読書と日々の記録2001.03上
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■読書記録: 12日『パラドックス!』 8日『インタラクション』 4日『見せる自分/見せない自分』
■日々記録: 14日ハイハイとか留送会とか 9日口の達者な娘&目の痛み 6日読書記録を始めてから失ったもの 2日乳児が人間らしく感じられるとき

 

■ハイハイとか留送会とか
2001/03/14(水)
  • かぜ引いた。
     今年ははじめてだ。去年は今ごろまでに3回は引いていたので,それに比べるとウソのように快適な数ヶ月だった。
  • 下の娘(6ヶ月)のハイハイ。
     きのうから大々的にハイハイをはじめたので,昨日がハイハイ記念日。ふと気づくと,リビングの床なんかをイグアナのように緩慢な動作で,しかし着実に移動している。まだ慣れていないのでちょっとギョッとする。
  • けんこうひとくちけんこうひとくち
     上の娘(2歳9ヶ月)がときどき,思い出したように連呼する。何かのコマーシャルだと思うんだけど,現時点では元ネタ不明。そういえば以前,「てるてるてる」と連呼していたので何かと思ったら,"sale! sale! sale!"という電器屋さんのコマーシャルだった。
  • 留送会
     今日はウチの教室の卒業パーティだ。こちらでは留送会と言う。最初は,みんな沖縄の着物を着るのかと思った(=琉装会)。留送会って,沖縄独特の表現だと思っていたが,Googleで検索をかけてみると,沖縄らしきページ(14件)のほかに,北海道らしきページが2件ヒットした。北海道でも留送会と言うのか? 沖縄と北海道,ナニつながり?

 

■『パラドックス!』(林晋(編) 2000 日本評論社 ISBN: 4535783195 \1,600)
2001/03/12(月)
〜語りとか他者とか〜

 哲学,数学,物理学,確率論,経済学など,さまざまな分野のパラドックス12を集めた本。書いているのは全部別の人で,その道の第一人者のようである。面白かったものもあれば,難しくてよくわからなかったものもある。基本的には寄せ集めで,本書全体としての視点はない。その点はちょっと不満。

 私が特に面白かったのは2つ。一つは,ゼノンのパラドックスに関する野矢氏の文章。ゼノンのパラドックスのうちアキレスと亀については『無限論の教室』に詳しいが,本書では,それ以外のパラドックス(分割のパラドックス,飛ぶ矢は飛ばない,すれ違いのパラドックス)も含めて考察されている。ゼノンのパラドックスは,「まえがき」で編者が述べているように,数学的にはなんらパラドックスではないが,数学をはなれて考えると,やっぱり気持ち悪い,という不思議な代物である。

 それを野矢氏は,「語り」という視点を導入してパラドックスを解消している。それは次のようなものである。

時間・空間が一定の最小幅を持つかどうか,という問い方が不適切である。問うべきなのは,どのような語りをすべきか,ということであり,それは何を語るかによって異なってくる。(p.45を道田が要約)
この考え方は,このパラドックスを日常モードで捉えたときの気持ち悪さをうまく説明し解消するような気がする。またこの考えからすると,ゼノンのパラドックスが数学的にはパラドックスではない,ということは結局,日常モードと学問モードでは「語り」が相当違っているということなのだろう。

 もう一つは,ヴィトゲンシュタインのパラドックスをカオスの数学の概念で説明した大澤氏の文章。ヴィトゲンシュタインのパラドックスとは,

規則は行為の仕方を決定できない,なぜなら,いかなる行為の仕方もその規則と一致させることができるから(p.197)
というものである。ヴィトゲンシュタインはこれについて,それは正しいとか間違っているとか言ってくれる他者が存在しているということを仮定すれば,「規則に従う」という現象を説明することができる(p.207)という「懐疑的解決」を提案しているそうである(p.207)。

 筆者はこのパラドックスを,「カオスの数学において偶然と必然が一致する」ことと同じだと考えている。カオスの数学を使えば,どんな偶然の数列についても,式を使って必然の数列として法則的に記述できる(p.196)のだそうだ。したがって,ある数列が偶然か必然かというのは,視点の違いでしかない。

