| 31日短評8冊 30日『カードミステリー』 28日『学生参画授業論』 24日『無責任の構造』 20日『ビデオで社会学しませんか』 16日『21世紀の経済学』 |
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| 26日「ボケ!」という2歳児 23日状況論についての補足 18日母から父へのスイッチ切り替え |
■3月の読書生活 |
2001/03/31(土)
いつも帰宅後,イソジンでうがいをするのだが,昨日はうがい前に,何気なくビタミンCのタブレットを食べた。そしたら,茶色いはずのうがい液が透明になってびっくり。化学反応したらしい。 それはさておき,今月は全部で16冊読んだ。目が痛いとか言っている割には,結構読んだなぁ(笑)。そういえば最近は調子よかったのだが,昨日からまた痛くなってきた(涙)。 それはさておき,今月面白かったのは,『21世紀の経済学』と『無責任の構造』。どちらも新書だ。あと,『インタラクション』については,著者からメールをいただき,それをもとにさらに考えることができたのでよかった。
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■『カードミステリー−失われた魔法の島−』(ヨースタイン・ゴルデル 1990/1996 徳間書店 ISBN: 4198604495 \1,500) |
2001/03/30(金)
〜クリティカルシンカーはジョーカーである〜久々に小説を。本書は,『ソフィーの世界』の作者によるファンタジーだ。1冊の本の中に2つの話が入れ子状になっている。一番外側の話は,家出した母を捜しに少年と父親が旅をする,というものだ。その中で少年が,自分が出てくる豆本を読む,という話だ。そのうち外の話と中の話が絡み合い始めるのだが,詳細は書かない。 この物語では,トランプが重要な役割を果たしている。その中でも大事なのがジョーカー。本書のキーワードは,ジョーカーと言えるかも知れない。ちょっとそれらしい箇所を拾っておくと,
ほかの人が知らないことを知ってる人ってのが,一人はいるはずだと思うよ。カードの中には,必ず一枚,ジョーカーがあるはずなんだから(p.165) ソクラテスは当時のアテネでただ一人のジョーカーだったのだ(p.266) ジョーカーには,人に思い出させる,という大事な仕事があるのだ。大きい人間も小さい小人も,ときどきは,自分たちが生命を持った不思議な存在であることを思い出さなければいけないのだ。ところが,自分自身を知っている者はあまりにも少ない(p.364) 確かにトランプの中で,ジョーカーだけが他のカードと違う。他のカードは,マークでグループを作り,番号という秩序のなかにいる。そこからはみ出たジョーカーは,ほかの人と違う役割をになっている。ソクラテスを,アテネの中のジョーカーとみなすアナロジーは,非常に納得がいく。確かに彼は,無知の知という「ほかの人が知らないことを知って」おり,「人に思い出させ」ていたとも言える。 そしてソクラテスといえば,批判的思考の祖とでも言える人である(のではないかと思う)。ということは,このアナロジーからすると,批判的思考者=ジョーカーということになる。そして,そう考えて見ると,だんだんそんな気がしてくるから不思議である。 いや,私はいままで,できるだけ多くの人が批判的思考者になることが,いいことだと考えていた(いや,今でも理想的にはそうだと思っている)。たとえば『<対話>のない社会』は,そのような主張をしている本であり,その主張には共感している。あるいは,これとは逆の主張が書かれているものに『心理学論の誕生』がある。これには,心理学研究について「懐疑論者はどこかに少数いることが大切なのである」(p.48)とある。それを読んで私は,「そんな。みんなが懐疑論者になってよりよい研究をした方がいいのに」と思っていた。しかしひょっとしたら,それは皆がジョーカーになる,みたいな非現実的な考え方なのかもしれない。 その上,数が少ないということは,別の大変さをも伴う。今月読んだ『無責任の構造』には,次のように書かれている。「どの派にも強く属さぬということは,いろいろなリスクも潜在的に背負うことになる」(p.186),「(正式な問題提起のステージ)に差し掛かると,相当大きな葛藤の一方の当事者になることは覚悟していなければならない。(中略)この状況まで行って乗り切る人は多くはない」(p.208) 確かに,みんながみんなでみんなと同じように属人主義的な判断をして問題を先送りにし,(内部的には)波風の立たない状況を作っているときに,一人だけ「それでいいのか。それは違うんじゃないのか」と言い続けることは,大変なことだろうと思う。波風を立てるし,嫌われるだろうし,敵を作る可能性は高い。少なくとも,相当の覚悟は必要だろう。良くも悪くも,批判的思考者を目指す(目指させる)ということは,そういうことなのだということは,ちょっと意識しておいた方がいいかもしれない,と思った。うまくまとまらないけどこの辺で。 #追記:(たぶん)この文章に対して,次のような意見を書かれている日記(03月30日 19時42分)があったので,転載させてもらっておく。 皆がジョーカーにならなくてもいいのだろうけど(あるいはならない方がいいのかもしれないけど)、でもみんながジョーカーの存在を歓迎するような雰囲気の集団というのは、きっと、いい集団なんだと思いますのん。
