読書と日々の記録2002.11下

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■読書記録: 30日短評9冊 28日『機会不平等』 24日『調査的面接の技法』 20日『民主主義とは何なのか』 16日『日常認知の心理学』
■日々記録: 29日においと原点 26日教員養成学部の学生 17日自分を「わたし」と呼ぶ4歳児

■11月の読書生活

2002/11/30(土)

 本を読むペースが落ちている。おそらく最大の理由は,テレビを見る時間が増えたことだ。DVDレコーダを買った⇒予約録画が簡単なのでどんどん録画してしまう⇒録画したら見てしまう,ということだ。授業に使えそうな番組がいくつかあったのでよかったけど。

 今月よかった本は,『カルトか宗教か』(いろいろ考えた),『サヨナラ、学校化社会』(芸事だよね学問は),『民主主義とは何なのか』(ポイント突いてる感じ)あたり。

『三たびの海峡』(帚木蓬生 1992/1995 新潮文庫 ISBN: 4101288046 \629)

 戦時中,朝鮮から強制連行されて炭鉱で働かされた男の話。はじめて本書をWeb書評で目にしたとき,暗くて重くて気がめいりそうな本のような印象を受けた。実際読んでみて,そういう部分ももちろんあったが,それだけではない。読み始めたら止まらなくなり,実質1日で読み終えてしまった。それほど興味深い小説だったのだが,それは,歴史を上からの視点ではなく,ひとりの男の視点を通して,個人的なこととして語られているからだろうか。それを支える詳細で生き生きとしたエピソードも多数ちりばめられている。読みながら何度も,これは筆者の体験談に基づいているのではないだろうか,と思ったほどだ。話も,現在と過去が同時並行的に語られるのだが,話のつながりが実に自然で,まったく戸惑うところはなかった。実にうまく,そして考えさせられる本であった。

『大学生のためのレポ−ト・論文術』(小笠原喜康 2002 講談社現代新書 ISBN: 4061496034 \680)

 「レポートや論文を書くときのルールや文献検索方法などの,本当に基本的なことだけに限定して紹介」(p.3)した本。冒頭からいきなり,レイアウトの話や注釈の付け方など,書き方の形式的な話でちょっとめんくらうが,後から何度も参照する部分を冒頭に持ってきた,という筆者の配慮らしい。冒頭の言葉とはうらはらに,研究計画の立て方やテーマ設定の仕方も論じられているし,よい文章の書き方に関しても,重要なことが簡潔とはいえ述べられており,単なる「論文術」の本ではない。なかなか悪くない本であると思った。

『心理学って何だろう─心理学ジュニアライブラリ─』(市川伸一 2002 北大路書房 ISBN: 4762822779 \1200)

 中学生に向けて書かれた,心理学の入門書。中高生が心理学に対して抱きそうな疑問に答えながら心理学についても紹介するという内容で,手堅くまとまっている印象。ところどころに筆者の体験談がはさまれており,中学生の興味を引くようになっている。外に向けて書かれた本としては,こういう内容で何の文句もない。ただ,「心理学を知っていれば,常識的な解釈や,本人の意識だけに頼るのではなく,他の可能性も考慮しながら事態をとらえて,対応策を考えることができる」(p.83)という記述には,もう少し注釈をつけたい気がする。というのは,往々にして心理学者や心理学徒は,他の可能性を考慮するというよりも,「心理学の常識」で解釈してすませてしまうことがあるからだ。まあこういう注釈が必要なのは大学生以上か。大学生版「心理学とは何だろう」も必要かも。

『「きめ方」の論理』(佐伯胖 1980 東京大学出版会 ISBN: 4130430173 \2,500)

 投票,民主的決定,自由主義のパラドックス,ゲーム理論,公正さなどが扱われた本。こんなに幅広いものが扱われているとは思わなかった。とはいっても,私がこれらを別のものだと考えていただけで,実は筆者が言うように,これらは「決定」という同じ面を持っている。最終的な結論は,「一人一人が社会の目を自らのうちに持つ」ことが重要で,そうすることによってのみ決定のパラドックスから逃れられる,というきわめて興味深いものである。とはいっても,本書はやたら数式は多く,そういうところは飛ばして読んだので,どうしてこういう結論が出てきたのかはよくわからないのだけれど。

