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ああ忙しい。5月は本当に,研究室を片付ける暇がないほどに忙しく,おかげで部屋がほとんどゴミ箱のようになっている(実際,先日研究室に来られた方にびっくりされてしまった)。早く来い来い夏休み,である。その割には本は読めたけど。これは,子どもが早く就寝するようになったので,寝る前に読む時間が取れたせいだろう。それでも週に2〜3回は,大学で夕食をとって,子どもが寝付いてから帰宅するということが何回もあったのだけれど。
今月よかった本は,『デボノ博士の[6色ハット]発想法』(ホント触発的な本だった。私にとっては),『知識の哲学』(全体も俯瞰できたし今後の方向性も見えたし)あたりか。『体育(シリーズ授業)』も,体育の授業に対する考え方なんかがわかって悪くはなかった。
教職科目「教育心理学」。今日のテーマは「学習指導」の中の「学習の有意味化」であった。いつものように,まず前週発表グループに,前週に質問書で出た質問に回答してもらい,今週発表グループに,テキスト範囲をコンセプトマップにしたものを投影しながら概要説明をしてもらった。説明は2分としているのだが,今週発表グループはなぜか1分20秒ぐらいで発表が終わってしまった。引き続き,フロアからの質問に発表グループが答えるコーナー。最近このコーナーでは,質問がたくさん(8つぐらい?)出るのだが,今日はあまり出なかった。挙手して質問したのは2グループぐらいではないかと思う。かといって内容理解しているわけではなく,私が指名すると,質問が出る。どうしたことなんだろう。ちょっと不思議である。また,質問に対して発表グループは前で1分以上も考え込んだり話し合ったりしていた。今まではここまで間が開くグループはなかったように思う。こういうときにどう対処するかは考えておかねば,と思った。
授業中盤は,道田による補足。今日は,『間違いだらけの学習論』(西林著 新曜社)で仕入れた問題をいくつか出し,これまでにいかに有意味でない(意味づけせずに)学習をしてきたかを実感してもらい,意味づけして新情報をスキーマに組み込むことや,スキーマを作り変えることの重要性を理解してもらった。私が高校のときに体験した地理(さまざまな世界地図)の授業を紹介し,どのように工夫しようがあるのかについて話したりして。
最後にNHK「わくわく授業」から,「実験のなぜを考えよう」を17分視聴。このビデオ,今日の授業テーマにどれほど合致しているかは私自身,あまり自信がなかったのだが,学生は,理解することの重要性を理解してくれたようだ。
このシリーズを読むのも『音楽(シリーズ授業)』に続いて4冊目。絶版なので例によってマケプレにて購入。本書には、小学1年生の箱とびの授業と、5年生の側転の授業が収められている。本書では、対話(モノ、他者、自己との)に着目して読んでみた。それらしい箇所を目に付いた範囲で引用してみよう(そういう視点で読み始めたのは後半に入ってからなので、拾えていない部分もあると思う)。
このうち、1,2,5が「自己との対話」であろう。ここで論じられているのは、身体としての自己であり、客体としての自己である。このように、特に体育では、自己との対話は自分の身体を知ることを指しているようであるが、それは1にあるように、「何かの課題にぶつかってうまくいかない」ときに生じる対話なのだろう。2にあるように、そういうときは自己と「知的」に対話するのではなく、まずは自己の身体と徹底的に対話し、自分の身体性能を十分に知る必要があるのだろう。2でいわれているのはそういうことだと私は理解した(2のような意見には、体育の先生からは反論があるようであるが)。
