読書と日々の記録2000.12下
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■読書記録: 31日短評7冊 28日『相互行為分析という視点』 24日『心理学論の誕生』 20日『フェミニズム』 16日『文化の経済学』
■日々記録: 30日この1年 25日インフレ・サンタ 21日ゼミの新歓 17日百日記念

 

■今月の読書生活
2000/12/31(日)

 先月から続いてた弾切れ状態も今月半ばには終わり,けっこう充実した1ヶ月だったかも。読んだのは,下の7冊を含めて全部で14冊。特に良かったのは,『知識から理解へ』『文化の経済学』。そのほかにも,『心理学論の誕生』は再読してみたい1冊。

 今年1年で読んだ本は,総計181冊(再読本4を含む)。もう少しがんばれば,年間200冊ちょっとは読めるかもしれないが,どんなにがんばっても300冊は読めないと思う。ということは,順調な一生だとしても,あと1万冊(=200冊×50年)は読めない計算。それを考えると,無駄のないというか,得るところができるだけ大きくなるような選書をしたいものだ。どうすればいいかは,皆目わからないけれども。

『教育心理学研究の技法』(大村彰道編 2000 福村出版 シリーズ・心理学の技法 \2100)

 このシリーズも5冊目だ。4冊目(『発達研究の技法』)で,「さわりだけしか触れられていないので,ちょっと欲求不満が残る」と書いたので,これ以上このシリーズを読もうかどうしようか迷っていたのだが,本書は,これまでのシリーズとは違い,少人数の著者(7人)で,1項目が長めに取られていたので,買ってみた。
 本書では,観察,面接,質的分析,質問紙,実験という,教育心理学研究の中心的な手法5つのみが取り上げられており,一つにつき1章を使って説明されている。各章とも,導入,研究紹介1(2〜3例),手順と留意点の4〜5節構成。これまでのシリーズと違い,研究例の紹介があるため,その研究法が具体的にイメージできて良い。質問紙や実験による研究例は,学会誌でよく目にするが,観察,面接,質的分析はそんなに多いわけではない。それが,2例程度ずつ紹介されているのでありがたい。  また,本書の第1章は「教育心理学研究の進め方」と称して,編者である大村氏が,現在行っている研究を例にとり,どのように研究計画を練り上げていくか,事例的に取り上げられており,面白い。さらに,「研究アイディアを得るヒント」という節では,次の4点が挙げられている。
  1. 関連する知識を増やす
  2. 疑問を出す経験を積む
  3. 観察眼を鍛える
  4. アイディアの出やすい状況を作る
 最後の,「アイディアの出やすい状況を作る」としては,「長時間意識を集中して思い続け考え続ける」「朝起きて歯を磨いていたり髭剃り中に思いつきが出ることがしばしば」「大学に向かって歩いているときや,途中で必ず寄る喫茶店の中でよいアイディアが出ることが多い」(p.17)などと書かれている。途中で喫茶店に必ず寄るのかあ。よーし。オレも喫茶店行くぞー > つま

『意識とは何か−科学の新たな挑戦−』(苧阪直行 1996 岩波科学ライブラリー \1,100)

 意識について,「志向性をもつ高次な脳の情報処理の一様式」という立場からまとめられた本。意識の主な問題として,局在問題,並列性問題,バインディング問題があることがわかった。あと,筆者の提唱する(多分)意識の3層構造モデルも面白かった。それ以外には筆者自身の見解は少ないが,最近のいろいろな分野の研究者が,意識について何を考え何を研究しているかの一端を知ることができる。ただ,100ページ強の短い本なので,それらの多くが,簡単な紹介だけにとどまっており,あまり知識がない人が見ると何のことだかさっぱりわからない点も多少見受けられた。そういう意味で「カタログのような本」という印象。

『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均 1995 ちくま新書 \660)

 この本は,ウィトゲンシュタイン哲学の入門書であって,人物紹介の本でも解説書でもない,と「はじめに」に書かれている(p.7)。たしかにその通りの内容で,ウィトゲンシュタインの哲学(らしきもの)に,触れることはできたが,理解できた感じはしない。適当な解説書を探してみるか。あと,人物紹介ではない,とあるが,1章,3章,6章は人物紹介的な章で,哲学的な章のインターミッション的な役割を果たしている。おかげで最後まで目を通すことはできた。