『実践のエスノグラフィー─状況論的アプローチ3─』(茂呂雄二編 2001 金子書房 ISBN: 4760892834 \4,000)

 再読。1年前と比べて,理解はあまり変わらなかったような気がする。特に前半が難解である。昨年大事だと思った部分は,昨年同様それなりに理解はできたのだが。まあそこまでだった。もうちょっと中間レベルの本を読む必要があるのかもしれない。あ,一箇所,内省を「隠遁型」と「過程型」にわけた考察(p.141-142)はちょっと興味深いような気がしたけれども。

『行動ファイナンス─金融市場と投資家心理のパズル─』(角田康夫 2001 金融財政事情研究会 ISBN: 4322102395 \1,800)

 行動経済学の入門書。行動経済学に関しては,私は『賢いはずのあなたが、なぜお金で失敗するのか』を読んでいる。本書を書いたのは金融畑の人だが,トヴァスキーのような心理学者の研究もきちんと勉強して書いているように見える。しかし,私に経済学の基礎素養がまったくないせいか,そういう関連の部分は理解が難しかった。あと,この手の本が陥りがちな罠なのだが,「人はこういうときにこういう選択を好む」的に,人間のことを(個人差を考慮せず)平板に記述している部分がめだった。そういう指摘をして,それに○×バイアスと命名し,注意を促す,というのは,基本形なのかもしれないが,何か物足りない気がする。何が物足りないのかは,まだうまく言えないのだけれど。

『心理学マニュアル 研究法レッスン』(大野木裕明・中澤潤編著 2002 北大路書房 ISBN: 4762822647 \1800)

 心理学研究法の勘どころをマスターすることを目指して書かれた本。だいたい予想されたような内容だった。いや,批判的思考という語が何度か出てくるところは,予想外だったが。学部3年生あたりが読むのにいいかもしれない。ただ一箇所,初心者に論文の批判的読みを勧めている部分(p.18-)があったが,(初心者が論文を通して)研究スタイルを見に付ける,という作業と,批判的に読む,という作業を両立させるのは難しいのではないかと思った。

『論理的思考を身につける本』(鷲田小弥太 1997/2002 日経ビジネス文庫 ISBN: 4532191416 \600)

 論理的思考や論理力に関する,雑談的な本。内容も,論理ということに限っていないようである。ところどころ,悪くないことも書かれてはいるのだが,「そもそも論理とか論理的思考とは何か」みたいなことに対する明確な答が書かれていないのは残念。

『論理的に考える力を引き出す』(三森ゆりか 2002 一声社 ISBN: 4870771691 \1,500)

 小学生から高校生を相手に,言語技術教室をしている人の本。基本的な考え方は,日本語が論理的な言語ではなく,欧米的なコミュニケーションスキル教育が必要,というものである。筆者がやっている「問答ゲーム」というものがわかった。これも含めて,本書全体があまり感心できるものではなかった。

■においと原点

2002/11/29(金)

 ちょっと気づいたこと。

 私は今いる大学に,最初は教養部で採用された。赴任から教養部解体までの5年半を教養部教員として過ごした。

 それから教育学部に配置換になり,今に至っているわけであるが,数えてみたら,今月で教育学部歴が5年7ヶ月になっている。教養部在籍歴を超えているわけである。

 どうりで最近,私自身,「教育」臭くなっているような気がする。もちろんいい意味も含めて。

 それでもなぜだか,どうしても発想の原点は,全学的な教養教育にあるような気がする。

 これは,人生の半分以上の時間を,生まれた土地以外の地で過ごしているのに,生まれた土地が原点にあるのと同じかもしれない。

 とはいえ,生まれて始めて接した学問分野である「心理学」臭は,最近減ってきているような気がしないでもないのだが。

■『機会不平等』(斎藤貴男 2000 文藝春秋 ISBN: 4163567909 \1,619)