3、4は「モノとの対話」である。それはもちろん、モノと自己が対話するわけであるし、そのような場面は、1にもあるように「何かの課題」に対したときに行われることである。それなら「自己との対話」と「モノとの対話」の違いはどこに生まれてくるのか。これはあくまでも、上記引用からの推測なのだが、自己との対話が「課題がうまくいかないとき」に行われるのに対して、モノとの対話は、3にあるように「からだがそれに応える」「邪魔でもなければ自分を妨げるものでもなくて、それと親しむ相手」「自分のからだがなじんでいくような感じでつき合う」ときに生じるのがモノとの対話のようである。同じようにモノと対峙している状況でも、それがうまくいかないときには自己と対話し、うまくいくときにはモノと(親しく)対話する、というのは、よくわかるような気がする。ちなみに佐藤学氏は、自己との対話のことを「自分探し」、モノとの対話を「世界作り」と呼んでいる。これも、上の対比を念頭におけば、わかるような気がする。
あと、3にあるようにモノとの対話は、「邪魔でもなければ自分を妨げるものでもなくて、それと親しむ」ということである。確かに日常的な意味でも対話は、相手と信頼関係があるからこそ可能になることである。同じ二者間のやり取りでも、口論(=自分を妨げる相手との)という語と対比すると、「対話」が相手と親しむ関係から生まれることがみえる。それはもちろん、相手が人間でもモノでも同じことであろう。本書で、改めてこのことに気づかされた。
そして6が他者との対話である。ここでは、学びあい、教えあいという形での対話しかないが、実際にはそれ以外にも、共感したり、批判したりという関係もあるのだろう。そういう関係は、体育では出てきにくいのかもしれないけれど。
ということで本書を通して、モノ、他者、自己との対話の意味を確認するとともに、体育における対話の特殊性について知ることが出来た。
NHKの人間講座のテキスト。番組を見ていたのだが、なんだか筆者の話しぶりというか論の進め方にはけっこう隙があるような感じがしたので、番組終了後にテキストを注文してみた。やっぱり突っ込みどころのある話だった。
たとえば筆者は、「「客観的命題は好き嫌いで判断せず、徹底的に合理的思考を貫く」ことも大切」(p.81)と述べる。ここでいう合理的思考とは、「事実と合っているかどうか、観察されている諸事実間の論理的整合性と矛盾しないかどうか等によって客観的に判断されるべきもの」(p.81)のようである。しかし客観的事実の例としては、「地球は太陽の回りを公転する」「宇宙はビッグバンで始まった」なんてものを筆者は挙げているのである。果たしてこれらは、一般の人が「事実と合っているかどうか、観察されている諸事実間の論理的整合性と矛盾しないか」を判断できる事柄なのだろうか。かなり疑問である。
また別のページでは、ナスカの地上絵がなぜ描かれたかについての一つの仮説として、豊作時の余剰食糧が人口増加に直結しないようにする土木事業だったのだ、というものを紹介している。それに対して筆者は、「「宇宙人の遺跡」といった空想的な考え方よりも、こちらの方がずっと感動的に思えますがどうでしょうか」(p.103)と述べているのである。この仮説は筆者の言うところの「客観的命題」であるにも関わらず、筆者は「徹底的に合理的思考を貫く」ことなく、「好き嫌いで判断」しているように見える。あまりにも隙がある態度に思えるがどうだろうか。
もう一つ。筆者は、「政策誘導のための「だまし」」の章で、戦時中にだまし報道が行われていることを取り上げ、次のように述べている。
私たちには、何が本当で何がウソかを見極める姿勢が必要なようです。人気のある文化人を動員して国民を国家政策に従わせるために試みられる「だまし」を克服するためには、私たちが簡単には「だまし」に乗せられない力量をつけるとともに、いかなる権威に対しても疑問の目を向け、批判の矢を放つことを禁止しない社会の合意形成が大切でしょう。(p.72)
戦争時に、ウソの情報を流すことで自軍(自国)を有利にしようとすることは少なからず行われている。そういうことを念頭に置いたとき、ここに書かれていることはまあまっとうなことだろうと思う。しかしここで「いかなる権威」と書く以上は、疑問や批判は筆者自身の議論やをも対象とすることだと考える必要があるだろう。しかし本書では筆者は、筆者が依拠している科学的権威については何の疑問も批判も呈していない。科学だけではない。だましに関して筆者が提供する情報に対して、読者が疑問や批判を考えることはまったく念頭におかずに本書は書かれているようである。その様な姿勢は、「いかなる権威も疑ってよ私以外はね」ということに等しく、そうであるならば、筆者の言によってなんらかの権威を疑う読者が現れたとしても、それは筆者の言や筆者の提供する情報をを疑わずに無批判に受け入れた結果にすぎない。それは本書で多数扱われている不思議現象に関していうならば、「考える個人」を奨励する態度というよりは、科学派vs不思議現象肯定派の争いにおいて、筆者と同じ科学派の人間を一人増やしたというだけにしかすぎない。上記引用のようなことを書く人に本来必要なのは、他者からの批判に答えられるような議論を提供することなのではないだろうかと思うのだが。
