15日『知識の哲学』 10日『デボノ博士の[6色ハット]発想法』 5日『裁判官だって、しゃべりたい!』 | |
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哲学における「認識論」(=知識の哲学)についての教科書。認識論とは、「われわれは世界についてそもそも何を知りうるのか、知りうるとしたらどのような範囲のことがらをどの程度知りうるのか、どのような方法を用いれば世界について知ることができるのか、何かを知っているということとただそれを信じていることはどこが違うのか」(p.i)といった問題を探究する哲学だそうである。
本書では、伝統的な認識論が紹介され、その問題点が紹介され、新しい認識論が紹介されている。伝統的な認識論とは、「われわれはいかにして信念に達するべきか」という規範的問題に答えようとした認識論であった。新しい認識論とは「自然化された認識論」と呼ばれるものである。自然化された認識論とはどういうものかというと、先の規範的問題は、「我々は実際にどのようにして信念に達しているのか」という事実的問題と独立に答えることができない、と考える認識論である。
伝統的認識論では、知識を正当化する構造と基準を明らかにしようとしてきた。それに対して自然化された認識論者が主張するのは、「合理性、正当化どころか真理もそれじたいでは認識論上の価値をもたず、認識が目指すところのものではない」(p.191)というように考えるらしい。つまり、われわれの認識の目的は真理を知ることではない、ということなのだ。とはいえ、真理(真なる信念)は確かに価値が置かれている。しかし「それは非常にローカルな価値であり、自分の属する民族集団や社会階層の文化的実践に重きを置く態度と本質的にはそんなに変わらない」(p.212)のである。
このあたりのことは、進化心理学や文化心理学を念頭に置くと、私にはさほど特別な考えには感じられなかった。本書ではこのあとさらに、知識が個人の中にあるという個人主義が批判され、社会化された認識論が提唱されているが、これも私には、そう来たか、やっぱりな、という感じで受け取った。
私が本書で一つ、ナルホドと思ったこと。筆者は伝統的認識論を、「真理に到達することそれじたいに内在的価値を置くような生き方がよい生き方なのだから、それが何の役に立つなどと言わず、真理に近づくことじたいに喜びと価値を見出すような人になりなさい」(p.214)というメッセージを含む人格改造的な営み、と喝破している。これは伝統的な認識論だけでなく、伝統的なアレコレであるとか規範的なドレソレにも当てはまることだろうと思う。
デボノ博士というと、聞いたことはあるけれども読んだことはないような人物である。それでも、ときどき批判的思考の文献に引用されることがあるので、読んでみたかったのだが、訳書がほとんど絶版で手に入らなかった。どうしようと思っていたら、アマゾンのマケプレに本書が出ていたので、どういう内容か知らずに購入してみた。結果としては、なかなか悪くない本だった。
まず一般論だが、思考を(特に一般書で)論じる人には、いくつかのタイプがあるように思う。どこかで読んだようなことを書いている人、とりあえず独自っぽい思考法を売り込んでいるだけの人、などなど。その中でときどき、「お、この人なかなか分かっている人だな」と思える人がいる(←かなりエラソーなことを言うようではあるが)。本書の筆者はそういうことを感じさせるところのある人だった。たとえば、思考を、決まりきったことがらに対応する思考(対応型思考)と、ものごとをよりうまく行うための思考(目的型思考)に区別していたり。あるいは,思考する人であるための「最初の段階は「意志」をもつこと。これはたやすいようであり,かつ困難なことでもある」(p.19)なんていう記述もあった。こういうところなどから、「分かっている人」という感じを受けた。そういう箇所は何箇所かあったように思う。
本書の内容である。筆者は思考を、6つに分類している。それは、筆者のまとめによるならば以下の通りである(p.242より)。
これは本書のまとめの記述からの抜粋なので、これだけみては分かりにくいかもしれない。色の比ゆの意味、キーワード、内容の比ゆ的説明が混在しているので。まあしかしそういうものだと思ってみれば分からないでもないだろうから、これ以上はあまり説明しないで置く。ちなみに、「感情、感触(フィーリング)、あるいは、非論理的な思考のいっさいにかかわる」(p.66)レッド・ハット思考を、思考の正当な一部として位置づけているところなども、「なかなか分かっている」と私が感じた一因である。
