読書と日々の記録2001.05上
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■読書記録: 12日『日本国の研究』 8日『市場主義の終焉』 4日『仮説実験授業のABC』
■日々記録: 14日5月の台風 10日学生の質問書に教えられる 6日(ごく)最近の読書生活 2日3歩進んで2歩戻る

 

■5月の台風
2001/05/14(月)

 台風1号がきた。5月に来たのは初めて体験した。と思ったら,台風1号が沖縄に来たのは,観測史上初めてらしい。

 本島中南部地方は,8時40分には暴風警報が出された。だから公立学校はお休み。大学も休みだ。とは言っても,私は用事があるので行ったけど。横殴りの雨で,ズボンがびしょびしょ。風邪引いているのに。

 暴風警報は,13時55分には解除された模様。大学では,解除から1時間後の授業から再開する決まりになっているが,私は今日は4限(14時40分〜)の授業だったので休講だ。

 今は梅雨の最中なので,台風一過の青空には,残念ながらならない。あと一月ほどのがまんか。

2001/05/15(火)

 #追記:...と思ったら,今日はピカピカに晴れたよ。梅雨のまっただなかだっちゅうのに。

 

■『日本国の研究』(猪瀬直樹 1997/1999 文春文庫 ISBN: 4167431084 \448)
2001/05/12(土)
〜制度的無責任構造〜

 政府の周辺に巣くう,壮大な無責任体制を明らかにした本。一例を挙げると,次のような状況である。

道路公団も首都高速公団も多額の借金をしながら道路建設をしている。にもかかわらず付帯事業では利益を挙げている。その利益を別勘定にしている。(p.121)
同じような構造が,各種特殊法人や公益法人に見られるという。金を貸しているのは政府,つまり,どんなに業績が悪くてもいくらでも貸してくれるし倒産することはない。そして付帯事業は,子会社や関連会社などの別会社であるため,上記のように「別勘定」となり,そのような子会社に天下りする元官僚の私腹のみが肥える,という構造になっているらしい。

 『市場主義の終焉』では,日本経済の「表」の問題点を扱っていたのに対して,本書では「裏」の問題点が扱われていると言えるのではないだろうか(政治経済オンチの素人考えですが)。また,『無責任の構造』が組織のもつ無責任構造の心理学的側面を問題にしていたのに対し,本書では,無責任構造を生み出す制度的問題点が扱われている。また,これだけの問題を抉り出した著者は,『カードミステリー』風に言うなら,ジョーカーと言えるのではないかと思った。ともあれ,非常に興味深い本であった。

 本書によると,現在の首相である小泉氏の持論である「郵政3事業民営化」も,この話と関係があるらしい。簡単に言うと,政府が金を貸す財源は郵便貯金と簡保なのだが,それを民営化すれば下流にある特殊法人は(経営努力をしなければ)自動的に干上がる,ということらしい。

 そういえば,ちょっと前にテレビで小泉氏が以前に総裁選に出た時の映像を流していたが,そこで小泉氏は確かに「財政投融資」とか「92の特殊法人」などという言葉を口にしていた。本書(文庫版)の解説を,今度経済財政大臣に就任した竹中平蔵氏が書いていることもあり,これから,この方向の改革がどんどん進むのだろうか。それにしては,最近はあまりそういう言葉を聞かないような気がする。と言っても私は,ニュースなどそれほど見るわけではない政治オンチなので何とも言えないけど。

 

■学生の質問書に教えられる
2001/05/10(木)

 専門学校の授業(臨床心理学という名の思考心理学)で書かせている質問書で,非常によくできたものがあった。質問ではなく,授業中に私が取り上げた質問書に対する「意見」だ。私がうまく説明できなかったことを,わかりやすく説得的に説明してくれている。まずは,元々の質問書から。

 日常生活でも憶測で物事を判断していることは多いと思う。むしろそれを楽しんでいるというか...
 将来の仕事を考えると,多面的に物事を見ることは大事だと思う。でもそれをいつもやってたら疲れちゃうんじゃないか,とも思う。必要に応じて物事を判断すれば良いのでは,と思いました。

 この手の質問は,毎年出てくる。それだけ重要なことなのだろうとも思う。今のところ,これに対する私の回答は,「ちょっとクリシンをする」,というものと,「授業の間は練習だと思って,疲れるのを厭わずにやってください」というようなものだ。「ちょっとクリシン」とは,じっくりではなくてもいいから,何かを受け入れたり行動したりする前に,ちょっとだけ考えてみる,というものである(『クリティカル進化論』p.176)。時間があるときにはもう少し付け足すこともあるのだが,この手の質問書に対する最低限の返答はこれくらいだ。

