読書と日々の記録2002.01上
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■読書記録: 12日『授業研究入門』 8日『アクション・リサーチのすすめ』 4日『自分の頭で考える倫理』
■日々記録: 13日言葉の魔力(3歳児編) 6日言葉の魔力(1歳児編) 2日新年雑記
日記才人説明
■言葉の魔力(3歳児編)
2002/01/13(日)

 先日の続き。というか,こんどは上の娘(3歳7ヶ月)の話。

 子どもにはありがちなことだが,娘はころんだりどこかにぶつかったりしたとき,よく泣いていた。ところが,しばらく前から,そういう状況で泣くことがめっきり減ったのだ。

 たとえば転んだとき。見ていた妻が横で,「そういうの,なんて言うの?」なんて悠長に聞いている。ああ,そんなこと言ってる間に,泣き出すぞ。抱きしめてやったらどうなんだ。そう思っていたら・・・

 娘がこういった。「どーじ,って言うんだよ」。

 どうやら妻は,それがドジといわれる(間抜けな)ことであることを教えたらしい。その状況をどじと名づけることで,娘はめっきり泣かなくなったのであった。とはいっても,ドジ以外ではよく泣くのだけれど。

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■『授業研究入門−シリーズ子どもと教育−』(稲垣忠彦・佐藤学 1996 岩波書店 ISBN: 4000039482 \1,700)
2002/01/12(土)
〜思考を再構成する教師〜

 授業研究について,授業という具体的なミクロの世界と,それがおかれているマクロな歴史的,制度的状況を統一して捉え,閉塞を開いていく(p.247)ことを目的とした本。前者を佐藤氏が,後者を稲垣氏が書いている。佐藤氏は,(例によって)反省的実践という語をキーワードに,授業について語っているが,私が今まで見た中では,反省的実践という概念が一番わかりやすく書かれているのが本書であった。わかりやすかった要因としては,具体的な授業場面に則しながら反省的実践が語られていることが挙げられる。また最後には,佐藤氏がこれまで授業観察,授業研究を行ってきた経験をもとに,観察の仕方,ビデオの撮り方,反省や批評の仕方などを具体的に語っている点もよかった。明日から私でも授業研究ができそうな気がした。

 反省的実践がどういうものであるかについては,「出来事」という概念とのかかわりで,次のように述べられていた。

授業を所定のプログラムの遂行とみなす「技術的実践」として認識するか,それとも,教室の「今ここで」生起する意味と関わりを編み直す「反省的実践」として認識するかの分岐点は,教室に刻々と生起する数々の「出来事」に対して,教師がどのような態度でのぞむかにあると言ってよいだろう。(p.48)
ここでいう出来事とは,イベント一般をさすのではなく,教師の思惑や計画を裏切って起こるイベントを指している。そういうものに意味を見出し,積極的に対処することが,授業をダイナミックで創造的な過程へと再構成する(p.48)だけでなく,教師自身のあり方に反省を迫り,授業の意味を一変させる(p.53)契機にもなるという。

 そのような「反省的実践」が開かれる出来事は,教師によってどのように発見されるのか。授業ビデオを創造的な熟練教師が見ながらどのようなことを考えるかを検討した研究によって,それが明らかにされている。その研究によると,創造的な熟練教師は(新任教師とは違って),授業を見ながら即興的に多くの思考を行い,教室の状況の変化に敏感で,子どもや授業者などに視点を移動させながら多次元的に授業を見ており,授業の展開を前後の文脈に即して推測しており,そのうえ,授業を見ながら自分の見方を相対化し反省し組み替えることで不断に理論が再構成されているという(p.104-111)。

 とくに最後のポイント(「思考の再構成」)は私には重要に思われた。というのは,「反省的実践」といったときに,それが実践者の主観やものの見方の偏りからどれほど自由なのかが気になっていたのだ。ひょっとしたら反省的実践とは,実践者の勝手な思い込みをかっこいいレトリックで彩っているだけに陥ったりはしないのか,という危惧を感じていたのだ。しかし先の研究によると,新任教師の場合は創造的な熟練教師とは違って,最初から最後まで授業の見方は変化せず,自分の「理論」を一方的に事例にあてはめて解釈する思考態度(p.111)を示すという(つまり,思考が「再構成」されない)。この研究からすると,反省的実践の主観性,恣意性に対する私の危惧は杞憂だったといえよう。また同時に,この実証研究で使われている方法論や分析の観点が,そのような主観性,恣意性を検討するチェックとして使えそうである。

