保母さんに曲名を聞いて、さっそくCD屋に探しに行った。曲名は「赤田首里殿内」(あかたすんどぅんち)、買ったのは、喜納昌吉&チャンプルーズのギタリストだった平安(ひらやす)隆の「童唄」(わらびうた)というCD(このCDは結構よかった。キングレコードより発売)。

 歌詞はぜんぶ沖縄口(うちなーぐち)で、耳で聞いただけでは何を言っているかわからないが、歌詞カードに日本語対訳(!)がついている。赤田首里殿内は、「灯篭を下げて弥勒様をお迎えしましょう」という感じの、お盆関連の唄だった。ただ、リフレンの部分(↓)には対訳がついていない。

シーヤープー シーヤープー
ミーミンメー ミーミンメー
ヒージントー ヒージントー
イーユヌミー イーユヌミー

 お遊戯会のときのビデオを見て、2行目と3行目はわかった。2行目では耳をつまみ、3行目では肘を触る。「耳んめー」「肘んとー」というわけだ(語尾は意味不明)。4行目の「イーユヌミー」では手のひらに指を突き立てている。これはしばらくしてから分かった。イユ(うお=魚)ヌ(の)ミー(目)だ。「チョチチョチアワワ」の「トットノメー」とおんなじだ。最初は「いい湯呑み」かと思ったけど(これはウソ)。

 ただ分からないのが1行目。「シーヤープー」ってなんだ? ...と思っていたときに大学生協の本屋で偶然見つけたのが本書(ようやくたどり着いた)。沖縄の代表的な曲101曲について、歌詞、解説、お勧めのCDが載っている。解説を書いているのは、沖縄の高校生から大田元県知事や筑紫哲也まで多彩な顔ぶれだ。早速「赤田首里殿内」を探してみると、あった。沖縄県立芸大助教授の金城厚氏の解説によると、「シーヤープーではほっぺたをつまむ」(p.171)のだそうだ。言葉の意味は分からないが、からだ遊びの一種らしい。へぇ、と思って他のページを見ていると、「大村御殿」(うふむらうどぅん)というわらべ歌の解説では、「シーヤープーを訳せば、お手々にぎにぎ」(p.177)と書いてある。これは、坂本龍一の「NEO GEO」というアルバムの中で、「大村御殿」に「赤田首里殿内」の後半部分がミックスされて歌われていることの解説で書かれていたことだ(筆者は音楽評論家の青木誠氏)。うーむ。ほっぺたなのかお手々なのか。それに、シーヤープーって結局何だ?

 シーヤープーの謎はわからなかったが、本書は、こんな感じで古今東西の沖縄の曲に関する解説本だ。古今東西とは誇張ではない。古くは、琉球王朝時代の古典から最近のポップスや民謡まで。空間的には、東は奄美大島から西は与那国まで。それぞれの時代や土地で、曲ができた頃の背景や有名な歌い手について、薀蓄や各筆者の思い入れ、思い出話が語られる。歌を通して沖縄を知る、なかなか結構な本だった。

■また風邪

 ...を引いた。クオーター制とか性格の一貫性とか、書きたいことはあるのだが、それはまた今度。ちなみに、これ以外の文章は、昨日以前に書いたものなので、あしからず(もしかしたら見ているかもしれない人たちに向けてのえくすきゅーず)。

■今月ほかに読んだ本

 ...は5冊と、ちっとも冊数が減っていない。ま、さらっと読める本が多かったからね、と自分を納得させておこう。来月からは授業も始まるし、あまり読めなくなるでしょう。

『カントの人間学』(中島義道 1997 講談社現代新書 \660)

 カントの哲学のさわりでも知ることができるかと思って(注文で)買ったところ、全然違った。カントがいかにドロドロしたアクの強い人間か、という意味での「カントの人間学」であった。カントの説を引用しながらなので、全然カントの勉強にならないわけじゃないけど。

『大学で何を学ぶか』(隅谷三喜男 1981 岩波ジュニア新書 \650)

 BOOK OFFで100円で買った本。古いし、タイトルからして説教くさい内容かと思って読まずにほうっておいたのだが、ある週末、まったく読む本がなくなったので読んでみた。内容は説教くさくなく、当時の大学の抱える問題などと関連させて話が進められていたので、面白かった。このような事情がベースになって現在の大学改革が進められていることが分かる。そのような知識が(読者対象である)大学生に必要かどうかは分からないけど。

『<能力主義>の心理学』(岡本浩一 1999 講談社現代新書 \640)

 さらっと読めてしまう本。標準的な人事考課表なんてのが載っていて、興味深い点もある、内容がちょっと紋切り型っぽく、かつ説教めいた部分があり、何となく雑誌「Big Tommorow」的な気がした。つまり教養本(心理学の本)ではなく実用書と思ったほうがいい。

