読書と日々の記録2005.05下

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■今月の読書生活

2005/05/31(火)

 ああ忙しい。5月は本当に,研究室を片付ける暇がないほどに忙しく,おかげで部屋がほとんどゴミ箱のようになっている(実際,先日研究室に来られた方にびっくりされてしまった)。早く来い来い夏休み,である。その割には本は読めたけど。これは,子どもが早く就寝するようになったので,寝る前に読む時間が取れたせいだろう。それでも週に2〜3回は,大学で夕食をとって,子どもが寝付いてから帰宅するということが何回もあったのだけれど。

 今月よかった本は,『デボノ博士の[6色ハット]発想法』(ホント触発的な本だった。私にとっては),『知識の哲学』(全体も俯瞰できたし今後の方向性も見えたし)あたりか。『体育(シリーズ授業)』も,体育の授業に対する考え方なんかがわかって悪くはなかった。

『英語を子どもに教えるな』(市川力 2004 中公新書ラクレ ISBN: 4121501209 \798)

 筆者は、アメリカで日本人駐在員の子弟相手の塾を10年以上していた人である。筆者はそこで、1000人以上の子どもたちに出会っている。ということで、そういう子どもたちの赤裸々な(?)様子がつぶさに語られていることを期待して読んだのだが、そういう部分は案外少なく、ちょっと残念であった。残りの部分は筆者のウンチクで、そういうのは、他の本でも読めることで、筆者にしか書けないことを書いてほしかったなあ、と強く思った。海外で暮らしていたら自然にバイリンガルになるわけではなく、日本語は上達せず、「だからといってアメリカの学校に通い続けてもさらに高度な英語力が要求されるため、授業についていくのは難し」(p.90)いという、どっちつかずのセミリンガルになる例が少なくないようである。そうならないためには、日本語力を維持・向上させるために親が相当意識的に、金や時間をかけて努力する必要があるようである。

『受かる小論文の書き方─YESかNOか、まず結論から決めろ』(樋口裕一 1990 ごま書房 ISBN: 4341014749 \800)

 マケプレにて購入。この人の小論文指導(現代文指導だっけ?)はすごい、という話を聞いて買ってみた。本書は、「正攻法や邪道を織り混ぜ、それこそ手取り足取り、小論文の極意を伝授」(p.4)した本なのだが、正攻法の部分は、思考力育成の趣がある。筆者自身も、「本書をマスターすることによって、批判精神と論理的思考を身につけ、めでたく大学に入学できることを願ってやまない」(p.5)と述べている。具体的には、「最初に思いついた結論を否定してみる」(p.24)とか「メモをとる段階では、YES、NOの両方の立場に立って考え」(P.56)るとか、「論じる側にとって都合の悪い要素も無視することなく、公正かつ広い視野で論じ」(p.126)るとか、課題文の意見に賛成する場合でも、「筆者の言い足りない部分、意味が曖昧な部分を見つけて、積極的に自分の考えを補足していく」(p.138)などが推奨されている。なかなかにステキな批判精神と多面的思考のススメである。もっとも、そういうことを「キチンと」やろうとするのは、結構大変なことなはずだが。それでも、こういう姿勢を培っておくことは、悪くないことなのだろう。

『警察はなぜ堕落したのか』(黒木昭雄 2000 草思社 ISBN: 4794209894 \1400)

 元警察官ジャーナリストの本。2部構成で、第一部はいくつかの事件を、筆者自身の現場検証や取材も交えながら元警官の目で見て、その裏側を論じた本。それは結局、警察は「どのように」堕落したのか、という内容になっている。筆者はそれらをまとめ、「それぞれの事件に共通するのは、現場警察官の初動捜査に重大なミスが見られる点」(p.188)と述べている。そしてその背後にあるものを論じたのが、第二部である。こちらの内容はタイトルどおり、「警察はなぜ堕落したのか」である。それは一言で言うと、「警察社会は完成された共産主義と同じ」(p.156)で、少数のエリート(キャリア)による一党独裁、それを背後から支える階級身分制度、警察学校から始まる洗脳教育、といったシステムの問題が指摘されている。本書を読む限り、とてもうなづける指摘であった。それは、「反論することをいっさい許さない」(p.156)社会である。そういう組織では、「組織防衛」は行われても「自浄」は行われない。組織の問題を考える上でも、興味深い事例である。

『はじめて学ぶヴィゴツキー心理学─その生き方と子ども研究』(明神もと子編 2003 新読書社 ISBN: 4788040077 \1,050)

 ヴィゴツキーって断片的にしかしらないので、とっかかりとして読んでみた。ヴィゴツキーの発達理論の代表的な概念としては、「自己中心的ことば」「精神間から精神内へ」「発達の最近接領域」なんてものがあることがわかった。ヴィゴツキーは発達障害や発達遅滞に対して、「単純に彼らの仲間よりも発達が遅れているということではない。むしろ、そのような子どもは別な発達をしているのである」(p.107)と捉えているらしいこともわかった。この考えは私の好みの考え方である。あと、思考についてもいくつか述べているらしい。もう少しきちんと勉強する必要がありそうだ。

『長城のかげ』(宮城谷昌光 1996/1999 文春文庫 ISBN: 4167259095 \499)

 項羽と劉邦の近辺にいた人を主人公とした短編集。読み始めは,項羽と劉邦が何者かも思い出せないままに読んでいたが,読んでいくうちに分かってきた。周りにいる別の人から見ると,同じ人物でも異なって見えることが見える点では興味深い本だったのだが,でも歴史や地理に詳しければもっとおもしろく読めただろうなあと思う。

『「うつ」からの社会復帰ガイド』(うつ・気分障害協会編 2004 岩波アクティブ新書 ISBN:4007001154 \777)

 MDAという自助グループの存在や活動内容を知ることができた以外には、あまりたくさんは得るところのなかった本。小さいレベルでは、いくつか知らなかったことを知ることはできたのだが。