筆者は,思考ゲームとして,「議論」をするのではなく,「地図作成」(全体の地勢を詳細に調査し記録すること: p.209)をすることを提唱しており,そのためにこの6色で全体像を把握することを目指しているようである。これらの思考は、実際の思考の中で、たとえば次のような現れ方をする(p.202-203の記述を、道田が補足しつつ要約)
アイデアを管理する人(ブルー・ハット)が、まず創造的思考(グリーン・ハット)の収穫を集め、アイデアを建設的に発展させ、積極的に評価し、また確証を得た利益と価値の追求を行う(イエロー・ハット)。次に、客観的なデータ(ホワイト・ハット)とともに、それがうまくいくか、うまくいくとしても価値があるのかについて、批判的な検討がなされる(ブラック・ハット)。最後に、このアイデアが気に入っているかといった、情緒的な判断(レッド・ハット)を行う。
もちろんこれが思考の唯一のあり方ではない。ブルー・ハットの統制の元に、その場の状況に応じたプログラムが作られる。たとえば感情的になっている場合は、上記のプロセスの前に、レッド・ハット→ホワイト・ハット→イエロー・ハットが必要になったりする(p.221-222)、という具合である。
これらを「ハット」と称するのは、「思考する人を(文字どおりの意味において)演技する」(p.22)ことを推奨しているからである。どうやら英語では、たとえば威張り散らしている夫を「社長の帽子をかぶっている」と形容するように、帽子という語を「役割」的な意味で使うらしい。本書ではこの比ゆを複数用いることにより、思考という複雑なものを単純化すると同時に、思考のスイッチ切り換えを促そうとしている。偏った思考をしている人(自分も含め)に対して、「帽子をぬいでみてください」「別の帽子をかぶってみてください」というような言い方で切り換えを促すというわけである。これはなかなか悪くないやり方だと思う。
とはいえ、各色のハットの意味や守備範囲が明確には分かりづらい部分もなきにしもあらずだったし、また、本書の基本的な構成が、各色のハットの内容を順次説明しているだけだったりして、決して読み物としてはとても面白いわけではなかった。しかし発想は本当に興味深いものだと思う。
教職科目「教育心理学」。グループでコンセプトマップを発表させる2回目の授業である。今日は2グループが発表。
最初に,専修最後に書かせた質問(意見)書で出た質問を5つ印刷して配布し,先週発表グループに回答させた。回答に私が疑問な点があり,再質問をしたりしたので,予定よりも長く,15分ぐらいかかってしまった。まあでも,これを通して,先週の授業内容の確認と補足ができるので,これはこれでいいと考えた。
続いて,今日のテーマ(リーダーシップ)関連の試験問題をちょっと考えさせた後に,2グループにコンセプトマップを発表してもらった。今日は2グループが発表なので,時間はきっちり2分で切ることにした(実際には,2分経ったところで「残りを手短にまとめて」と言って切り上げさせたので,2分をちょっと回っている)。その後,フロアにいるグループに,質問をさせることに。先週はここであまり質問が出なかったので,今日は,「質問がないグループは,内容が理解できたということだから,両グループの発表要旨を簡潔に言ってもらう。グループ内に誰か質問があるのであれば,それをグループ内で共有して。」と教示し,全員を起立させ,シンキングタイムとした。質問なり要旨がまとまったら座る,という形式で,どれだけのグループが考えているかを視覚的に確認した。2分待っても座らないグループがあったので,そこで打ち切ってもらい,質問があるグループに挙手してもらったところ,今日は8つも質問が出たので一安心だった。
質問を,1時半(授業開始40分)ごろまで受けた後,発表タイムは切り上げて,私の補足タイムに。当初の予定では1時20分から補足タイムだったのだが,質問に答えるなかでも補足が可能なので,ここが延びるのは問題ないと考えた(実際,問題はなかった)。補足としては,リピットとホワイトの各リーダーの操作的定義の恣意性を指摘し,PM理論と専制,民主,放任の関係を考え,教師のP型的ビリーフを修正する介入に関する研究を紹介した。
最後の30分は実践紹介ということで,NHK「わくわく授業」から,田尻悟郎先生の「5分刻みで英語が好きになる」を12分ほど見せながら,田尻先生のP的関わりとM的関わりに注目させた。最後に少し時間があったので,田尻先生のどのような点がP的か,M的かについて,1分ほどグループで話し合わせ,5グループを指名して1点ずつ答えてもらった。この時点で授業終了5分前となったので,質問書記入時間として授業終了。
今日は,発表グループも比較的しっかりと発表したり質問に答えていたし,フロアからもいくつも質問が出たので,なかなか悪くない授業だったのではないかと思っている。授業終了後,3週間後に発表のグループが残って,「先行オーガナイザ」なんて言葉を使いながら話し合いをしていた。頼もしい。