『バガージマヌパナス −わが島のはなし』(池上永一 1994/1998 文春文庫 \562)

 第6回日本ファンタジーノベル大賞受賞作。石垣島を舞台にした、19歳の主人公綾乃と86歳のおばーオージャーガンマーの友情話(?)。ユタのことが分かる点はいいが、登場人物もストーリー展開も、悪い意味で何だかマンガっぽい点がいただけない。

『もっとおもしろくても理科』(清水義範+西原理恵子 1996/2000 講談社文庫 \476)

 「進化論、DNA、ビッグバンなどがスグ分かる痛快科学エッセイ」とオビにはある。「浅くて軽い」(p.262)けど、「わかりやすくて、面白い」(p.11)点はさすが清水義範。ワタシ的には、前著『おもしろくても理科』の方がおもしろかった気がするけど。

2000/03/27(月)

■『アメリカの大学』(潮木守一 1993 講談社学術文庫 \920)

〜過去に内包された現在〜

 最初はこの著者の『キャンパスの生態誌』という本がほしかったのだが、品切れだったので、タイトルだけを見て同著者の別の本を買ってみた。それがこの本。アメリカの大学と日本の大学の対比でも書かれている本かと思ったら、ぜんぜん違った。「はじめに」によると、「1820年から1910年頃までのアメリカのカレッジや大学の変化が書かれている」(p.3)とある。しまったー、失敗したか! 一瞬そう思った。

 しかし続きを読んでみると、どうやらそうではないらしい。「このよその国の昔話のなかに、我々が現に直面し、また近い将来直面するであろう諸問題が、すでに含まれている」(p.3)のだそうだ。これはいったいどういう意味なのか。それは先を読んですぐに明らかになる。そしてこの昔話が、現代の我々にとって非常に興味深く面白い話であることも、すぐにわかった。

 19世紀のアメリカのカレッジは現在のものとは違い、「子どもの学校」だった(p.24)。大学入学年齢は15-16歳。大学に期待されていたことは、裕福な家庭の子どもを一人前のジェントルマンに仕上げることであり、一般大衆にとっては無縁の存在であり、関心の外にあった。基本的に寄宿舎学校で、寄宿舎にはお目付け役の教師(ポリス型教師)が住んでおり、「集団で学内をぶらついてはならない」「ゲームをしてはいけない」などという細かな規定があった。

 授業に選択の余地はなく、古典中心で、教師は学生にテキストを復唱させるだけ(復唱型教師)。学生は教師に質問することはなく、宿題はしてこないし、AよりもCを取ることが名誉で、試験時のカンニングやレポートの代筆(有料)は日常茶飯事。教師はプロの研究者とはみなされず、大学教授になりたくてなったものは少なく、教授会のような自治権は持っていない。場末の大学ではない。ハーバードやイエールを始めとした、当時のアメリカの大学の平均的な姿だ。現在のアメリカの大学からは想像もつかない姿である。

 それがどのようにして変化したのか。主に19世紀前半にいくつかの大学で行われた改革は失敗に終わったが、19世紀後半からはじまったカリキュラム改革(自由選択性の導入)や、ジョンズ・ホプキンス大学など大学院大学(研究大学)の登場を経て、大学は徐々に変貌を遂げ、多様化していく。その経過はまさに、「アメリカという土地は、ある意味で高等教育の一大実験場の観を呈しており、さまざまなもくろみをもった者が、新しい試みを始めては、成功したり失敗したりしていった。」(p.296-7)と述べるにふさわしいものであった。シカゴ大学が登場(1892年)する頃には、アメリカ高等教育のあり方として考えられる方向性はほとんど出尽くしていた。

 具体的には、ジェントルマンを育成するためのカレッジ教育、研究中心型の大学院教育、専門職業教育、地域社会へのサービス機関としての大学、大学出版部など研究活動をサポートする場所としての大学、などである。教師のタイプとしても、先にあげたものに加えて、人生派教師、教養派教師、ショーマン型教師(雄弁家教師)、研究型教師、学内行政型教師、学外活動型教師といったタイプが出現している。授業のタイプとしても、実益性(地域に根ざす。社会に役立つ)、真理の探究(研究志向)、教養(調和の取れた円満な人格育成)、という3タイプが出現し、お互いに排斥しあった。これらの多様性は、大学の役割や求められるものが多様化するのと同時に、科目選択が自由になったことにより出現した「自由競争市場」が契機となって出現している。結局これらはどれも、どうしたら学生や教師がやる気を起こすか、という問題にぶつかりながらおきてきた変化だということができる

 その他にも、サバティカル制度(研究休暇)やクオーター制(4学期制)がいつ頃どうしてできたか、とか、大学が一般大衆の興味の的となる上でフットボールが果たした役割とか、興味深い話題がたくさんある。本書で語られたアメリカでの昔話が、現在の日本での大学の問題を考える上でどのように役立つかについての直接的な答えは書いていないが、問題点を整理したり見直す視点を与えてくれそうな1冊である。