『中学校を創る―探究するコミュニティヘ』(福井大学教育地域科学部附属中学校研究会 2004 東洋館出版社 ISBN: 4491020051 ¥2,625)

 再読。1年前に比べて私は附属小学校に関わる回数が増えているので、福井大学附属中学校の研究のあり方のところで、いくつかの記述が興味を引いた。授業研究会では「「子どもがどうだったのか」という視点での議論になる」(p.168)とか、平成15年の教育研究集会では、全体研究会として、モデル的に授業研究会を公開して授業研究会のあり方そのものをテーマにしたとか、研究紀要は「研究仮説を立てて、検証、立証していく形式ではなく、子どもの活動を追いながら、読み手がついた意見できるような形式をめざしている」(p.171)とか。どれも、とても興味深い。

『家族の標本』(柳美里 1997/1998 角川文庫 ISBN: 4043437021 \499)

 週刊朝日に連載されていたときのものの一つを、授業の資料として使っているので、全体を通して読んでおいた方がいいかと思って読んだ。3ページ読みきりの、文字通り「家族の標本」で、週刊誌の連載として週に一つ読むにはいいのだが、通して読むにはなかなかツラいものがある。一つずつゆっくり読めばいいのだろうけれども、つい3日程度で読み終わろうといういつものような読み方をしてしまうとあまりよくない。「標本」の本なので、通して読んで楽しもうとか、全体のメッセージを読み取ろうとかするのではなく、また何かの必要があったときに、必要な標本を利用させてもらおうと思っている。

『だいじなことはみんなアメリカの小学校に教わった。―脱OLの見習い先生日記』(中島京子 1999 主婦の友社 ISBN: 4072254371 ¥1,575)

おもしろそうなタイトルで,マケプレで安かったので買ってみた。アメリカの小学校の授業の様子が分かるかと思ったのだが,そういう部分は思ったほどは多くなかった。まあそれでも,軽い異文化体験記として,悪くはなかったのだけれど。

『質問力─論理的に「考える」ためのトレ−ニング』(飯久保廣嗣 2003 日本経済新聞社 ISBN: 4532310334 \1,470)

 「考える」という語をタイトルにもつ本の中で、比較的売れている本を探したら本書に行き当たった。ということで、内容を全く知らずに買ったのだが、久々に、読むのが辛くなる本であった。ということで、ナナメ読みで最後まで読んだ。たとえば、日本人が複数の選択肢を考えるのが苦手で、二者択一的に考えてしまう原因は、「日本語には、複数の発想がほとんどない、ということ」(p.98)なんていう記述がある。うう、書いているだけでもツラい。

日常雑記

2005/05/31(火)
2005/05/31(火)
 午前中,附属小学校の授業を3つ参観。今日から研究授業月間で,3つともおもしろい授業だった。午後は「心の実験室」で情報の伝達と変容実験。こういう実験って,学生は緊張しているんだということが,今年からはじめた一言カードで分かった。あと,すごくおもしろかった人も,そうではなかった人もいたことも。

【授業】有意味学習

2005/05/30(月)

 教職科目「教育心理学」。今日のテーマは「学習指導」の中の「学習の有意味化」であった。いつものように,まず前週発表グループに,前週に質問書で出た質問に回答してもらい,今週発表グループに,テキスト範囲をコンセプトマップにしたものを投影しながら概要説明をしてもらった。説明は2分としているのだが,今週発表グループはなぜか1分20秒ぐらいで発表が終わってしまった。引き続き,フロアからの質問に発表グループが答えるコーナー。最近このコーナーでは,質問がたくさん(8つぐらい?)出るのだが,今日はあまり出なかった。挙手して質問したのは2グループぐらいではないかと思う。かといって内容理解しているわけではなく,私が指名すると,質問が出る。どうしたことなんだろう。ちょっと不思議である。また,質問に対して発表グループは前で1分以上も考え込んだり話し合ったりしていた。今まではここまで間が開くグループはなかったように思う。こういうときにどう対処するかは考えておかねば,と思った。

 授業中盤は,道田による補足。今日は,『間違いだらけの学習論』(西林著 新曜社)で仕入れた問題をいくつか出し,これまでにいかに有意味でない(意味づけせずに)学習をしてきたかを実感してもらい,意味づけして新情報をスキーマに組み込むことや,スキーマを作り変えることの重要性を理解してもらった。私が高校のときに体験した地理(さまざまな世界地図)の授業を紹介し,どのように工夫しようがあるのかについて話したりして。

 最後にNHK「わくわく授業」から,「実験のなぜを考えよう」を17分視聴。このビデオ,今日の授業テーマにどれほど合致しているかは私自身,あまり自信がなかったのだが,学生は,理解することの重要性を理解してくれたようだ。