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■『学生参画授業論−人間らしい「学びの場づくり」の理論と方法−』(林義樹 1999 学文社 ISBN: 4762004715 \2,500) |
2001/03/28(水)
〜学生による授業の企画・実施・伝承〜筆者が大学で実践している,学生参画授業について論じた本。それは, 教師の教育的配慮のもとに,学生が主体的に,授業の企画・実施・伝承に参画する授業(p.10)である。そうすることによって,『学びの場』を「学ぶ者」が主体となって創造的に再構築(p.9)することができるという。率直な印象を言うと,実に惜しい本である。それはさておき,まずは概要を。 理論的な枠組みとして筆者は,参加のあり方を,参集,参与,参画の3つに区分する。参集とは,学び手が「聞き手」として参加するもので,教師はレクチャラーとして教える役割を果たす。普通の講義がこれである。参与とは,学び手が「出演者」として参加し,教師はコーディネーターとして調整をする。『大学の授業を変える16章』をはじめ,多くの討論授業がこのタイプである。 ところが筆者の「参画授業」は違う。学び手は「設営者」として授業を企画・実行・伝承する。教師の役目はスーパーバイザーであり,ともに学びあう立場にある。そのために著者は,グループで学習させ発表をさせる,という通常の参加型授業を行うだけでなく,その運営(進行,セッテイング,記録など)も学生に係を割り当てて担当させている。とはいっても,教科書や運営方法,授業の目的などは,教師の側で決めている。つまり,大局的な企画は教師,毎週の授業の企画は学生,ということになる。 この他にも,いくつかの授業技法が紹介されている。たとえば,ラベル(小さなカード型の質問書)を使って教師とコミュニケーションするラベルケーション。ラベルを使ってKJ法的に思考を外化するラベル思考。レポートやグループ討論の結果を1冊の冊子にまとめる作品化法。そして,グループ発表を授業の中心にすえるワークショップ(+学生が授業を運営するスタッフ分担)。最後の2つが上に紹介したもので,学生参画授業の中核をなすものと思われる。 冒頭に述べた本書の残念な点は,具体例がない点である。おかげでこの参画授業が,実際にどのような形で行われているかが詳細にはわからなかった。また,上にあげたいくつかの授業の工夫も,個別にしか紹介されていない。したがって,それらを使って,全体として筆者の授業がどのようなものになっているのかも,わからない。そのため,この本を読んだだけでは,明日からの授業に生かすことは,残念ながらできそうにない。ただ,こういうタイプの授業もありうる,ということはわかった。ああ,もっと知りたい。 #筆者が主催する「参画文化研究会」のWebページあり。現在,作成途中のよう。 #あと,この授業をゼミで実践されている方の実践報告があった。
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■「ボケ!」という2歳児 |
2001/03/26(月)
ウチの上の娘(2歳9ヶ月)の最近の口癖は,「ボケ!」である。 最初に使い始めたのは,もちろん私である。面白半分だったのだが。たとえば車を運転していて,前の車がノロいとき,「トロトロ走んな,ボケ!」と言ったり,うちの妻に向かって「そんなことも分からんのか,ボケ!」と言ったり。 本気で言っているわけでもないし,深い意味があるわけでもない。なんとなくおもしろいかな〜ぐらいの気持ちで言っていた。ひょっとしたら娘がマネするかも,とも思ったが,2歳児が「ボケ!」というのも,ある意味カワイイかも,なんてのんきに考えていた。 ところがウチの娘,私をマネして,実に上手に,憎たらしい言い方をする。それで慌てて,「ボケ!」と言うのをやめることにした。あと,娘が「ボケ!」と言っても,一切反応もしない。強化になってしまうので。というか,娘が最初に「ボケ!」と口にしたときに,思わずウケてしまったのがまずかったのだろう。 それでも,娘の「ボケ!」は今のところなくならない。それも,ただ適当に言うのではない。「うるせえ,ボケ!」のような,的確な使い方をしている(私はこんな下品な使い方はしたことがありません)。それだけではない。私がつい,妻に「そんなことも分からんのか!」と言ったりすると,横で娘が「ボケ!」と言っている。妻も車の中で,前の車に悪態をついたら,やっぱり横で娘が「ボケ!」