#はせぴぃ先生からのコメントあり。【こちらの感想文でちょっと触れたことがあるが、純粋なクリシンは「環境ホルモンの人体への影響は未解明である。」、いっぽう、安斎流クリシンは、「環境ホルモンの人体への安全性は実証されていないので、行動を起こす必要がある」。このあたりの違いを反映しているのではないかと思う。】 しかし不思議現象をどう捉えるかの問題や、何をだましとみなすか、それを我々がどう考えていけばいいのかの問題は、環境ホルモンと同じように論じるわけには行かないと思う。
共通教育科目「心の実験室」。実験や体験を通して心理学を学ぶ,1単位ものの授業である。今日のテーマは「集団決定」。『あなたのこころを科学する』(古城ほか, 1992, 北大路書房)を参考にして,NASA課題を行っている。
やり方は上記本に書いてあることほとんどそのままで,最初に10分程度の個人決定,それからグループ(今回は4〜5人グループ)を作り,40分間話し合って集団決定をしてもらった。授業開始からここまでで,70分弱かかった(今年は,40分経っても集団決定に至らないグループがあった。ここ最近,30分ぐらいでさっさと決めちゃうグループが多かったので,今回はちょっとあせった)。集団決定に至ったグループから順に正解を配布し,全グループの個人決定と集団決定の成績(宇宙飛行士の決定との差の小ささ)を黒板上で一覧表にし,その中で自グループの位置を確認してもらった(よい決定だったかどうか)。ここまでで授業終了5分前となったので,一言カードに記入してもらって解散。
今年度は,集団決定の値がとてもよいグループがあった。その理由はわからないが,集まった人たちの特性なのかもしれない。あるいは,そのグループだけが4人グループだったのだが,少人数だったのがよかったのかもしれない。
あと,昨年度出されたレポートをサンプルとして配布しているのだが,それを見ると,「あいづちを打ち,相手の意見を受け止めつつ,自分の意見がいえればよい討議ができるはずだ」「沈黙がおこったときには,それぞれが見方を変えたりして,テンポよく進めるようにしましょう」なんて書かれている。40分という討議の中で,学生たちはそういうことを学んでいるんだなあと,改めて感心してしまった。
哲学における「認識論」(=知識の哲学)についての教科書。認識論とは、「われわれは世界についてそもそも何を知りうるのか、知りうるとしたらどのような範囲のことがらをどの程度知りうるのか、どのような方法を用いれば世界について知ることができるのか、何かを知っているということとただそれを信じていることはどこが違うのか」(p.i)といった問題を探究する哲学だそうである。
本書では、伝統的な認識論が紹介され、その問題点が紹介され、新しい認識論が紹介されている。伝統的な認識論とは、「われわれはいかにして信念に達するべきか」という規範的問題に答えようとした認識論であった。新しい認識論とは「自然化された認識論」と呼ばれるものである。自然化された認識論とはどういうものかというと、先の規範的問題は、「我々は実際にどのようにして信念に達しているのか」という事実的問題と独立に答えることができない、と考える認識論である。
伝統的認識論では、知識を正当化する構造と基準を明らかにしようとしてきた。それに対して自然化された認識論者が主張するのは、「合理性、正当化どころか真理もそれじたいでは認識論上の価値をもたず、認識が目指すところのものではない」(p.191)というように考えるらしい。つまり、われわれの認識の目的は真理を知ることではない、ということなのだ。とはいえ、真理(真なる信念)は確かに価値が置かれている。しかし「それは非常にローカルな価値であり、自分の属する民族集団や社会階層の文化的実践に重きを置く態度と本質的にはそんなに変わらない」(p.212)のである。
