| 30日短評7冊 28日『アサ−ション・トレ−ニング』 24日『心と行為』 20日『協同の知を探る』 16日『知覚はおわらない』 |
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| 29日雑記 25日医者と患者が対等だなんて絵空事? 21日大変な一日 18日仕事の前に道具探し |
■4月の読書生活 |
2001/04/30(月)
今月読んだのは全部で14冊。最近ずっとこれくらいのペースである。そんなつもりはないのに。どうもこれは,毎月紹介するに足る本が予定冊数(7冊)分たまるまで,強迫的に読んでいるような気がする。で,どうやらそれなりの本に当たる確率が5割前後なので,結果的に倍の14冊読んでしまう,と。 たくさん読めるにこしたことはないが,強迫観念的に読む(読まされる)のはいかがなものかと思う。打開策は,紹介する本の規準を緩めるか,打率を上げるかどっちかだ。打率が上がる(=いい本に行き当たる)といいのだが。 今月面白かったもの,と考えてすぐに出てくるのは,『日本的経営の論点』と『アサーション・トレーニング』か。『知覚はおわらない』と『心と行為』あたりは,もう一度読んでみたいし,もう一度読まないとちゃんと理解できないのでは,と思う。
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■雑記 |
2001/04/29(日)
アサーション追記1: 昨日の最後に書いた,妻の仮想セリフ(あんたは十分),妻に言わせると,「これじゃあまるで立派な(アサーションのできる)夫のようだ」だそうだ。「今でさえ,押しつけがましくなくさりげなく提案されて,いつのまにかその提案を飲まされているのに,この上もっと巧みになられては困る」だって。そんなぁ。詐術を弄してるみたいに言いやがって。 アサーション追記2: こちらのページによると,合宿形式(3泊4日)でアサーション・トレーニングを受けると,総計8万円以上かるようだ(日本・精神技術研究所主催)。ちょっと興味があったんだけど。たっけー。 ヘルニアその後: 子どもの抱っこを妻に免除してもらったこともあり,その後の経過は順調。今回はじめて知ったのだが,腰痛の予防のためには,アキレス腱をはじめ,筋(すじ)を伸ばすのがいいのだそうだ。身体が硬いと無理が吸収できないで腰に負担が行くのだろう。私は幼少時からめちゃくちゃ身体が硬い。これからはストレッチ(と減量)をしなければ。と言っても,痛みが治まったら忘れてしまいそうな気もするが。この記述を見たら,必ず実施すること>自分 食べある記: 昨日は,非常勤先の専門学校生に教えてもらったぜんざい(氷ぜんざい)屋へ。場所はコザ高校近くの路地裏。ミニストアという名前の雑貨屋というかよろず屋で,店内に食べるスペースはない。レジのところでおばちゃんが作ってくれて,道端とかで食べるシステム。実にわかりにくい場所にあるが,場所柄,コザ高生らしき子たちが何人も地べたに座って食べていた。 ぜんざいは,驚異の5層構造。氷,ぜんざい,氷,ぜんざい,氷という積み方だ。はじめて見たが,名案だ。普通のぜんざいは氷を下まで掘らないとぜんざいに行き当たらないので,最初は味のしない氷だけを食べることになるが,この方式ならそういうことはない。白玉がたっぷり入っており,200円で満腹してしまった。なかなかうまかったし。また来ねば。
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■『アサーション・トレーニング−さわやかな<自己表現>のために−』(平木典子 1993 金子書房 ISBN: 4931317014 \1,500) |
2001/04/28(土)
〜攻撃でもなく不正直でもなく〜 私もこの本を読むまで,アサーション・トレーニングとは「自己主張」の技法を訓練することだと思っていた。しかしどうやら違うようである。というか,もう少し広い概念のようなのだ。そのあたりのことがわかるような箇所を抜書きすると,アサーションとは:
この本では,人間関係や自己表現のあり方が,攻撃的/非主張的/アサーティブの3つに分けられている。つまり,相手の言い分や気持ちを無視,または軽視して,相手に自分を押し付ける(p.23)ような,相手の犠牲に立った攻撃的自己表現・自己主張は,アサーティブとは言わないのである。一方,非主張的とは,単に主張しないというだけではなく,自分から自分の言論の自由(人権)を踏みにじって(p.20)おり,その上,自分の気持ちに不正直であり,相手に対しても率直ではない点も問題である。 人がアサーティブになれないのは,結果や周囲を気にしすぎるとか,アサーションのスキルを持っていない,というだけではなく,自分の気持ちが把握できていなかったり,考え方がアサーティブではないから,という指摘もある。アサーティブではない考え方とは,論理療法で言う「不合理な信念」のことのようだ。 そういえば,考え方をアサーティブにする(=不合理な信念をなくす)ことに関しては,「過去と他人は変えられない」(p.90)というエリック・バーンの言葉が紹介されていた。変えられるのは今の自分というわけだ。それにアサーション的には,他人は変えられないことを自覚した上で,変わることをお願いすることはできる。おもしろい。 考え方をアサーティブにし,自己把握をし,攻撃ではなしに自己表現する。私もそうなりたいものである。こういうことを言うと,妻には「あんたはもう十分自己主張してる」と言われそうだが。そんなことはない。特に,いつでもどこでも誰にでも適切にアサーティブになれる,というのはとても難しいことだと思う。
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■医者と患者が対等だなんて絵空事? |
2001/04/25(水)
昨日,腰が痛いので整形外科に行った。サイアクだった。 おとといは腰の痛みだけではなく,熱も出た(最高38度9分)。その整形外科は「内科」の看板も掲げていたので,そちらも一緒に申告した。でも,あくまでも主訴は腰の痛みである。月曜日は,トイレにさえ行けないのではないか,と一時は観念したほどの痛みだった。 病院で測ったら,平熱だった。しかし医者は,「風邪と,風邪からくる痛み」と決め付けていたようで,喉を見,胸の音を聞いたのみで,腰は見ようともせず,風邪の処置のみ(抗生剤入りの点滴)をしようとした。あわてて私が腰の痛みを訴え,5年前にも椎間板ヘルニアだったことを告げても,聞こうとしなかった。この5年の間に,骨は何度も入れ替わっているから関係ない,と言っていた。痛み方が前と同じだ,と粘ってようやくレントゲンを取ることになった。 レントゲンの結果,やっぱり椎間板ヘルニアだった。おまけに,あと2つ診断名がついていた(変形性腰椎症,腰部神経根症)。医者は何食わぬ顔で,椎間板ヘルニアのメカニズムを説明しはじめた。そんな話は5年前にも聞いたっつうのに。 結局,点滴を受けてから,腰の理学療法を受けた。理学療法が目的だったのに,点滴のせいで1時間も待たされた。理念的には医者と患者は対等(たとえばここの後ろの方)と言うけれど,医師の診断や処方に口をはさむのは難しい。平熱で,その他の風邪の自覚症状がなかった私に点滴が必要だったのか。大いに疑問だ。もし私が,風邪だと思うとか,熱があった,などと言わなければ,腰の診断と処置だけで終わった可能性が高い,と思う。 しかしあの医者,5年前がそうだったように,口ごたえめいたことを言うと,怒り出す可能性が高い。この期に及んで理学療法が受けられないなんてことになったら,イタすぎる。と思って我慢してしまった。患者として,下手に出てしまう方を選んだわけである。もう,次は別の医者に行くぞー。
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■『心と行為』(西阪仰 2001 岩波書店 ISBN: 4000265180 \3,255) |
2001/04/24(火)
〜認識とは公的な達成である〜#ヘルニア&風邪で今日はお休み。以下は,読後メモをほとんどそのまま。 視覚やイメージなど,心理学の古典的トピックをいわゆるヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの立場から,社会学的に再定位(p.v)しようとした本。本書で示されている内容は以下の通り(はしがきより要約しつつ引用)。
