読書と日々の記録2004.8上

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■読書記録: 15日『こうして僕らは全員内定』 10日『教養主義の没落』 5日『アメリカン・ロイヤーの誕生』
■日々記録: 10日1・3研修

■『こうして僕らは全員内定─徹底実例!ロジカル面接術』(津田・下川・佐藤 2003 ワック出版 ISBN: 4898310710 \1,575)

2004/08/15(日)
〜面接も小論文もロジカルに〜

 『超MBA式ロジカル問題解決』の著者による、就職面接の本。この著者の本は、タイトルは怪しげだが、内容はまあ悪くない。買う前は、面接と論理ってどういう関係なんだろうと思ったが、要するにツリー的な発想で、就職面接で基本的に伝えるべきメッセージをいかに具体的かつ論理的に伝えるか、という内容である。就職面接で基本的に伝えるべきメッセージとは要するに、「私は御社の利益に貢献します」(p.42)であり、それを具体的に伝えるためには、「社風に合っている」ことと「私は能力がある」という2つが伝わらなければいけない。そして、これらを伝えるためには証拠が必要であり、どのような証拠を選ぶかは、証拠の強さと分かりやすさによって決める必要がある、という。なるほど確かにロジカルである。

 このように説明されれば確かにその通りなのだが、実際は学生は、サプライアロジック(「理解するための努力は聞く側がやってくれる」(p.10))という手前勝手な論理で話をしてしまう。本書の特徴は、それを指摘し、改善するプロセスを実際に見せている点である。具体的には、5人の学生が実際に自己アピールを行い、筆者らがコメントし、自己アピールを作り直す、ということが各人とも3回ぐらいずつ行われている。なお、筆者のロジカル面接に関する基本的な考え方は、別の著書(『ロジカル面接術 基本編』)があるらしい。そちらは私は読んだことがないのだが、本書だけでも十分に興味深かった。

 私にとって興味深かったのは、本書で書かれていることが、就職面接以外の自己アピールすべてに通用する、ということである。例えば、小論文形式の入学試験は、ほぼ就職面接と同じである。つまり、小論文で書かれるすべての文章は最終的には、「私は能力があり、あなたの学部に合っているので、私を入学させるべきである」という基本メッセージに集約されなければいけない。入試だけではない。講義における試験も、選択式や短答式ではなく、記述式で解答することは、「私は授業を理解した」ことをアピールする自己アピール文といえる。

 そして、実際に大学の講義の試験を採点していて思うことは、サプライアロジックによる解答(「とりあえず思いつくままに書いてみました。あとはそちらで意を汲んで採点してください」)がとても多いのである。そこに足りないのは、証拠(記述)の必然性や具体性であり、メッセージの明確さであり、分かりやすさである。本書を読みながら、そのようなことを考えた。講義を理解するということは、そのことを的確に表現できるということと関連しているはずである。かといって、心理学の講義中に、自己アピール(作文)法までする余裕はないし。本書でされているような、添削指導的なことでもできるといいのだが。まあこの点は今後の検討課題である。

1・3研修

2004/08/10(火)

 昨日とおとといは、自分が指導教員をしている3年生と1年生とが合同で宿泊研修をする、という1・3研修に行ってきた。一応引率という立場で。実際には3年生がすべて企画も実行もしていたので、私は何もしなかったのだが。

 行った先は座間味島。私は、沖縄本島近くの離島は初めてだったので、とても楽しみにしていた。そして期待通り、船の上からはトビウオを見ることが出来たし、泳ぎに行ったビーチははとてもきれいで、魚をたくさん見ることが出来たし、夜は学生はちゃんとした研修プログラムを用意していたし、屋上では星をたくさん見ることができたし、夜中も単なる飲み会とかカラオケ大会やゲーム大会などではなく、学生はいろいろなことを語り合っていたし。

 2日目は、午前中は散歩したり読書したりしてゆっくり過ごした後、午後に軽く島内観光(展望台に3ヶ所行った)して、夕方の船に乗って帰った。ゆったりとしたプログラムだったせいで、もって行った新書本も1冊読み終わることができた。ということで、なかなか有意義な研修旅行であった。

■『教養主義の没落─変わりゆくエリート学生文化』(竹内洋 2003 中公新書 ISBN: 4121017048 \819)

2004/08/10(火)
〜読書中心主義から同化主義へ〜

 割と評判がいい本なので読んでみた。結論からいうと、とても面白いわけではなかったが、そこそこ面白い部分もあった。

 本書でいう「教養主義」とは、旧制高校に見られたような、「哲学・歴史・文学など人文学の読書を中心にした人格の感性を目指す態度」(p.40)であり、「万巻の書物を前にして教養を詰め込む預金的な志向・態度」(p.54)である。とはいってもそれだけではなく、実際にそういう本を読まなくても、そういう本から学ぶことをよしとする(とりあえず本だけでも買ってみるような)態度も含んでいる。後者については筆者はたとえば、「実際に読んだか読まないかは別にしても、教養書を読まなければならない、という正統文化への信仰告白」(p.66)というように表現している。まあこれは、悪く言えばファッションとしての教養主義とでもいえようか。