このあたりのことは、進化心理学や文化心理学を念頭に置くと、私にはさほど特別な考えには感じられなかった。本書ではこのあとさらに、知識が個人の中にあるという個人主義が批判され、社会化された認識論が提唱されているが、これも私には、そう来たか、やっぱりな、という感じで受け取った。
私が本書で一つ、ナルホドと思ったこと。筆者は伝統的認識論を、「真理に到達することそれじたいに内在的価値を置くような生き方がよい生き方なのだから、それが何の役に立つなどと言わず、真理に近づくことじたいに喜びと価値を見出すような人になりなさい」(p.214)というメッセージを含む人格改造的な営み、と喝破している。これは伝統的な認識論だけでなく、伝統的なアレコレであるとか規範的なドレソレにも当てはまることだろうと思う。
デボノ博士というと、聞いたことはあるけれども読んだことはないような人物である。それでも、ときどき批判的思考の文献に引用されることがあるので、読んでみたかったのだが、訳書がほとんど絶版で手に入らなかった。どうしようと思っていたら、アマゾンのマケプレに本書が出ていたので、どういう内容か知らずに購入してみた。結果としては、なかなか悪くない本だった。
まず一般論だが、思考を(特に一般書で)論じる人には、いくつかのタイプがあるように思う。どこかで読んだようなことを書いている人、とりあえず独自っぽい思考法を売り込んでいるだけの人、などなど。その中でときどき、「お、この人なかなか分かっている人だな」と思える人がいる(←かなりエラソーなことを言うようではあるが)。本書の筆者はそういうことを感じさせるところのある人だった。たとえば、思考を、決まりきったことがらに対応する思考(対応型思考)と、ものごとをよりうまく行うための思考(目的型思考)に区別していたり。あるいは,思考する人であるための「最初の段階は「意志」をもつこと。これはたやすいようであり,かつ困難なことでもある」(p.19)なんていう記述もあった。こういうところなどから、「分かっている人」という感じを受けた。そういう箇所は何箇所かあったように思う。
本書の内容である。筆者は思考を、6つに分類している。それは、筆者のまとめによるならば以下の通りである(p.242より)。
これは本書のまとめの記述からの抜粋なので、これだけみては分かりにくいかもしれない。色の比ゆの意味、キーワード、内容の比ゆ的説明が混在しているので。まあしかしそういうものだと思ってみれば分からないでもないだろうから、これ以上はあまり説明しないで置く。ちなみに、「感情、感触(フィーリング)、あるいは、非論理的な思考のいっさいにかかわる」(p.66)レッド・ハット思考を、思考の正当な一部として位置づけているところなども、「なかなか分かっている」と私が感じた一因である。
筆者は,思考ゲームとして,「議論」をするのではなく,「地図作成」(全体の地勢を詳細に調査し記録すること: p.209)をすることを提唱しており,そのためにこの6色で全体像を把握することを目指しているようである。これらの思考は、実際の思考の中で、たとえば次のような現れ方をする(p.202-203の記述を、道田が補足しつつ要約)
アイデアを管理する人(ブルー・ハット)が、まず創造的思考(グリーン・ハット)の収穫を集め、アイデアを建設的に発展させ、積極的に評価し、また確証を得た利益と価値の追求を行う(イエロー・ハット)。次に、客観的なデータ(ホワイト・ハット)とともに、それがうまくいくか、うまくいくとしても価値があるのかについて、批判的な検討がなされる(ブラック・ハット)。最後に、このアイデアが気に入っているかといった、情緒的な判断(レッド・ハット)を行う。
もちろんこれが思考の唯一のあり方ではない。ブルー・ハットの統制の元に、その場の状況に応じたプログラムが作られる。たとえば感情的になっている場合は、上記のプロセスの前に、レッド・ハット→ホワイト・ハット→イエロー・ハットが必要になったりする(p.221-222)、という具合である。