『「正しく」考える方法』(齋藤了文・中村光世 1999 晃洋書房 \1700)

 再読。今回も前回と同じく,練習問題はすっ飛ばして読んだ。本当はいけないのだが... 今回も前回と同じく,本書は『クリティカル進化論』のような心理学クリシン本を補完する,論理学的クリシン本だと感じた。今回目に付いたのは,議論の妥当性をチェックする方法としての思考実験が,私たちの想像力に決定的に依存している(p.48)という記述。想像力には個人差もあるが,おそらくその領域の知識が大きくものをいうだろう。ということは,議論のチェックにもっとも必要なのは,(思考の方法と)領域関連知識なのかもしれない。

『対話の中の学びと成長』(佐藤公治 1999 金子書房 \2,000)

 ヴィゴツキー,社会的構成主義,共同遊びなどを通して,相互作用研究と対話的活動について論じた本。異様に難しかった。著者は心理学者なのだが,実験や観察,実践についての言及がほとんどなく,理論考察が多かったせいだろう。本書の中で,教師も一人の構成員にすぎないのであって,子どもたち一人ひとりが議論に参加していくことを通して自分たちで問題を解決していくのだという自覚と価値観を共通にもった「学級文化」が作り上げられている(p.167)学級の実践が紹介されていた。このあたり,もう少し詳しく知りたいところである。

『「道徳」授業における言葉と思考−「ジレンマ」授業批判−』(宇佐美寛 1994 明治図書 \1,709)

 サブタイトルどおり,コールバーグ流のモラルジレンマ授業を批判したもの。一言で言うと,「いいことも書いてあるけれども問題も多い」本だと思った。いいことが書いているのは,モラルジレンマ教材を,ジレンマとして捉えるのではなく,幅広く考えて問題を解決する方向性を示唆している点(p.146など)。
 ただしそこから,価値葛藤などというものは無い(p.141)と結論づけるのは早急すぎる。というのは第一に,筆者は,有限のジレンマ教材しか検討していないのだから,「これらの教材に関しては」事実を知ることで問題が解決する,と言うべきであって,そこから一般論を引き出すことは出来ない。
 第二に,筆者に「価値葛藤がない」と感じられるのは,筆者が一定の価値を特定の理由で重視する,という筆者の視点があればこそである。それはたとえば,規則を調べれば,「モラルジレンマ」は消滅するのである(p.125)と述べていることから,規則重視の立場であろう。それは,コールバーグの段階論で言えば,3段階か4段階に相当するものであろう(おそらく)。・・・という具合に,筆者が言っていることは,コールバーグの段階論の範囲の内に,十分に組み込むことが可能な主張なのである。つまり,モラルジレンマを否定するためには,特定の教材ではなく,その背景にあるコールバーグの理論そのものを否定する必要がある。筆者はそれは行っていない。ジレンマ教材を批判するにしても,せめてコールバーグのオリジナルである「ハインツのジレンマ」を取り上げるべきであろう。しかし,なぜか筆者は,この教材にはまったく触れていない。少なくともこの教材を検討することなしに,「価値葛藤がない」と主張するのは早すぎる。現時点で言えるのは,「中には不適切な教材がある」ということだけである。
 その他,この本の問題点として,矛盾が見られる点もあげられる。筆者は,当事者本人の考えを聞かないのに批判・批判をするというのは,個人の人権を無視していることである(p.32)と言いながら,ある授業者の授業実践について,たとえばなぜそのような発問をしたのか,当事者本人の考えを聞かずに批判している。また,著者の考えを批判した文章を取り上げ,批判のためには,相手の作物を極力読みあさり,全紙幅を使って論証すべきなのである(p.192)と書いているが,別のページでは,コールバーグの論文のタイトルを引用しながら,コールバーグらのこの作物が右に批判したような狭い「遵法」観によってモラルジレンマを見出したがっているようなものだとしたら,ずいぶん浅薄な業績である(p.158)と述べている。ここで仮定法が使われているということは,筆者はコールバーグらのこの論文を読んでいないのであろう。これは先ほどの引用部分と矛盾した態度ではなかろうか。