 なお筆者のホームページに、「世界の大学――歴史と理念」という岩波の「現代の教育 」第10巻に書かれた小論が載っていた。内容的には、本書とも一部重なるだけでなく、アメリカ以外の国も扱い、本書以降の事情も出てくる。全文が読める。得した気分だ。

2000/03/24(金)

■『人間科学のための研究法ハンドブック』(高橋順一・渡辺文夫・大渕憲一 1998 ナカニシヤ出版 \2800)

〜観察の正当性を保証するものとは?〜

 人間を対象として実証的な研究を行うときに採用される方法をできる限り多く紹介し説明することを目的とした本。心理学、社会学、文化人類学はもとより、比較文化学、異文化教育学、人間科学、人間関係学など、学際的な領域でも使えるように作られている。上級学生、院生のための参考書と書かれているが、内容的には、院生〜若手研究者あたりではないだろうか。それだけ内容が充実しているとも言えるし、むずかし目だとも言える。

 内容は、「研究とは何か」から始まって、各種研究法(メッセージ分析から実験法まで)を経て、論文の書き方までフォローしている。私が興味を持ったのは、観察法の章。「研究者がどのように研究を進め論文や著作をまとめているかということは、当の本人にとっても意外にわからないもの」(p.87)とあるが、確かにその通り。だからこういう本が面白い。観察法といってもこの章では、実験法を含む科学的観察法とエスノグラフィーを扱っており、それぞれの方法で観察の正当性を訴えるための「根拠」は何かを著者は考えている。

 それによると、

  1. 目的−方法の形式で記述することで、起こっていることをすべて把握しコントロールしていること、
  2. 観察者のアリバイの証明(現場にいなかったこと)(=対象者の行動に影響を与えていないこと?)
  3. 観察者と対象者が匿名的関係であること
  4. 状況証拠によって間接的に観察を補強すること(p.105より要約抜粋)
となっている。なるほど、こんなことを考えたことはなかったが、確かに観察の正当性(=客観性)を保証するものは必要だし、ここに挙がっているような、統制可能性、アリバイ、匿名性、状況証拠が担保になっているんだろう。最後のは、考察(討論)部分で他論文を引用することを指しているんだろうが、状況証拠とはうまいことを言う。

 普段自分がやっていることを相対化したり考え直したりするうえで、本書は役に立つ部分があった。これまでとは別の研究法や別の対象を使ってみようと思ったときにも役に立つだろう。特定少数の研究法しか使わない人にはまったく必要ないだろうが。

2000/03/21(火)

■『哀しい予感』(吉本ばなな 1988/1991 角川文庫 \310)

〜2つの世界の人々〜

 月に最低1冊は、小説やノンフィクションのたぐいを読もうと思っている。が、それについて何か書くのは、結構難しい。もちろんそれは本にもよるのだけれど。

 今回読んだのは、吉本ばななの本。彼女の本は、もう1〜2冊ぐらいは読んだことがあると思うが、あまりよくは知らない。今回読んだのは、学生のお勧め本にあったからであり、本書をたまたま古本屋で見つけたからなのだが、この本は、あらすじを書いたり何か評したりするのが非常に難しい本だと思った。だからあらすじは書かない。あと、今回は何を書こうかちょっと困ったのでgooで検索してみたところ、若い方が結構好きな本として挙げている。どのあたりが好きかというと、雰囲気に惹かれている人が多いと感じた。確かに独特の雰囲気があり、それがすべてという気がしないでもない。だからあらすじも書きにくい。

 ただひとつ、私なりに思ったことがある。それは、2種類の人間が出てくる、ということだ。1種類は、明るく屈託のないタイプの人で、主人公の弟、主人公のおばの恋人がそうだ。主人公の家族は基本的に皆そうかもしれない。もう1種類はその正反対の、ちょっとエキセントリックなタイプで、主人公のおばがそうだ。本書は、主人公が19歳の夏に前者と後者の間を揺れ動く(移行する?)過程を描いたものではないかと思う。そういえば、人間だけではなく、出てくる場所にもこの2種類がある。本書が後者の場所である恐山で終わっており、前者の場所である「家」に帰る決意をしている、という点は象徴的だと思う。

 この2つのタイプというものは、ちょうど『青年期の心』という本の中にあった、青年期平穏説と青年期危機説に対応するのではないだろうか。そうだとすると、すべての青年にとって青年期が危機ではないとしても、危機に近い位置にいる青年は存在するし、あるいは平穏な青年も、危機に対して響きあうものを内部に持っている。そういう青年たちがこのような小説に惹かれるということなのかなぁ、などということを考えた。この考えの妥当性にはぜんぜん自信がないのだけれど。