一つは,相互行為分析で目指されているものが,経験データに基づく「実証」ではない,ということである。目指されているのは,認識なら認識という行為が,どのような概念として使用されているのかという,概念的・規範的・文法的な問題の解明である。 たとえば心理学では,知覚(見る)やイメージや認識を一種の過程として理解し研究している。しかしこれは概念的な混乱である,と筆者は言う。これらは,「理解する」「勝つ」「到着する」などと同様,過程・活動・状態ではなく,むしろ「達成」もしくは「成功」を表現している(p.90)。つまり,きちんと認識できたときにのみ,はじめて「認識した」と言えるのである。ということは,きちんと認識できたかどうか,公的に確認できる状況になければならない。私的に閉ざされた認識は,失敗しえないがゆえに,認識と呼ぶことはできないのである。そして,この「きちんと」した認識,ということには,「その場の状況に適した」ということが含まれる。これが,認識が相互行為の中で達成されるものである所以である。この辺の議論は,ウィトゲンシュタインの私的言語の議論と基本的に同じであると思われる(ぢつはよく知らないのだけど)。 つまり,相互行為分析で行われていることは,たとえて言うならば,文法学者が日本語の文法を明らかにしようとしているようなものなのだろう。そこに必要なのは,データによる実証なのではなく,規範の解明,ということになる。 このぐらいのことは,本書のおかげでわかったのだが,前々から疑問に思っている点で,いまだわからないことがある。それは,ここで行われているような解釈の妥当性がどのように保証されているのか,という点である。これ以外の解釈可能性が,どのように排除されているのか,とも言える。筆者は,私たちがすでに知っていること(私たちが経験的な知識を得るためにもちいている,私たち自身の概念)を明らかにしていこうとするもの(p.17)と述べているので,これらは自明のことであり,これ以外にありえない,これはそもそも「解釈」などというものではない,と言うかもしれない(言わないかもしれない。自信なし)。 しかし,相互行為分析においては,いくつかの概念がもちいられている。たとえば,間接的な標的,物語の前置き,新情報標的などである。もしこれらをもちいなければ,別の解釈になるだろうし,別の概念を持ってくれば,また別の解釈がありうるのではないかと思う。それに,先に例に出した日本語の文法にしても,おそらく我々使用者にとっては自明のことであっても,それをきちんと説明するという段になると,いくつかの解釈が生じるものだろうと思う。それから考えても,規範的な分析と言っても,複数の解釈がありえるし,そうすると,そこにはどれが妥当かと言う判断もありえるだろうと思われる。今度は,その辺について知りたいものである。
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■大変な一日 |
2001/04/21(土)
昨日はなんだか大変だった,ような気がする。 午前中は専門学校で非常勤。こちらはまあまあだったが。午後は本務校。共通教育科目で実験の授業。こちらは,なんだかうまく学生を動かすことができず,また,不測の事態も授業中にいくつか起こり,結構あたふた。なんとか授業時間内に収まりはしたのだけれど。 それから続いて,共通教育に関する会議。6時までの予定が7時までかかり,そろそろヘトヘト。うちに帰ってみると,下の娘(7ヶ月)が熱を出して,吐いたりしている。私が帰ってからも2回ほど吐いた。食いしん坊らしく,それでもミルクや離乳食を欲しがり,そしてまた吐く。あげる方は,ちょっと恐怖である(ミルクのシャワーを浴びないかと)。 夜中は下の娘,熱で安眠できないのか,何度も大泣きして起きるし。明け方は妻の寝言で目がさめるし(「ワッ!」と言って人を脅かす夢を見たらしい。本当に「ワッ!」と言っていた)。というわけで,昨日はなんだか大変な一日だった。 #追記:日記更新(19:30)後,今度は上の娘(2歳10ヶ月)が数回吐き,病院に行った。下の娘は金曜と土曜で5回吐いている。さらには日曜の朝,今度は妻が,おなかの調子が悪く吐き気があるという。ぐったり。