『今夜,すべてのバーで』(中島らも 1991/1994 講談社文庫 \533)

 土曜の夕方,暇つぶしで読んだ。中島らものエッセイはいくつか持っている。面白いものもあるが,自意識過剰的な匂いがするところが鼻について,ある時期からはまったく読んでいない。小説は本書が初めてだ。小説とは言っても,後書き代わりの対談(山田風太郎氏と)の中で,ほとんど実話(p.293)とあるが。著者がエッセイでときどき,ラリパッパのフーテンだったとか,固形物はほとんどとらず酒ばっかり飲んでいる,と書いてあるのが,どういうことなのかがよくわかった。文章も,私の嫌いな自意識過剰的な部分はかなり少なく,割とすんなり読めた。吉川英治文学新人賞受賞作。学生による推薦文あり。

日記猿人 です(説明)。

 

■この1年の読書生活
2000/12/30(土)

 年末なので,この1年の読書生活を振り返ってみてみたりしてみたい。てきとーに。

 基本的に読書は,勤務時間外にしている。具体的には,夕食後の時間が一番多い。よく時間が取れますね,と聞かれることがあるが,うちは,夜はほとんどテレビを見ない。毎日ドラマやニュースステーションを見ておられる方よりは,かけている時間は短いのではないかと思う。

 最近ときどき,勤務時間中に本を読んでもいいのではないか,と思うことがある。というのは,読んでいる本の多くは,直接間接に仕事と関係しているのだから。娯楽目的の読書はほとんどしていない。それに,原稿を書くにあたっても,読書記録をはじめてから読んだ本が生きている。今年に関しては,引用文献として反映されたものは10冊程度だが。

 もちろん本を読んで記録することの効用はそれだけではない。これを通していろいろと「考えた」ことは,有形無形に研究活動に影響を与えている。というよりも,ある意味では「本を読んでいろいろと考えること」は,最近の研究活動の中核といっても過言ではない。その意味でも,勤務時間中に読書し記録を書くことは,何の問題もない。というか,大いに推奨されてもおかしくないことである。

 ...と,いつもここまで考えてから私は,この考えをあわてて取り消す。確かに勤務時間中,空いた時間だけでも読書すればどれだけ読書量が増えることか。しかし,それは研究活動としては,あまりにも楽しすぎる。楽しすぎる仕事をしてしまうと,ほかの(楽しくない)作業ができなくなってしまうおそれがある。英語の論文を読むこととか,実験をすることとか,原稿を書くこと,授業の準備をすること等々。自分に鞭打ちながら,これらの活動ときちんと向き合うためにも,読書はやっぱり,勤務時間外にしなければならないのである。

日記猿人 です(説明)。

 

■『相互行為分析という視点−文化と心の社会学的記述−』(西阪仰 1997 金子書房 \2,000)
2000/12/28(水)
〜説明の放棄することによって得られるもの〜

 『仕事の中での学習』の参考文献に挙がっていた本。おそらくこの本の方法論的根拠になっている本だと思う。内容は... 非常に難しい本だった。意味が理解できない,というのではない。書いてあることはそれなりにわかるが,その視点や論理がわからないというか,自分ではこのような分析が出来そうにない,という感覚である。

 相互行為分析とは,(因果論的に)説明すること,これを一切放棄(p.34)し,相互行為をとおして,あるいは相互行為としてものごとをみていく(p.191)ことである。新しい経験的知識をえようとしない(p.192)し,仮説が組み立てられたり,仮説が検証されたりするわけではない(p.192)そうである。うーんわからん。従来的な科学と発想とは,まったくと言っていいほど違う。では相互行為分析とは何かというと,