 先ほどの懐疑的解決は,学習者にとって「偶然」(デタラメ)と思われるような規則の従い方が,他者(教師)に教えられることで,教師の視点を身につけ,「必然」に見えるようになることである,というのが筆者の考えだ。筆者の話はこれだけにとどまらず,民主主義の代表制のパラドックスの話にまで発展していくのだが,そこはうまくまとめられないので省略。面白かったので,機会があれば筆者の別の文章も読んで見たいものだ。

 この,教師によって偶然が必然になるということからすると,学習は必然的に,他者の規準に盲目的に従うという無批判的思考が含まれる,と言える。その中に批判的思考は,どう位置づけられるのか。

 

■口の達者な娘&目の痛み
2001/03/09(金)

 上の娘(2歳8ヶ月)は,いたずらも好きな上,口も達者になってきた。

 いたずらも種類によっては,きつくしからねばならない。先日も,何でだったかは忘れたが,上の娘をしかる必要があった。それで,(妻のまねをして)こわい顔&こわい声で,「パチンするよ!」と言って手を振り上げた。すると娘がささやき声で,

「ママみたいだよ」

 昨日も,車の中でいろいろと悪さをするので,「パチンするよ!」と言った。言うだけでは迫力ないので,(娘ではなく)自分の手でパチンと音を立ててみせた(ちょうど蚊を叩くときのアクションですね)。すると娘が,またささやき声で

「お手手痛くなるよ」

 ...うーん,まいった。

 先日から続いている目の痛みであるが,これを書いた日は一番ひどく,いつもは平気な,液晶ディスプレイ画面や蛍光灯の明かりでさえ,つらく感じるほどだった。それで,インターネットで検索したり,自分の日常生活を反省したりした挙句,次のようにすることにした。

  • 読書中は意識的にまばたきをする(読書中や作業中は回数が減ってるんだそうで)
  • 目薬をひんぱんにさす(前は1日1回しかしていなかったが,説明書きには3〜6回と書いてあるので)
  • 近くを見るときは,まめにメガネをはずしたり,度の弱いめがねに替える(メンドーだけどしょうがない)

 今のところ,読書時間もディスプレイに向かう時間もあんまり変えていない(春休みのこの時期,主な仕事はこのどちらかの形態になってしまうので,しょうがない)。が,それほどひどい症状は出ていない。これが吉と出るか凶と出るか...

 

■『インタラクション−人工知能と心−』(上野直樹・西阪仰 2000 大修館 ISBN: 4469212520 \2,000)
2001/03/08(木)
の心配,どうも
ありがとうございます
〜相互行為の中に心を見る〜

 認知科学における状況論者である上野氏と,社会学におけるエスノメソドロジストである西阪氏による対談本。この二人にはそれぞれ,『仕事の中での学習』『相互行為分析という視点』という単著があるのだが,どちらも非常に難しい本だ。それはおそらく,この二人が採用している方法論が,従来的な科学とはかなり発想が異なるものだからだろうと思う(パラダイムが違う,と言ってもよさそうである)。それで,以前読書記録の中で,「相互行為分析の,もう少しわかりやすい本はないかなぁ」と書いたところ,著者の一人である上野氏からメールを頂き,そのときに紹介していただいたのが本書である。

 本書は対談であるせいか,上にあげた2冊の本よりは読みやすい。ただし,系統性が欠けるのはしょうがない。本書は,お二方の基本的な主張をざっと知りたい,という方にはちょうどいいのではないかと思う。それにしても,パラダイムが違うことに由来する難しさは,依然残るのだけれど。

 一応,私がこれだと思った,著者たちの基本的な発想をいくつか抜書きしておく。(強調は道田)