とつぶやいたのだそうである。もう私は何週間も,娘の前では使っていないというのに。感動半分,後悔半分である。 そういえばウチの娘,案外しつこい。12月にクリスマスの歌を教えたら,1月になっても2月になっても「あっなたーかーらーメーリクスマス♪」と歌っている。うちだけならまだしも,外でも歌う。恥ずかしいので,急きょ新しい歌(ひなまつり)を教えることにした。それでようやくクリスマスソングを歌わなくなった。 「ボケ!」も,消去するのに2ヶ月ぐらいはかかると思った方がいいかもしれない。気長に無視しつづけなければ。 #・・・と思っていたら,昨日いきなり「あっなたーかーらーメーリクスマス♪」と歌い始めたぞ。ぐったり。
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■『無責任の構造−モラル・ハザードへの知的戦略−』(岡本浩一 2000 PHP新書 ISBN: 4569614604 \693) |
2001/03/24(土)
〜属人主義から属事主義へ〜「JCO核燃料臨界事故」を,本書の第1章で事例として取り上げ,組織のもつ「無責任の構造」を明らかにし,その対処法を論じた本。事例として取り上げられたのは,この事故が,日本の企業社会が現在直面している問題の一つの雛型をなしている(p.31)と考えられるからである。筆者は政府の事故調査委員の一人であり,事故が起こるまでに,何年もの違反の積み重ねとエスカレートがあった様子が,詳細に描かれている。 この,大アクシデントの前に多数の小インシデントがあるようすは,『大事故の予兆をさぐる』で描かれているものと同じである。この本が「事例集」的な本であるのに対して,本書は,事例は1つで,あとは理論的考察とそこからえられる示唆になっている点が大きな違いである。それらがある分,本書の方が私たちの日常に生かしやすいような気がする。本書は,JCO事故を事例にとり,批判的思考の必要性を説く本といっても過言ではない。 本書で言う無責任の構造とは, 盲目的な同調や服従が心理的な規範となり,良心的に問題を感じる人たちの声を圧殺し,声を上げる人たちを排除していく構造(p.4)のことである。そこで本書の2章以降では,同調や服従に関する心理学的研究が紹介される。そこから,たとえば同調ということに関しては,物理的に孤立無援であっても,心理的に味方が存在していれば,孤立無援の状態に耐えることができる(p.69)ことが示唆されている。 人や組織が,同調や服従を経て無責任になっていく過程には,さまざまな要因が関与するが,その根本にあるのは,権威主義である。権威主義の中でも,日本でよく見られるのは,ものごとを,上下関係や慣行で決める,というやり方である。これを筆者は「属人主義」的意志決定,名付けている。 属人主義の反対は「属事主義」である。これも筆者の造語なのであるが,属事主義とはことがらの是非を基本としてものを考える(p.160)ことである。しかし,属人主義がアタリマエとなっている日本のシステムの中で,無責任に陥らずに属事主義を貫くことは,大変なことである。そこで筆者は,属人主義と折り合いをつけながら属事主義を貫く方法をいくつか提案している。 たとえばことを提案するに際しても,間接的言及(p.200)をはじめとする段階的な戦略を練ったり,幅広い領域の読書をするなどして,自分自身の認知的複雑性を高く保つ(p.189)ことなどである。これらは個人的な戦略だが,そのほかにも,組織的にできる方策として,社運を左右するような提案について検討するとき,提案者とは別に,その提案に反対する理由を見つける役割をするチームをわざわざ別箇に作る(p.216)などという方法も紹介されている。これは,『すぐれた意思決定』に出てきた「悪魔の弁護人」というヤツだな。 基本的には面白い本だったのだが,一つ残念だった点がある。JCOの件がケーススタディとして紹介されながら,この件がその後の話とつなげられていないのである(2章以降には,JCOの話は1回しか出てこない)。まあ,あのような事件で,どのような職員や専門家がいて,どんな声をあげなかったとか,どのように圧殺されていった,という話は,一般書の中では難しいのかもしれないけど。
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■状況論についての補足 |
2001/03/23(金)
