読書と日々の記録2001.02下
[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'01] [索引] //  [ホーム]
このページについて

 

■読書記録: 28日短評8冊 24日『大事故の予兆をさぐる』 20日『論理学入門』 16日『幼児が「心」に出会うとき』
■日々記録: 27日英文読解と通状況性 22日私の授業評価(人間関係論) 18日教育学部における卒業論文

 

■2月の読書生活
2001/02/28(水)

 今月で,カウンタが2万を超えた。かかった時間は,1万までの道のりの半分ぐらいだ。日記才人のランキングに参加したり,更新頻度を上げたせいか。

 今月面白かったのは,『大学の授業を変える16章』『メディア論』。そこまでではないが,『現代倫理学の冒険』は,この分野の話が非常によくまとまっているらしいので,またいずれ読み返す必要が出てくるかもしれない。今月他に読んだのは,以下の8冊。

『現代科学論−科学をとらえ直そう−』(井山弘幸・金森修 2000 新曜社 ISBN: 4788507404 \2,200)

 前半は,科学史,科学哲学,科学社会学からなる,比較的オーソドックスな科学論(meta-science)だったが,後半は,従来的な科学論の枠組みを超え科学論(science studies)であった。扱われている内容は,科学の人類学,ロボット,フェミニズム科学論など。そういう意味では,私の興味からするとちょっとはずれていた。「サイエンス・イメージ」の章では,テレビ番組で伝えられる科学はつねにメディアの「語りの支配」を受けて(p.125)いるという指摘がある。テレビは,科学が本来持っている懐疑精神を覆い隠し,蓋然的なものが白黒つけて語られる,ということである。こういうことを扱う科学論もあるのかー。

『近代とはいかなる時代か?−モダニティの帰結−』(アンソニ・ギデンズ 1990/1993 而立書房 ISBN: 4880591815 \2,500)

 モダニティについての,社会学的な分析。部分的にしか理解できなかった。以下に,わかった部分をメモ書き。どうやら筆者によると,モダニティとは,「時空間を拡大」することらしい。たとえば貨幣は,時間を括弧に入れ,それによって取り引きを個々の交換の場から切り離す手段となる(p.39)。それは,「専門家システム」も同じである。これを「脱埋め込み」という。そんなこんなで,モダニティは,本来的にグローバル化していく傾向がある(p.84)という。

『説得を科学する』(榊博文 1989 同文舘 ISBN: 4495852914 \3,204)

 説得と態度変容に関する諸研究が,(たぶん)かなり網羅された本。網羅的な本なので,面白みはないがしょうがない。ただし,なぜか本書中盤は,100ページほど使って,異文化間説得や異文化間屈折の話が,比較文化的に考察されており,面白い。あと私は,この手の研究領域における「態度」の意味が知りたかったのだが,それは「あとがき」にあった。すなわち態度には,認知的側面(物事をどう受け止めているか),感情的側面(どのような感情を伴っているか),行動的側面(実際にどの程度行動に移すか)の3つの側面がある(p.335)そうである。とはいえ,質問紙による態度測定は主に認知的側面のみを扱っている。そういう意味では,説得研究における態度とは,意見と同義と考えてよさそうだ。

『猫とロボットとモ−ツァルト−哲学論集−』(土屋賢二 1998 勁草書房 ISBN: 4326153385 \2,200)

 7つの哲学論文が集められた本。最初の「猫とロボットとモーツァルト」は,芸術とは何か(なにかを芸術として認めることはどんな結果をともなうのか(p.2))についての話で,これはよくわかったし,ある程度納得もした。しかし,「存在」の話(2つ)はほとんどわからず,「知覚」の話(2つ)もあんまりわからなかった。最後の「どうして分かるのか」では,「分かることのの表明」を言語ゲームとして捉えるという話で,これは『哲学・航海日誌』にもあったような話なので,多少は分かった。うーん,オビには「語り口は易しく」と書かれているにもかかわらずこんなに分からない部分が多いなんて,おそらく私は,哲学的な思考ができ(てい)ないのだろう。