日常雑記

2005/05/29(日)
2005/05/26(木)
 午後から「心の科学」で確率推論の話。最初に,今月「どうぶつ奇想天外」であった「緊急企画 巨大地震 動物たちは知っていた!?」を見せた。見せる前に,突っ込みどころがないかどうかを考えながら見るように言ったのだが,120人弱の受講生中,突っ込みを入れてくれたのは数人で,あとはみんな「動物は地震を予知できる」と信じたようだ。それで,いくつかの思考心理学的問題を示し,最後に,最初のビデオ内容はこうも考えられる,と説明したところ,多くの学生が理解してくれ,面白がってくれたようだ。まあ昨年度よりはましな授業になったようだ。
2005/05/27(金)
 午前中は小学校の授業見学2つ。一つは担任ではない先生の授業。まだ十分に落ち着きがあるとはいえない1年生に、十分馴染んでいるとはいえないはずの先生が、しかし決して叱ったり注意したりすることなく、あの手この手で子どもの注意をひきつけ、算数の世界にいざなっていた。なかなかいいものを見せてもらった、と思った。
2005/05/28(土)
 今日は下の娘(4歳8ヶ月)の運動会の予定だったのだが,朝から小雨が降っていたので延期。ということで午前中はちょっと大学に行き,部屋の片付け。それから家に戻り,昼ごはんはうちで運動会弁当だった。午後からは妻が研究会に行ったので,私が子守をしていたのだが,雨なので得意の外遊びにも連れて行けず,うちでダラダラ過ごしていたら,「おもしろくなーい」とか「ママ早く帰ってこないかなあ」上の娘(6歳11ヶ月)に思いっきりブーたれられてしまった。夕方からはふと思いついて,ボール投げ遊びをしたら,上の娘はそれに熱中してくれて,ちょっと持ち直したけど。
2005/05/29(日)
 午後から運動会なので,午前中のうちに,娘二人と市立図書館に。開館と同時に入ると,人気があって普段借りられないような本やCDがあり,親子ともどもうれしい思いをした。午後からは運動会。降水確率50%だったのだが,晴れてくれて,実に運動会日和だった。先日一脚を買ったので,それを使うと,12倍ズームのデジカメで実にきれいに撮れた(当社比)。閉会後,娘たちはお友達と遊び,妻はお母さんが他と社交。私は両方に少しずつ参加した。

■『体育─跳ぶたのしさ・側転(シリーズ授業 実践の批評と創造)』(稲垣忠彦ほか 1991 岩波書店 ISBN: 400004274 \2000)

2005/05/25(水)
〜自己、モノ、他者との対話〜

 このシリーズを読むのも『音楽(シリーズ授業)』に続いて4冊目。絶版なので例によってマケプレにて購入。本書には、小学1年生の箱とびの授業と、5年生の側転の授業が収められている。本書では、対話(モノ、他者、自己との)に着目して読んでみた。それらしい箇所を目に付いた範囲で引用してみよう(そういう視点で読み始めたのは後半に入ってからなので、拾えていない部分もあると思う)。

  1. 子どもが自分自身と向かい合えない、自分のからだそのものに目が向いていかない、そういう傾向が非常に強くなっているなかで、もう一度子ども自身が自分の身体を意識するようになるというのは、何かの課題にぶつかってうまくいかないとか、そういうときだと思うんですけどね。(p.39-40: 体育教育学の中森氏)
  2. 体育の授業でも、話し合いが多いのが気になるんですよね。〔中略〕体育というのは、要するにからだの文化を扱っているわけですよね。そんなものは、話し合いどうこうの問題じゃないという感覚がまるでなくて、なにか、全部話し合いで工夫すれば物事がよくなると思っているところに、問題があると思うんですけど。(p.45: 佐藤学氏)
  3. やはりいちばん基礎的なのは、イメージで動く前に、モノが確かにそこにあるから自分のからだがそれに応えるという動き方のほうだと思うんです。中森さんがおっしゃった「対話する」ということです。それで、最初に箱と「対話する」と言うか、箱の存在と親しむと言うか、そこに箱があるのは邪魔でもなければ自分を妨げるものでもなくて、それと親しむ相手として、その存在している箱に自分のからだがなじんでいくような感じでつき合う、その箱を意識する、このことはすごく大事だと思うんですよ。(p.58: 佐伯胖氏)
  4. 「授業メモ(2)」の中に「大地との対話」と書いたが、これは次のようなやりとりでとらえさせていった。〔中略〕大地がなければ走れないから、大地から力をもらって走っていると言うことができるよね。からだが足に乗ったときに、大地にからだをゆだねて、その後、大地から力をもらって走る。その繰り返し。(p.191-192: 授業者の一人である吉田氏)
  5. かだらのうちの「モノとして動かすべきところ」の質量や重心などを「動かそうとしているからだの部分」に感じさせることが重要な訓練になるだろう。〔中略〕それが感じられて、それを「動かす」実感がつかめれば、自然にからだがそれに向かうべくプログラムされるわけである。(p.179: 佐伯胖氏)
  6. グループによっては、友だちの技を見たり、リーダーが指導することによって学び合い、教え合いが行われていた。また、R君が熱心に教える姿は、代理というよりも一人の指導者、友達同士で側転を追究する中心的役割となっていたように感じている。〔中略〕むずかしいことかもしれないが、教師が教えこむというばかりではなく、子どもたち同士が追及しあう姿があってもよいのではないだろうか。(p.199: 授業者の一人である高橋氏)

このうち、1,2,5が「自己との対話」であろう。ここで論じられているのは、身体としての自己であり、客体としての自己である。このように、特に体育では、自己との対話は自分の身体を知ることを指しているようであるが、それは1にあるように、「何かの課題にぶつかってうまくいかない」ときに生じる対話なのだろう。2にあるように、そういうときは自己と「知的」に対話するのではなく、まずは自己の身体と徹底的に対話し、自分の身体性能を十分に知る必要があるのだろう。2でいわれているのはそういうことだと私は理解した(2のような意見には、体育の先生からは反論があるようであるが)。

 3、4は「モノとの対話」である。それはもちろん、モノと自己が対話するわけであるし、そのような場面は、1にもあるように「何かの課題」に対したときに行われることである。それなら「自己との対話」と「モノとの対話」の違いはどこに生まれてくるのか。これはあくまでも、上記引用からの推測なのだが、自己との対話が「課題がうまくいかないとき」に行われるのに対して、モノとの対話は、3にあるように「からだがそれに応える」「邪魔でもなければ自分を妨げるものでもなくて、それと親しむ相手」「自分のからだがなじんでいくような感じでつき合う」ときに生じるのがモノとの対話のようである。同じようにモノと対峙している状況でも、それがうまくいかないときには自己と対話し、うまくいくときにはモノと(親しく)対話する、というのは、よくわかるような気がする。ちなみに佐藤学氏は、自己との対話のことを「自分探し」、モノとの対話を「世界作り」と呼んでいる。これも、上の対比を念頭におけば、わかるような気がする。