状況論と相互行為分析についての本(『インタラクション』)について,読書記録を書いた旨を,著者の一人である上野先生にお知らせしたところ,返事を頂いた。その中で,私がまだよくわからないと感じている部分について,説明があった。本人の許可をいただいたので,ここにその一部を転載しておく。 まず,私は「実体ではない」「モデル化・一般化しない」という点が,非常に分かりにくいと書いたが,それに関して:(だろうと思うのだが,私の文章を引用した上で書かれたメールではないので,これはあくまでも私の推測であることをお断りしておく。強調は道田) 理論を作らないというのは,エスノメソドロジーは,従来の社会学,心理学理論に代わる理論を提案しようとしているのではないということです.むしろ,研究者が理論をたてて分析,説明する以前に様々な実践に関わる人々が現実を理論化しており,それがどのように構成され,使われ,実践や相互行為を可視化したり,組織化しているかを明らかにしようということです. うーん。前半は,そういうものだと受け取っておくとして。後半が難しいんだよな。これは多分『インタラクション』で言うと,「心は実体ではなく,相互行為として見るべき」という部分に対応すんだろうけど。でもこれに関しては,『仕事の中での学習』のところで私が書いた,次の文章が筆者の観点に近いという。 通常の心理学では,超越的・外在的な立場にいる心理学者が,特権的に人の認知システムや社会的システムを記述する(p.11)。しかし本書では,そうではなく,その場で起きているリアリティの意味を,当事者たちの視点から明らかにしていくこと(p.14)をテーマとしている。つまり,状況的行為の中から,当事者たちがその場で生み出しているルールを,エスノメソドロジー的に読み解いていこう,というスタンスだ。ふーん,ちょっとおもしろくなってきたぞ。 ああ,今これを読むと,私がいかにわかっていないか,ということが分かる。自分で書いたはずなのに,すっきりと分かる気がしないのだから。しかし,上野先生のメールの続きの部分で,もう少しちゃんと分かるような気がしてきた。そのポイントは,伝統的な心理学や社会学における理論の「前提」にあったのであった:
その前提とは,心の存在を既定のものと考えるかどうか,という根本的な前提だ。つまりこういうことだろう。私たちがどっぷりつかっている,伝統的な心理学の枠組みでは通常,行動の原因を「内的なもの」に求める。個人とか心とか意図とか知性とか認知システムといったものだ。そう考えるということは,それらが存在することを,前提として組み込んでいる,というわけだ。 状況論・相互行為分析を理解するにはおそらく,その枠組みを,いったんとっぱらってみなければならない。というか,それらをとっぱらったところにあるものを見る手段が,状況論・相互行為分析ということなのだろう。私なりにまとめると,「心があるかないかは分からない。しかし我々は他人に心を感じる。どのようにして感じるかというと,それぞれの状況で,相互行為を行うことを通してだ。じゃあそれはどんな相互行為で,どのように心が見えてくるのだろうか」という感じだろうか。
ふーむなるほど。どうも私(たち)は,伝統的な枠組みにどっぷりとつかりすぎているようで,実験をすること,イコール心を客観的に明らかにすること,と思い込みすぎているのだな。実験とはむしろ,実験者と被験者と実験道具でもって共同で作り上げる何かである,と。 それから,前回私が,「コネクショニズムと状況論・相互作用分析の関係は?」と書いた点について: コネクショニズムなどへのコメントは,いずれの本でも直接なされていませんが,拙著やインタラクションにおける複雑系などへのコメントが,そのままコネクショニズムなどへのコメントになると思います.要するにシステムがトップダウンに動作するという従来の見方に対して,ボトムアップに動作していると主張しても,システムを記述する視点はnowhereの神のような視点であることは変わらないではないかということです. ああ,なるほど。「nowhereの神のような視点」というのは,上に出てきた「超越的・外在的な立場にいる心理学者」ということと同じだな。ということはそこでもやはり,「心の存在を前提」とし(それを機械の上に実現しようとし)ていることになる。しかしそれは,あくまでも仮定でしかない。私たちは,機械や他人の振る舞いの中に心や知性を「見て取る」ことはできる。これは間違いない事実だ。しかしそこから先,つまり心や知性が「存在する」かどうかは,おそらく知ることはできない。それをムリヤリ事実と考え,知ろうとしたり作ろうとするのは違う,というわけだろう。 ということは,この状況論・相互行為分析の考え方は,哲学でよく問題にされる「他人の心は存在するのか」という問題に対する,一つの答えだと考えていいのではないだろうか。それは私なりに言葉にするならば,「心は,存在の有無を問われるべき問題ではなく,どのようにして現れてくるのか,その見え方を問われるべき問題なのである」という感じの。自信はないけど。 あと,メールには次のようなことも書かれていた。 エスノメソドロジーは,ガーフィンケルの文章が難解なことで有名ですが,実際にはそれほど難しいものではないと思います.う,これは,私が「あとは,実際の研究論文を読むしかないのかもしれない」と書いたことに対するコメントだな,おそらく。「難解なことで有名」という点は気になるけど...と,とりあえず図書館で探してみるか...