2002/11/28(木)
〜市場が導く優生学〜

 こんにち,教育改革も雇用・労働政策も,高齢者介護も,児童福祉も,「不平等社会」を作る方向で改革が進んでいる。そういうことを論じた本である。その根本にあるのは,極端な新自由主義による市場化であり,弱者切り捨てである。そういう社会の行きつく先は,社会ダーウィニズム的な不平等社会であり,優生学の復権である,と本書では論じられている。

 そんなばかな,という気がしないでもないが,しかし筆者は,たとえば教育改革国民会議座長の,(人間にとって重要なのは)「僕は遺伝だと思ってます」(p.12)という発言を紹介したり,前教育課程審議会会長の「学力低下は予測し得る不安と言うか,覚悟しながら教課審をやっとりました。いや,逆に平均学力が下がらないようでは,これからの日本はどうにもならんということです。」(p.40)という証言を紹介している。こういった証言を元に,現在の教育改革路線について筆者は,「"劣っている"と判断された子供は,積極的に無知に"育てる"」(p.43)ということなのだと考えている。確かに市場化や自由化には,そういう側面があることは否めない。しかしそれを直接裏づける証言が,改革の中核にいた人の口から出るとはオドロキである。

 そのような事情は,派遣社員に代表される労働の種別化や市場化,介護保険を発端とした高齢者介護の市場化,市場原理による学童保育の切捨てなどにおいて現実化している。そこで市場が果たす役割は,階層格差を拡大再生産することであり,それは一種の優生学として働く。そのことを筆者は,「ヒトラーに相当する特定の顔が見当たらない,しかし強力この上ない市場という原動力が動かす新優生学」(p.256-7)と呼んでいる。

 しかし一ついえることは,現在の教育改革路線がそのことをストレートに実現したものではない,ということである。もちろん結果的にそうなる可能性は少なからずある。しかしそうならないような教育を展開することも,不可能ではないように思える。要は,今回の教育改革の中にある,正しい理念がきちんと浸透し,それに合わせてきちんと運用されることであろう。本書で描かれているのは,そうならなかったときのシナリオ,と考えるべきではないかと思う。私の考えが甘いのかもしれないけれど。

■教員養成学部の学生

2002/11/26(火)

 学生に聞いた話なのだが,教員養成課程の学生のなかには,教員になろうかどうしようか迷っている学生が少なからずいるのだそうだ。

 たくさんの学生に聞いたわけではないので,きちんとした人数分布などはわからないのだが,少なくとも2年生には,そういう学生が少なくないようである。

 他の学部の学生に話を聞くと,やはり2年生という時期は,迷いの時期だったり,試行錯誤の時期だったり,遊びと甘えの時期だったりするようだ。そういうことを考えると,教員養成課程の学生であっても,2年生ぐらいの時期に迷うことは分からなくもない。

 それにしても私は,今まで,そういうことはまったく考えもしなかった。教員養成課程に来ているからには,教員志望であることは当然で,それに向かってつき進んだり,教員になった後のことを考えるための情報や経験を提供することが大学の役目だろうと思っていた。しかしどうやら違うらしい。

 ということは,1,2年生対象の授業では,むしろ,いかに教員という仕事に魅力があるかをアピールすることも重要なのではないかと思う。少なくとも,教員養成課程の学生の就職(合格)実績をあげる,という観点からは。

 こういうのもふくめて,最近つくづく,大学教員は大学生のことを知っていないと思う。もちろん授業の中での彼らのことはよくわかっているつもりなのだが,それ以外の世界については知らないことが多いのではないかと思う。いや,私だけなのかもしれないけれど。

■『調査的面接の技法』(鈴木淳子 2002 ナカニシヤ出版 ISBN: 488848693X \2,500)

2002/11/24(日)

 社会心理学者による調査面接についての方法論の本。網羅的というか羅列的な内容で,面接をするわけでもなくちょっと読んでみようと思うには辛いかもしれないが,これから調査面接をしようと思っている人には,どこかに役立つ情報が載っているかもしれない。