 あと、3にあるようにモノとの対話は、「邪魔でもなければ自分を妨げるものでもなくて、それと親しむ」ということである。確かに日常的な意味でも対話は、相手と信頼関係があるからこそ可能になることである。同じ二者間のやり取りでも、口論(=自分を妨げる相手との)という語と対比すると、「対話」が相手と親しむ関係から生まれることがみえる。それはもちろん、相手が人間でもモノでも同じことであろう。本書で、改めてこのことに気づかされた。

 そして6が他者との対話である。ここでは、学びあい、教えあいという形での対話しかないが、実際にはそれ以外にも、共感したり、批判したりという関係もあるのだろう。そういう関係は、体育では出てきにくいのかもしれないけれど。

 ということで本書を通して、モノ、他者、自己との対話の意味を確認するとともに、体育における対話の特殊性について知ることが出来た。

日常雑記

2005/05/25(水)
2005/05/21(土)
午前中は、上の娘(6歳11ヶ月)の小学校の行事で学校へ。私も、他児のお父さんとかお母さんとか妹さんとかとちょっと社交(?)したりして。なかなか面白かった。
2005/05/22(日)
午後から高校時代の友人がうちに来た。久々だけど,8年前や20年前と印象は変わらない。
2005/05/23(月)
教育心理学は「技能の学習(プログラム学習)」。今日は比較的多くのグループにマイクを向けることができた。あとは,もう少し全体の流れが整えばいいのだが。夜は7時半まで授業(朝は8時半から授業だった)。最後のほうは本当に体がへたってきて,ちょっとボーっとしてしまった。
2005/05/24(火)
午前中は小学校で授業見学2つ。1年生はいろんな意味でおもしろい。午後は心の実験室(ブレイン・ストーミング)。昨年,雰囲気のよかったグループとあまりよくなかったグループがあったようで,その対照的なレポートを紹介したら,今年はみんな,雰囲気よく進めようとしてくれたようで,多くの人が楽しんでいた。よかったよかった。
2005/05/25(水)
小学校で授業見学。体育は,昨日からすると明らかに変化しているように見えた。続けてみるとおもしろいね。

■『だます心だまされる心』(安斎育郎 2004 日本放送出版協会 ISBN: 4141891150 \588)

2005/05/20(金)
〜いかなる権威も疑ってよ私以外はね〜

 NHKの人間講座のテキスト。番組を見ていたのだが、なんだか筆者の話しぶりというか論の進め方にはけっこう隙があるような感じがしたので、番組終了後にテキストを注文してみた。やっぱり突っ込みどころのある話だった。

 たとえば筆者は、「「客観的命題は好き嫌いで判断せず、徹底的に合理的思考を貫く」ことも大切」(p.81)と述べる。ここでいう合理的思考とは、「事実と合っているかどうか、観察されている諸事実間の論理的整合性と矛盾しないかどうか等によって客観的に判断されるべきもの」(p.81)のようである。しかし客観的事実の例としては、「地球は太陽の回りを公転する」「宇宙はビッグバンで始まった」なんてものを筆者は挙げているのである。果たしてこれらは、一般の人が「事実と合っているかどうか、観察されている諸事実間の論理的整合性と矛盾しないか」を判断できる事柄なのだろうか。かなり疑問である。

 また別のページでは、ナスカの地上絵がなぜ描かれたかについての一つの仮説として、豊作時の余剰食糧が人口増加に直結しないようにする土木事業だったのだ、というものを紹介している。それに対して筆者は、「「宇宙人の遺跡」といった空想的な考え方よりも、こちらの方がずっと感動的に思えますがどうでしょうか」(p.103)と述べているのである。この仮説は筆者の言うところの「客観的命題」であるにも関わらず、筆者は「徹底的に合理的思考を貫く」ことなく、「好き嫌いで判断」しているように見える。あまりにも隙がある態度に思えるがどうだろうか。

 もう一つ。筆者は、「政策誘導のための「だまし」」の章で、戦時中にだまし報道が行われていることを取り上げ、次のように述べている。

私たちには、何が本当で何がウソかを見極める姿勢が必要なようです。人気のある文化人を動員して国民を国家政策に従わせるために試みられる「だまし」を克服するためには、私たちが簡単には「だまし」に乗せられない力量をつけるとともに、いかなる権威に対しても疑問の目を向け、批判の矢を放つことを禁止しない社会の合意形成が大切でしょう。(p.72)

 戦争時に、ウソの情報を流すことで自軍(自国)を有利にしようとすることは少なからず行われている。そういうことを念頭に置いたとき、ここに書かれていることはまあまっとうなことだろうと思う。しかしここで「いかなる権威」と書く以上は、疑問や批判は筆者自身の議論やをも対象とすることだと考える必要があるだろう。しかし本書では筆者は、筆者が依拠している科学的権威については何の疑問も批判も呈していない。科学だけではない。だましに関して筆者が提供する情報に対して、読者が疑問や批判を考えることはまったく念頭におかずに本書は書かれているようである。その様な姿勢は、「いかなる権威も疑ってよ私以外はね」ということに等しく、そうであるならば、筆者の言によってなんらかの権威を疑う読者が現れたとしても、それは筆者の言や筆者の提供する情報をを疑わずに無批判に受け入れた結果にすぎない。それは本書で多数扱われている不思議現象に関していうならば、「考える個人」を奨励する態度というよりは、科学派vs不思議現象肯定派の争いにおいて、筆者と同じ科学派の人間を一人増やしたというだけにしかすぎない。上記引用のようなことを書く人に本来必要なのは、他者からの批判に答えられるような議論を提供することなのではないだろうかと思うのだが。