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■『協同の知を探る−創造的コラボレーションの認知科学−』(植田一博・岡田猛編 2000 共立出版 ISBN: 4320094360 \3,600) |
2001/04/20(金)
〜協同の知をいろいろに問う本〜コラボレーションに関する,理論的な論文と実証的な論文を集めた本。「はじめに」には,次のように書かれている。 このような研究を集めることで,コラボレーションという社会的な知性とはいかなる性質のものなのか,また,このような社会的知性の起源とは何で,どのような基盤の上に成り立ち,個人の知性といかなる関係にあるのか,という問題を問うことができると考えた(p.iii) 読後,このような問いに対する一定の見通しは,私は残念ながら得られなかった。「問うことができる」というだけなので,答えまでは望んではいけないのかもしれないが。あるいは,私がこの領域に対して十分な知識がないことや,認知科学のような学際的な領域の論文(集)を読みなれていないせいかもしれない。本書には,さまざまな立場の人が,さまざままに協同行為を論じている。それが私には,寄せ集め的で,全体像が得られた気はしないように感じられた。おそらく,この領域を熟知している人にとっては,得るところがあるのだろう。まあいずれにせよ,そういう本だということである。 面白かったのは2箇所ほど。一つは,相互作用という概念に,ギブソンのアフォーダンス的な観点を入れ,「相互依存構造」という概念を提唱した亀田論文(p.64)。これは,メンバーの間にある依存構造が一種の環境として,相互作用のあり方を誘発(afford)するのではないか,という考え方である。このことは,同じ協同行為でも,問題解決と意志決定では決定のあり方が違うことや,大型船の乗組員間の分業のあり方が,お互いに介入しあうという緩やかな分業であることから出てきた考察である。それ以上の詳しい説明はなかったが,協同行為には相互依存構造があり,それほど自由度が高いものではない(環境に制約されている),というのは,なんだか面白そうな気がする。 もう一つ面白かったのは,博物館での親子の相互作用(協同)を観察することによって,子どもの学習様式を論じた,Callanan論文(p.137)。一般には,学習における親子(あるいは先生と生徒)の関係というと,「大人主導」か「子ども主導」の2種類を考える。しかしこの論文ではそれに加えて,「共同学習」を挙げている。これは,学習が,子ども・大人のどちらによっても管理されない(p.137)学習である。すなわち,目標理解,課題の解釈,学習の終了などをどう判断するかは,すべての参加者によって行われなければならないという。子ども主導はピアジェに影響を受けているのに対して,共同学習はヴィゴツキーの影響を受けているという。ふーん,ヴィゴツキーか。
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■仕事の前に道具探し |
2001/04/18(水)
原稿書きの仕事をはじめる前や行き詰まったとき,つい「道具探し」をしてしまう。 去年の夏に原稿書き(3本)をしたときは,まずアウトラインプロセッサを探した。全体構成を考えないといけないような気がしたので。以前もアウトラインロセッサを使ったことはあったが,キーの割り当てが肌に合わず,使うのをやめてしまった。で,いろいろ探した結果,編集作業に好きなエディタが使えるアウトラインプロセッサ(eMemo Pad)があったので,それを使って何とか仕事を仕上げることができた。 でも実はこのアウトラインプロセッサ,その後の仕事ではあんまり使っていない。何となく,書くという作業と見るという作業を分けた方がいいような気がして,文書をHTML形式で書き,ブラウザで見る,というのが,最近の定番になっている。 このやり方の不便な点は,何字書いたかを調べるのに,ちょっと手間がかかると言うことであるが,思わぬ利点もあった。それは,文章を推敲するとき,いらない記述を消してしまわなくても,コメントとして括ってしまえば,とりあえず見えなくなる,という点である。これだと,いざ消した文章を復活しようと思えば,すぐにできるのがよい。あと,私はワープロではなくエディタ派なのであるが,単なるエディタ上の文書と違い,タイトルの字体を変えたり,強調したいところを強調できる点も気に入っている。