31日短評3冊 24日『コンピュータ新人類の研究』 18日『メディア・バイアス』 | |
| 招待給食 24日柔軟な発想の小3娘 18日ウワウルシ・その後 |
今月は,本を読む気力が少し戻ってきた気がする。といっても,新書・文庫・ノンフィクションといった,読みやすそうな,あるいは私が興味を持てそうなものを中心に切り替えたからで,前のように,どんな本でも3日前後で読む!みたいな気力はまだない。それに,途中まで読んで止まっている本も何冊かあるので,結果としての冊数には表れていないのだが。あと,読書記録を書く気力は今ひとつで,以前のように,読み終わったらすぐに,ささっと書く,ということもまだできていない。それでも一歩前進したからよしとするか。
今月良かったのは,『 喪の途上にて』(めちゃめちゃおもしろかった)ぐらいか。
今日は附属小学校で給食に招かれた。学長以下,附属小に縁のある人を招く日なのだ。私は1年ぶり2回目の参加。
昨年は2年生のクラスで,給食を食べる暇もないぐらいに子どもたちが話しかけてきたのだが,今回は4年生で,そういうことはなく,私の席の近くにいた数名の子とゆっくり話ができた。
一つ驚いたのは,給食が始まったとたんに何人もの子どもが配膳台のところに行ったこと。もうすでに自分の分は目の前に置かれているのに。何をしにいったのかな,足りないから追加に行ったのかな,と思ったら逆で,自分が嫌いなものを戻しにいったようだ。
僕の前にいた男の子は,野菜炒めを返し,昆布まきを返し,たんかん(ミカンの一種)を返していたので,食べたのは,牛乳とご飯とおつゆ(中味汁)だけである。いくらなんでもそれだけじゃ午後におなかがすくんじゃないの?と思ったが,平気だという。
小4男子なんて食べ盛りだから普通の給食だけじゃ足りないだろう,なんて思っていただけに,相当びっくりしてしまった。
1980年代半ばに,当時のコンピュータオタクや,パソコン(マイコン)黎明期の著名人にインタビューした本。筆者は『 喪の途上にて』も書いている精神科医で,本書は大宅壮一ノンフィクション賞受賞作だそうだが,内容は,『 喪の途上にて』のほうが,私にははるかにおもしろかった(深みがあったというか)。筆者は精神科医として,プログラマーの抑うつ状態を治療する機会があり,プログラマーについて知りたい思ったのだそうだ。そこで筆者は,数十人のコンピュータおたくにインタビューをし,情報化による文化変容に焦点を当てて本書を書いた。『 喪の途上にて』と同じく,学問的考察というか薀蓄の部分は,私はいらないと思った。それよりも当時の人たちの生態を知ることのほうが私にはおもしろかった。
正確に言うと,面白さ半分,懐かしさ半分とでもいえようか。私がはじめてパソコンに触れたのは1982年,はじめてパソコンを買ったのが,確か1985年である。そういう意味で本書は私には,「懐かしい」感じがした。といっても私は,本書に取り上げられているコンピュータオタクとは無縁ではあったのだが,しかし当時パソコンで何をするかというと,ごく一部で出されていたワープロソフトを活用する以外は,基本的に「プログラミング」だったのだ(ベーシックとか)。そういうことを思い出させてくれた点で懐かしかった。
もっとも本書に出てくる人は私よりも(当然)はるかに上を行っている。1970年代にマイコンを知った人たちは,LSIを組み合わせてマイコンを作ったりしているのだ。あるいは,マイコン自体,当時はとても高価だった。だからマイコンが触れるのは週に1度行く秋葉原だったり,あるいは雑誌を通して知るだけで,「機械がないので実際にプログラムを組んだりはできない。机の上で機械語などをマスターしていった」(p.269-270)なんて状況だったのだ。これをみて思ったのは,まるで江戸末期や明治初期に語学をマスターした人みたいだなあ,ということ。外国の文化もある意味「情報化」と言えるわけで,当時も「情報化による文化変容」が起きていたんじゃないだろうか,なんて本書を読んで思った。