あくまでもすでにわたしたちが十分知っていること(常識),すなわち,わたしたちが社会生活を営むさいにいつももちいている方法を,解明しようとするだけである(p.192)
それでもわからん,という人のためには,次のようなアナロジーが用意されている。
珍しい絵の描かれた古代の土器の破片が見つかったとき,その写真が新聞などに掲載される場合と,似ている(p.196)
相互行為分析とは,そのときに一緒に掲載される,線画イラスト,あるいは,そのイラストに添えられたせつめい書きのようなものだと言う。言ってみれば,古代人が作ったものを,古代人の視点で理解することを手助けするような分析ということだろうか。少しわかったような(わからんような)。

 どうやらキーワードは観察可能性とか可視化のようである。つまり,行動の原因を推測するのではなく,ある行動をする/しないことによって,何が観察可能になっているかを解明するのである。たとえば,会話の中で,相手の笑いに自分の笑いを重ねることがある。この行為によって,「相手が何を笑っているかを自分が承知していること」が観察可能になる。あるいは,異文化間コミュニケーションは,異国人が相互作用すればいつも生まれるわけではない。一方の人,たとえば日本人なら日本人が,観察可能な形で「日本人として振舞う」ことによって達成される。それは具体的には,日本の日常の事柄について優先的に報告するとか,相手の言い回しを確認したり修正することによってである。

 そのほかにも,行為分析を用いて筆者は,たとえば心が,一般に考えられているように,外からは見えないものではなく,相互行為のあり方に応じて,自明なものとして立ち現れてくるもの,として分析される(3章)。さらには4章では,「見ること」も分析されている。そこでは,知覚対象は手がかり基づいて解釈されるのではなく,直接知覚されるものであり,相互行為の規範的秩序のなかに位置づけ(p.135)られるものであることが示されている。ほほう。相互行為分析とやらによって,心や視覚までが(社会的なものとして)解明されるとは面白い。

 十分に理解しているわけではないが,このあたりの考え方は,きわめてギブソン的である。また,本書の考え方の根底には,ウィトゲンシュタインの考え方が色濃く反映されているようである(規則/痛み/として見る/意図と行為の2段階説の否定/理解は実践のうちにある,などなど)。なかには,哲学の本で見たような議論(『哲学・航海日誌』など)も含まれている。こんな風に,人間の行動を分析するのにウィトゲンシュタインの考え方が利用できるとは。やっぱりもう少し,この方面を勉強せねば。それと,相互行為分析の,もう少しわかりやすい本はないかなぁ。

 

■インフレ・サンタ
2000/12/25(月)

 上の娘(2歳6ヶ月)は,ものごころついてから,まだ数えるほどしかサンタクロースを見たことがない。

 おそらく最初に見たのは,今月半ば頃,沖縄市のプラザハウスというショッピングセンターに買い物に行ったとき。大きなツリーの下に,サンタに扮した人物(外国人)がいたのだ。彼は,「サンタとポラロイド写真500円」という商売をしていた。娘は,写真は(もちろん)撮らず,握手をしてキャンディをもらっただけなのだが(とはいえ,もう少し大きくなったら,写真撮りたがるかも)。

 次は,近所のスーパーにあった,「腰を振って踊るサンタ人形」。なぜだか知らないが,娘はこれを異様に怖がった。それ以降,我が家にあるサンタ人形(ヨーロッパで買ってきた,民芸品)も怖がるようになってしまった。見えるところにあると,こわいこわいといって泣き叫ぶ。

 次に見たのは,保育園のクリスマス会。娘はサンタを怖がっている,と思っていたが,お便り帳によると,サンタさんのおひざに座ったりしたそうだ。ものをくれる人はOKなのか?

 昨日はクリスマスイブ。昼間,生協の配達のお兄さんが,サンタの格好をして,「メリークリスマス」といいながら,商品を配達しに来た。残念ながらこのときは,妻と上の娘は外出中で,見ることはできなかったのだけれど。

 夜は,妻の通う教会(カトリック系)で,ミサのあと茶話会があった。そこで,信者の一人が扮したサンタクロースがプレゼントを配っていた。そのときは,ちょっと怖がりながらも,妻に抱かれてプレゼントをもらいに行った。