『<対話>のない社会』(中島義道 1997 PHP新書 ISBN: 456955847 \657)

 再読。本書には,<対話>の大事さを訴えるという「まともな」部分と,筆者の奇行(失礼)の部分があるが,本書は両者のバランスがよく,また,後者の話がきれいに前者に収束していくので,安心して読める。今回特に注目したのは,次の2点。
 (対話では)公平な(第三の)視点を得るのではなく(それは得られない!),あくまでも自分の状況にとどまったまま,相手の状況を理解する二重の視点を獲得するのである。(p.136) 対話は討論とも科学的議論とも違う,という話。個人的色彩に彩られた弁証法的理解,ということであろうか。
 本書で,私は基本的に欧米社会で生まれ育ってきた言語観や対人観や価値観にしたがって論理を展開してきた。だが(中略)けっして現実の欧米社会に理想的<対話>が実現されている,と考えているわけではない。(p.201) 欧米でもそれは稀であり,みんな真理よりは権利を求めている,という。前回読んだときも思ったが,本書がベースに持つような,比較文化論や日本文化論について,もっと知りたいものだ。

『文章をダメにする三つの条件』(宮部修 2000 丸善ライブラリー ISBN: 4621053272 \660)

 文章の書き方の本によく出てくる,起承転結,てにをは,誤字脱字のチェックを「瑣末な項目」(p.115)として退け,それよりも,「事実や印象の羅列」や「理屈攻め」,「一般論の展開」(p.3)の3つを「禁止事項」とした本。大事なこととしては,書き手個人が見える文を書くこと,書き慣れること,ポイントを絞る(それ以外は捨てる)こと,よく観察すること,などが挙げられている。基本方針はよくわかったし,多少の文例も載せられていたが,具体的なレベルでは,どうすればいいかが十分に分かったとはいえない気がする。

『「考える」科学文章の書き方』(マリリン・F.モリア−ティ 1997/2000 朝倉書店 ISBN: 4254101724 \3,600)

 原題は"Writing Science through Critical Thinking",つまり,「批判的思考を使って科学論文を書く」という本だ。本書では批判的思考を,自分が<見ているもの>と,<見ていると思うもの>と,<それが意味すると思うもの>を区別する推論能力(p.ii)と定義している。しかしこれに常に明確に焦点が当てられているわけではなく,基本的には,一般的な科学論文の書き方の本だと思う。

『「孫子」を読む』(浅野裕一 1993 講談社現代新書 ISBN: 4061491636 \660)

 「最古最高の用兵理論」である「孫子」の解説書。孫子の特徴は,戦争イコール戦闘とは考えないなど,軍事についてきわめて柔軟な発想を展開している点(p.15)。孫子の有名なくだりに「彼を知り己を知らば,百戦して始(あや)うからず」がある。これは次のように解説されている。いわく,敵情把握にあたって,敵を憎悪するあまり,情報の収集や分析をおこたることがある。また,自軍を知る際にも,自己弁護や自己正当化があり,願望が客観的事実にすり替わり,過信や独善におちいりやすい(p.108)。したがって,思い込みの強い者,反省心のないものは決して勝てない(p.109)のである。なるほど,このくだり,批判的思考のすすめだったわけね。

 

■英文読解と通状況性
2001/02/27(火)

 

英語の文献を読んでるんだけど、なんか高校時代から一向に読むスピードが変わっていないような気がする(胡桃の中の航海日誌 2001/02/26)

 

 ううむ。実はワタシも最近,同じことを感じて,凹んでいる。高校時代から,ということはさすがにないが,ここ15年くらい,ちっとも進歩してないような気がする。冬休みの帰省中に,英語の文献を読もうと思ってもって帰って,読んだページ数わずか3ページ。読む時間がなかったわけではないのに,我ながらあきれてしまう。

