30日短評9冊 28日『機会不平等』 24日『調査的面接の技法』 20日『民主主義とは何なのか』 16日『日常認知の心理学』 | |
| 29日においと原点 26日教員養成学部の学生 17日自分を「わたし」と呼ぶ4歳児 |
本を読むペースが落ちている。おそらく最大の理由は,テレビを見る時間が増えたことだ。DVDレコーダを買った⇒予約録画が簡単なのでどんどん録画してしまう⇒録画したら見てしまう,ということだ。授業に使えそうな番組がいくつかあったのでよかったけど。
今月よかった本は,『カルトか宗教か』(いろいろ考えた),『サヨナラ、学校化社会』(芸事だよね学問は),『民主主義とは何なのか』(ポイント突いてる感じ)あたり。
ちょっと気づいたこと。
私は今いる大学に,最初は教養部で採用された。赴任から教養部解体までの5年半を教養部教員として過ごした。
それから教育学部に配置換になり,今に至っているわけであるが,数えてみたら,今月で教育学部歴が5年7ヶ月になっている。教養部在籍歴を超えているわけである。
どうりで最近,私自身,「教育」臭くなっているような気がする。もちろんいい意味も含めて。
それでもなぜだか,どうしても発想の原点は,全学的な教養教育にあるような気がする。
これは,人生の半分以上の時間を,生まれた土地以外の地で過ごしているのに,生まれた土地が原点にあるのと同じかもしれない。
とはいえ,生まれて始めて接した学問分野である「心理学」臭は,最近減ってきているような気がしないでもないのだが。
こんにち,教育改革も雇用・労働政策も,高齢者介護も,児童福祉も,「不平等社会」を作る方向で改革が進んでいる。そういうことを論じた本である。その根本にあるのは,極端な新自由主義による市場化であり,弱者切り捨てである。そういう社会の行きつく先は,社会ダーウィニズム的な不平等社会であり,優生学の復権である,と本書では論じられている。
そんなばかな,という気がしないでもないが,しかし筆者は,たとえば教育改革国民会議座長の,(人間にとって重要なのは)「僕は遺伝だと思ってます」(p.12)という発言を紹介したり,前教育課程審議会会長の「学力低下は予測し得る不安と言うか,覚悟しながら教課審をやっとりました。いや,逆に平均学力が下がらないようでは,これからの日本はどうにもならんということです。」(p.40)という証言を紹介している。こういった証言を元に,現在の教育改革路線について筆者は,「"劣っている"と判断された子供は,積極的に無知に"育てる"」(p.43)ということなのだと考えている。確かに市場化や自由化には,そういう側面があることは否めない。しかしそれを直接裏づける証言が,改革の中核にいた人の口から出るとはオドロキである。
そのような事情は,派遣社員に代表される労働の種別化や市場化,介護保険を発端とした高齢者介護の市場化,市場原理による学童保育の切捨てなどにおいて現実化している。そこで市場が果たす役割は,階層格差を拡大再生産することであり,それは一種の優生学として働く。そのことを筆者は,「ヒトラーに相当する特定の顔が見当たらない,しかし強力この上ない市場という原動力が動かす新優生学」(p.256-7)と呼んでいる。
しかし一ついえることは,現在の教育改革路線がそのことをストレートに実現したものではない,ということである。もちろん結果的にそうなる可能性は少なからずある。しかしそうならないような教育を展開することも,不可能ではないように思える。要は,今回の教育改革の中にある,正しい理念がきちんと浸透し,それに合わせてきちんと運用されることであろう。本書で描かれているのは,そうならなかったときのシナリオ,と考えるべきではないかと思う。私の考えが甘いのかもしれないけれど。
学生に聞いた話なのだが,教員養成課程の学生のなかには,教員になろうかどうしようか迷っている学生が少なからずいるのだそうだ。
たくさんの学生に聞いたわけではないので,きちんとした人数分布などはわからないのだが,少なくとも2年生には,そういう学生が少なくないようである。
他の学部の学生に話を聞くと,やはり2年生という時期は,迷いの時期だったり,試行錯誤の時期だったり,遊びと甘えの時期だったりするようだ。そういうことを考えると,教員養成課程の学生であっても,2年生ぐらいの時期に迷うことは分からなくもない。
それにしても私は,今まで,そういうことはまったく考えもしなかった。教員養成課程に来ているからには,教員志望であることは当然で,それに向かってつき進んだり,教員になった後のことを考えるための情報や経験を提供することが大学の役目だろうと思っていた。しかしどうやら違うらしい。