 教会からの帰り道,ガソリンがなくなりかけていたので,ガソリンスタンドに寄ったところ,なんとそこのお兄ちゃんたちは,サンタの格好で給油していた。ガソリンを入れたり窓ガラスを拭いたりするサンタさん。しかもサンタさんが二人もいたりして。いったい娘はどう思ったことだろう。

 結局,現在のところ娘が会った(見た)ことがあるサンタさんは,全部で7人(7体?)。こうやって見てみると,サンタさん,多すぎるのではないか。インフレ状態で,価値が激減してしまいそうで,心配である。もっとも,まだ2歳半なので,サンタさんがどういう存在(ということになっているの)かは,何も分かっていないわけなのだが。でもおそらく,来年はだいぶ分かって来るはずだ。そのとき,あまりたくさんのサンタさんに会わないようにしてほしいものだ。

 

■『心理学論の誕生−「心理学」のフィールドワーク−』(サトウタツヤ・渡邊芳之・尾見康博 2000 北大路書房 \2800)
2000/12/24(日)
〜心理学の批判的検討〜

 心理学の概念・方法・制度・歴史について考える,「心理学論」の誕生を宣言した本だ。心理学論とはいわば,科学に対する科学哲学に相当するものである。宣言,と言っても,本書の核は,1994年から1998年にかけて筆者らが書いた論文なわけで,本書そのものが出発点になっているわけではないのだが。

 本書で核になっているのは,心理学の中にある「考えないこと」(p.209)に対する疑念であり戦いである。渡邊氏はそれを,反知性主義と名づけている。同様のことについてはサトウ氏も鼎談の中で,なぜ統計使うことがね(笑),考えないことになっちゃうんでしょうかね?(p.210)と表明している。その点をもっと問題にすべきであることは,大いに同感である(ちなみに私も,『心理学マニュアル 要因計画法』(北大路書房)という本のコラムで,「実験法はあまりにも強力な「自動的批判的思考装置」になっているために思考力の向上に寄与しない」という趣旨のことを述べた)。

 個人的に興味をもったのは,渡邊氏の3論文。心理学における構成概念と説明,測定などの問題を論じたものである。ちょうど,最近私が考えていた問題に対するヒントになった,という点が興味をもった最大のポイントではあるが,しかしこの問題は,現在の心理学を考えるうえで,非常に重要であると思う。また,さらにこの問題点を発展させて,メタファーと科学という2つの基準から行われた,現代の心理学の分類(p.62)は,すごい。私はまだこれを,じっくりとは検討していないが,心理学を考える枠組みとして,非常に有用なものだろうと思われた。渡邊氏にはぜひ,これに関して,もう一本論文を書いてもらいたいものである。

 このような理論的検討を通して,渡邊氏は最終的に,

  • 心理学は科学的に心を捉えているといっているけど,どうも実際にはとらえていないんじゃないか(p.184)
  • 無理やりに科学的枠組みに詰め込んで何とかしようとしていることが,今までの心理学のすごく無理なところだった(p.186)
と考察している。述べられていることの是非はともかく,このような,心理学という枠組みに対する批判的検討は,大いに必要なことであろう。

 ・・・と,本書の意義は十分に認めた上で,疑問に思ったことを2つほど。

 ひとつは,本書でやられているような批判的検討は,果たしてフィールドワークと言っていいのだろうか,という点である。本書p.68によると,フィールドワークのパラダイムとは,「共同作業,コミュニケーション,相互主観性,理論的構成概念と素朴概念との交渉」,とある。あるいは『フィ−ルドワ−クの経験』によると,フィールドワークとは「メンバーの意味の世界に少しでも近づく試み」とある。このようなフィールドワークの定義からすると,「心理学のフィールドワーク」とは,批判ではなく,心理学者たちがやっていることの(肯定的)意味を見いだし,相互主観的に理解することではないかと思うのだがどうだろうか。と言っても,本書で論じられていることが不適当と言っているのではない。サブタイトルとしては,「フィールドワーク」ではなく「批判的検討」の方が,本書の内容にふさわしいのではないか,と思った次第である。