 あと,本書を読んで思ったのは,ここで語られている反省的実践が,まったく別の分野の本で語られている事柄と共通した面をもっている,ということである。たとえば本書で,技術的実践としての授業について,次のように語られている。

授業そのものも生き物のようなものと言ってよいだろう。ところが,実際に行われている授業は,この生命体としての性格を失っているし,機械的で形式的な枠にとらわれて,人為的なシステムやプログラムの中で無機的な手続きに解消されがちである。(p.74)
ここで言われている,「生物を機械的に扱う」問題は,『あの日、東海村でなにが起こったか』のような失敗学的な本で,雪印食中毒事件や臨界事故の問題点として語られていることと同じである。同様の指摘は,『医療事故自衛BOOK』(そのうち書評予定)で医療現場の問題点としても挙げられていた。まとめすぎかもしれないが,医療においても教育においても,問題は,「人間を人間として扱わず,科学技術適用の対象として見,工業モデル的に効率重視で処理しようとしたとき」に生じているといえるかもしれない。

 他書と同じ指摘がされていた点をもう一つ。教育実習生の授業は,見える部分ではめまぐるしく複雑に動き回っているが,実践者の内面でおきている思考は単純であるという。それに対して創造的な熟練教師の場合は,「見える活動」は動きが少なくて単純なようでも,教師の内面で遂行されている発見や選択や判断の思考という「見えない活動」が激しく複雑に展開しているのが一般的(p.101)という。これと似たことが,神田橋氏の『精神療法面接のコツ』にあった。このことは読書記録のなかには入れていないのだが,神田橋氏は,被治療者に出会う際には,「心をより複雑に,行動をよりシンプルに」保つのがよい,と述べられている。反省的実践という意味では,教育も臨床活動も,相通ずるところがあるといえそうである。もちろん違う点も多々あるのだろうが。

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■『アクション・リサーチのすすめ−新しい英語授業研究−』(佐野正之編 2000 大修館 ISBN: 4469244538 \1,800)
2002/01/08(火)
〜反省的実践寄りの技術的実践〜

 大学の英語の先生が編者をしている,アクション・リサーチのススメの書。中学・高校(一部大学も)の英語の授業をターゲットにして書かれており,具体例も英語のものなのだが,そういう例がないことを除けば,どの教科でも本書の記述を参考にすることができるだろう。アクション・リサーチの定義,歴史,方法,実践例,今後の展望が書かれているので,一通りの知識を得ることができ,やる気さえあれば明日からでもできそうな気にさせられる。そういう意味で良書である。

 アクション・リサーチは幅広くいうならば,実際の生産活動を行いながら,その効率化や質的な改善を追及する調査方法(p.9)ということのようである。もちろん学校では,生産活動=授業である。基本的な定義はそういうことである。アクション・リサーチを学校場面に特化していうならば,生徒や同僚の意見も聞きながら,系統的に持続して行う反省的授業研究(p.9)である。もっとも本書冒頭に,アクション・リサーチの定義はさまざま,とあるので,これはあくまでも本書での定義だろうが。

 授業のなかでは次のような形をとる。まず,今までのやり方の問題点は何か,という形で問題点を明確化する。「いままでのやり方が失敗だったのは,こういう理由ではないだろうか」(p.87)みたいに。そして,予備調査(インタビュー,アンケート,現状分析など)や文献研究をもとに,仮説を設定する。「こうすればこのような効果があらわれるだろう」というような形である。仮説の検証は,できるだけ具体的に行うことを筆者はすすめている。ナニナニする生徒が何パーセント以上いれば効果があった,みたいな。

 で,仮説にもとづいて授業を行う。その際には,文化人類学者がフィールドノーツをつけるように,授業者も授業の様子を記録するのがよい。カルテのようなものである。それもあまりきちんとやろうとすると,授業に差し支えるので,授業のところどころで,熱心に取り組んでいる生徒の割合をぱっと見て取って4段階ぐらいで評価して授業ノートの端に書く,ぐらいのことでもよいようである。これをたとえば6〜10時間ぐらい試行し,成果が上がっていないようなら,現状を分析しなおして仮説を見直す,というサイクルを繰り返すのである。

