読書と日々の記録2001.06下
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■読書記録: 30日短評7冊 28日『仮説実験授業研究掘檻化検 24日『はじめて考えるときのように』 20日『エコロジカル・マインド』 16日『「学び」の構造』
■日々記録: 26日保育参加 22日3歳の娘の怖いもの 19日シャボン液を作る

 

■6月の読書生活
2001/06/30(土)

 今月読んだのは14冊。月初めは,ちょっと読むペースを落として,浮いた時間を論文読みにあてようと思っていた(そして実際,読んでいたのだが)。しかし,読むペースよりも注文した本が届くペースが速いことに気がついて,ついついペースを上げてしまったのであった。来月,まずすべきことは,買う本を減らすことか。そんなこと,できそうにもない気がしないでもないけど。

 今月良かったのは,なんといっても『はじめて考えるときのように』。あと,『「学び」の構造』もなかなか。その他はホドホドか。『エコロジカル・マインド』なんかも,まあ悪くはないんだけど。

 あと,今月でカウンタが3万を超えた。めでたい。(2万はこちら

『赤ちゃんの手とまなざし−ことばを生みだす進化の道すじ−』(竹下秀子 2001 岩波科学ライブラリー ISBN: 4000065785 \1,050)

 霊長類の研究を元に,赤ちゃんの姿勢や運動,手の働き,物や他者とのかかわりを通して,ヒトのことばが生み出される道すじを描いた本。ヒトの赤ちゃんは,あお向けやおすわりの姿勢でいることから多いことから,手指運動が発達する。そして,手や道具使用の発達が,言葉の発達につながっているという。言葉における一語文,二語文と,道具使用の「単一物体使用」「二個物体使用」が対応しているのだ。この辺はちょっと面白い。といっても全体的には,読みはじめに期待したほど面白くはなかったけど。

『腐りゆく日本というシステム』(リチャ−ド・カッツ 1998/1999 東洋経済新報社 ISBN: 4492393048 \2,000)

 日本経済の現状を,戦後以降の時代の流れの中で分析した本。こういう内容だとは知らずに買ったので,理解できたのは半分程度。でも,細かい部分はわからなかったが,大筋はわかったように思う(私の理解が完全に正しいか,といわれると自信はないが)。簡単に言うと,現在の日本の問題の根源は,日本がいまだに1950年代,60年代の社会経済構造や政策,精神構造から抜け出していないこと(p.42)だと言う。1980年代の日本はよかったように見えるが,その高成長は持続不可能な方法で達成されていた(p.47)のである。その転換点は,1973年のオイルショック後の産業不振(p.69)にある。そこで,後ろ向きで市場無視の保護政策が取られたことに,現在の問題の根があるという。わかった部分に関してはおもしろかった。ちなみに筆者の立場は,いわゆる市場主義者だと思う。

『罠−民主主義が暴走するとき−』(ニコル・バシャラン 1999/2000 万来舎 ISBN: 4901221043 \1,680)

 内容を知らずに買ったが,クリントン大統領の関わったいわゆる「ルインスキー事件」についてのノンフィクションだった。ルインスキー事件自体,どんなものか私は詳細を把握していなかったが,本書によると結局これは,後に却下された訴訟についての尋問中に,質問されるべきではない質問に対して曖昧な回答をしたという理由から,弾劾裁判に至るほどの偽証の罪で大統領が訴追される(p.162),という事件なのであった。なんでそんな理不尽なことになったのか。それは「独立検察官」という無制限の権力を与えられた人が,職権を濫用して大統領を罠にかけたからだが,それを筆者は「民主主義の暴走」と考える。それには独立検察官だけではなく,知る権利を振りかざして,人(何の法律も犯していない)の,私生活を守る権利を侵害した連邦議員やマスメディアも加担している。特に,多くのジャーナリストが,請求で断定的な判断,疑い深く恥知らずな態度,政治家は誰もが有罪であるという憶測(p.250)を行っている。そういう意味では,民主主義の問題以上に,メディアの暴走を知る上でいい本だと思う。

『ペーテルってどんな人?−知的障害をもつ人の全体像をとらえる−』(シャシュティン・ヨーランソン 1982/2000 大揚社 ISBN: 4795243913 \2,415)

 妻の本を読んでみた。ペーテルは軽い脳性まひのある知的障害者。その彼の生活や内面がわかるようになっている。私はあまり障害者に接した経験がない。こういう本を読まなければ,おそらく自分の尺度で見てしまいそうな気がした。ただこの本は,本としてはちょっと冗長な感じ。もう少しすっきりわかりやすい本ができそうな気がする。