 もうひとつ。本書では,冒頭と最後が,3人の筆者による鼎談になっている。そのうちの,最後にある鼎談は,なんだか成功譚っぽい。このようにとられれるのは,著者達は本意ではないだろうけども。というよりも,とてもイヤだろうが,どうもそのように感じて仕方がない。述べられている内容が,各論文の執筆意図や,彼らの来歴(とくに虐げられていた時代の)だからだろうか。心理学論の性格からすると,このような方向性の鼎談よりは,討論があればよかったのに,と思う。そちらの方が,「批判的検討」をテーマにした(と思う)本書に似つかわしいように愚考する。

 たとえば,本書と同様に心理学自身を批判的に検討した本に,『心理学と教育実践の間で』がある。この本は,教育とのかかわりに限定しているとはいえ,心理学の批判と乗り越えを意図した,立派な心理学論の本であると思う。この本では,著者たちの文章のあとにコメンテーターによるコメントがつき,それに対する著者たちの再コメントがつけられている。ちょうど学会のシンポジウム,あるいは紙上討論のような雰囲気となっている。「心理学論」も3巻本らしいので(これは後書きにあった話だが,半分冗談,半分本気であろう),次はぜひ,討論本にしてほしいものである。

 

■ゼミの新歓
2000/12/21(木)

 #会議が長引いてしまったので,10分で書けるだけ。

 昨日は,学生のうちでゼミの新歓をした。とはいっても,3年生がうちのゼミに所属したのは4月。なんで今ごろかというと,春は4年生が卒論であたふたし,そうこうしている間に教員採用試験の時期になり,秋に卒論データ取りが一段落したら,ようやく今になったというわけ。おかげで忘年会兼用である。

 とはいっても歓迎されるべき3年生は一人。なんせうちの専修,教官8人に対して,学生定員10名だからしょうがない。一人でもいるだけマシともいえる。さらに来年からは,学生定員が6人になる。来年は新ゼミ生が入ってくるかどうかもあやしい。

 それはさておき新歓(という名の忘年会)。学生のアパートでやったのは初めてだったが,なかなかよかった。居酒屋などと違って,ゆっくりできるし,騒がしくないし,それに,なべがうまかった(オマケに安上がり)。なべの準備をしてくれたのは,4年生(男)なのだが,なかなかダシが利いていて,大満足。実は妻と子×2も連れて行ったのだが,妻もびっくりのダシだったのだ。うーん,(男子)学生に負けるな妻。

 去年は我が家で新歓をしたのだが,そのときは上の娘(当時1歳弱)は,ずっと硬い顔をしたままだった。でも今回は,娘も2歳半に成長し,恥ずかしがりながらも,愛嬌を皆に振りまいてくれた。おまけに,よっぽど楽しかったのか,夕べはそのときの夢を見たらしいネゴトを,盛んに発していた。下の娘(3ヶ月)も,それほど大泣きもせず,割と静かにしていてくれた。

 うちの娘のカワイさに,学生はさかんにかわいいかわいいを連発。親としてもまんざらでもない。まあ,うちの学生はみな教員志望なので,子どもは好きだし,扱いもうまい。いつも夜は娘に絵本責めにあっている我々夫婦だが,昨日はちょっと一息つくことができた。娘連れの宴会も悪くないかも,なんて思ったりして。

 #まとまりがないままに終了...

 

■『フェミニズム』(江原由美子・金井淑子編 1997 新曜社 ワードマップ \2,600)
2000/12/20(水)
〜20世紀最大の知の革命〜

 ワードマップの他の本とは違い,15の大項目を立てて,フェミニズムの各思想を紹介した本。オビにあるように,フェミニズムは20世紀最大の知の革命というのも,なんとなくうなずける気がした。というのは,フェミニズムという視点に立つと,既存の学問も,フェミニズム自身でさえ,根本的な疑問が突きつけられ,さらに深く考察することが要求されるからである。この点について本書では,「フェミニズム」は,すでに完成した思想である以前に,社会への新たな洞察力を生み出す視座なのだ(p.2-3)とある。

 本書の最初に,フェミニズムとは何かについて,少し触れられている。十数年前は「女性にやさしい男性のこと?」なんていう「かわいい誤解」もあった,と書かれている。ワタシもちょっと前まで,そう思っていたかも。では何が正解かというと,フェミニズム=女性解放論(p.1)なのである。単なる学問分野であるというだけではなく,女性解放のための論であり,思想であり,運動なのだ,ということが,本書でよくわかった。