ということは,1,2年生対象の授業では,むしろ,いかに教員という仕事に魅力があるかをアピールすることも重要なのではないかと思う。少なくとも,教員養成課程の学生の就職(合格)実績をあげる,という観点からは。
こういうのもふくめて,最近つくづく,大学教員は大学生のことを知っていないと思う。もちろん授業の中での彼らのことはよくわかっているつもりなのだが,それ以外の世界については知らないことが多いのではないかと思う。いや,私だけなのかもしれないけれど。
社会心理学者による調査面接についての方法論の本。網羅的というか羅列的な内容で,面接をするわけでもなくちょっと読んでみようと思うには辛いかもしれないが,これから調査面接をしようと思っている人には,どこかに役立つ情報が載っているかもしれない。
たとえば「調査目的の決定」にあたって,自分が考えたテーマや目的が明確かどうかを確認するためには,「それらについて何も知らない人に簡潔に説明して理解してもらえるかどうか,そしてその説明に説得力があると認めてもらえるかどうかをチェックするとよい」」(p.56)と書かれている。
このような,外的な目を利用したチェックは,面接のやり方そのものについても具体的に述べられている。それは「シミュレーション面接」を30分ほど行い,それをビデオテープに録画してチェックしようというもので,面接しやすそうな「同性の協力的なインフォーマント」から始まって,異性,年齢の違うインフォーマント,非協力的なインフォーマント,外国人とステップアップして練習することが提案されている。最後には自分自身もインフォーマントになるのである。そしてその面接の良否を評価するチェックリストも55項目に渡って挙げられている。
そのほかにも,面接後に,質問内容の適否やインフォーマントの印象を記録する面接評価用紙の試案が載せられている。これは役立ちそうである。インフォーマントの権利にしても,本書には拒否権,質問権,自己情報コントロール権,自己情報開示請求権が挙げられているが,私は常識的に思いつく程度の権利しか考えていなかった。
このように本書は,これから調査面接を行おうとしている人が,自分がやろうとしていることにモレがないか,他の方法がないか,注意すべきことがないかを確認するうえで,有用であるように思う。とくに私のように,面接調査に関する教育を受けたことも,やっている人が身近にいるわけでもない人間にとっては。知っている人にとっては当たり前のことなのかもしれないけれど。しかも本書は,重要なことは本文と同じことが表や図になっているので,一読後は,図表だけを中心に見ていっても,基本的なことは押さえられるようである。
民主主義を,自明のものとしてではなく,「先入観をぬぐい去って,ちょうど百年前の人々に見えていた通りの,未知なもの,不気味なものとして「
それは,ファシズムの正体は,抑制のないデモクラシーにほかならない(p.41)という姿であり,かつては「いかがわしい」ものであった民主主義(デモクラシー)が,「或る種のトリックによって,「正義と平和の原理」としての地位が獲得された」(p.44)という姿であり,古代ギリシャにしても,民主政のメカニズムがそのまま僭主政を生み出すメカニズムになっていた(p.82)という話であったり。
ここで語られているのは,「一口に言うなら「不和と敵対のイデオロギー」としての
そこに欠けているのは,「自己の欲望を理性で抑える「克己心」と,自らが正しい思ったことをもう一度吟味反省してみる「知的謙虚」」(p.126)であり,「よく聞く」ことによって「他者の智恵」に敬意を払うこと(p.214)であり,「不和,争いを抑制して,上も下もそれぞれむつまじく平成に仲良く論議する」(p.216: 聖徳太子の十七条の憲法の一節)ことである。それはソクラテス的に,「ひたすら真の
今,これを書きながら思ったのだが,筆者は「民主主義的なもの」すべてを否定しているわけではない。「争いに
これまで読んだ本で言うとこれは,『デモクラシーの論じ方』に出てくる2種類の民主主義の話である。また,『個人主義と集団主義』のいい方で言うならばこれは,垂直的個人主義の問題点を,水平的個人主義〜水平的集団主義の見地から述べた本ともいえる。そういう意味で興味深い本であった。ただ最後に,フェミニズムを「端的な錯誤」(p.223)と短絡的に論じており,これはちょっといただけない。こういうのがあると,本書の他の箇所(私にはあまり知識のない,歴史や政治の話)も大丈夫かな,と思ってしまう。
先日の妊婦ごっこは,今ではどうやら「赤ちゃんごっこ」になっているらしく,お腹に人形をいれて,自分が赤ちゃん(胎児)気分を味わっているらしい。母体回帰願望か?