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■『ビデオで社会学しませんか』(山中速人ほか 1993 有斐閣 \2000) |
2001/03/20(火)
〜社会学とは何でもアリと見つけたり〜社会学を専門としない学生にとって,社会学研究の最新の理論や成果,問題点などを楽しく学ぶことができる方法(p.6)として,ビデオ(映画)を題材とした本。たとえば『ゴッドファーザー』を感動的な家族ドラマとして見,『羅生門』を通して,人間にとっての現実が「状況の定義の集合体」であることを指摘し,『時計じかけのオレンジ』から,「社会がその存続のために犯罪を必要とする」ことを指摘する。 本書では社会学の根本的な目的を,次のように述べている。 ある「社会」のなりたちや仕組みを,理解し説明するということ(p.22)なるほど,確かに映画の中に,社会の「なりたちや仕組み」が表現されており,それを筆者たちは上手に読み取っている。それは,映画が,1時間ちょっとの時間の中に,社会を縮図として詰め込んでいるからだろう。 私は,社会学の勉強をしたことはない。大学でも授業を受けたことはないし。だから,なんで「社会」にだけ焦点を当てるのか,いままでずっと疑問だった。確かに心理学者も社会に焦点を当てる。それは「社会心理学」という1分野であって,それがすべてではない。しかし社会学にとっては,「社会」がすべてなのである。 しかしそれも,本書を読んで合点がいったような気がする。それは,「社会のなりたちや仕組み」は,われわれの生活の根本を支えるものであるにもかかわらず,見えにくいものだからではないだろうか。そこで社会学者は,さまざまな概念装置を駆使して,なりたちや仕組みを「読み解いて」いる。 そのあたりは,本書で多少わかった(ような気がする)が,一つわからないことがある。それは,社会学の方法論とは何か,というものである。冒頭の引用にもあったように,本書は「理論や成果,問題点」しか扱っておらず,方法論は出てこない。私の憶測だが,社会学とは,方法論的には「何でもあり」なのではないだろうか。どんな方法論を使ったかは,あまり問題とされず,そこから「どんなおもしろいものを読み取ったか」だけが問題にされる。だから方法論にはあまり言及されないのではないだろうか。 しかしそれだと,一つ困ったことがある。本書には,このテキストで学んだ後,「社会学ならこういう問題をどうとらえるのだろうか」とあなたが考えるようになっていたら,このテキストは成功(p.9)と書かれている。しかしそう言われても,方法論がわからないので,社会学者と同じ論考はとてもできそうにない。ま,こうやって読む分には,名人芸を見ているようで面白くはあるのだけれど。 あと,私の研究上の興味と関係ありそうな記述があった。それは,「都市の人間の社会的性格」(p.142)に関する指摘である。それによると,都市の人間は村落社会の人間と違い,個人主義的,革新的で合理的であるという。生活も,分業的かつ専門的だそうだ。ふーん,都市と村落の対比ね。ちょっとおもしろいかも。
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■母から父へのスイッチ切り替え |
2001/03/18(日)
母親にかまってもらいたいときと、父親にかまってもらいたいときがあるようだ。(中略)「母親へ」と「父親へ」の切り替えスイッチがどこら辺にあるのかは、まだ謎である。(中年パパの新米子育て日記 2001/03/15) うちの上の娘(2歳9ヶ月)にも,切り替えスイッチがあるが,その切り替えポイントはきわめてはっきりしている。それは「楽しく遊ぶのは父親,悲しいときは母親」である。 もちろん母親と楽しく遊ぶことも多い。しかし,父母がそろっているとき,遊び相手として選ばれるのは,たいていこちらだ。そして「パパが好き(な)の〜」などと,とろけるようなことを言ってくれる。 それはもちろんうれしい。しかし,二人ともパソコンなどに向かって仕事をしているときも,必ずこちらに来るのである。忙しいときは,何とか妻の方に行かせようとする(←鬼?)のだが,娘は「ママはお仕事って言ったでしょ!」などと言って,妻のほうには行ってくれない(妻がそんなこと一言も言わなくても)。