■恩納村の「なかむらそば」とビーチ遊び

 昨日は本当に久しぶりに降水確率が0となり、終日お天道様が拝めそうだったので、恩納村へドライブ。まずはそば屋で腹ごしらえした。

 なかむらそばは、自家製の細麺で、ちょっとスナック麺風の味わい。汁はあっさりしていたが、ソーキや3枚肉は結構うまかった。そばセットについていたじゅうしぃは、あんまり味がついていなくてがっかりだったけど。そばはまぁ悪くないかも。

 そのあとは、適当に車をとめて海岸に降りればプライベートビーチ状態。場所的には、瀬良垣ビーチとみゆきビーチの間ぐらい。日差しもやわらかく(ちょっと暑かったけど)、水もそれほど冷たくなかった(泳ぐにはまだ早いけど)。娘のお砂場セットで、砂遊びをしたり木陰でおやつを食べたり。もう1〜2ヶ月もすると、昼間の日差しが強くなってくるだろうから、こういう遊びができるのは今のうちだ。今週末も晴れるといいな。

2000/03/18(土)

■『私たちは消費者』(中原秀樹 1995 岩波ジュニア新書 \650)

〜頭の中にディシジョン・ツリーを〜

 今学期開講した専門科目「思考の技法」は、教員養成課程の学生がたくさん受講していたので、せっかくだから小学校の教科の中で出来そうな思考教育を盛り込もうと思った。それで、以前読んだ『消費者教育論』に出てきたディシジョン・ツリーの話をした。これは「意志決定の木」とも呼ばれるもので、簡単に言うと、何か決定すべき問題が生じたときに、可能な選択肢を考え、それぞれ利点と欠点をリストアップした上で最終決定をしよう、というものだ。

 ツリーというのは、木の絵の上に書き込みが出来るようになっているから。問題が幹で、選択肢が枝、木のてっぺんに決定を書き入れるようになっている。普段私たちが無意識的にやっている意志決定プロセスを目に見える形にしているので、なじみやすいし難しくない。授業で学生には、この木の絵を配って簡単に説明し、消費者教育の導入として小学校高学年生ぐらいだったら出来るだろうからやらせてみるといいかもしれない、などと言う話をした。

 本書を読んではじめて知ったのは、このディシジョン・ツリーがアメリカで小学校2年生用に作られたものだということ。ちょっとびっくり。小学校2年生というと私のイメージでは、ようやくお金の概念がわかり始めたぐらいかと思っていたが、消費者教育の進んでいる(=消費者問題が深刻な)アメリカでは、こんな早い時期にこんなことを考えさせるんだ、と感心した。

 その他にも本書には、個人の価値観やライフスタイルを考えさせるためにアメリカの小学校ではこんなことをやっている、とか、日本の小中高校の家庭科で消費者教育がどのような形で入っているか、などの話が(簡単にではあるが)書かれていて、参考になる。著者は『消費者教育論』の編者の1人なのだが、あちらよりも本書の方が具体的で面白い部分も多かった。

 そういえば先ほどのディシジョン・ツリー、本書では「万能方程式」と書かれている。確かに簡単だし何にでも応用できるのはそのとおりだろうけど、ちょっとこれは言い過ぎでは、と最初に読んだときは思った。でも今改めてパラパラと見直して見ると、その意味がもう少し見えてきた。それは、このディシジョン・ツリーの基本的な考え方が頭の中に入っていれば、生涯役に立つ、ということだ。悪質訪問販売に気をつけよう、いんちきな通信販売やキャッチセールスに気をつけようというよりも、「ちょっと待てよ。わたしはどうしてこちらを選ぶのかな」と考えればよい(p.42)のである。

 この、頭の中のディシジョン・ツリーは、心や頭の中のクーリング・オフ(p.42)とも言える。しばし冷静になって、たとえ1分でもよいから心の中で「ホントかな、これでよいのかな」とつぶやく(p.123)。そう言えば私も、『クリティカル進化論』の最後のほうに「ちょっとクリシン」というタイトルで、似たようなことを書いたことがある。適当にというか自分なりに考えたことだったのだが、同じようなことが書いてあったので、ちょっとうれしくなった。それにしても「頭の中のディシジョン・ツリー」「頭の中のクーリング・オフ」か、うまいこというなぁ。

  • 経済大国ニッポンにとっていま必要なのは、このホントはどうなのという「健全な懐疑心」をもつことなのかもしれない。(p.53)

■沖縄そば「しまぶく」

 久しぶりに雨もやみ、私も妻も体調も悪くないしほかの用事も入らなかったので、本当にしばらくぶりに、昼食に沖縄そばを食べに行った。行き先は、長年行きたいと思って行けなかった沖縄市の「しまぶく」。