 その他,付箋をつけた箇所の紹介とコメント。

 まずはフェミニズム内差別について。

自分たちの特権さえ確保できれば,「白人」女性運動家は幾度となく「黒人」女性を裏切った。それゆえ,「黒人」女性たちは,性差別よりレイシズム(人種差別)との戦いを優先させていった(p.98)
 「フェミニズム」の中にも差別や権力差が内在し,解放されるべきマイノリティが生まれてしまう,という,ある意味衝撃的な話。フェミニズムにおける「女性」とは,当初は白人・中産階級・異性愛主義者だけだったのである。そこに例えば「同性愛者」を組み込むことは,意識の変革と,従来の考えの再構築が迫られる。これこそがフェミニズムの破壊力である。

 次は,フェミニズムに果たした精神分析の役割。

精神分析理論がフェミニズムに提供するのは,女らしさがつくられたものであるという認識,にもかかわらず,女らしくあれという規範が根強いものであるという認識,そして女らしさが完成されないことによって家父長制への抵抗の可能性が開けるという認識である(p.160)
 別のページには,フェミニズムと精神分析の関係は,双方が相手を誘惑したり誘惑されたりしながら,いつまでも結婚にはいたらない腐れ縁(p.146)とある。結婚関係ではないし,精神分析理論自体に性差別が内在されている。それでも精神分析はマルクスと並んで,フェミニズムの世界に大きな影響を与えているようである。

 次はジェンダー概念の問題点。

ジェンダー概念はフェミニズムにとって両刃の剣である。(中略)多くのフェミニストは生物学的性差の代わりにジェンダーという概念を使っただけで,相変わらず二項対置思考に陥ったままであるという批判があるからだ。つまりフェミニズムは,ジェンダー化(gendering)を作られる性・構成される性としてあまりに単純に受けとめすぎたのではないかというものだ。(p.182)
 ポストモダン・フェミニズムの視点から行われた,第2波フェミニズム(ラディカル・フェミニズム)のジェンダー概念の批判。この他にも,レズビアン&ゲイの性的アイデンティティを考えるうえでも,セックスからジェンダーを単純に切り離すことは,問題を生じるようだ。フェミニズムって本当に,一枚岩ではなく百家争鳴である。

 最後は,主婦論争を俯瞰する上で有用そうな分類図式。主婦論争とは,1950年代から70年代にかけて,何度か再燃した論争(p.202)だそうだ。これに似た「母性保護論争」(国家は母性を経済的に保護すべきか否か)というものが,大正時代にも起きているそうである。

上野千鶴子は「家庭擁護論」対「家庭解体論」と「性分業肯定論」対「性分業否定論」を組み合わせた主婦論争の分析枠を作り,四つの立場を設定,さらにその四つの立場のそれぞれに現状維持波と現状変革派があるとした。主婦論争のそれぞれの論者はけっきょく八つに分類されるわけである。(p.234)
 これは,主婦論争だけではなく,我々各人のフェミニスト性(今作った言葉)を測るうえで役に立ちそうな図式だ。それにしても,このような論争は,何度も再燃しつつも,結局は結論が出ないものなのか。それとも,繰り返されながら,少しずつ私たちの意識変革に関与しているのだろうか。ここにはさらに,母性的なものを好む日本社会の文化的背景という問題もある。このあたりが,フェミニズムが単なる学問ではなく,運動であるゆえんかもしれない。

 

■百日記念+しまぶく
2000/12/17(日)

 金曜日で下の娘が生後百日になったので,昨日は百日記念の写真を撮りに行った。百日記念はおそらく沖縄の風習で,なんだかよく知らないけど,ともかく写真を撮るんである。本土ならこのころはお食い初めか。