 こういう実践研究では,妥当性や信頼性がどうなっているのか,という疑問が生じるが,それについて本書では次のように答えられている(p.50-51)。まず,妥当性も信頼性も,内的なものと外的なものの2つを考える。アクション・リサーチは,外的妥当性(結果の一般性)は問題にしていない。あくまでも「自分」が「特定のクラス」で行う授業の反省的実践だからである。しかし,内的妥当性(目的に照らして,その方法が妥当か),内的信頼性(データを何度分析しても常に同じ結論になるか),外的信頼性(何度実施しても,得られる結果は同じか)は,(少なくとも本書では)重視されている。そのために,質的データを用いつつも,要所要所では量的データを取ることが推奨されている。

 本書を読んで,アクション・リサーチの概要はわかった。基本は,授業の目標を明確に設定し,あるやり方が効果を示さなければ,生徒の反応に基づいて目標設定ややり方を工夫すべし,という方法とまとめていいだろう。その考え方は,一般的法則定立を目指した実験研究などとはかなり違う。そして本書では,佐藤氏の著作を中心とした「反省的実践」の話が出てくる。ではアクション・リサーチと反省的実践はどういう関係にあるのだろうか。本書では,反省的実践とアクション・リサーチの関係について,つぎのように述べられている。

アクション・リサーチは通常の教育活動の中心にあるReflective Teachingの一部を焦点化し,調査を緻密に,組織的に実施したものに他ならない。(p.34)

 ここではおそらく,「焦点化」「緻密な調査」「組織的に実施」というところがポイントであり,(単なる)反省的実践とは異なる部分であろう。私の印象でも,本書で提唱されているアクション・リサーチは,かなりシステマティックなものに見える。大学院時代に応用行動分析の論文を読まされたことがあったが,印象としてはそれに近い。基本的には1事例しか対象としないが,質的データだけではなく,数値データを取って信頼性の高い研究(=他人に対する説得性)にすべき,というのが本書の基本的な方向性である。何らかの形で数値にしなければ,緻密な調査と組織的な実施とは言えないだろう。

 私見であるが,この発想は「反省的実践寄りの技術的実践」といえるのではないかと思う。いわゆる技術的実践のように,基礎科学で得られた方法を天下り的にそのまま教室に持ち込むのではない。実践者が自分と自分の生徒に適用したときに何が起きるかをじっくり見ながらその適否を判断する,という点では,きわめて反省的実践的なのである。

 しかし,佐藤学氏がよく強調しているように「生徒の言動に理(ことわり)を見つける」ことは行われない。生徒ができないとき,できないことの意味は何か,と考えるのではなく,どうしてできないのか,どうしたらできるようになるのか,という方向の反省のみが行われる。教師の定めた大枠の目標(〜能力を高めるなど)は動かさず,生徒の様子を見ながら,小目標ややり方を変えながら,その目標をいかに効率よく実現していくかを目指すことにだけに焦点化された反省的実践である。それは結局,ある技術(理論なり方略なり)を,状況(=目の前の生徒)にいかにうまく適合させ機能させていくかということであり,そのための反省なのである。私が「反省的実践寄りの技術的実践」といったのは,そういう意味である。文献研究が多用され,外的信頼性が重視され,数字による検証が重視されている点は,反省的実践とはまるで違う(と思う)。このことからも,基本的な発想は技術的合理性であろうと思われる。

 こういったことは本来,当然すべての教授活動において行われるべき(だが実際にはあまり行われていない)ことであり,このようなやり方を多くの教師が身に付けることは,非常に意味があると思う。ただしそれは,いわゆる反省的実践とは,そもそも目指しているものが違う,別のものというべきではないかと思う。

 #こちらに「英語教育」誌に著者が寄稿した小文あり。

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■言葉の魔力(1歳児編)
2002/01/06(日)