どうやら私がパソコンに向かっていても,仕事だと認識されていないようなのである。パパの仕事は,かばんをもってどこかに行ってしまうこと,と思っているのであろうか。 一方,娘はよく,朝泣きながら起きてくるのだが,そういうときに,いくら私が「ダッコしよっか」とやさしく持ちかけても,「ママがいい,ママがいい」と,ちっとも取り合ってくれない。 しょうがないから,そういうときは妻に任せる。そして,しばらくたって少し落ち着いてきたかなーと思えるころあいを見計らって,娘の前でおどけてみせる。そうすると,それまでは妻に抱かれてしゅんとした顔で指しゃぶりなどしていた娘の顔に笑顔が戻り,そのうち,笑いながら私と一緒におどけてくれるようになるのである。そうなったらこっちのもの。いつもの「パパが好き」な娘が戻ってくる。この呼吸がつかめるようになるまでは,どれだけ妻側に向いたスイッチにがっかりさせられたことか...
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■『21世紀の経済学−市場主義を超えて−』(根井雅弘 1999 講談社現代新書 ISBN: 4061494511 \640) |
2001/03/16(金)
〜理念とか共存とか〜現代経済思想史の観点から, この百年の経済学の大きな流れを鳥瞰し,それが来世紀にどのような方向に向かう「可能性」があるか(p.39)ということを語った本。1999年の本なので,来世紀=21世紀のことだ。細かい点を除けば,経済オンチの私でも,比較的スムーズに読むことができた。 21世紀の経済学を語るにあたってはやはり,『文化の経済学』などと同じように,新古典派経済学や市場原理至上主義(=市場主義)の問題点指摘と克服の話が中心となる。ただし,新古典派経済学に問題点や限界があるからといって,新古典派がすぐに崩壊してしまうというような期待または楽観を抱くのは禁物(p.111)だと筆者は言う。 これからの経済学に必要なものとして,筆者が挙げているものは,大きく分けて2つあるように思われる。一つは哲学や価値観,倫理など,理念的なもの(p.152)である。これは,資本主義はなんらかの理念に基づく効率性をもたらすものではない(p.151)からである。資本主義は,どんな選好であっても,それを効率よく満たすことができるだけの制度なのである。この点についてはケインズも,「人類の政治問題は,経済的効率,社会的公正,個人の自由を組み合わせること」(p.47)という趣旨のことを言っているそうだ。大切なのは効率だけではなくバランス,ということだな。 もう一つはさまざまな経済思想の「共存」である。冷戦時代には「資本主義」対「社会主義」という紋切り型の図式によって隠されてきた(p.57)けれども,資本主義には多様なものが存在するという。たとえば,英米の資本主義は,短期的視野からの意思決定と個人主義的志向によって特徴づけられる資本主義(アングロサクソン型資本主義)である。一方,日本,ドイツ,北欧からスイスにかけて見られる資本主義は,社会的連帯と集団主義的で長期的視野からの意思決定によって特徴づけられる資本主義(ライン型資本主義)だそうである(p.53)。この他にも,儒教資本主義(p.75)という概念もあるようだ。もちろん,新古典派以外の経済思想もたくさんある。それらが共存することによって,通説を疑うような「批判精神」(p.154)が養われることになる。 あと,「改革」ということに関して,ちょっと興味深いことがかかれていた。日本の高度成長を支えたさまざまな制度の間には,お互いに補完性(依存性?)があったので,改革の実行が極めて困難になっている。そこで,経済システムの中でもっとも影響力のある大きな制度的枠組みを特定し,それを改革することから始める(p.69)と,ドミノ倒し的に改革が実現される可能性がある,という。ちょっと本書のテーマからは外れるが,改革と言うと,つい大学改革に当てはめて考えてしまうが,この発想は大学でも必要ではなかろうか。 話を元に戻すが,本書は,経済学がこれからどこへ行こうとするのか,という問題にはっきりとした答えが与えられているわけではないが,どこかへ行こうとしていることだけは,垣間見ることができたような気がする。
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