 しかし,よくよく考えてみると,いつもいつも遅いわけではない。ときどき,えらくスラスラ読めることがあって,おお,努力の成果が現れたか,とか,日本語に訳さず英語のまま理解してるぞ,と感動することもある(ときどきだけど)。だからと言って,その状態がずっと続くわけではなく,いつまでたっても,あっちとこっちを行ったり来たり。

 ひょっとしたら,「一般的な英語読解能力」なんて,ないのではないかと思ったりする。英語が読めるようになった,と思える瞬間は,たまたま,自分にとって読めるタイプの英文だったに過ぎないのではないか。なじみの内容だったり,見たことのあるような言い回しとか構文だったり。もちろん「読めない」と思える瞬間は,その逆のタイプだ。

 そういえば,認知心理学でも,記憶,発達,文章理解など広範な分野で,知識の領域固有性が明らかにされている(と『類似と思考』に書いてあった)。たとえばある分野について記憶力が高い人でも,別の分野では必ずしも記憶力が高いとは限らない,というわけだ。記憶や文章理解がそうであれば,きっと英文読解もそうであるに違いない。

 そういえば,普段の研究活動で高度な論理性を示す人が,日常全般において論理性が高いとは限らない(ような気がする。私の今までの日常体験からすると)。さらに話を広げると,この話は,ある場面である一定の性格(=行動傾向)を示すからといって,それが通状況的な性格(=いつでもどこでも見られる固定的な性格)とは限らない,という性格の状況論争と似ている気がする。

 結論。性格にしろ知的能力にしろ,一般的で通状況的なものなんてないのである。・・・このような考えは,きわめて現実に合っているようで,魅力的な考えに見える(特に,英文に四苦八苦しているときには)。でも,本当にそれ(だけ)でいいのか,と言われると,実のところはよく分からないのだけれども。

 

■『大事故の予兆をさぐる−事故へ至る道筋を断つために−』(宮城雅子 1998 講談社ブルーバックス ISBN: 4062572095 \1,040)
2001/02/24(土)
〜誤る前に学ぶ〜

 本書の基本的な考えは,次の通り。

一件の大事故が発生する前には,必ず多数の小事故や不具合(=予兆)が起きている。それらの情報を多数収集蓄積し,危険要因を探り出すことによって,事故を予見・予測し,未然に防止することができる。(p.37-39より道田が要約)
たとえばチェルノブイリ原発では,事故発生前から,安全規則違反や怠慢が常態化していたという(p.22)。本書ではこのような小事故や不具合のことを,インシデント(アクシデントの一歩手前)と呼んでいる。

 通常,事故調査というと,事故が発生してから調査が開始され,機体の回収,関係者の証言などを元に,後ろ向きに原因が推論される。しかしこの方法では,本当の原因が見落とされてしまうことがある。たとえばあるとき,飛行中に「エンジンの逆推力警告灯が点灯」したために,空港に引き返したことがあった(p.60)。調べたところ,出発前に行った整備作業の不備で,「セイフティ・ワイヤの切れ端がダクト内に進入し,移動して遮断バルブに挟まった」。これ自体は,「手抜きともいえない些細な過誤」だそうで,何の問題も生じない。しかしこれに,その他の小さなことがいくつか重なって,上記のようなインシデントとなった。もちろんこれも,それほど大きな問題とは言えない。

 しかし,もしワイヤの切れ端が大きかったり,問題が表面化したのが離陸時だったとしたら,それは墜落事故につながった可能性がある。しかしもし墜落して機体が回収されたとしても,「ワイヤが挟まっていた」ことが発端だったとことはまず分からない。せいぜい「固定金具の経時劣化」だろいうという推定ぐらいである。このことからも,インシデントの事例を蓄積し,問題点を分析するともに,問題を改善する手立てを検討する必要があるわけである。

 また,航空機事故に関わる人間には,大きくパイロット,管制官,整備士がいる。その中にも複数の人間がいるわけだが,関連する人々の業務分担が明確でなかったり,コミュニケーションが良好でない場合にも,容易にインシデント(そしてアクシデント)を引き起こす。たとえば副操縦士が機長に対して,行動に疑問や異議を唱えることを躊躇(p.47)したり,多少の疑念を抱いたとしても,自分にはわからないなんらか理由があるのではないかと考えてなかなか率直に疑問を発することができないこともある。