 行けなかったのは、以前は店に駐車場がなかったから。最近は場所が移転して駐車場も出来たので、一度行ってみたら、車がいっぱいで入れず、残念ながら食べることが出来なかった。今日は、たまたま出る車がいたため、入ることが出来た。らっきー。

 そばは大、中の2種類しかない。われわれはそば大、そば中、じゅうしぃ(炊き込み御飯)を注文した。割とすぐに出てくる。麺は適度にゴワゴワしてうまい。汁は強烈なカツオ出汁で新鮮。かまぼこはぷりぷりしてうまい。3枚肉はよく味がしてこれもまたうまかった。でも私が一番気に入ったのはじゅうしぃ。ご飯はばさばさしておらず、ほんのりと香辛料の香りがして非常にうまかった。要するに全部うまかった。そばの量は、中でも十分にボリュームがあった(30代のわれわれにとっては)。

 あとうれしかったのは、最初座敷は空いていなかったのだが、われわれが子連れと見て、すぐに店の人が座敷にいる人に言って、場所を変わってもらったこと。大変助かった。店は窓が広くて明るくていい感じだし、ぜひまた来たい。次は迷わずそば中とじゅうしぃを注文だ。

2000/03/15(水)

■『沖縄の怒り −コザ事件・米兵少女暴行事件』(伊佐千尋 1996 文春文庫 \466)

〜これは絶対面白い〜

 私の研究室の隣にいる先生は沖縄生まれの政治学の先生なのだが、以前彼が、「自分は復帰の時点で小学生だったが、この世代も含めてこれより上の沖縄の人の多くは、自分のことを日本人だとは思ってない。」と言っていた。あくまで沖縄人(うちなんちゅ)というわけだ。この話を聞いて、一つ疑問に思っていたことがあった。それは、じゃあなぜ本土復帰を望んだのか、ということだ。

 その疑問が本書で解消した。本書は、復帰前(主に1970年前後)の沖縄を舞台にしたノンフィクションだ。ノンフィクションなのだが、登場人物の心像風景がけっこう描かれていたりして、ちょっと小説っぽい。でも、著者はここで扱われている事件の目撃者を探し出し、証言を得て事実に事実を積み重ねる作業を念入りに行ったのだそうで、基本的にはノンフィクションと言って差し支えないだろう。

 主に扱われている事件は、1970年12月におきたコザ暴動だ。これは、「軍ナンバーの車が歩行者にぶつかって軽い怪我をさせた交通事故」がきっかけで始まり、米軍関係者の車80台以上が路上で破壊されたという事件。「軽い交通事故」が暴動に発展したのは、それまでに、沖縄の人の人権を無視するような事件が多発していたから。毒ガスがもれて住民が吐き気を訴えたり皮膚病になるという事故もおきているし、米兵が事件をおこしても、基地に逃げ込んでしまえば「犯人が特定できない」「証拠がない」と無罪や軽い罪になったりしている。本書のサブタイトルにある米兵少女暴行事件(前原女高生刺傷事件)や、コザ暴動の直前に無罪判決が出た糸満のひき逃げ事件もそうだ。

 で、冒頭の疑問の答えだが、結局沖縄住民の人権は日本に復帰する以外、守られる手立てはない(p.18)ということだったのだ。なるほどそれで、1月に取り上げた『沖縄から見た平和憲法』で、日本国憲法(特に基本的人権)の理念と現実の問題が、沖縄との絡みで取り上げられていたのか。沖縄の人にとって基本的人権がいかに大事なものかが、本書によってよくわかる。本書はそれ以外にも、コザという地名の由来だとか、終戦前後の沖縄の様子だとか、米軍における戦術核兵器の意味だとかも書かれており、単に復帰前のころの沖縄の話だけではなく、時間的広がりをもって沖縄を知ることが出来る。また、先述のように半小説的な文章なので、リアルだし読みやすい。現在も含めて沖縄のことを、米軍との関わりあいの歴史の中で知ることができる、絶対面白い1冊だと思う。

■ホワイトデー

 ...というわけでもないが(というわけも半分ぐらいはあるが)、昨日は妻と娘にクッキーを焼いてあげた。と言っても、混ぜて丸めて焼くだけだけど。年に1回(?)の男の料理の日。

2000/03/12(日)

■『<対話>のない社会』(中島義道 1997 PHP新書 \657)

〜しつこいながらも面白い〜

 最終的には結構面白かった。と言っても最初から面白かったわけではない。最初は学生の私語と死語の話題から始まる。まあ大学教員としてはありがちな話だ。そこで著者は、かなり強硬に、学生に意見を述べること、対話することを求める。その実践には成功例もあれば失敗例もあるのだが。学生たちの「死語」現象の根は深いが、教師の努力次第で学生たちに言葉を復活することはかならずできる(p.46)と著者は述べている。