『本づくりの常識・非常識』(野村保惠 2000 印刷学会出版部 ISBN: 4870851644 \2000)

 大学図書館の新着図書のコーナーで見つけた本。長年本の制作に携わり,日本エディタースクール講師を務める著者が,本づくりについて書いた本。専門的な用語が説明なしに使っている部分もあったりして,必ずしも読みやすい本ではない。それでも,本を作るためには,実にたくさんのことを考えなければいけないことはわかった。本を書く側の人間も,こういう知識がある程度あったほうがよさそうだ。本書は主に,編集者に向けた本だと思うので,次は著者のための本づくりの本があるといいかも。

『「まなびや」の行方』(日高敏隆・阿部謹也 2001 黙出版 ISBN: 490068256X \1,890)

 大学の学長をされているお二人の対談本。すぐに読めてしまう。いい点は,学問を大所から論じられている点か。「わかるということは,それによって自分が変わることだ」(p.63)というソクラテスの言葉が紹介されている。あるいは,動物行動学者である日高氏の「遺伝的に決まっているものを具体化するのが学習である」(p.125)という考え方とか。今ひとつの点は,日本対欧米という,おおざっぱなステレオタイプが論じられている点など。

『大学改革1945〜1999−新制大学一元化から「21世紀の大学像」へ−』(大崎 仁 1999 有斐閣 \2400)

 再読。やはり前半は読みにくい。終戦後,占領下でいろいろな人たちがいろいろなことを胸にいろいろなことをやろうとしていた時代だ。後半は,1952年から現在にいたる話だが,基本的にはすべて,占領下での政策の再消化と再改革の歴史だ。そして基本的なもの(たとえば高等教育機関の種別化とか)は,昭和38年や46年の答申であらかた出ており,現在行われているものは,その具現化ということができそうである。つまり現在の改革が,どのような歴史の中でどのように出てきてどのように論じられたかを知ることができる。その意味でも,この後半部分は現在の改革を知る上で役に立つ記述であるように思う。

 

■『仮説実験授業研究(第郡)第2集』(仮説実験授業研究会 1990 仮説社 ISBN: 4773500956 \1,880)
2001/06/28(木)
〜教師中心主義の授業〜

 はじめて読んだ,仮説実験授業の授業記録。『仮説実験授業のABC』を読んで以来,仮説実験授業の実際をとてもとても知りたかったのだ。だが結論から言うと,思い描いていた授業とは違っていた

 本書には,2つの授業実践が載っている。一つは,商業高校の生徒を対象にした「原子論的歴史の見方考え方」という授業である。これは,「江戸時代の農民は何を食べていたのか」という問題を主軸とした授業である。しかし仮説実験授業とはいっても,歴史なので,実験をするわけではない。それで結局,仮説実験授業の基本的な流れである「予想を立てる・討論する・実験する」の最後の部分が,「実験する」ではなく「先生が答えを言い,解説する」になっている。うーん,それじゃあ単なるクイズ形式の授業だ(討論つきだけど)

 もう一つの授業は,小学校高学年生を対象にした理科の授業,「自由電子が見えたなら」だ。こちらの方は,もちろん実験をしているが,結局,肝心な部分はぜんぶ先生が言っているということが分かった。「これまでの実験をまとめると,金物が電気を通す」「それは自由電子というもののせいだ」という具合である(p.158-160)。つまり,生徒はそこまで考えたり討論したりするわけではないのだ。予想し討論するのは,あくまでも個々の実験についてのみ。もっともそのことは,『仮説実験授業のABC』には確かに書かれていたのだが(そしてこのやり方は,日本史討論授業とはまったく逆を行くものだ)

 生徒の討論も,なんだか深く考えているとか,認識を高めているというよりも,単に思いついたことやあてずっぽを好き勝手に言っているだけ,という感じがする。たとえば次のような具合である。

  • 門野君 <つく>と思ったからつくんです。
  • 青江君 つかないと思ったから<つかない>にしました。
    (中略)
  • 誰か その理由を言ってください。
  • 小林君 その理由は,つくからです。(p.122)
(批判的)思考力の育成という観点からいえば,これでは,思考技能も思考態度も身につかないのではないかと思う。『仮説実験授業のABC』に書かれていた理念とは違い,創造性を発揮する余地もないような気がする。もしこの授業を通して生徒の認識が変わったとしてもそれは,予想や討論よりも,先生の解説に負うところが大きいのではないだろうか。もちろん目の前で実験を見る,ということも大きいだろうが。そういう意味で,私が想像していた「討論」とは全く違う。もっともそれは,小学生だったからかもしれない。それに,思考技能や態度を身に付けることが主な目的ではないのかもしれない。