 そういえば『新聞記者の仕事』の中でも,「新聞記者と政治家のように,権力関係が対等でないものが,いかに対等な関係を築くか」という話があった。機長と副操縦士,パイロットと管制官なども,基本的にはこれと同じである。連携ミスに陥らないためのポイントは,「明確な業務分担と,自分の分担範囲の重要性についての認識」ではないかと思う。これは航空機だけの問題ではなく,日常的に複数の人々で仕事をするときに,必ず必要になってくることであろう。

 本書はこのように,航空機事故とその改善という,いわば誤りから学ぶ批判的思考の実践を示した書である。その記述は事例が主であり,航空機業界にあまり詳しくない私には,よく分からない部分もあったが。それでも分かる範囲だけで言っても,興味深い事例集ということができよう。印象的なことばとして,次のものがあった。

安全は,潜在的危機を認識している者によって担当されて,はじめてかろうじて保てるのであり,安全だと思い込んでいる者が担当すれば危険が高まる(p.29: IAEA事務局長の言葉)
この文章中,「安全」という言葉を「より良い思考」と変えても,十分意味が通じるであろう。

 

■私の授業評価(人間関係論)
2001/02/22(木)

 共通教育科目。受講登録者数122名,回答者数104名で,回答率約85%である。回答率というよりも,授業に最後までついてきた人数だな,これは。

 数字的なデータと,学生の感想(抜粋)はこちらにある。まず,昨年度の課題であった,「評価の低下」がどうなっているかというと...

 総合評価(4問)の平均が,1999年の3.85から,2000年は4.24と,なんだか異様に上がっている。原因はまったく不明だが,まあとりあえずはよしとするか。学生の感想でも,「必ず何か一つは頭に残る」「強弱をつけている」なんて,うれしい言葉が並んでいるし。といっても,どこら辺がをみてこういう評価になったのかは不明なのだけれど。

 ただし喜んでばかりもいられない。まず,レポート課題に対する文句が結構出ていた。学生さんがおっしゃることはもっともで,これに対応することが来年度の課題だ。具体的には,レポートの書き方の指導をすること,それと,レポートがどのように評価されるか,ある程度学生にも分かるようにすることだ。

 問題点その2。学生評価では,授業の評価は高かったが,テストの出来を見ると,そんなに喜んでもいられない。どうも,安易で表面的な理解にとどまっているような気がする。その点も,何とかしなければならない。「学生のレポートを有効利用する」とか,仮説検討型授業をときどき取り入れる,などいくつかのアイディアはあるが,具体的には半年後に詰めることにするか。

 

■『論理学入門−推論のセンスとテクニックのために−』(三浦俊彦 2000 日本放送出版協会 NHKブックス ISBN: 414001895X \970)
2001/02/20(火)
〜前半はマル,後半はハテナ〜

 論理学入門というタイトルであるが,論理学の本というより,

「人間原理」という反コペルニクス的な科学方法論の体系的概説と批判的検討(p.5)
を主目的とした本だと考えた方が妥当だと思う。本書は2部構成なのであるが,第1部が「記号論理学の基礎」,第2部が「人間原理の論理学」となっている。つまり第2部で,論理学を主な武器として人間原理を概説・検討する,その基礎知識として第1部の「論理学入門」がある,という関係にある。

 本書に限らず論理学の本には,論理学徒以外の人にとっては理解に時間がかかるような表現が多々出てくる。しかし本書はこのような構成になっているので,そのような部分は流し読みして,後半を読みながら適宜前に戻って,必要な論理学の知識を確認するのがいいと思う。というか私はそういう読み方をした。おかげで前半の理解不足個所もフォローできたし,後半の議論にも(ある程度)ついていくことができたと思う。