 子どもを見ていると,言葉にはすごい力があるように思える。

 下の娘(1歳4ヶ月)は,お風呂で顔を洗われるのがものすごく嫌いだった。のけぞりながらビービー泣くのである。のけぞっている娘の顔を洗うのは,けっこう大変で苦労していた。ところが,最近はまったくそんなことがない。成長したせいもあるかもしれない。しかし私は,顔を洗うときに私が歌を歌っているせいではないかと思っている。

 それは,娘がよく見るビデオ『いない いない ばあ』という,松谷みよ子の絵本のビデオ版)に入っている,「おかおをふくうた」という題の歌である。♪「おでこさんをまーいて」と言いながらおでこを洗い,「♪めぐろさんをまーいて」と言いながら目の周りを洗う,という具合に鼻,鼻の穴,口を順に洗っていく歌である(本当は「拭いていく」だけど)。

 顔を洗うのがイヤには違いないのだろうが,これを歌っていると,娘の様子が「観念した」という感じなのだ。今されていることが何なのか,次に何をされるか,いつ終わるのか,といった意味や流れが分かる,ということなのではないかと思っている。言ってみれば,「わけのわからないものに名前を付けて分類すると,なんとなく分かったような気になって安心する」ことと同じかもしれない。

 同じような事例はもう一つある。下の娘はダッコ虫で,しかも立ってダッコしないと暴れるのだ。立て,と要求しているのだろう。これはけっこうつらい。特に娘が眠りそうなとき,ひとしきり立ってダッコして,寝たかと思って座ったり置いたりしたら,火がついたように泣き出すことがよくある。そうなったら,「振リ出シニ戻ル」である。もう一回立ってダッコして,眠気を誘う作業をしなければならない。無間地獄だ。

 ところが,娘がダッコされてウトウトしているときに,やっぱり歌を歌うと効果があるのである。同じビデオ『いない いない ばあ』の最後に入っている「もう ねんね」という歌である。これを歌いながらだと,座っても「立て」と要求して暴れることも少ない。やっぱり観念して,寝る体勢に入る努力を彼女なりにしているようなのである。

 歌の一番最後にある「ばいばーい,またねー」のところでは,いっしょに小さく「バイバイ」とつぶやいたり,手を振ったりしながら,寝てしまう。打率10割というわけにはいかないが,これに気づいてから,寝かせるのがはるかに楽になった。

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■『自分の頭で考える倫理−カント・ヘーゲル・ニーチェ−』(笹澤豊 2000 ちくま新書 ISBN: 4480058575 \660)
2002/01/04(金)
〜民主主義とか国家とか〜

 著者は『小説・倫理学講義』を書いた人。「自分の頭で考える」というタイトルに惹かれて買ってみた。その心は,有名哲学者の謎解きをするのではなく,自分の頭で,自分自身や国家社会のことを考え(p.13)る,ということである。ただし,有名哲学者をまったく無視するわけではない。自分の問題関心を追求しつつも,サブタイトルにあるような先人の思想をヒントあるいは糧とし,彼らとの対話を通して,問題を考える。そういう本である。割合としては,「自分で考える」部分と「先人から学ぶ」部分が半々ぐらいだろうか。そういう意味では本書は,カント・ヘーゲル・ニーチェの思想を知る手軽な入門書にもなっている。

 本書では「自分の頭で考える」対象として,自由,権利,利己主義,愛と所有,家族,法,自由主義と共同体主義,など多くのものが扱われているが,それらはバラバラに存在するわけではない。国家や民主主義が全体を貫く通奏低音として一貫して奏でられているように思う。

 興味深い話はいくつもあったのだが,私がとくにおもしろかったのは,吉野川可動堰の住民投票について触れている個所である。あのとき,建設相が住民投票を「民主主義における投票行動の誤作動」「民主主義のはき違え」と発言しており,物議をかもしている。この発言に対して筆者は,発言の趣旨自体はそれほどおかしいものだとは思わない(p.189)と述べている。というのは,「多数派の見解が正しいとは限らない。その道の専門家がいちばんよく知っているので,国民はそれに従うべきだ」ということを言わんとしているだけだからである。ソクラテスは,治者とは「王杖を持つもののことではなく,また,群集によって選ばれた者でもなく,武力や詐欺手段によって権力を得るものでもなく,統治の仕方を知るもののことである」(p.187)と述べている。上記の建設相の発言は,これと同じものだと考えられるのである。