 #はせぴぃ先生からのコメントあり。こちらの感想文でちょっと触れたことがあるが、純粋なクリシンは「環境ホルモンの人体への影響は未解明である。」、いっぽう、安斎流クリシンは、「環境ホルモンの人体への安全性は実証されていないので、行動を起こす必要がある」。このあたりの違いを反映しているのではないかと思う。】 しかし不思議現象をどう捉えるかの問題や、何をだましとみなすか、それを我々がどう考えていけばいいのかの問題は、環境ホルモンと同じように論じるわけには行かないと思う。

授業をしたり見たり

2005/05/20(金)
2005/05/19(木)
「心の科学」の授業。昨年やった動機付けの授業の後半を独立させ、ホーソン実験を加えた。学生に意見を聞きながらやったら、時間的にはちょうどよかった。昨年はあまりうまく出来なかった、ビデオ内容を2要因モデルで説明するというのも、まあうまくできたようだし、学生もビデオ内容に関心を持ってくれたようだったので、悪くなかった授業ではないかと思う。
2005/05/20(金)
附属中学校の理科の授業を見学し,授業研究会に参加。考えてみたら,附属中学校の授業研究会参加ははじめてである。附属小学校とは違う雰囲気の授業研究会で,なかなかおもしろかった。

【授業】集団決定

2005/05/17(火)

 共通教育科目「心の実験室」。実験や体験を通して心理学を学ぶ,1単位ものの授業である。今日のテーマは「集団決定」。『あなたのこころを科学する』(古城ほか, 1992, 北大路書房)を参考にして,NASA課題を行っている。

 やり方は上記本に書いてあることほとんどそのままで,最初に10分程度の個人決定,それからグループ(今回は4〜5人グループ)を作り,40分間話し合って集団決定をしてもらった。授業開始からここまでで,70分弱かかった(今年は,40分経っても集団決定に至らないグループがあった。ここ最近,30分ぐらいでさっさと決めちゃうグループが多かったので,今回はちょっとあせった)。集団決定に至ったグループから順に正解を配布し,全グループの個人決定と集団決定の成績(宇宙飛行士の決定との差の小ささ)を黒板上で一覧表にし,その中で自グループの位置を確認してもらった(よい決定だったかどうか)。ここまでで授業終了5分前となったので,一言カードに記入してもらって解散。

 今年度は,集団決定の値がとてもよいグループがあった。その理由はわからないが,集まった人たちの特性なのかもしれない。あるいは,そのグループだけが4人グループだったのだが,少人数だったのがよかったのかもしれない。

 あと,昨年度出されたレポートをサンプルとして配布しているのだが,それを見ると,「あいづちを打ち,相手の意見を受け止めつつ,自分の意見がいえればよい討議ができるはずだ」「沈黙がおこったときには,それぞれが見方を変えたりして,テンポよく進めるようにしましょう」なんて書かれている。40分という討議の中で,学生たちはそういうことを学んでいるんだなあと,改めて感心してしまった。

日常雑記

2005/05/17(火)
2005/05/16(月)
 教育心理学は「思考の発達」。学生のコンセプトマップ発表後,質問がいくつも出たのだが,今日はビデオを2つ見せるので,泣く泣く4つで切った。授業前半での質問は出るようになったので,次の課題は,授業中盤,後半にこちらから質問を投げかけて考えさせることか。
 5コマの授業をした後に,とある宴会に8時から参加。今日はちょっと早めで,10時半にはお開きになった。
2005/05/17(火)
午前中に年休を取ってとある会議に参加。司会進行の人がすごく手馴れた人だったせいか,サクサクと会議は進んでいった。

■『知識の哲学』(戸田山和久 2002 産業図書 ISBN: 4782802080 \2,730)

2005/05/15(日)
〜進化論的・文化論的〜

  哲学における「認識論」(=知識の哲学)についての教科書。認識論とは、「われわれは世界についてそもそも何を知りうるのか、知りうるとしたらどのような範囲のことがらをどの程度知りうるのか、どのような方法を用いれば世界について知ることができるのか、何かを知っているということとただそれを信じていることはどこが違うのか」(p.i)といった問題を探究する哲学だそうである。

 本書では、伝統的な認識論が紹介され、その問題点が紹介され、新しい認識論が紹介されている。伝統的な認識論とは、「われわれはいかにして信念に達するべきか」という規範的問題に答えようとした認識論であった。新しい認識論とは「自然化された認識論」と呼ばれるものである。自然化された認識論とはどういうものかというと、先の規範的問題は、「我々は実際にどのようにして信念に達しているのか」という事実的問題と独立に答えることができない、と考える認識論である。

 伝統的認識論では、知識を正当化する構造と基準を明らかにしようとしてきた。それに対して自然化された認識論者が主張するのは、「合理性、正当化どころか真理もそれじたいでは認識論上の価値をもたず、認識が目指すところのものではない」(p.191)というように考えるらしい。つまり、われわれの認識の目的は真理を知ることではない、ということなのだ。とはいえ、真理(真なる信念)は確かに価値が置かれている。しかし「それは非常にローカルな価値であり、自分の属する民族集団や社会階層の文化的実践に重きを置く態度と本質的にはそんなに変わらない」(p.212)のである。

 このあたりのことは、進化心理学や文化心理学を念頭に置くと、私にはさほど特別な考えには感じられなかった。本書ではこのあとさらに、知識が個人の中にあるという個人主義が批判され、社会化された認識論が提唱されているが、これも私には、そう来たか、やっぱりな、という感じで受け取った。

 私が本書で一つ、ナルホドと思ったこと。筆者は伝統的認識論を、「真理に到達することそれじたいに内在的価値を置くような生き方がよい生き方なのだから、それが何の役に立つなどと言わず、真理に近づくことじたいに喜びと価値を見出すような人になりなさい」(p.214)というメッセージを含む人格改造的な営み、と喝破している。これは伝統的な認識論だけでなく、伝統的なアレコレであるとか規範的なドレソレにも当てはまることだろうと思う。