  • 個人,心,意図,知性といったことは,与えられた固定的な実体というよりは,ある種のdoingとか,相互行為として見るべきなんじゃないか(p.33: 上野氏)
  • ぼくたちが相互行為というときは,なにか一般理論や一般モデルに収まらない事柄を,なんとかすくい取ろうといった,方法的な構えみたいなものをそこに込めている。(中略) 人間たちが相互行為をしているということにおける,さまざまな偶然的な要因,さまざまな偶然的な条件というものをシリアスに扱っていこうというわけです。(p.79-80: 西阪氏)
  • ぼくたちは,一般的なモデルを作るということを断念せざるをえないんですね。(中略) 「局所的」秩序の「独自性」にこだわるならば,そういう形での情報の縮減は,ほとんど期待できないわけです。だからといって,とにかく「ありのまま」を全部記述するのだ,みたいなのとは,決定的に違う。(中略) インタラクションの参加者たちは自分たちの「判断」あるいは「志向」をどういうふうにその当のインタラクションのなかで重ね合わせながら,自分たちのインタラクションを組織していくか。(中略) この点に議論は集中しているんです。(p.195-6: 西阪氏)
この,「実体ではない」「モデル化・一般化しない」という点が,非常に分かりにくい点だろうと思う。もうこれ以上理解しようと思ったら,あとは,実際の研究論文を読むしかないのかもしれない。

 本書を読んで,ちょっと思ったこと。「実体」や「モデル」のほかに,著者たちが否定しているものとして,次のようなものがある。

  • 記号表象に基づく情報処理を行う伝統的ロボット(p.51)
  • 階層的なプランなり意図なりによって行為は擬似因果的に決定されるという考え方(p.127)
  • 専門家の知識表象を利用したエキスパート・システム(p.146あたり)
本当にちょっと思っただけのことなのだが,これらは,ちょうど『考える脳・考えない脳』で言う,「古典的計算主義のメカニズム」に対応しているのではないだろうか。いずれも,外的表象としての記号を操作することによって行われる活動であり,本書で言う「表象」「記号情報処理」「階層的プラン」などと同類にくくれるものであるような気がする。そうなると,計算主義と対置される「コネクショニズムのメカニズム」が,本書のような状況論や相互作用分析のなかの,何と対応するのか,考えてみると面白そうである。すぐには答えが出そうにないし,どちらの領域も詳しくはないので,まだ「これだ」と言えるものはないけれど。

 もっとも,本書の方法論では,「一般的なモデルを作るということを断念せざるをえない」そうなので,この思いつきは,全然はずれている可能性も大きいのだが。でももし仮に,このように対応させて理解することが可能なのであれば,もうちょっと状況論や相互作用分析が理解できそうな気がするんだけどなぁ。

 

■読書記録を始めてから失ったもの
2001/03/06(火)

 この読書記録を始めてから,失ったものがある。お金とか本棚のスペースとかではなく。

 それは視力である(失った,というよりも「低下」だけど)。読書記録をはじめる前までは,一応かろうじて,運転免許の条件に「眼鏡等」はついていなかった。とは言っても,それ以前から見えにくい気がしていたので,,運転時には必ずメガネをかけてはいたのだけれど。

 しかし,1999年の11月(読書記録はじめて2ヶ月)の免許更新時に,この条件がついた。それだけではなく,そのときかけていたメガネでも,視力がギリギリだということが分かった。それで,メガネも新しくした。

 しかし,どうもそれだけでは収まらないようである。最近なんだか,目が疲れやすい。目薬をさすと,「乾いた大地に染み渡る」ような感じがする。それで,ここ数週間,毎日目薬をさしている。

 それでも最近,目の調子がイマイチな気がする。それで今度は,目に「蒸しタオル」もしている。某テレビ番組でやっていたので。これもなかなか気持ちいい。でもこれをやっていると,なにやら面白そうなことをしていると思っているらしく,上の娘(2歳8ヶ月)も横に来て真似されてしまう。

 実は蒸しタオルよりも,目もとじんわりスチーマーがほしいのだけれど,絶対「まーちゃん(仮名)もする,まーちゃんもする」とダダをこねられるに決まっているので,それは諦めている。本当は,眼科に行った方がいいのかも知れないけど。

 

■『見せる自分/見せない自分−自己呈示の社会心理学−』(安藤清志 1994 サイエンス社 ISBN: 4781907539 \1,900)
2001/03/04(日)
〜見せ方の違いが個人差になる〜

 本書は,社会心理学における自己呈示の研究を幅広く概観することを目的にかかれた本である(p.285)。そもそも,本書が入っている「セレクション社会心理学」というシリーズは,テキストと専門書の間をつなぐような本,卒論を書く際の参考書となるような本,ということではじめられたらしい(p.287)。本書はその通り参考書的で,自己呈示に関しては,代表的な研究をはじめ一通りの知識が得られる。逆にいえば,あまり読んで面白い本ではない(もちろん,自己呈示研究には興味深いものも多いのだけれど)。