これらを「ハット」と称するのは、「思考する人を(文字どおりの意味において)演技する」(p.22)ことを推奨しているからである。どうやら英語では、たとえば威張り散らしている夫を「社長の帽子をかぶっている」と形容するように、帽子という語を「役割」的な意味で使うらしい。本書ではこの比ゆを複数用いることにより、思考という複雑なものを単純化すると同時に、思考のスイッチ切り換えを促そうとしている。偏った思考をしている人(自分も含め)に対して、「帽子をぬいでみてください」「別の帽子をかぶってみてください」というような言い方で切り換えを促すというわけである。これはなかなか悪くないやり方だと思う。
とはいえ、各色のハットの意味や守備範囲が明確には分かりづらい部分もなきにしもあらずだったし、また、本書の基本的な構成が、各色のハットの内容を順次説明しているだけだったりして、決して読み物としてはとても面白いわけではなかった。しかし発想は本当に興味深いものだと思う。
教職科目「教育心理学」。グループでコンセプトマップを発表させる2回目の授業である。今日は2グループが発表。
最初に,専修最後に書かせた質問(意見)書で出た質問を5つ印刷して配布し,先週発表グループに回答させた。回答に私が疑問な点があり,再質問をしたりしたので,予定よりも長く,15分ぐらいかかってしまった。まあでも,これを通して,先週の授業内容の確認と補足ができるので,これはこれでいいと考えた。
続いて,今日のテーマ(リーダーシップ)関連の試験問題をちょっと考えさせた後に,2グループにコンセプトマップを発表してもらった。今日は2グループが発表なので,時間はきっちり2分で切ることにした(実際には,2分経ったところで「残りを手短にまとめて」と言って切り上げさせたので,2分をちょっと回っている)。その後,フロアにいるグループに,質問をさせることに。先週はここであまり質問が出なかったので,今日は,「質問がないグループは,内容が理解できたということだから,両グループの発表要旨を簡潔に言ってもらう。グループ内に誰か質問があるのであれば,それをグループ内で共有して。」と教示し,全員を起立させ,シンキングタイムとした。質問なり要旨がまとまったら座る,という形式で,どれだけのグループが考えているかを視覚的に確認した。2分待っても座らないグループがあったので,そこで打ち切ってもらい,質問があるグループに挙手してもらったところ,今日は8つも質問が出たので一安心だった。
質問を,1時半(授業開始40分)ごろまで受けた後,発表タイムは切り上げて,私の補足タイムに。当初の予定では1時20分から補足タイムだったのだが,質問に答えるなかでも補足が可能なので,ここが延びるのは問題ないと考えた(実際,問題はなかった)。補足としては,リピットとホワイトの各リーダーの操作的定義の恣意性を指摘し,PM理論と専制,民主,放任の関係を考え,教師のP型的ビリーフを修正する介入に関する研究を紹介した。
最後の30分は実践紹介ということで,NHK「わくわく授業」から,田尻悟郎先生の「5分刻みで英語が好きになる」を12分ほど見せながら,田尻先生のP的関わりとM的関わりに注目させた。最後に少し時間があったので,田尻先生のどのような点がP的か,M的かについて,1分ほどグループで話し合わせ,5グループを指名して1点ずつ答えてもらった。この時点で授業終了5分前となったので,質問書記入時間として授業終了。
今日は,発表グループも比較的しっかりと発表したり質問に答えていたし,フロアからもいくつも質問が出たので,なかなか悪くない授業だったのではないかと思っている。授業終了後,3週間後に発表のグループが残って,「先行オーガナイザ」なんて言葉を使いながら話し合いをしていた。頼もしい。
数十人の現役裁判官によるグループが中心となって語った本。裁判官と最高裁の間にはミゾがあるのだそうで、「信念を通す人は、どんなによく仕事ができ、人格識見ともにすぐれた優秀な裁判官であっても、今の裁判所では所長にさえなれないことを覚悟しなければならない」(p.294)とある。本書全体から受ける印象としては、ここに参加している数十人の裁判官は、こういう人たちが少なくないような気がする。