 たとえば「調査目的の決定」にあたって,自分が考えたテーマや目的が明確かどうかを確認するためには,「それらについて何も知らない人に簡潔に説明して理解してもらえるかどうか,そしてその説明に説得力があると認めてもらえるかどうかをチェックするとよい」」(p.56)と書かれている。

 このような,外的な目を利用したチェックは,面接のやり方そのものについても具体的に述べられている。それは「シミュレーション面接」を30分ほど行い,それをビデオテープに録画してチェックしようというもので,面接しやすそうな「同性の協力的なインフォーマント」から始まって,異性,年齢の違うインフォーマント,非協力的なインフォーマント,外国人とステップアップして練習することが提案されている。最後には自分自身もインフォーマントになるのである。そしてその面接の良否を評価するチェックリストも55項目に渡って挙げられている。

 そのほかにも,面接後に,質問内容の適否やインフォーマントの印象を記録する面接評価用紙の試案が載せられている。これは役立ちそうである。インフォーマントの権利にしても,本書には拒否権,質問権,自己情報コントロール権,自己情報開示請求権が挙げられているが,私は常識的に思いつく程度の権利しか考えていなかった。

 このように本書は,これから調査面接を行おうとしている人が,自分がやろうとしていることにモレがないか,他の方法がないか,注意すべきことがないかを確認するうえで,有用であるように思う。とくに私のように,面接調査に関する教育を受けたことも,やっている人が身近にいるわけでもない人間にとっては。知っている人にとっては当たり前のことなのかもしれないけれど。しかも本書は,重要なことは本文と同じことが表や図になっているので,一読後は,図表だけを中心に見ていっても,基本的なことは押さえられるようである。

■『民主主義とは何なのか』(長谷川三千子 2001 文春新書 ISBN: 4166601911 \700)

2002/11/20(水)
〜不和と敵対のイデオロギー〜

 民主主義を,自明のものとしてではなく,「先入観をぬぐい去って,ちょうど百年前の人々に見えていた通りの,未知なもの,不気味なものとして「民主主義(デモクラシー)」を眺めて」(p.10)みることを試みた本。その作業を通して,民主主義の暗部がえぐり出されている。

 それは,ファシズムの正体は,抑制のないデモクラシーにほかならない(p.41)という姿であり,かつては「いかがわしい」ものであった民主主義(デモクラシー)が,「或る種のトリックによって,「正義と平和の原理」としての地位が獲得された」(p.44)という姿であり,古代ギリシャにしても,民主政のメカニズムがそのまま僭主政を生み出すメカニズムになっていた(p.82)という話であったり。

 ここで語られているのは,「一口に言うなら「不和と敵対のイデオロギー」としての民主主義(デモクラシー)(あるいは民主政(デーモクラテイア))の姿」(p.92)である。それは,「神」や「過去の賢明な人々の英知と実践のつみ重ね」(p.118)を根拠にするのではなく,国民主権=国民の意思を根拠にしたものである。ある集団における人々の意思なんて1種類には決まらないわけで,そこから必然的に「不和と敵対」が生まれれてくる。デモクラシーとはそういう制度なのである。

 そこに欠けているのは,「自己の欲望を理性で抑える「克己心」と,自らが正しい思ったことをもう一度吟味反省してみる「知的謙虚」」(p.126)であり,「よく聞く」ことによって「他者の智恵」に敬意を払うこと(p.214)であり,「不和,争いを抑制して,上も下もそれぞれむつまじく平成に仲良く論議する」(p.216: 聖徳太子の十七条の憲法の一節)ことである。それはソクラテス的に,「ひたすら真の知恵(ソフィア)を得たいという強い情熱と,(そのためには不可欠の)知的謙虚の姿勢と,知恵のある言葉を聞きわけるよい耳」(p.219)を用いて「理性的な態度」を貫くことである。

 今,これを書きながら思ったのだが,筆者は「民主主義的なもの」すべてを否定しているわけではない。「争いに「力」(クラトス)をもって「打ち勝った(クラテイン)」ものが支配者となる」(p.63)という意味での「デモクラシー」を否定しているのである。そうではないものとして,清教徒革命と名誉革命当時のイギリス(p.111),先にあげたソクラテスや十七条の憲法などをあげている。