日常雑記

2005/05/15(日)
2005/05/10(火)
朝,雨だったので,娘たちの登校の車に同乗した。そちらを回ってから大学に向かったのだが,8時半前は,大学近辺の道はどこも大渋滞。今度からは多少の雨なら徒歩かなあ。
2005/05/11(水)
最近,睡眠リズムがちょっと変だ。日中は眠い。夜9時ごろが一番眠いが,11時ごろ(就寝時間)には眠くなくなる。というか,すぐには寝付けない。どうしたんだろう。
2005/05/12(木)
マラソンのような会議に参加。私は午後4時40分から10時10分までだったのだが,他の参加者はさらに議論を続行していた。会議では真摯な議論がなされており,ちょっと感動的な光景であった。
2005/05/13(金)
 とある小学校の授業を3つ見学した。附属学校とは違う授業に触れる機会はなかなかないので,とても興味深かった。授業を見ながら,「ムリヤリではなしに,流れに逆らわずに,あるいは自然な流れを作りながらひとを動かすにはどうしたらよいか」ということを考えた。
 上記のハードな会議のせいか、今日からいつもどおりに寝付けるようになった(朝起きたとき、疲れが残ってはいるのだけれど)
2005/05/14(土)
午前中、久々に上の娘(6歳11ヶ月)とトランプをした。以前は毎日のようにせがまれていたのだが、就寝時間が早くなったせいか、最近はほとんどしていなかったのだ。そろそろ上の娘も、負けても手がつけられなくなるほど(ちょっと言いすぎ)不機嫌になることはなくなったようだ。
2005/05/15(日)
朝から上の娘とウォーキング。ちょっと小雨だったせいか、風邪気味に。鼻炎カプセル飲んで昼寝したら少しはよくなったけれど。先週末も風邪だった。なんだか風邪を引きやすくなっているなあ。

■『デボノ博士の[6色ハット]発想法』(E. デボノ 1985/1986 ダイアモンド社 ISBN: 4478760292 \1500)

2005/05/10(火)
〜思考の帽子を取り換える〜

 デボノ博士というと、聞いたことはあるけれども読んだことはないような人物である。それでも、ときどき批判的思考の文献に引用されることがあるので、読んでみたかったのだが、訳書がほとんど絶版で手に入らなかった。どうしようと思っていたら、アマゾンのマケプレに本書が出ていたので、どういう内容か知らずに購入してみた。結果としては、なかなか悪くない本だった。

 まず一般論だが、思考を(特に一般書で)論じる人には、いくつかのタイプがあるように思う。どこかで読んだようなことを書いている人、とりあえず独自っぽい思考法を売り込んでいるだけの人、などなど。その中でときどき、「お、この人なかなか分かっている人だな」と思える人がいる(←かなりエラソーなことを言うようではあるが)。本書の筆者はそういうことを感じさせるところのある人だった。たとえば、思考を、決まりきったことがらに対応する思考(対応型思考)と、ものごとをよりうまく行うための思考(目的型思考)に区別していたり。あるいは,思考する人であるための「最初の段階は「意志」をもつこと。これはたやすいようであり,かつ困難なことでもある」(p.19)なんていう記述もあった。こういうところなどから、「分かっている人」という感じを受けた。そういう箇所は何箇所かあったように思う。

 本書の内容である。筆者は思考を、6つに分類している。それは、筆者のまとめによるならば以下の通りである(p.242より)。

 これは本書のまとめの記述からの抜粋なので、これだけみては分かりにくいかもしれない。色の比ゆの意味、キーワード、内容の比ゆ的説明が混在しているので。まあしかしそういうものだと思ってみれば分からないでもないだろうから、これ以上はあまり説明しないで置く。ちなみに、「感情、感触(フィーリング)、あるいは、非論理的な思考のいっさいにかかわる」(p.66)レッド・ハット思考を、思考の正当な一部として位置づけているところなども、「なかなか分かっている」と私が感じた一因である。

 筆者は,思考ゲームとして,「議論」をするのではなく,「地図作成」(全体の地勢を詳細に調査し記録すること: p.209)をすることを提唱しており,そのためにこの6色で全体像を把握することを目指しているようである。これらの思考は、実際の思考の中で、たとえば次のような現れ方をする(p.202-203の記述を、道田が補足しつつ要約)

アイデアを管理する人(ブルー・ハット)が、まず創造的思考(グリーン・ハット)の収穫を集め、アイデアを建設的に発展させ、積極的に評価し、また確証を得た利益と価値の追求を行う(イエロー・ハット)。次に、客観的なデータ(ホワイト・ハット)とともに、それがうまくいくか、うまくいくとしても価値があるのかについて、批判的な検討がなされる(ブラック・ハット)。最後に、このアイデアが気に入っているかといった、情緒的な判断(レッド・ハット)を行う。

 もちろんこれが思考の唯一のあり方ではない。ブルー・ハットの統制の元に、その場の状況に応じたプログラムが作られる。たとえば感情的になっている場合は、上記のプロセスの前に、レッド・ハット→ホワイト・ハット→イエロー・ハットが必要になったりする(p.221-222)、という具合である。

 これらを「ハット」と称するのは、「思考する人を(文字どおりの意味において)演技する」(p.22)ことを推奨しているからである。どうやら英語では、たとえば威張り散らしている夫を「社長の帽子をかぶっている」と形容するように、帽子という語を「役割」的な意味で使うらしい。本書ではこの比ゆを複数用いることにより、思考という複雑なものを単純化すると同時に、思考のスイッチ切り換えを促そうとしている。偏った思考をしている人(自分も含め)に対して、「帽子をぬいでみてください」「別の帽子をかぶってみてください」というような言い方で切り換えを促すというわけである。これはなかなか悪くないやり方だと思う。