本書でなるほどと思ったのは、「起訴有罪率がほぼ100パーセントだからこそ、自分たちの仕事への情熱を維持していける」(p.24)とある検察官が語っていたという話。確か『自白の心理学』に書かれていたんだったと思うが、日本は起訴有罪率がほぼ100パーセントで、ほとんどの裁判官は有罪の判決しか下さずに一生を終えるので、被告人に対して推定有罪の態度で臨んでおり、冤罪事件を見破ることができないんだ、というようなことが書かれていた。この説明に私はナルホドと思ったわけだが、しかし本書に書かれているのもその通りで、起訴有罪率が低いと、検事が仕事への情熱を失う可能性があるかもなあと思った(どうせ裁判でひっくり返されるんだし、という感じか)。しかしまあそれにしても、起訴有罪率が高いのはあくまでも理想であって、達成すべき目標ではないはずなのだが、それがノルマ的になってしまうと、『取調室の心理学』にあるように、歪んだ供述が生み出されたり、まがい物の証拠が作り出されたりすることになるのだろう。
なお、ある判事は「職業裁判官は、調書を読んで、嘘か真実かを見抜く力がついています」(p.123)と述べていたり、別の判事は「自分が担当した事件は、裁判官として自分が納得するまで考えて結論を出し、責任ある仕事を果たしている」(p.147)と述べている。もちろんそういう部分はどの裁判官にでも必ずあるのだろうが、上に挙げた2冊の本にあるように、そうではない部分をもっている可能性について、裁判官がどう考えているかは知りたいところである。本書中では、免田さんと対談した判事の森野氏が、「私自身が裁判官として、たとえば免田さんの再審請求を受けたときに、はたして再審開始決定ができたかどうかと言われると、残念なことに自信がない」(p.62)と述べている。つまり「そうではない可能性」があることは認めているわけだが、それに対してどう考えるかまでは、残念なことに述べられていない。
本書は、興味深いところもあるものの、わかりにくいところも多少あり、全体としてはホドホドという感じであった。タイトルどおり、とりあえずしゃべりたい話題を幅広く(悪く言えば雑多に)語った、という感じか。企画自体は悪くないので、もう少し焦点というかテーマを絞ってくれるといいのに、なんて思ったりした。
今日は、その日の授業テーマのコンセプトマップを学生に発表させる第一回目の授業であった。ということで反省を交えつつ。
授業の前半30分は、前週の質問に対する返答(10個印刷して、3つのみ口頭で補足)し、その後、授業テーマに関連した採用試験過去問題をあてずっぽうで回答させた。一人に指名してあてずっぽう解答を聞いてから、担当グループにコンセプトマップを発表してもらう。発表時間は2分と言い渡してあったのだが、実際は3分半かかっていた。その後、質問がないか各グループで2分ほど話し合ってもらい、質問を出してもらった。反省点は、発表グループが教科書を参照しながらの発表だったこと。次からは、聞いている人が、教科書を見なくてもわかるような発表をしてもらわねば。あと、発表後の質問があまりたくさんは出なかったので、次週からは、「質問または発表内容の要約」をしてもらうことを前提に発表を聞き、話し合いをしてもらうことにしよう。
授業中盤30分は、私の補足。ローゼンサールの実験を紹介し、過去に学生から出された、教師期待効果の体験談を紹介し、期待によって見え方が変わる実験を紹介し、柔らかな態度で人の話を聞くやり方(SOFTEN)を紹介した。
授業の後半30分は、実践のビデオ(わくわく授業から「理由を言えば引き算がわかる」)を見せ、先生がポジティブな期待を子どもたちに伝えていることを見て取らせた。ビデオ視聴後、いくつか補足を行い、また、過去に出た「この先生の応対はわざとらしい」という意見についてグループで話し合わせて数グループに意見を聞いた。
今回は、こういう形態で授業を行う初めての回だったので、私の動き方があまり適切ではない部分があった。発表グループの発表をきちんと聞く余裕もなかったし。でも、何回かグループでの話し合いを挟むこともできたので、まあまあかなと思っている。次週はもっとうまくやろう。