 次の章は一転して、日本に蔓延しているアアセヨ・コウセヨという標語看板や管理放送に対する文句が述べられる。あるいは駅前の駐輪禁止区域に放置された自転車に対する苦情など。著者は単に苦情を言うだけではない。なんと邪魔な放置自転車はバッタバッタ蹴飛ばして通っているそうだ(p.75)。こんなに放置自転車が多いのは、わが国がルール違反者に寛大というか見て見ぬ振りをするから、というのが筆者の考察だが、それにしてもちょっとヤリスギでは?という気がする。それにこのあたりから、文句ばっかりでちょっとしつこいよ、という気もしてくる。

 しかし話はここで終わりではない。ルール違反者に寛大で、しかもそれを管理看板や管理放送という手段で何とかしようという発想は、わが国が「対話がない社会」であることに起因すると著者は考えている。ここで言う対話とは、プラトンのように真理を求めるという共通了解をもった個人と個人とが、対等の立場でただ「言葉」という武器だけを用いて戦うこと(p.122)である。そこでは、相手と見解が同じか違うかという2分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させる(p.133)必要がある。

 しかしわが国では、思いやりや優しさによって対話が妨げられている。というのは、これらの特徴をなすものは、他者との対立や摩擦を徹底的に避けることであり、この目的を達成するために「言葉」を避ける(p.162)ことだからである。といっても著者は、単純に日本を欧米のようにしたいわけではない。<対話>を圧殺するこの国の文化にあと数パーセント西洋的な言語観を採用すれば、もっと風通しの良い社会が、弱者が泣き寝入りすることのない社会が、個人が自律しみずからの責任を引き受ける社会が実現するのになあ(p.203)というのが著者の想いだ。誰も傷つけない言葉を語ることは何も語らないに等しい。対立を恐れず、互いの差異を大事にする社会にしよう、という著者の考えは、最終的には良くわかった。また<対話>のある社会を実現するためには、あるいは実現可能性や実現方略を考えるためには、日本の風土的特質を理解する必要がありそうだ、ということも分かった。このあたりは次の読書課題だ。

  • <対話>のある社会とは、私語が蔓延しておりながら発言がまったくない社会ではなく、私語がなく素朴な「なぜ?」という疑問や「そうではない」という反論がフッと口をついて出てくる社会である。それは、アアしましょう・コウしましょうという管理標語・管理放送がほとんどなく、各人が自分の判断にもとづいて動く社会である。それは、対立を避けるのではなく、何よりも対立を大切にしそこから新しい発展を求めていく社会である。(p.204:要約しながら引用)

  • あなたが言葉を信じないのはあなたの自由である。(中略)しかし、そうした態度で生きているうちにあなたは−−自覚的無自覚的に−−じつは他人の言葉も封じているのだ。真実を求めようとせず、<対話>を全身で圧殺しているのだ。(p.204-5)

■はせぴぃ先生の民主主義論

 ...がこちらにアップされているが、なかなか読み応えがある。読み応えがありすぎて、全部をきちんとは読めていないのだが。

 中でも面白かったのは、議会制民主主義=暴動回避装置、という考え方。たしかポパーも同じようなことを言っていたはず、と思って調べてみたら、次のようなものがあった。

  • 民主主義とは、為政者(政府)を暴力によらずに解職しうる機構の保証されている政治体制である(小河原著『ポパー』p.185)
  • 民主主義こそが政治的な強さを持ったシステム。なぜなら、政治的な強さというのは、政府をして反駁に身をさらさせることを可能にするものだから。(ポパーvsクロイツァー『開かれた社会−開かれた宇宙』p.29)

 さすが徹底的反証主義者という感じだ。手持ちの本にあったのはこれだけで、どちらもポパー本人の文章(発言)じゃないのが残念だけど。

2000/03/09(木)

■『小説・倫理学講義』(笹澤 豊 1997 講談社現代新書 \660)

〜民主主義に合理的根拠はあるのか?〜

 古今にわたる倫理思想を、専門知識がない人にも充分にわかるよう小説仕立てで紹介している本。「長嶋教授失踪事件」という全体を貫く筋の中で、大学教員である「私」が教え子の刑事や雑誌記者を相手に、事件などに関連させて倫理学的な話をする、という形になっている。小説仕立てにすることが成功しているかどうかは、章によってかなり差がある。失踪事件に絡む人たちの動機の問題を、行為の意図や目的が存在するかしないかというニーチェの論と絡めて論じる(第1章)のは、いくらなんでも無理があるのではないだろうか。逆に不自然ではないのは、2章の「不倫はいかにして可能か」。ここでは、実害なき密室での違反であれば、不道徳な行為でも道徳的に許される、という見解が出されている。ナルホドナルホド。