 午後から沖縄市の写真館を予約したので,まずは,沖縄市で一番おいしいそば屋である「しまぶく」へ。ここは3月以来,9ヶ月ぶり2度目の来訪。やっぱりおいしかったが,前回との印象の違いのみを書いておく。まず麺は,「首里そば」のようなゴワゴワ系に比べると,ツルツル系の口当たりのいい麺だった。当時は首里そばを知らなかったから,「しまぶく」程度のゴワゴワ麺で感動していたのだ。汁はカツオの香りが強いが,トンコツも入っている感じ。一番楽しみにしていたジューシーはなかった。次はもっと早めに行かねば。

 それはさておき百日記念写真。下の娘は,上の娘が赤ちゃんの頃とは違い,あんまり笑顔を見せてくれない。たまーに,ちょっとだけ笑う,というイメージで,今回は笑顔の写真は期待していなかったのだが,さすがプロは違った。小道具(鈴など)を使いながら根気よく声掛けをし,笑った一瞬を逃さずシャッターを切る。おそらく,結構な写真が撮れたものと思われる。できあがりは1月下旬なのだが。

 話は変わるが,以前TBSで素人映像投稿番組があった。その中で印象的な作品として,「ほうきに乗って飛び上がったところをコマ撮り」した作品があった。そうすることで,ほうきに乗って「空飛ぶ」少年の映像が撮れるのだ。今回の写真は3枚撮ったのだが,ちょうどそんな感じに仕上がっているのではないかと思う(3枚とも笑顔→まるでいつも笑っているみたいに見える,ということですね)。出来上がりが楽しみだ。

 

■『文化の経済学−日本的システムは悪くない−』(荒井一博 2000 文春新書 \660)
2000/12/16(土)
〜合理性よりも他人への配慮を〜

  経済の効率性や成果が,経済の理論(新古典派経済学)で言われるような形だけではなく,文化によって大きく影響することを論じた本。日本には日本の文化に適した経済のあり方があるという。いろいろな意味で,なかなか面白い本だった。

 新古典派経済学では,「すべての経済主体(消費者や企業)が自己利益を追求して自由に行動すれば,経済の効率は最高度に達成される」(p.31)と考える。簡単に言うと,「自由と競争が維持されれば社会はうまく機能する」(p.5)という考え方だ。しかしこれが成立するには,いくつかの前提や仮定があり,それが満たされないと,このシステムはうまくいかない。そして現実の世界では,それらの仮定が満たされることはほとんどない。結局,現在の日本では,各人が「個人的合理的」に振舞うと,経済は逆に非効率的になるばかりか,この国が長年持ってきた,他人に配慮するという文化までもが破壊されるという。

 ではどうすればいいかというと,日本の伝統を考慮して日本人のための確立された行動様式を自力で作り上げること(p.161)である。それは,現状のままほっておけばいいということではない。終身雇用制の下では派閥が形成されやすい。そのような問題を回避すべく,

全組織員を人間として互いに尊重しあい意見を聞く文化をつくり上げ,穏やかな雰囲気のなかで意思決定がなされるようにすべき(p.163)
なのである。難しそうだが重要な点であろう。そして,これもまた,文化によって達成されるべき事柄なのであろう。

 この,経済学的合理性よりも他人への配慮,という考え方は,山岸俊男氏の『社会的ジレンマ』に似ているような気がした。本の中で,囚人のジレンマゲームが取り上げられている点も同じである。違いといえば,本書が「文化」を強調し,『社会的ジレンマ』が「進化」的な視点が入っている点だろうか。・・・と思っていたら,本書に山岸氏が出てきた。ただし批判の対象として。その記述によると,どうやら山岸氏は日本も,開放的な社会(流動的な労働市場のある米国的な社会)に移行すべき(p.133)だと主張しているそうだ。もうちょっと山岸氏の本を読んで,この2人の違いについて考えてみる必要があるかも。

  私が本書に興味をもったのは,自由主義的経済思想が,議論などを重視する批判的思考の考え方に近いと思っているからだ。この本を読むことによって,批判的思考の何が重要で何が問題なのかが,少しわかった気がする。その点については,(気が向いたら)近日中に,改めて書きたいと思っているが,いずれにしても本書は,批判的思考の意味を考えるうえで,非常に役立った本であった。

日記猿人 です(説明)。

 


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