15日『霞が関残酷物語』 10日『「私」をめぐる冒険』 5日『心は実験できるか』 | |
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筆者は元労働省技官のフリーライター。本書の元になった原稿は、週刊誌などを中心に掲載されていたようで、軽い語り口(多少の憶測交じり)が気になる部分がないわけでもなかったが、全体としては興味深かった。本書は、「霞が関の現状がどうなっているのか冷静に、客観的に見据えて」(p.16)みようとしている本である。要するに官僚問題を論じているわけだが、よく言われるキャリアとノンキャリアの区別(差別)だけでなく、事務官と技官の区別や、彼らと政治家との関係も扱っているし、国家公務員法に規定されていることと現状の乖離、若手官僚が出した霞が関改革案についても触れられている。おかげで、中央官僚の実態がかなりわかったように思う。
筆者の考えでは、「そもそも霞が関の末期症状を作り出した遠因はほぼすべて、その不透明人事に求めることができる」(p.267)という。末期症状とは、「政治家─キャリア事務官─キャリア技官─ノンキャリア職員」(p.219)という縦のヒエラルキーが強固としてあるために、相対的に上の者は下の者を差別し、下の者はルール違反を犯してでも上の者に取り入る。そんな構図の中で、国益ではなく省益や私利私欲のために行動したり、しかしそのことがめぐりめぐって自分たちの首を締め付け、「結局は霞が関の誰一人、幸せにはなっていない」(p.152)という構図のことを指しているようである。
不透明人事は、おそらく二つある。一つは、先のヒエラルキーが、採用試験での試験種別で決まってしまい、本人のその後の能力や実績とは無関係に、その後の昇進の速さや程度の差が最初から決まってしまっている、というのが一つ。これはいわばカースト制のようなものである。もう一つは、ヒエラルキーの一つの層の中での話で、同ヒエラルキーに属している人間でも、上層部の有力派閥との結びつき如何によって、昇進などに差が出てしまう、というものである。それがあるために、上の者に取り入って引き立ててもらおう(あるいは突出することなく無難に過ごそう)、という行動に出がちになるのである。
この構図の中でも特に多大な影響を持っているのが、族議員といわれる国会議員である。族議員こそが、官僚の生殺与奪のすべてを握っているという。そうなるとどうなるのか。直接的には政官癒着がおきる。それだけではない。間接的には、官僚の政策立案能力が阻害されるのである。そのことは次のように述べられている。
何か新しい政策を立てようと思っても、『そんなものあのセンセイが呑んでくれるわけないじゃないか』議論はそれで終わり。政策の中身がいいかどうかじゃないんです。"根回し"で通しやすいか否か。それがすべての判断基準になってしまった。(p.234)
これは政策立案だけの話ではない。薬害事件などの背後にも、きっと製薬会社と繋がっているセンセイがいるだろうから声を上げたりはしないでおこう、という判断が働く。判断基準が、国益ではなく、センセイが気に入るかどうか、になってしまっているのである。心理学の研究で、テストのタイプが変わればどんな勉強をするか(丸暗記か理解か、など)が異なっている、という研究がある。これはそれと同じで、評価基準をどこにおくかで、どういう行動をするか(あるいは、しないか)がきまっているのである。
ということは、逆に言えば、評価基準を「センセイ」ではなく「国民」(国益)のほうに近づければ問題は解消されるはずである。実際に本書では最後のほうで、「「なるべく国益を上げる政策に加担した」職員こそ出世させるという大原則を制度化」(p.269)することが提言されている。あるいは、本書では触れられていないが、その前段階として、情報公開が徹底されるべきであろう。実際には、何が国益なのか、という判断自体で意見が割れるような気がしないでもないが、しかし必要なのは、そういう方向性をもった改革でしかないことは、おそらく明らかであろう。
インタビューに基づいて語りおろされた本。発達、自閉症、供述分析、裁判など、浜田氏が関わってきたことがらを、「私」という視点(私とはそもそも何か、など)でまとめた本といえるだろうか。他書のエッセンス的な本で、この本ではじめてみた考えは、1〜2割というところだと思う。少なくとも私の主観では。語りおろしということもあり、さらっと読める。