 とはいえ、各色のハットの意味や守備範囲が明確には分かりづらい部分もなきにしもあらずだったし、また、本書の基本的な構成が、各色のハットの内容を順次説明しているだけだったりして、決して読み物としてはとても面白いわけではなかった。しかし発想は本当に興味深いものだと思う。

【授業】リーダーシップ

2005/05/09(月)

 教職科目「教育心理学」。グループでコンセプトマップを発表させる2回目の授業である。今日は2グループが発表。

 最初に,専修最後に書かせた質問(意見)書で出た質問を5つ印刷して配布し,先週発表グループに回答させた。回答に私が疑問な点があり,再質問をしたりしたので,予定よりも長く,15分ぐらいかかってしまった。まあでも,これを通して,先週の授業内容の確認と補足ができるので,これはこれでいいと考えた。

 続いて,今日のテーマ(リーダーシップ)関連の試験問題をちょっと考えさせた後に,2グループにコンセプトマップを発表してもらった。今日は2グループが発表なので,時間はきっちり2分で切ることにした(実際には,2分経ったところで「残りを手短にまとめて」と言って切り上げさせたので,2分をちょっと回っている)。その後,フロアにいるグループに,質問をさせることに。先週はここであまり質問が出なかったので,今日は,「質問がないグループは,内容が理解できたということだから,両グループの発表要旨を簡潔に言ってもらう。グループ内に誰か質問があるのであれば,それをグループ内で共有して。」と教示し,全員を起立させ,シンキングタイムとした。質問なり要旨がまとまったら座る,という形式で,どれだけのグループが考えているかを視覚的に確認した。2分待っても座らないグループがあったので,そこで打ち切ってもらい,質問があるグループに挙手してもらったところ,今日は8つも質問が出たので一安心だった。

 質問を,1時半(授業開始40分)ごろまで受けた後,発表タイムは切り上げて,私の補足タイムに。当初の予定では1時20分から補足タイムだったのだが,質問に答えるなかでも補足が可能なので,ここが延びるのは問題ないと考えた(実際,問題はなかった)。補足としては,リピットとホワイトの各リーダーの操作的定義の恣意性を指摘し,PM理論と専制,民主,放任の関係を考え,教師のP型的ビリーフを修正する介入に関する研究を紹介した。

 最後の30分は実践紹介ということで,NHK「わくわく授業」から,田尻悟郎先生の「5分刻みで英語が好きになる」を12分ほど見せながら,田尻先生のP的関わりとM的関わりに注目させた。最後に少し時間があったので,田尻先生のどのような点がP的か,M的かについて,1分ほどグループで話し合わせ,5グループを指名して1点ずつ答えてもらった。この時点で授業終了5分前となったので,質問書記入時間として授業終了。

 今日は,発表グループも比較的しっかりと発表したり質問に答えていたし,フロアからもいくつも質問が出たので,なかなか悪くない授業だったのではないかと思っている。授業終了後,3週間後に発表のグループが残って,「先行オーガナイザ」なんて言葉を使いながら話し合いをしていた。頼もしい。

日常雑記

2005/05/08(日)
2005/05/06(金)
相変わらず微熱があるのだが,いろいろあるので仕事へ。紀要論文の原稿を完成させて提出したりした。今回の紀要も,最後の最後になって,今まで考えていなかったアイディアが出てちょっとほっとした。夕方には、内地の大学院に行った卒業生が遊びに来る。久々に研究の話をたっぷりできた。
2005/05/07(土)
久々の県内家族一泊旅行。私は風邪気味だったので、妻と子どもたちがプールで遊んでいる間は、プールサイドで読書を。おかげで軽めの歴史小説を半分近く読むことができた。本当は泳ぎたかったのだけれど。
2005/05/08(日)
風邪ぎみながらも、公園で遊んだり、浜辺で遊んだり、キャベツ畑で遊んだり。まあまあのGWだったのではないかと思っている。

■『裁判官だって、しゃべりたい!─司法改革から子育てまで』(日本裁判官ネットワーク 2001 日本評論社 ISBN: 4535512825 \1700)

2005/05/05(木)
〜信念を通す人たちの語り〜

 数十人の現役裁判官によるグループが中心となって語った本。裁判官と最高裁の間にはミゾがあるのだそうで、「信念を通す人は、どんなによく仕事ができ、人格識見ともにすぐれた優秀な裁判官であっても、今の裁判所では所長にさえなれないことを覚悟しなければならない」(p.294)とある。本書全体から受ける印象としては、ここに参加している数十人の裁判官は、こういう人たちが少なくないような気がする。

 本書でなるほどと思ったのは、「起訴有罪率がほぼ100パーセントだからこそ、自分たちの仕事への情熱を維持していける」(p.24)とある検察官が語っていたという話。確か『自白の心理学』に書かれていたんだったと思うが、日本は起訴有罪率がほぼ100パーセントで、ほとんどの裁判官は有罪の判決しか下さずに一生を終えるので、被告人に対して推定有罪の態度で臨んでおり、冤罪事件を見破ることができないんだ、というようなことが書かれていた。この説明に私はナルホドと思ったわけだが、しかし本書に書かれているのもその通りで、起訴有罪率が低いと、検事が仕事への情熱を失う可能性があるかもなあと思った(どうせ裁判でひっくり返されるんだし、という感じか)。しかしまあそれにしても、起訴有罪率が高いのはあくまでも理想であって、達成すべき目標ではないはずなのだが、それがノルマ的になってしまうと、『取調室の心理学』にあるように、歪んだ供述が生み出されたり、まがい物の証拠が作り出されたりすることになるのだろう。