 第2部の「人間原理」に関しては,十分に理解したとも言えないが,理解した範囲で見る限り,あまり得るものはなかったので,特に説明はしない。ただ,地球外知性の存在や,文明の寿命について考察するのに,「平凡の原理」を持ち出す(というか,これしか持ち出さない)のはどうかと思う。

 平凡の原理とは,特別な情報が付け加わらない限り,自分が多数派に属していると想定すべき(p.193)であるという,まあ確率論的には妥当な原理だ。これを仮定すれば,地球外文明の存在を否定せざるを得なくなる(p.190)と「論理的」に帰結される。しかしまあ,地球外知性が見つかっていない現状を平凡なものとして般化していくわけだから,論理的にそのような帰結が出るのは当然といえば当然だろう。しかしそれでは,現状肯定の結論以外は何も生み出されないのではないだろうか。そもそも論理学(特に演繹)とはそのようなものなのかもしれないけれども。

 というように,後半部については,疑問な点や不明な点が多々あったが,前半部は比較的よくできた論理学概説だと思った。それは,通り一遍の論理学の説明,というだけにとどまらず,私がなんとなくよく分からないでいた,あるいはもっと知りたいと思っていた点に関して,ツボを押さえた説明がされている部分が見られるからである(その論理学的な適切さは,私には十分には評価できないが)。

 たとえば,仮説演繹法が,後件肯定の誤謬であるにもかかわらず,なぜ有効なのか。本書では,2つの理由があげられている(p.54)。一つは,P(仮説)⇒Q(観測事実)であるとき,観測事実Qが,Pが真であると考えない限りとうてい起こりそうにない驚くべき事柄である場合は,事実上〜P⇒Qが想定されるから,というもの(「〜」は否定演算子)。もう一つは,後件肯定の推論は,1つだけでは端的な誤謬なのだが,何度も繰り返すことによって,仮定(仮説)の信頼度は高まっていくというものである。まあ説明としては単純だが,この程度のことでも,普通の(というか私が知っている)論理学の本にはあまり載っていない。

 この他にも,条件文をどう理解したらいいか(第4節)とか,演繹と帰納の関係(第13節)など,(私にとって)知りたかったことが,(それなりに)述べられている点は(まあまあ)よかった。

 

■教育学部における卒業論文
2001/02/18(日)

 教育学部(教員養成課程)の学生にとって,どんな卒論がいいのか。しばらく考えているのだけれど,なかなか適当な答えが見つからない。

 この問題,以前,書きかけたが,うまくまとまりそうにないのでほったらかしていた。しかし,はせP先生のじぶん更新日記(2/17)で,卒論について取り上げられていたので,これを足がかりに,少し考えたことを記しておきたい。

 はせP先生は,卒論で使う研究法について,次のように述べられている。

方法は固定せず、学生が自分でいちばん興味をもった研究対象に対して、身につけたあらゆる知識や技法を駆使して、できる限り自力で問題に取り組んでいくことのほうが教育的意義が大きいように思う。
さらに,最低限身に付けるべき方法論として「実験法、質問紙法、観察法、面接法」を挙げられている。

 もうこれは,実にもっともなことだと思う。しかし,教員養成課程の学生は,文学部心理学専攻の学生と違い,教職免許取得のための授業が多いため,心理学教育に十分な時間を割くことができない。また,学生の志向も,「心理学」よりは「教員(教育)」に向いている場合が多いようであり,上記のような理想は,なかなか実現が難しい。

 しかし一方で,卒論を考えるうえで,教員養成課程の学生にはプラスもあると思われる。それは,文学部の学生と違い,ほとんどの学生が小学校教員になる,あるいは,子どもや教育に近い仕事につくわけで,将来の方向性がはっきりしている点である。つまり,卒業後の彼らの位置を考えたうえで,そのときに何らかの意味で意義のある卒論を考えることができる。これは教育学部(教員養成課程)の大きな特色なので,その点を念頭においた卒論がもっとも望ましいのではないかと思われる。