 で,この質問(意見)に対して出されたのが,次の意見である。

 「いつもやっていたら疲れちゃう」という意見があった。私は日常でこれを心がけているわけではないが,ただ,多面的に自分を眺めてくれる相手と一緒にいるときは,とても心地よいし,そうでない相手といるときは不快に思うことが多い。
 やはり,何を念頭に置くか,自己や自己以外のものごとを眺める上で,これは重要なことだと思う。

 本文中の「これ」とは,批判的思考というか,ものごとをじっくり,多面的に考えて判断することだな。この意見はあくまでも,個人的な体験に基づく意見なので,それが他の人に対して,どれほど影響力をもつかはわからない。が,私には,実に説得力のある意見に思えた。ああ,確かにそういう面はあるし,大事だよな,と思わせるような。

 思えば私は,こういう方面から意見を返すことが,すごく苦手だ。元の意見は「いつもやってたら疲れちゃう」だった。それに対する私の返答は要するに,「疲れない程度にやればいい」「疲れないように練習すればいい」というものだ。後に紹介した学生の意見に比べると,「飛んでくる球だけを見て,それを打ち返すことだけを考えている」という感じだ。結局は一つのベクトル上で,逆方向のヤジルシをつけただけ,という感じだ。

 それに比べてこの学生の意見は,「そっちばっかり見てないでこっちも見てごらん」とばかりに,「やる側」ではなしに「やられる側」の立場からの見え方を示している。それだけで,前ばかり見るではなく,自分の周りを見回すことを思い出させてくれる。外の視点から自分のことを見なおすきっかけを与えてくれる。こういうときに,こういう視点から,こういうことがすっと言えるようになりたいとつくづく思う。

 追記:これについて,岡山大学の長谷川先生のお互い更新日記で,次のコメントがついた。

【「多面的に物事を捉える」とか「クリティカルな視点で物事を捉え直す」という行動は、結局のところ、そうするほうが固定的・一面的に捉えるよりもトクをすることがある時に使えばよいと思う。未開地域の住人がある固定的な宗教観だけで日常生活を円滑に過ごしている場合には、わざわざクリティカルな視点を持ち込む必要は無い。「阪神はゼッタイに優勝する」と信じている阪神ファンに、「いや、別のチームが優勝する可能性がある」などと訴える必要も無かろう。】

 基本的な考え方としてはそのとおりだと思う。あるいは「使わないとソンをする時に使えばよい(使った方がよい)」。

 ちなみにこの点に関して『クリティカル進化論』では,批判的に思考した方がいい,具体的・実用的基準として,(1)将来に影響するとき,(2)他人に迷惑がかかるとき,(3)お金が絡むとき,の3つを挙げている(お金は,「許容限度額以上」のお金,という意味)(なお,「阪神ファン」のような例は,「単なる好みの表明」なので,最初から対象とはしていない)。

 ただし,実際問題としては,そうする/しないことが損か徳か,という判断は,誰にとって,どの範囲で,どういう意味で,と,考える幅を広げるだけで,簡単に判断が変わりうるものではないかと思う。阪神ファンはさておき(笑)。

 

■『市場主義の終焉−日本経済をどうするのか−』(佐和隆光 2000 岩波新書 ISBN: 4004306922 \660)
2001/05/08(火)
〜第三の道によるアウフヘーベン〜

 基本的には『21世紀の経済学』などと同じく,「市場主義の問題点指摘と克服」をテーマとした本。非常に面白かった。とは言っても,ここに書かれていることは昨今のわが国経済論壇の通説にさからっており,それゆえ数多の反論を招くであろうことは必至(p.22)なのだそうだが。私はそのような通説を知らないせいか,単純に面白かった。

 筆者の考えでは,今後の日本経済に必要なのは,

市場主義改革と「第三の道」改革を同時に遂行すること(p.229)
だという。つまり,まず市場主義改革は「必要」である。それにより効率性が確保できるからである。しかしそれだけで十分なわけではない。というのは,欧州やロシアなどで示されたように,市場が完全なものに近づけば近づくほど,「市場の力」が暴力と化する危険性が高まるからである。それに,「効率の追求を至上命題とするかぎり,公正という価値は二の次にまわらざるをえなくなる」(p.43)し,市場経済は「地球環境の汚染・破壊を防御する力学を内蔵していない」(p.221)。