 本書によると自己呈示とは,

さまざまな自己の側面のうち,特定の側面を選んで「見せ」,他の部分を「見せない」(p.6)
ことを言う。たとえて言うなら,自己に関する情報を「編集」することである。そのような視点で見たときに,私が個人的に興味を覚えた部分が2つほどあった。

 一つは,女性が見せる「女らしさ」の中には,自己呈示の要素が含まれている,という知見である。女性がアナグラム(文字の並べ替え)課題を解く。その成績が「伝統的な女性観をもった魅力的な男性」に知らされる,という状況を作っておくと,なんと女性の成績が下がるそうである。伝統的な女性像にあわせた自己呈示,というわけだ。相手が魅力的でなかったり,進歩的な女性観を持った男性である場合には,成績は下がらない。このことから,これが自己呈示(編集された自分)であることがわかる。

 別の実験では,魅力的な男性と一緒だと,女性の食べる量が減ることも示されている。これも,相手が魅力的でなかったり同性である場合には食べる量が多いことから,やはり自己呈示と考えられる。そのように振舞うことがいいか悪いかとか,なぜそのようになったのか,という議論はさておき,性差の中に,「自己呈示」の要因が含まれているとは,ちょっと驚きだった。

 私が興味を覚えた2つ目は,「自己モニタリング」という概念と自己呈示の関係である。自己モニタリングとは,対人場面において自己呈示や感情表出を注意深く自己観察し,それを調整・統制すること(p.205)であり,このような調整をどのくらい行うかには個人差がある。自己モニタリング傾向の高い人は,他者の振る舞いを注意深く観察し,それを指標として自分の行動を調整する。自分の行動がその状況で適切かどうか,常に関心を抱いているからである。

 それに対して自己モニタリング傾向の低い人は,他者の振る舞いにはあまり関心を示さず,自分の内的な感情状態や態度によって自分の行動を決める。つまり,状況によらず行動が一貫するわけである。人によって行動が一貫したりしなかったりすることを,自己呈示のスタイルの違いとして理解できるわけである。ちなみにこの2者,判断基準が外にあるか(=高自己モニタリング),内にあるか(=低自己モニタリング)の違いと考えると,ちょうどユングのタイプ論における「感覚」と「直感」に対応しているような感じがした。詳しく知っているわけではないので,あたっているかどうか分からないけども。

 結局私が興味を持ったのは,個人差と関係する部分だ。性差も含め,人による振る舞いの違いを考えるのに,自己呈示という概念は,なかなか有効なものなのかもしれない。

 

■乳児が人間らしく感じられるとき
2001/03/02(金)

 下の娘(5ヶ月)が,だいぶ人間らしくなってきた。

 よく,子どもは3ヶ月過ぎたら楽になる,というが,この子はよく泣く子で,今でも結構大変である。ちょっと前までは,寝ているかダッコされているかミルク(あるいはおっぱい)を飲んでいるとき以外は,たいてい泣いている,という印象だった。

 それだけならまだしも,ダッコやミルクの最中にも,泣いてどうしようもないことがある。そういうときは,立って揺すりながら抱っこしてあげないといけない。座って楽させてくれたりはしないのである。それでも泣き止まないこともある。そういうとき,つい「もうオレは知らん!」などと言ってしまい,それを上の娘(2歳8ヶ月)に真似される始末。

 ところが最近,寝返りが上手になったり,おすわりの姿勢で長くいられるようになった。そうすると,見える世界が変わって面白いのか,結構一人で遊んでいられることも多くなった。そういうときは,だいぶ楽である。でもそこに上の娘が来て,下の娘が遊んでいるおもちゃを取り上げたりして,結局下の娘が泣いてしまうことも多いのだけれど。

 さらにそれだけではなく,よく笑うようになった。前から,のどやおなかをくすぐると,けっこう「グヘヘ」と笑っていたのだけれど,昨日は,「いないいないばあ」的なアクション(実際にはもっとはげしく「ワッ」とおどかす)でも,声を立てて笑ってくれるようになった。

 直接手を触れなくても笑い声をあげる,という点に,なんというか人間らしさが感じられるような気がするのであった。

 


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