 考えはいつも,ここで止まってしまう。将来教員になる学生にとって,意義のある卒論ってなんだろう。それをクリアにすることができないのである。一つは,子どもや教育に関わるテーマということが挙げられるだろう。これは現在でも見られる傾向である。しかしそれだけでいいのだろうか。

 私がいるところで行われている典型的な卒論は,小学生やら大学生やらを対象に,質問紙調査を行い,相関などの統計的な検定結果を元に,考察を行う,というスタイルである。しかし,卒業後30余年の人生を,学校教員として送ることを考えると,統計的な検定なんて,大学院にでも行かない限り,2度と使う可能性はないだろう。また,現場に入る前の学生が,質問紙や実験という方法で,特定の側面のみから切り取られた現実(児童・生徒像)に触れ,そこから抽象的な結論を下す,ということも,それで本当にいいのだろうか,という気がする。

 それなら,観察や面接といった,より丸のままの現実に触れられる方法を取る方がいいのだろうか。それも一理あるかもしれない。しかしそれでは,調査法や実験法を学生が行う意味はないのだろうか。

 調査法や実験法は,科学的思考や論理的思考のトレーニングになるかもしれない。しかしその場合でも,質問紙の作り方,実験における教示のやり方,統計的検定の仕方,といった,表面的なテクニックを身に付けるだけで終わってしまっては,あまり意味がないように思われる。これらが将来にまで役に立つ思考のトレーニングとなるためには,その研究法の意味や限界をきちんと認識した上で行い,また,考察をするにあたっては,代替案まで慎重に吟味した上で,慎重に結論が下されるべきではなかろうかと思う。そこで培われた思考力は,教師になったときに,日常の教育活動の中で生きてくるのではないだろうか。

 とはいっても,ここで述べているのは机上の空論であり,この問いにきちんと答えられるようになるためには,私自身が,学校教師の現状を知り,また,学生の4年間について,もっと詳しく知るべきであろう。とりあえず今日はこの辺で。

 #追記:これに関して,はせP先生から,次のようなコメントがついた。

【教員志望者の場合、「アクションリサーチ+クリシン」という視点は欠かせないと思う。ちなみに「アクションリサーチ」で検索をかけてみたらこちらがヒット。】

 

■『幼児が「心」に出会うとき−発達心理学から見た縦割り保育−』(子安増生・服部敬子・郷式 徹 2000 有斐閣選書 ISBN: 4641280428 \1,600)
2001/02/16(金)
〜結局,心の理論ってなんだ?〜

 本書は,筆者たちが,縦割り保育の幼稚園で週に1回,3年に渡って行った観察記録を元に,幼児の心の発達について書かれた本だ(蛇足ながら,縦割り「保育」の「幼稚園」という表現は適当なのか?)。

 心の発達の中でも特に,子どもたちが「他人の心を理解」する過程が中心テーマとなっているが,それだけに厳密に絞った話になっているわけではない。縦割りで,モンテッソーリ教育を行うこの幼稚園の様子が,短いエピソードをたくさんはさみながら述べられているし,最後の方では,教育に対する筆者の考えなども述べられているので,心理学風味のルポ+エッセイ本,というイメージだろうか。エピソードが多いので,専門知識がない人でも読みやすい。

 本書の中心テーマ(そして筆者らの研究テーマ)は,幼児の「心の理論」の発達である。私も,本書を読んだのは心の理論について知りたかったからである。しかし残念ながら,心の理論については,今ひとつクリアな理解が得られなかった。というよりも,筆者らの記述にある種のゆれがあるのではないかと感じた。

 そこで以下では,本書の中で「心の理論」がどのように説明されているか,検討してみた。したがって,ここから先は,書評や図書紹介というよりも,私の個人的メモに近くなっており,あまり丁寧な説明は加えていない。