 ただし筆者は,この発想自体は問題がなくても,「統治の仕方を知るもの=専門家」が誰を指すのかが難問だと考えている。というのは,「吉野川可動堰」問題の専門家は,洪水関係者だけではなく,税金がかかわるということから経済の専門家,生物に与える影響という意味で生態系の専門家など,多数の専門家が考えられるからである。治水に関しても,可動堰がいいと考える専門家もいるだろうし,そうやってコンクリートで固めることの問題点を指摘する専門家もいるかもしれない。そこで筆者は,次のように提言している。

そういう諸々のことを検討するために,多方面から多種多様な専門家が集まって議論できるような場を作ることが,何よりもまず必要(p.192)
と考えている。この話は,民主主義の異なる形態を示しており,興味深い。すなわち,専門家支配(ソクラテス,建設相),多数派支配(住民投票(この両者はイコールではないが,発想は近い)),議論の過程重視(筆者)という具合である。ただしソクラテスの言葉は本書では,民主主義を真っ向から否定する(p.188)ものとして紹介されているので,それを建設相のように「民主主義の誤作動」と表現するのは不適切ではないかと思うのだが。

 ということはつまり,素人ながら愚考するに,現在の政治状況は,政党による多数派支配という形の民主主義と,官僚による専門家支配(という形の非民主主義)と言えるのではないだろうか。それに加えて,『〈政治参加〉する7つの方法』にあるように,公開討論会や住民投票など,市民の側で議論の道を拓いたり非政治家である一般人の意見が目に見えやすいような形にする方策が工夫されつつある,と。現実はそう単純なものではないかもしれないけど。

 本書ではその他にも,国家のあり方について論じられている。筆者の基本的な発想は,「自由主義よりも共同体主義,競争社会よりも,安心・安寧を目的とした福祉国家」のようである。それは「日本的なものの復権」(p.153)とも述べている。このあたりの話も興味深いのだが,私が十分に理解できたとはいえないので,ここでは詳しくは触れない。ただ,文化の経済学や,第三の道とありそうな発想であるように感じた。そういうところも,また,ドイツ近代哲学の大御所の思想の片鱗を知ることができた点も含め,なかなか勉強になるように思えた本であった。

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■新年雑記
2002/01/02(水)

 なんだか,一家そろって踏んだりけったりの年末年始である。

 最初は上の娘(3歳6ヶ月)。クリスマス直後から「お口が痛い」と訴えている。どうやら口内炎だか舌炎ができているようなのである。痛くて泣くこともある。かわいそうだが,どうしようもない。

 次は下の娘(1歳3ヶ月)。年末,吐いたり下痢をしたり。病院に行ったら,その名もずばり,嘔吐下痢症と言われた。11月ごろから,全国的に流行っているそうだ。ミルクとジュースをおなかにいいものに変え,下痢止めの薬を与え,食事は消化のいいものを量を減らして与えることに。食欲旺盛な娘だけに,かわいそうだがどうしようもない。栄養が取れないせいか,いつもよりかなり元気がない。ようやく今日あたりから便の様子が普通になってきているし,元気も戻ってきているが。

 次は妻と私。二人そろって,喉と舌が痛い。かぜ+舌炎である。おかげで私は,ここ数日ウォーキングしていない。正月料理やお菓子,酒は普通(以上)にいただいているので,体重が気になる今日この頃だが,どうしようもない。かぜが治ったら,またプチ減量モードか。

 舌の痛みは,思ったよりもつらい。始終ヒリヒリしているし,食事もしみる。何を食べてもうまくない。一応口内炎の薬を塗ったりしているが,舌なので,すぐに唾液に流されて,あまり効果がないような気がするが,どうしようもない。

 そして極めつけは,上の娘のおたふくかぜ。熱が39度9分まであがり,痛い痛いと訴える。開いている小児科は少ないので,病院に行ったら,2時間待ちだった。しかもおたふくかぜに特効薬はないので,できることは,解熱剤+抗生物質(合併症を防ぐため)ぐらい。あとは古典的に,頬を冷やすだけである。本当につらそうだが,どうしようもない。何はなくても健康であることの大切さが身にしみた正月であった。

 


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