 なお、ある判事は「職業裁判官は、調書を読んで、嘘か真実かを見抜く力がついています」(p.123)と述べていたり、別の判事は「自分が担当した事件は、裁判官として自分が納得するまで考えて結論を出し、責任ある仕事を果たしている」(p.147)と述べている。もちろんそういう部分はどの裁判官にでも必ずあるのだろうが、上に挙げた2冊の本にあるように、そうではない部分をもっている可能性について、裁判官がどう考えているかは知りたいところである。本書中では、免田さんと対談した判事の森野氏が、「私自身が裁判官として、たとえば免田さんの再審請求を受けたときに、はたして再審開始決定ができたかどうかと言われると、残念なことに自信がない」(p.62)と述べている。つまり「そうではない可能性」があることは認めているわけだが、それに対してどう考えるかまでは、残念なことに述べられていない。

 本書は、興味深いところもあるものの、わかりにくいところも多少あり、全体としてはホドホドという感じであった。タイトルどおり、とりあえずしゃべりたい話題を幅広く(悪く言えば雑多に)語った、という感じか。企画自体は悪くないので、もう少し焦点というかテーマを絞ってくれるといいのに、なんて思ったりした。

蝶々採りほか

2005/05/05(木)
2005/05/03(火)
午前中は子どもと近所の公園に。シャボン玉をしたいというので久々にシャボン液を作ったのだが、4年前に買った洗濯のりが硬くなっているのか、うまく解けず、中途半端な仕上がりになった。それでもシャボン玉はできたし、よそ風に乗って高く上がったりして、それを子どもたちは追いかけたり割ったりして、結構楽しそうだった。
2005/05/04(水)
午前中はゴミ捨てついでに子どもと近所を散歩。やたらとチョウチョがいるポイントを発見した。百円ショップで虫取り網を買わねば。ちょっと風邪気味だったのだが、昼前からお出かけ。おいしい沖縄そば&ジューシーを食し、子どもの国に。ワンダーミュージアムでワンダーしたり、動物園で動物を見たり。すごい人出だったが、ワンダーミュージアムは入館制限をしていたおかげで、ゆっくり見ることができた。私は風邪気味でちょっとふらついていたが、親子ともども楽しむことができた。
2005/05/05(木)
朝から近所の公園で,子どもたちと蝶々とり。まあ最初だし,蝶々があまりいない公園なので取れないだろうと思っていたのだが,上の娘が開始13分で2頭捕まえた。最初の蝶々をつかまえ損ねたので,落ちていたデイゴの花びらを私が投げて,すばやく的確に網を操作する練習を少しさせたのが勝因だったのではないかと思っている。もちろん,上の娘(6歳9ヶ月)の運動神経の良さもあるのだろうが。それにしてもこれって,ナカナカ楽しい遊びだということが分かった。いつもの公園遊びでは,私がブランコをこいであげたり,一緒にジャングルジムに登ったりしないといけないのだが,蝶々を取るのであれば,私は優雅にベンチに座って「あ,蝶々だ!」とか言ってあげればいいだけだし。次は蝶々がウジャウジャいるポイントに行かなければ。ああ楽しみ。

【授業】教師期待効果

2005/05/02(月)

 今日は、その日の授業テーマのコンセプトマップを学生に発表させる第一回目の授業であった。ということで反省を交えつつ。

 授業の前半30分は、前週の質問に対する返答(10個印刷して、3つのみ口頭で補足)し、その後、授業テーマに関連した採用試験過去問題をあてずっぽうで回答させた。一人に指名してあてずっぽう解答を聞いてから、担当グループにコンセプトマップを発表してもらう。発表時間は2分と言い渡してあったのだが、実際は3分半かかっていた。その後、質問がないか各グループで2分ほど話し合ってもらい、質問を出してもらった。反省点は、発表グループが教科書を参照しながらの発表だったこと。次からは、聞いている人が、教科書を見なくてもわかるような発表をしてもらわねば。あと、発表後の質問があまりたくさんは出なかったので、次週からは、「質問または発表内容の要約」をしてもらうことを前提に発表を聞き、話し合いをしてもらうことにしよう。

 授業中盤30分は、私の補足。ローゼンサールの実験を紹介し、過去に学生から出された、教師期待効果の体験談を紹介し、期待によって見え方が変わる実験を紹介し、柔らかな態度で人の話を聞くやり方(SOFTEN)を紹介した。

 授業の後半30分は、実践のビデオ(わくわく授業から「理由を言えば引き算がわかる」)を見せ、先生がポジティブな期待を子どもたちに伝えていることを見て取らせた。ビデオ視聴後、いくつか補足を行い、また、過去に出た「この先生の応対はわざとらしい」という意見についてグループで話し合わせて数グループに意見を聞いた。

 今回は、こういう形態で授業を行う初めての回だったので、私の動き方があまり適切ではない部分があった。発表グループの発表をきちんと聞く余裕もなかったし。でも、何回かグループでの話し合いを挟むこともできたので、まあまあかなと思っている。次週はもっとうまくやろう。

異様な公園ほか

2005/05/01(日)
2005/04/30(土)
午前中は娘たちと、ちょっと離れたところにある公園に。ここに来るのは3年ぶりぐらいだろうか。上の娘(6歳10ヶ月)の希望だったのだが、久々に来てみると、ベンチというベンチにはおじ(い)さんが陣取っており、静かにビールらしきものを飲んでいる。なんだか異様な雰囲気だったので、別の公園に移動することに。たぶんあの公園は道路から見えにくいつくりになっているので、おじさんたちが隠れ家に利用しているのだろう。
2005/05/01(日)
午前中は子どもたちと徒歩で教会へ。帰宅後はうちでお好み焼き。午後からちょっと昼寝と読書。晩飯食べて入浴、就寝と、きわめていつも通りの日曜日であった。いや、いつもなら子どもと公園に行ったり、ゲームしたりするのだが、今日はそれもなく、とてもゆったりさせてもらった。

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