 心の理論について,本書で一番最初に説明されているのは,次の箇所である。

「心の理論」とは,心という目に見えない現象を理解するための,ある種の法則のようなものです。子どもはそうした法則を見につけていくことでしだいに心を理解するようになる,というのが「心の理論」の考え方です。(p.72)
ここで疑問なのは,「心の理論」と「心の理解」はどのような関係にあるのか,ということである。上の記述は「心の理論を身につけることで心を理解するようになる」ということなので,「心の理論」は「心の理解」の前提条件のようにも見える。たとえば「心の理解」をするための枠組みが「心の理論」というように。ところが,その後の記述を見ると,必ずしもそうではなさそうである。

 たとえば次のものは,「心の理論」ということを最初に言い出したプレマックら(霊長類学者)に関する記述である。

プレマックらは,動物や人が他の動物や他の人の心の内容を推測できるならば,その動物や人は「心の理論」を持つと考えました。言いかえると,「心の理論」を持つとは,ものの世界のルールとは異なる心の中のできごとについてのルールを知っているということです。(p.80-81)
この記述は,論理的に問題がある。1文目では「A→B」(心の推測できるならば心の理論がある)と言っているのに,「言いかえると」と称して「B→A」(心の理論があるならば心の推測ができる)を主張しているからである。しかしひょっとすると,間違いというよりも,1文目の表現が不十分で,「A←→B」(A=B)なのかもしれない。つまり,「心の理論があるのは,心の推測ができるときであり,そしてそのときに限る」ということである。

 そして,他の箇所の記述から,筆者らが「心の理論」と「心の理解」を同じ意味で使っているらしいことが推測できる。たとえばp.105では,「心の理論」を研究するための「誤った信念課題」という表現もあるし,「誤った信念」課題は「他の人の心の理解」についての課題」という表現もある。この,「心の理論」=「心の理解」という図式が正しいのであれば,不適切だったのは一番最初に引用したp.72の記述,ということが言えそうである。正確には,「心が理解できるということをもって,心の理論が身についたと考える」ということであろう。あるいは,「心の理論」などという言葉をわざわざ使わなくても,「心の理解」という表現で十分なのではないだろうか。

 実際,「誤った信念課題」のような実験でわかるのは,「他人の心が正しく理解(推測)したと思われる行動ができるかどうか」ということである。表面的にわかるのは,あくまで「行動」であり,その背後にはどのような「理論」や「理解」があるのかは,わかりえないのではないだろうか(それこそ「推測」するしかない)。そう感じたのは,たとえば次のような記述に対してである。この部分は,「年中児がペンのふたを外そうとしたが,固くて外れないので,「あれ,これかたい」と言いながら,筆者にペンを差し出した」というエピソードに対する解説部分である。

ミレイちゃんがその要求(ふたを外して欲しい)を伝えるために「あれ,これかたい」とペンを差し出す行為を行うには,二つの前提を必要とします。一つは,「相手(このエピソードでは私)が自分(ミレイちゃん)がペンのふたを外せないでいることを認識している」ことを理解していなければなりません。もう一つは,「相手が自分の行為を,「ミレイちゃんは自分(私)にペンのふたを外すことを求めている」と解釈する」ことを理解していなければなりません。(p.150)
筆者はこの解説の前に,このような行為は直接的な要求以上に高度な心の理解を必要としますと表現している。

 しかしこれは,はたしてその通りなのだろうか。確かに,逆は真であろう。つまり,「この2つの前提が満たされたときには,このような間接要求をする」(B→A)という命題である。あるいは,「われわれ大人がこのような間接要求をするときには,この2つの前提を認識している」というのも,その通りかもしれない。しかし,「B→A」だからといって,必ずしも「A→B」がなりたつとは限らない。つまり,子どもがこのような行動を取ったときに,その背後にこのような(大人と同じような)前提(認識)があるとは限らないのではないだろうか。

 ひょっとしたら私がよくわかっていないだけなのかもしれないが,どうも本書に見られる「心の理論」の記述(あるいは研究)は,このような論理的な誤謬を括弧にくくって議論を進めているように見える。しかし「他人の心の理解」というテーマは,批判的思考にとっても重要だと思うので,もう少し調べて見る必要がありそうである。

 


[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'01] [索引] //  [ホーム]