 そこで必要になるのが筆者(元は社会学者ギデンズ)の言う「第三の道」である。第三の道とは,旧式の社会民主主義と新自由主義という二つの道を超克する道(p.142)であり,ある種のリベラリズムのようである。それによって,市場主義改革にともなう「副作用」の緩和をし,公共性を重んじる,公正で「排除」のない社会の実現をめざす必要がある,という。そこには,排除を最大化する市場主義とは違い,排除を最小化している「日本型システム」のポジティブ面の見直しも含まれる。

 本書が面白かったのは,経済オンチの私が,何となく聞いたことのある言葉や何となく知っている20世紀のいろいろな出来事を,経済現象や経済に関わる人々の意識として,大局的な像を呈示しているところであろう(70年代の大学紛争やヒッピー運動,レーガノミクスなど)。もっとも,その説明が妥当かどうかは,私には判断がつかないところであるが。

 本書の中では,大学改革に関しても「第三の道」による改革を模索すべき,と述べられている。市場主義的な競争原理の導入は必要であるが,学問の価値は経済的利益のみで測ることは無理がある。かといって,第三者評価に基づく資源配分は,社会主義の計画経済と同じような問題をはらんでいる。したがってこの両極端を止揚する第三の道が必要,という話である。具体的には,以下のような意見があった(p.175-177より)。

経済的利益の多寡で学術研究の価値をはかってはならない/学問の自由を犯してはならない(政策批判を行う社会科学研究の存在意義は大きい)/大学評価は組織レベルではなく個人レベルで/大学の人事は年功序列ではなく業績主義で/学生による授業評価を制度化すべき/外国人教官の採用を増やすべき
これで言うと,前半が保護的な部分,後半が競争的な部分,ということであろうか。この大学改革の話は,結局本書全体の話のミニチュアのようになっており(もちろん研究・教育活動の特殊性はあるが),興味深い。

 #Mainichi Interactiveに書評あり。

 

■(ごく)最近の読書生活
2001/05/06(日)

 1年ほど前の日記を見ると,「娘にダッコをせがまれて読書で大変」という光景が描かれている。あれから1年。最近(ここ1ヶ月ほど)はどうかというと...

 寝転がって本を読んでいると,下の娘(8ヶ月)がハイハイして寄ってくる。寝転がっている私の腹につかまって立ち,手を離して立つ練習に余念がない。長い時で,20秒ぐらい立っている。

 ただこれだけならいいのだが,立っちに飽きると,私の顔付近にじゃれてくる。私は本を読む時,マーカーで線を引きながら読むのだが,これをされると,線が歪んで書きにくい(&読みにくい)ったらありゃしない。

 一方,上の娘(2歳10ヶ月)は...

 私が本を読み始めると,自分のお気に入りの本と,私の使い古しのマーカーを持ってきて,私と同じように寝っ転がる。線を引くのはもちろんのこと,足を組んで寝っ転がるポーズまで真似をする(めちゃカワイイ)。それだけならいいのだが,ときどき顔を見合わせて「シシシ」と笑ってくる。それに応えてあげないといけないのがチト面倒である。

 とは言え,これで二人の娘の守りになるし,ある程度本も読める。1年前からすると天国かもしれない。

■ごく最近の読書生活

 ちなみにここ10日ほどは,腰痛のため,別室で寝ており,娘たちの襲撃もあまりない。その上,腰のためには安静にするしかないわけだけれども,何もすることがない。したがって,本が読み放題なのである。おかげで今月に入ってから昨日までに,5冊読むことができた(うち1冊は先月末に読み始めた)。しかもそのうち4冊が「当たり」で,今のところヒット率8割。ちょっとウハウハである。

 でも目を酷使しすぎたせいか,目が痛くなる。それで1日1回は,目には蒸しタオル,腰には湯たんぽをあてている。満身創痍というか,トシを感じるというか...