数十人の現役裁判官によるグループが中心となって語った本。裁判官と最高裁の間にはミゾがあるのだそうで、「信念を通す人は、どんなによく仕事ができ、人格識見ともにすぐれた優秀な裁判官であっても、今の裁判所では所長にさえなれないことを覚悟しなければならない」(p.294)とある。本書全体から受ける印象としては、ここに参加している数十人の裁判官は、こういう人たちが少なくないような気がする。
本書でなるほどと思ったのは、「起訴有罪率がほぼ100パーセントだからこそ、自分たちの仕事への情熱を維持していける」(p.24)とある検察官が語っていたという話。確か『自白の心理学』に書かれていたんだったと思うが、日本は起訴有罪率がほぼ100パーセントで、ほとんどの裁判官は有罪の判決しか下さずに一生を終えるので、被告人に対して推定有罪の態度で臨んでおり、冤罪事件を見破ることができないんだ、というようなことが書かれていた。この説明に私はナルホドと思ったわけだが、しかし本書に書かれているのもその通りで、起訴有罪率が低いと、検事が仕事への情熱を失う可能性があるかもなあと思った(どうせ裁判でひっくり返されるんだし、という感じか)。しかしまあそれにしても、起訴有罪率が高いのはあくまでも理想であって、達成すべき目標ではないはずなのだが、それがノルマ的になってしまうと、『取調室の心理学』にあるように、歪んだ供述が生み出されたり、まがい物の証拠が作り出されたりすることになるのだろう。
なお、ある判事は「職業裁判官は、調書を読んで、嘘か真実かを見抜く力がついています」(p.123)と述べていたり、別の判事は「自分が担当した事件は、裁判官として自分が納得するまで考えて結論を出し、責任ある仕事を果たしている」(p.147)と述べている。もちろんそういう部分はどの裁判官にでも必ずあるのだろうが、上に挙げた2冊の本にあるように、そうではない部分をもっている可能性について、裁判官がどう考えているかは知りたいところである。本書中では、免田さんと対談した判事の森野氏が、「私自身が裁判官として、たとえば免田さんの再審請求を受けたときに、はたして再審開始決定ができたかどうかと言われると、残念なことに自信がない」(p.62)と述べている。つまり「そうではない可能性」があることは認めているわけだが、それに対してどう考えるかまでは、残念なことに述べられていない。
本書は、興味深いところもあるものの、わかりにくいところも多少あり、全体としてはホドホドという感じであった。タイトルどおり、とりあえずしゃべりたい話題を幅広く(悪く言えば雑多に)語った、という感じか。企画自体は悪くないので、もう少し焦点というかテーマを絞ってくれるといいのに、なんて思ったりした。
今日は、その日の授業テーマのコンセプトマップを学生に発表させる第一回目の授業であった。ということで反省を交えつつ。
授業の前半30分は、前週の質問に対する返答(10個印刷して、3つのみ口頭で補足)し、その後、授業テーマに関連した採用試験過去問題をあてずっぽうで回答させた。一人に指名してあてずっぽう解答を聞いてから、担当グループにコンセプトマップを発表してもらう。発表時間は2分と言い渡してあったのだが、実際は3分半かかっていた。その後、質問がないか各グループで2分ほど話し合ってもらい、質問を出してもらった。反省点は、発表グループが教科書を参照しながらの発表だったこと。次からは、聞いている人が、教科書を見なくてもわかるような発表をしてもらわねば。あと、発表後の質問があまりたくさんは出なかったので、次週からは、「質問または発表内容の要約」をしてもらうことを前提に発表を聞き、話し合いをしてもらうことにしよう。
授業中盤30分は、私の補足。ローゼンサールの実験を紹介し、過去に学生から出された、教師期待効果の体験談を紹介し、期待によって見え方が変わる実験を紹介し、柔らかな態度で人の話を聞くやり方(SOFTEN)を紹介した。
授業の後半30分は、実践のビデオ(わくわく授業から「理由を言えば引き算がわかる」)を見せ、先生がポジティブな期待を子どもたちに伝えていることを見て取らせた。ビデオ視聴後、いくつか補足を行い、また、過去に出た「この先生の応対はわざとらしい」という意見についてグループで話し合わせて数グループに意見を聞いた。
今回は、こういう形態で授業を行う初めての回だったので、私の動き方があまり適切ではない部分があった。発表グループの発表をきちんと聞く余裕もなかったし。でも、何回かグループでの話し合いを挟むこともできたので、まあまあかなと思っている。次週はもっとうまくやろう。