 これまで読んだ本で言うとこれは,『デモクラシーの論じ方』に出てくる2種類の民主主義の話である。また,『個人主義と集団主義』のいい方で言うならばこれは,垂直的個人主義の問題点を,水平的個人主義〜水平的集団主義の見地から述べた本ともいえる。そういう意味で興味深い本であった。ただ最後に,フェミニズムを「端的な錯誤」(p.223)と短絡的に論じており,これはちょっといただけない。こういうのがあると,本書の他の箇所(私にはあまり知識のない,歴史や政治の話)も大丈夫かな,と思ってしまう。

■自分を「わたし」と呼ぶ4歳児

2002/11/17(日)

 先日の妊婦ごっこは,今ではどうやら「赤ちゃんごっこ」になっているらしく,お腹に人形をいれて,自分が赤ちゃん(胎児)気分を味わっているらしい。母体回帰願望か?

 上の娘は現在,4歳5ヵ月だが,基本的には自分のことを「まーちゃん」(仮名)と呼んでいる。しかし,状況によっては自分のことを「わたし」ということに,最近気づいた。

 それは,ごっこ遊びをしているとき,しかもどうやら,「おねえさん」とか「おかあさん」の気分になっているときに,そういうようである。口調が何だか大人っぽくなっており,自分のことを「わたし」といっている。それが自分のことを指している証拠に,「わたし」といいながら自分のことを指さしたりしている。

 そういうときには,「まーちゃん」という呼び方と「わたし」という呼び方は混用されない。どういう心境なのかは分からないが,ちょっとおもしろい。ついでにいうと,そのとき,彼女は父親である私のことを「あなた」という。こちらも「パパ」は混在しない。

 こちらのほうは,ちょっと照れくさいような,不思議な気分である。

■『日常認知の心理学』(井上毅・佐藤浩一編著 2002 北大路書房 ISBN: 4762822426 \3,400)

2002/11/16(土)
〜ふむふむナルホド〜

 日常認知研究に関する,日本で最初の専門書。私にとって,いくつか得るところがあり,どうやら私の現在の研究上の興味は,「日常認知」と関係があるらしい,ということがわかった。

 たとえば,日常認知研究では,日常場面で自然な課題が用いられることが多いが,その一つとして「日誌法」というのがあることがわかった。というか,こういうやり方があることは,他の本でも読んで知っていたはずなのだが,それが自分の研究とつながったと言う感じだ。詳細はヒミツだけど。

 これも自分の研究がらみの話なのだが,どうやら私の現在の興味は,「自伝的記憶」といわれる分野と関係ありそうである。内容面でもそうだし,方法論的にもそうである。方法論に関していうと,自伝的記憶を聞き出すための手がかりとしては,「出来事」だけでなく「時期」も手がかりとして提示したほうが,検索されやすいそうである。ふむふむなるほど,これは面接調査に使えそうである。

 もう一つ「なるほど」と思ったのは,「日常世界の対人認知」という章に書かれていたステレオタイプに関する記述である。ある人をステレオタイプで見るか個人特性に着目して見るかに関して,2つのモデルが紹介されていたが,どちらのモデルにしても,「われわれの対人認知機構は,特別な理由がない限り,通常は処理負荷の小さいカテゴリーベースの情報処理を行うように設計されている」(p.174)ということであった。そうではないかと私も思っていたので,これはなるほどというよりは「やっぱりな」という感じなのだが。

 このことからするならば,クリシン的にやみくもに「ステレオタイプ視するな」と警告することは,自然なメカニズムから考えても,現実的ではないといえそうである。もちろんステレオタイプ視がまずい場合も多い。だからこそ,こういうメカニズムが基本であることを前提とし,その適応的な意味も理解しつつ,そのうえでどうしたらいいのか,という話をすべきだろうと思う。具体的なアイディアは,もちろんないのだけれども。

 とまあ,いくつか得るところがあったので,来年あたり,日常認知研究をきちんと勉強してみたいものである,と思ってみたりした。


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