 

■『仮説実験授業のABC 第4版』(板倉聖宣 1997 仮説社 ISBN: 4773501278 \1,800)
2001/05/04(金)
〜知ってたつもり,仮説実験授業〜

 はじめて仮説実験授業をやってみよう,と思っている人のために,やり方や参考資料をまとめた本。初版は1977年だが,1997年の改訂で,新しい資料が加えられたり,文章が書き改められたりしている。仮説実験授業とは,たとえば「体重計に踏ん張って乗ったら重さはどうなるか」という問題に対して,結果を予想し,討論し,最後に実験する,という討論型の授業形態だ。

 仮説実験授業が生み出された背景としては,<伝統の受け継ぎ>と<創造性の発揮>という相矛盾するかに見える2つの側面の教育をいかに調和解決したらよいか(p.87)という問題があるのだそうだ。伝統の受け継ぎを重視しすぎるとオシツケになるし,かといって創造性を発揮させるために自由にさせすぎてしまうと,方向性をもたせるのが難しくなる。

 この問題を仮説実験授業では,いい問題設定をすることによって伝統の受け継ぎを行い,「あとは生徒の自由な討議と実験に任せる」(p.88)ことで創造性を発揮させる,という形でこの問題が解決されている。

 あと,仮説実験授業は「問題−予想−討論−実験」と,流れが明快であるために,理解したつもりになりやすい(少なくとも私はそうだった)が,ちゃんと分かっていない部分があることが,本書でわかった。それはたとえば,「仮説(一般法則)を選ばせるのではなく,予想(問題に示された実験の結果)を選ばせるのだ」(p.13)という点がそうである,

 また,有限回の実験では明らかにすることが難しい一般法則に関しては,「科学者がいろいろなことを実験したんだけれども,こうなんだ」というふうに教えちゃえばいいんだそうである(p.18)。なるほど,だから『コックリさんを楽しむ本』では,いくつか実験した後は,先生が本を読んで聞かせていたわけね。ただこの本に関しては,やはりそのやり方は「権威による論証」にしかなっていないとは思うけど。

 あるいは,わかっているつもりになっていた部分として,仮説実験授業の授業プランの作り方がある。これは各自が勝手に作っていいわけではなくたくさんの先生が,たくさんの資料をもとに,たくさんの知恵をよせあつめて,はじめてできること(p.299だそうだ。そういう意味では,守屋先生の仮説検討型授業はあくまでも,仮説実験授業的な考えを守屋先生なりに心理学の授業に取り入れた,ということで理解した方がいいようだ。

 筆者は,授業の一番基本的な本質は「間違え方を教えること」だ,あるいは「進み方を教えること」だ(p.39)と述べている。なるほど,だから自由に予想を変えていいし,最終的には実験で決着をつけるんだな。それだからか,仮説実験授業では,「予想のはずれたときのうれしさ」(p.67)というのがあるのだそうだ。

 本当はこのあたりは,実際に自分で(生徒として)体験してみたいところだが。それは無理だろうから,仮説実験授業の授業書(授業プラン)を読んでみたいものである。

 

■3歩進んで2歩もどる
2001/05/02(水)

 いったんはかなり良くなりかけたように見えた腰が,月曜日にまた「振り出しに戻って」しまった。いや,振り出しほどはひどくはないのだが。3歩進んで2歩戻った感じだ。

 何がいけなかったんだろう。思い当たる節はたくさんある。そろそろいいか,と思って下の娘(7ヶ月)を抱っこしたのがいけなかったのか。でも下の娘,最近は起きている時間の半分は,抱っこしていないと火がついたように泣いている。これでは妻は何もできない(その上最近は首と腕が痛い,とボヤいている)。それで,無理しないように気を付けながら抱っこしたのだが。

 あるいは,連休に何もしないと妻が怒るかと思って,月曜日のお昼に外出したのがいけなかったのか。といっても,車で出て食事をして,スーパーを2軒ほど回っただけなのだが。しかも妻子がスーパーに行っている間,私は車の中で寝ていたのに。

 あるいは,冷房にあたって風邪を引いたのがいけなかったのか。昼飯を食べたレストランは,ギンギンに冷房が入っていたのだ。でももう風邪は治ったのに,腰はまだ痛い。

 それにしても面白いのは,腰を痛めた姿で歩いていると,すぐに人に指摘されることだ。それだけではなく,実はワタシも腰が悪くて,と続く人が結構多いのである。

 今日も人に指摘されてしまった。私としては,月曜日からするとだいぶ痛みもましになったので,よく気づいたなぁとびっくりしてしまった。でもうちに帰って鏡を見てみると,明らかに身体が「く」の字に曲がっている(正面から見て)。これでましになったと思っていたなんて,と苦笑してしまった。

 


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