 面白かったのは、民主主義の仕組みについて考察されている第4章。民主主義の理想がハーバーマスのいう理想的発話状況(対等な立場で、お互いに自由に意見を交わしあい、理性的な討議によって合意を形成:p.115)であるとしても、それは理想であって現実にはありえないこと、民主主義には実は合理的な根拠がなく、利害関心が主役であることが、この章では明らかにされる。民主主義に合理的な根拠がないというのは、独裁制では権力者(少数の強者)の利益にあわせて<正義>が定められたものであるのに対して、民主制では結束した多数の弱者が<正義>を定める(p.125)、という点の違いだけだということだ。この、理想的な民主主義と現実的な(相対化された)民主主義の対比は、ちょうど科学哲学におけるポパーとクーンの立場に対応するような気がするのだがどうだろうか。

 本書は、部分的には面白かったが、小説仕立てであるせいか、倫理学の入門書にしては取り扱い範囲にムラがあるのではないかと思う。そのつもりではなく、倫理学の話題をつまみ食いするつもりであれば、まあまあの本だったと言える。

■ようやく半年経ちました

 このページを始めて今日で半年が経った。この半年に思ったことを。

 最初に思ったは、こうやって半強制的に読書&書評をするのは、たまっている本がどんどん消化できていいなぁ、ということだった。でも1ヶ月もすると、疑問が湧いてきた。

 それは、こんなに知識を溜め込んでどうしようというのだろう、というものだ。いくら蓄積しても、100年も経たないうちに肉体は必ず風化してしまう。とすると自分の身体(頭)は、それまで一時的に知識を溜め込んでおくだけの、ゴミ箱みたいなもんかなぁ、なんて考えたりした。そういえば鷲田小弥太の『大人の教養教えます』(東洋経済新報社)という本に、知的活動は最大の浪費(p.49)とあるが、そんな風に感じたのが2ヶ月目あたり。

 でも実際は溜め込むだけではない。たくさん知識を溜め込んだ上で、ジューサーのようにかき混ぜて道田風味つけをすれば、新しいものを生み出すこともできるじゃないか。そう思えるようになったのが3ヶ月目。要するに、ただインプットするだけではなく、アウトプットのためにインプットする。当たり前のことのようだが、これでちょっと安心した。

 次に思ったのは、書く内容。はじめは自分用メモのつもりで書いていた。当然分かっているようなことは、書く必要もないと思っていたので書かず、本から得た新しいことだけを書いていた。しかし、多少読者もいることがわかり、少し読者のことも念頭において、自分にとって当たり前のようなことも書くようになると、それが意外な効用を生むことが分かった。

 それは、そうやってまとめておくと、授業などで本の内容と関連したことを話すときに話しやすいということだ。つまり、書くことによって自分の理解をコンパクトにまとめることができる、ということだ。これをきちんとしていないと、いざというときに、本の内容をうまく話すことができない。分かっているつもりで整理されていないからだ。

 そうやって半年経った。こうしていろいろなことを考えることができたのも、Web日記形式にした効用だと思う。あと半年や1年たったら、今度はどんなことを考えているだろう。そのときを楽しみにして、もう少しこのペースでやっていってみようと思っている。

2000/03/06(月)

■『沖縄からアジアが見える』(比嘉政夫 1999 岩波ジュニア新書 \700)

〜アジアを通して沖縄を知る〜

 著者は、元琉球大学教授にして現国立民俗博物館教授の文化人類学者。内容はタイトル通り、沖縄だけではなく、沖縄と日本(第1章)、中国(第2章)、アジア(第3章)の関わりについて書かれた本。

 沖縄の持つ大きな特徴の一つは「島嶼性」ということだが、これは単に、島だとか山だとか内陸部という、自然地理的な特徴のことだけではない。島であるということは海に囲まれているということであり、「海は、外界との結びつきを拒み、孤立した閉鎖状況を生む「壁」にもなり、また、逆に外界への移動や交流をもたらす「道」にもなる」(p.45)のである。その中の「道」としての島嶼性に注目し、さまざまな文化の通り道である沖縄の文化の中に、アジア文化を探る糸口が潜んでいる、というのが本書の基本的な考え。ただ、その意味では、タイトルは「沖縄からアジアが見える」というよりも、「沖縄の中にアジア(の諸文化)が見える」あるいは「アジアを通して沖縄を知る」という方が適切ではなかろうかと思う。

 個人的には、日頃なんとなく疑問に思っていたことの答えが得られた点が面白かった。たとえば人名。沖縄では、親子や兄弟ではないと思われる同姓の人で、下の名前(first name)が1字共通しているケースがよくあるような気が前からしていた。本書によるとこれは、中国で一般的だった「輩行制」の名残のようで、「首里や那覇の氏族の家譜のばあい、同じ姓を持った一族の男子成員の名(苗字ではなく)に、世代の区別なく共通した字である「名乗り頭」の字を使います」(p.96)とある。そうやって、一族の血のつながり(門中)を示すのだそうだ。なるほど。