ちなみにHTMLからタグをはずすのは,HtoX32を使っている。 で,今週。今書いている原稿を人に読んでもらったら,いろいろと注文をつけられ,後半は文章を,大幅に組替えた方がいいことがわかった。この作業は,アウトラインプロセッサ向きのトップダウン作業ではなく,今ある個々の文章を,どう並べ替えたらいいか,というボトムアップ的な作業である。どうしたものかとしばらく思案したが,結局KJ法を使うことにした(実際に使ったのはISOP-KJ法 Version 1.0 for Windows)。おかげで,どうしていいか,全然見当がつかなかったものを,何とか形にすることができた(どれほどの出来かは別にして)。 仕事をせずに道具探しばっかりしているときは,「何してるんだ? やるべきことはあるだろう」と自分でも思ってしまうが,こういう体験があると,「仕事前の道具探し」がやめられなくなるんだろうなぁ。道具が見つからないと悲惨だけど。
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■『知覚はおわらない−アフォーダンスへの招待−』(佐々木正人 2000 青土社 ISBN: 4791758471 \2,400) |
2001/04/16(月)
〜全ての所から見る〜筆者が過去5年に書いた,アフォーダンスに関する文章を集めた本。入門的な文章,芸術家との対話,知覚と運動の話の3つに大別される。これらを読むことで,アフォーダンスについてなんとなくわかるようになっている。 とはいえ,アフォーンダンスの概念は難しい。本書でも,最初の4編は「アフォーダンス入門」と銘打っているが,1編目では,アフォーダンスという語が説明なしに用いられている。それ以降では,次のような記述が見られる。
ううむやっぱりわかるようでわからん。ただこの「わからなさ」は,アフォーダンス1語の問題だけではなく,「間接ではなく直接知覚」とか「情報処理ではなく発見」という考え方全体にあるのだろう。 ちょっと面白かったのは,佐々木氏の研究史。 目の見えない人に会えば会うほど,みんなばらばらで,ひとりひとり違うのです。理論と対象が結びつかなくて困っていたんですが,30代半ばごろ,時代の雰囲気もフィールドへというのがありまして,ぼくは中途失明の人の歩行訓練を監察することにしました。数年間,4,5人の最初まったく歩けない人が歩けるようになるというプロセスを見て,頭の中に地理的なイメージをつくるからではなく,もっとすごくローカルなものを発見して歩けるようになるんだということを実感したんです。その頃,ちょうどギブソンのアフォーダンスの理論にも出会いました。(p.152)なるほど,ここでも既存の理論や方法論のアンチテーゼとして,フィールド観察があるのか。それに,既存の理論と違う枠組みを持つギブソンの理論が出会って形になった,と。そういえばギブソニアンの研究は,フィールド的でありながら,うまく定量データに載せている(ものもある)という印象がある。ここらあたりに,何か突破口があるというか,従来型でない科学のあり方の一つの見本があるのかもしれない。わからないけど。 最後に,従来のような因果関係によらない説明について。たとえばギブソンは,網膜像が視覚の原因であるという伝統的な説明を否定する(p.198)。そのような網膜像は,「人間の行為の結果であり,視覚の根拠ではありえない」(p.20)という。あるいは,「物の移動を,「図」が「地」の上を動くことのように表現するのは間違い」(p.211)とも言う。では視覚とは何かというと,不変を探す運動であるという。そして, 不変を知ることは,「環境を固定しない観察点で見る」ことである。環境を移動で見るということは,移動路のどこかの一点にいないで,路上のすべての所から見るということである。(p.217)という。なんとなくボンヤリとイメージはわかるような気がするのだが... 見るとは「全ての所から見る」という話と似たような話は,『哲学・航海日誌』に出てきたような気がする。そのあたりから見直してみるか。
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