上の娘は現在,4歳5ヵ月だが,基本的には自分のことを「まーちゃん」(仮名)と呼んでいる。しかし,状況によっては自分のことを「わたし」ということに,最近気づいた。
それは,ごっこ遊びをしているとき,しかもどうやら,「おねえさん」とか「おかあさん」の気分になっているときに,そういうようである。口調が何だか大人っぽくなっており,自分のことを「わたし」といっている。それが自分のことを指している証拠に,「わたし」といいながら自分のことを指さしたりしている。
そういうときには,「まーちゃん」という呼び方と「わたし」という呼び方は混用されない。どういう心境なのかは分からないが,ちょっとおもしろい。ついでにいうと,そのとき,彼女は父親である私のことを「あなた」という。こちらも「パパ」は混在しない。
こちらのほうは,ちょっと照れくさいような,不思議な気分である。
日常認知研究に関する,日本で最初の専門書。私にとって,いくつか得るところがあり,どうやら私の現在の研究上の興味は,「日常認知」と関係があるらしい,ということがわかった。
たとえば,日常認知研究では,日常場面で自然な課題が用いられることが多いが,その一つとして「日誌法」というのがあることがわかった。というか,こういうやり方があることは,他の本でも読んで知っていたはずなのだが,それが自分の研究とつながったと言う感じだ。詳細はヒミツだけど。
これも自分の研究がらみの話なのだが,どうやら私の現在の興味は,「自伝的記憶」といわれる分野と関係ありそうである。内容面でもそうだし,方法論的にもそうである。方法論に関していうと,自伝的記憶を聞き出すための手がかりとしては,「出来事」だけでなく「時期」も手がかりとして提示したほうが,検索されやすいそうである。ふむふむなるほど,これは面接調査に使えそうである。
もう一つ「なるほど」と思ったのは,「日常世界の対人認知」という章に書かれていたステレオタイプに関する記述である。ある人をステレオタイプで見るか個人特性に着目して見るかに関して,2つのモデルが紹介されていたが,どちらのモデルにしても,「われわれの対人認知機構は,特別な理由がない限り,通常は処理負荷の小さいカテゴリーベースの情報処理を行うように設計されている」(p.174)ということであった。そうではないかと私も思っていたので,これはなるほどというよりは「やっぱりな」という感じなのだが。
このことからするならば,クリシン的にやみくもに「ステレオタイプ視するな」と警告することは,自然なメカニズムから考えても,現実的ではないといえそうである。もちろんステレオタイプ視がまずい場合も多い。だからこそ,こういうメカニズムが基本であることを前提とし,その適応的な意味も理解しつつ,そのうえでどうしたらいいのか,という話をすべきだろうと思う。具体的なアイディアは,もちろんないのだけれども。
とまあ,いくつか得るところがあったので,来年あたり,日常認知研究をきちんと勉強してみたいものである,と思ってみたりした。