あとは,アスキーの西氏,ソフトバンクの孫氏,トロンの坂村氏なども出てくる。当時彼らがこんなことを考え,述べていたのかというのは,また別の意味で興味深かった。ソフトバンクなんかは,なんでソフトバンクという名前かというと,ソフトウェアの問屋業として始まったからなわけね。なんてことがわかった。もっとも孫氏は,当時から「最終的には世界一を狙っている」(p.231)なんて述べており,その志は今も当然持ち続けているんだろうなあ,なんて思った。という感じで,当時を懐かしみ,それ以前の黎明期を知り,今があることを思い出すという点で,懐か面白い本だった。そこそこに,だけど。
今日は妻の誕生日。昨日の夜,娘たちの寝る前の支度が時間がかかっていたので,妻の誕生日をダシに,こっそり提案をしてみた。「明日の朝,ママより早く起きて,ハッピバースデー歌ってびっくりさせたら?」
下の娘(小1)はそれを聞いて,うれしそうにイソイソと寝支度を始めた。上の娘(小3)は,もう少しシミュレーション能力があるようで,質問してきた。「いいねー。でもどうやって起きたらいいかなあ。目覚まし時計をかけたらママにバレるし...」
なるほど,私はそこまでは考えていなかった(あくまでも子どもたちを早く寝せる作戦だったので)。「んー,どうしよう?」なんていっていると,そのうちに上の娘が,イイコトを思いついたふうの顔で,こういった。
「そうだ,オシッコいっぱいためて寝ればいいんじゃない?」 いや,それはちょっと...(柔軟な発想をしているところはすばらしいんだけど)
#ちなみに今朝は,当然,妻(母)より早く起きることはできなかったので,私が子どもたちをこっそり起こして寝たフリをさせ,妻に「子どもたち起こしてきて」と頼んで,起こしに来たママをギュウしながらハッピバースデーを歌う,という趣向にしました。
農学の修士課程を出て新聞社に勤め,現在フリーの科学ライターをしている筆者による,科学リテラシー(&メディアリテラシー)の本。健康情報番組のウソ,中国産野菜報道のトリック,環境ホルモン騒動,添加物バッシングの問題,自然志向の罠,マイナスイオン,遺伝子組み換え大豆,バイオ燃料など,科学・農業関連の報道について論じられている。分野別クリシンの本とでもいおうか。そういう意味では,まあまあこの分野の知識を得ることはできた。
私の研究上の関心でいうと,メディアの記者が健康報道や科学報道で無批判的思考(あるいは弱い意味の批判的思考)におちいるのはどうしてかについて,本書で少し触れられていた。それは,「ほかの研究者の話を聞いて情報を吟味していたのでは,他社とのトクダネ争いに勝てない」(p.87)からであり,「若い記者にとって,科学的根拠がある「危なくない」記事よりも,世間を驚かす「危ない」記事を書いた方が,社内的な評価ははるかに高い」(p.91)からであり,あるいは,「「伝統食は健康によい」「昔の日本人は野菜をたくさん食べていた」などの説は,そう目くじらを立てるような話ではなく,抗議はまず来ません。それが記者には分かっているので,わざわざ真偽を確かめるようなめんどうなことはしない」(p.163)のだそうだ。
なるほどね。トクダネ至上主義,警鐘至上主義,そして面倒なことはしないという感じのことか。これは健康情報,科学情報に限らず,メディアの一般特性と言えそうだ。
先週の金曜日から毎日飲み始め,今日で飲み終わる。
体感的には,何かが変わったという感じは,まったくない。
それどころか,週の半ば2日ほどは,むしろ尿道に不快感があった。ウワウルシって,尿路殺菌作用があるはずなのに。おかしい。
もっとも,それがウワウルシのせいなのかどうかは分からない。そのとき,同時に38度台の熱もでた。風邪でウィルスなりばい菌がそちらに回ったという可能性もあるだろう(よく知らんけど)。結石の石が降りてきているという可能性もある(はっきり石が出たという実感はまったくないのだが)。
まあ今は,不快感もないからいいんだけどね。