 それから旧暦。なぜ糸満で旧暦が重視されているんだろう、そんなに田舎でもないだろうに、と思っていたが、これは、糸満が海人(ウミンチュ=漁師)の町であることと関係があるらしい。つまり、漁で大事なのは潮の干満である。たとえばサンゴの産卵は満月の夜に行われるし、旧暦の何月何日になるとやってくる魚、なんていうのがあったりするわけで、これらはすべて潮の満ち干=月齢と密接な関係がある。だから、海人は旧暦をいまでも大事にしているのだそうだ(p.149)。なるほどなるほど。

 その他にも、ハーリー(爬龍船競漕)の祭祀的意味とか、姉妹が兄弟を霊力で守護するという「をなり神信仰」など、興味深い話題がたくさんある。ジュニア新書だから読みやすいし、沖縄の歴史や文化を知りたい人にはうってつけの1冊だ。

 讀賣のBOOK STAND書評あり。

心理学関係者の読書案内ページ第3弾

 ちなみにこのシリーズでは、メジャーと思われるページは紹介していない。検索などをしていてたまたま発見したページ中心。

2000/03/03(金)

■『論理学』(野矢茂樹 1994 東京大学出版会 \2600)

 いくつか見た論理学の本の中でも、本書はかなり読みやすく、わかりやすい部類に入る。それもそのはず、本書の「はじめに」には、「本書は、文字通り、ずぶの素人のための現代論理学への初めの一歩である。」とある。そして、ずぶの素人のための工夫として、100問以上の練習問題や論題が用意されているし、読者が抱くであろう疑問に答えるために、野矢氏と2人の禅僧の対話があちこちに挿入されている。対話式の文章は、うまくツボにはまれば読者の疑問に答えつつ話が進められるので有効だが、冗長になりがちだ。しかし本書は、通常の本のような説明部分(対話なし)と、対話の部分の両方を織り交ぜることで、過度に冗長にすることなく素人対策がなされている。

 本書で扱われている範囲は、命題論理、述語論理から、ラッセルのパラドックスを経て、不完全性定理まで。やはり後半はなかなか難しく、十分に理解できたとはいえない。命題論理と述語論理に関しては、「意味論」(真理値分析や解釈)と「構文論」(公理系に基づく定理の証明)に1節ずつ割り当てられている。こういう点が、技術の修得に焦点が置かれてた『タブローの方法による論理学入門』のような本とは違い、やっていることの意味や位置づけが分かりやすいので良い。

 また、述語論理の章では、アリストテレスの伝統的論理学(名辞論理)から話を始めて、それのどこに限界があり、それが述語論理の出現によってどのように打破されたか、という歴史的な過程を追うことで、述語論理がもっている革命的な意義が実感を伴って伝わるよう工夫されている。同様の工夫は、次の章で「メタ論理」(よく理解はできていない)が導入されるときにも使われている。

 ずぶの素人である私から見ると、全体としては高度な内容を保ちながら、その内容をいかに面白くわかりやすく伝えるか、という工夫が凝らされた本である。これは、論理学の本としてはかなり珍しい部類に入るのではないだろうか。時間があったらもう一度本書に挑戦して、今度は、不完全性定理の入り口ぐらいまでは理解できるようにしてみたいものだ。

  • 論理的な命題とは、言葉遣いの正誤というチェックだけから、その主張の真偽が決定しうるようなものにほかならない。(p.6)

  • 日本語は必要なだけ十分に明確に表現しうるものですし、また、言葉遣いが正しいかぎりにおいて、すべからく論理的だと言いたいですね。(p.32)

■扇子びな

 今日はひな祭り。うちは狭いアパート暮らしなので、雛人形は置いていない。その代わり、扇子にお内裏さまとお雛さまが描かれたものを、玄関から入ってすぐの台の上に飾っている。扇子だから、残りの350日はほとんど場所を取らずにしまっておけるスグレものだ。

 去年は娘の初節句だったので、九州にいる私たちの両親は結構気にしていたようだ。お金出すから雛人形買ったら?と言われた。でもしまっておく場所がないしねぇ。結局買ってもらった雛人形は実家に置いてあり、こちらでは扇子びな。

 幸いなことにと言うか不思議なことにと言うか、沖縄ではあんまりひな祭りが盛んじゃないような気がする。妻も近所の奥さんにそう聞いたし、あまり宣伝しているところを見たことがないし。

 あとは散らし寿司を食べたりひなあられを食べたりする予定。でも今はまだいいけど、娘が物心つくようになったら、もう少しイベントらしくしてあげたくなるかも。




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