 そのような文化は、旧制高校の規範文化だったが、昭和に入って一時衰えそうになりつつも生きながらえ、学校制度が新制に移行すると、むしろ大衆化する形で広がっていった。しかし1960年代後半、学歴が大衆化し、大学紛争によって教養主義は没落していったという。教養主義の没落という観点から見ると大学紛争とは、昔のようにエリートではない大衆化された大学に入学した者が、エリート的地位にある大学教授に向かって、「おれたちは学歴エリート文化など無縁のただのサラリーマンになるのに、大学教授たちよ、お前らは講壇でのうのうと特権的な言説(教養主義的マルクス主義・マルクス主義的教養主義)をたれている」(p.210)と言っているということだったのではないか、と筆者は述べる。その是非は私にはまったくわからないが、教養主義という観点から見るとこういえるのか、というのはちょっと興味深く思った。確かにそういわれるならば、私が1970年代後半、高校在学時にただよっていた「しらけ」のムードは、教養主義没落という出来事の後だったからなのか、と読みながら思ったりした。

 なお、教養主義没落以降の大学生について、筆者はこう書いている。

いまの学生が人間形成になんの関心もないというわけではないだろう。むろんかれらは、人間形成という言葉をあからさまに使うわけではないが、キャンパス・ライフが生きていく術を学ぶ時間や空間と思っていることは疑いえないところである。しかし、いまや学生にとっては、ビデオも漫画もサークル活動も友人とのつきあいもファッションの知識もギャグのノリさえも重要である。読書はせいぜいそうした道具立てのなかのひとつにしかすぎないということであろう。(p.237-238)

 これって、私が以前、卒業前の大学生に聞き取り調査をして感じたことと同じことである。もっとも筆者は、旧制高校的な教養主義が「読書中心主義」のヘビーな教養主義であるのに対して、今の学生の人間形成に寄与している(ある種の)教養主義は、「大衆文化への同化主義」であり、「サラリーマン文化(平均人、大衆人)への適応戦略でしかない」(p.240)ライトなキョウヨウ主義、と述べている。その考察はどうかと思ったが、しかしまあ、こういう現象も教養主義なるものとの関連で考察されているという点では、本書は興味深いものだった。

■『アメリカン・ロイヤーの誕生─ジョージタウン・ロー・スクール留学記』(阿川尚之 1986 中公新書 ISBN: 4121008197 \693)

2004/08/05(木)
〜混乱することに意義がある〜

 アメリカのロー・スクールに留学した著者の留学記。前に読んだ『ハーヴァード・ロー・スクール』は、ロー・スクールの1年目だけに焦点を当てた本だったが、本書は、受験前から、卒業して司法試験に合格するまでが描かれている。たとえば、ロー・スクールを受験する人はLSATという共通テストを受ける必要があるが、その実際の問題が載せられていたり。それは、公務員試験でいう判断・推理のようであった。

 こういう、ロー・スクールの全体像がわかる点はよかったが、私が興味あったソクラテス・メソッドによる教育は、主に1年の間しか使われないので、これに関してはあまり多くを得るところはなかった。むしろ『ハーヴァード・ロー・スクール』の方が、最初の1年のみに焦点を当てているために、より詳しく知ることができた。とはいえ、本書にもまったく書かれていないわけではない。ソクラテスメソッドに関しては、次の記述があった。

ロー・スクールの先生は、ケースブック、閻魔帳と共にこのシーティング・チャート、つまり座席表をいつも必ず持ち歩く。どの先生も最初の授業の時、この表に学生の名前を記入させ、次の回からは、それを見ながら学生をあてて、問答の形式で授業を進めていく。この伝統的なロー・スクールの授業方法をソクラテス・メソッドと呼ぶ。問答を通じて法律の争点を明確にさせ、その体験をさせることで法律の思考過程を徹底的に叩き込む。(p.45)

 このような記述を読む限り、私が『ハーヴァード・ロー・スクール』を読んだときに思った、「ソクラテス・メソッドは、問題解決というよりも、新兵訓練」という考え方は、あながち間違ってはいなかったようだ。新兵訓練的な部分としては、他にも、(ロー・スクールにおける試験は)「知力の戦いというよりむしろ気力と体力の勝負であった」(p.110)などという記述がある。他にも、ロー・スクール1年目の教育に関しては、次のような記述があった。

ロー・スクール一年生は、法律を体系立って判るよりは、法律により深く浸かることを期待されているところがある。そのためには判例をがむしゃらに読んで、自らを思い切り混乱させ、その混乱の中から自分の力で光明を見いだす、その体験にこそロー・スクール第一学年を通過する意義があると考えられている。逆に言えば、あまり簡単に法律が判ってはいけないのである。」(p.65)

 あまり簡単にはわからず、混乱することがよいようなのである。これは要するに、ごく特殊な文化実践に徒弟的に参入するということなのだろうと思う。もっとも昨今はロー・スクールの先生も甘くなって、あまり厳しくないのだとか、ソクラテス・メソッドを使わない先生もいたことが書かれているのだが。


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