本書は、深さよりもわかりやすさが優先されているようなので、浜田氏の本をほとんど読んだことがない人のための本と位置づけるべきかと思う。もっとも、浜田氏の本を読んだことがある人にも本書の利点はある。浜田氏の複数の仕事が全体的に俯瞰されているので、横断的に見ることができるのである。。
私は、浜田氏のいう「パースペクティブ性」に注目しながら読んだ。人は、知覚にも記憶にもパースペクティブ性を持っているが、しかし相手のパースペクティブに自分を重ねることも、ごく小さいときから容易に行っている。たとえば「相手がしたとおりにまねる」ことができるためには、自分の身体軸を相手の身体軸に重ねることができる必要がある。それはものによっては赤ちゃんでもやっていることなのである。真似以外にも、我々は意識せずとも、話をするときは聞き手の立場にたっているし、話を聞くときは話し手の立場にたっている。パースペクティブ性の交換がこのように自然なことであることを、私は本書で再認識した。
ただし、誤認逮捕のような状況では「被害者のパースペクティブだけが肥大して、本来あるべき複数性が消えてしまう」(p.154)のである。本来あるべき複数性とは、犯人ではないのに容疑者にされてしまった人のパースペクティブであり、その視点に立つならば、その人が加害者にはなりえないことが容易にわかるようなパースペクティブである。人は容易にパースペクティブの交換ができる一方で、状況によっては、それがまるでできないことがある。この両者について考えることは、対人関係を考える上で重要になってくるのではないか、と思った。
有名な心理学の実験10個を取り上げ、その実験や実験者にまつわる話をノンフィクション風に書いた本。筆者が本書で試みたのは「物語としての実験を評価すること」(p.11)であり、それはかなり成功しているように見えた。要するに、とても面白い本だった。
たとえば、第一章で扱われているのはスキナーである。筆者は、単にスキナーの実験を説明するだけでなく、スキナーが大学院に入った頃の心理学界はどのようなところだったのか、現代の心理学者にスキナーはどのように評価されているのか(肯定的なものも否定的なものも紹介されている)、筆者の育児にスキナーの考えがどれほど役に立ったか、などということが記述されている。筆者の指摘でなるほど、と思ったのは、スキナーは「人間は環境と分かちがたく結びついて存在し、そこから逃れることはできない」(p.48)と考えているが、この「環境」を「人間の相互依存のネットワーク」と考えるならば、この考えはギリガンのようなフェミニストの考えと似ている、という指摘である。言われてみれば確かにそうである。それに続いて筆者は、「いずれにせよ、私たちはスキナーをあまりに単純に片づけすぎてきた」(p.49)とまとめている。
第二章は、ミルグラムのアイヒマン実験である。筆者は、アイヒマン実験を被験者の視線で描写し、その後のミルグラムの研究について述べ、アイヒマン実験に対する学界での批判的な反応を紹介し、アイヒマン実験の被験者を探し出してインタビューしている。そして、これは私は想像だにしていなかったのだが、アイヒマン実験で最後まで電気ショックを与えたある被験者は、このように述べている。「あの実験は私の人生を変えました。私は権威に従わずに生きるようになりました。」(p.99) 言われてみればこれは大いにありうることである。自分自身について向き合わざるを得ないような実験だからである。
第三章は、ローゼンハンのニセ患者実験である。これについても、実験のことを物語風に描写し、実験に対する学界の反応を描いている。それに加えて第三章では、筆者自身が8つの精神病院で同じ実験を試してみているのである。その結果はここでは書かないが、実に興味深いものである。
最初の3章だけをかいつまんで紹介したが、これが筆者の言う「物語としての実験の評価」のやり方である。実験を、定量的なデータを得られるものとしてみるのではなく、当時の社会や学界の雰囲気の中で、実験や研究者、被験者、そして今の私たちの物語として位置づけることで、その実験の、私たちにとっての意味が見えてくる。筆者は、記憶の生理学的研究について、「記憶の生理学的基盤を定義することはできても、結局、その素材を編み上げて形と意味を与えるのは、あるいはそうしないのは、私たち自身なのである」(p.13)と述べているが、まさにこのことを、10の実験を素材に示したのが本書である。