 まあ,授業記録を2つ読んだだけで結論を出すのは早すぎるかもしれない。しかし現時点では,健康作り日記の山口さんの授業指導案教育課程・方法論1 第7回 にある,「子どもの学習を教師が強力にコントロールして教師が設定したゴールに子どもを到達させる授業」(=教師中心主義の授業)という指摘に全く同感である。

 #Mandanaさんは6月21日の日記で,学生時代に仮説実験授業のビデオを見せられた感想を次のように書かれている。

生徒に「どうだわかりやすいだろ」としつこく呈示して、生徒も分かったと思い込まされてるというか。子供に自由に議論させているようで、結局うまいことストーリーが成立するように初めからできているわけだ。まあ板倉氏自身はその点については意識しているようではあるけれど。

 

■保育参加
2001/06/26(火)

 午前中,上の娘(3歳0ヶ月)の保育園に,保育参加に行ってきた。

 保育参観ではない。保育参加である。なので,保育士さんに混じって,妻と一緒に2〜3歳の子どもたちにもまれてきた。今年からはじまった行事で,通常の保育の中に入るため,一度に参加できる人数を限っている。参加したのは,朝の屋内遊び,朝会(上のクラスと一緒に歌ったり踊ったり),外での自由遊び,そしてお昼ご飯まで。

 うちの娘は,どちらかというと内弁慶タイプなので,妻や私にべったり来るかと思ったら,全然だった。他の子どもたちも,ぜんぜん臆することなく,私たちにワラワラと群がってきた。特に私が,一人の子の手にアンパンマンの絵なんか書いてあげると,他の子がわれもわれも,とやってきたので,ちょっとたじろいでしまった。

 ちょっとびっくりしたのは,ネイティブ沖縄人(うちなんちゅ)の子どもの,沖縄語(うちなーぐち)の発音のよさ。といっても,「おじぃ」(=おじいさん)みたいなちょっとした言葉なのだけれども。「オジーェ」みたいな,微妙な音を見事に発音する。まあ子どもからすれば,当たり前のことなのだろうが。

 その他に感心したのは,2〜3歳児を保育士さんが巧みに御すのと同時に,個々人がやっている/いないことをきちんと把握していること。さすがプロ,と思ってしまった。

 

■『はじめて考えるときのように−「わかる」ための哲学的道案内−』(野矢茂樹 2001 PHP ISBN: 4569614671 \1,628)
2001/06/24(日)
〜耳を澄まして考える〜

 子ども向けの本で,『考える練習をしよう』(バーンズ)という本がある。どのように考えたらいいかについて,小学校高学年でもわかるように書かれている本である。本書のタイトルと内容をちょっと聞いたとき,最初はこの手の本だろうと思った。

 ところが。そういう期待(の低さ)とはうらはらに,本書は非常に面白い,興味深い,示唆に富む本であった。あまりに面白いので,その内容は人に教えたくないぐらいである。それにこの内容,もう少し自分の中で吟味したり味わったりしたいし。ということでこれで終わりにしたい。以上。

 ・・・と言いたいところだが(ホントに),それではあんまりなので,少しだけ内容紹介を。

 本書は一言で言うと,「考えるとはどういうことか」ということについて考えた本である。しかしその内容(結論)を要約的に紹介してしまうと,ある意味ネタばれ的で面白くないだろうから,その手前の部分を紹介する。「考えるとは,心の働きではないし,自分の頭で行うものではない。論理とも違う」。以上。

 ・・・で終わりたいところだが(ホントに),それではあんまりなので,一箇所だけ抜書きを。

集中して考えているときには,それは鋭敏に研ぎ澄まされている。他の声に耳をかさず,すべてをその問題に関係させて,「これだ!」という声を待つ。そういうとき,ぼくたちは「考えている」って言うんじゃないだろうか。(p.26)

 ああ,これはまさに,私がいろいろな本を読みながら,やろうとしている,やりたいと思っていることだ。自分ではちゃんと意識していなかったけど。本を読んでいるときに,自分が探している問題の答えやヒント,あるいは問題そのものを発見することがある。これって,至福のときなんだよな〜。

 

■3歳の娘の怖いもの
2001/06/22(金)

 一年前,上の娘(3歳0ヶ月)は「サングラスをかけた私」を怖がっていた。あれから一年。今はどうかというと・・・

 今日の夕食時,娘がダラダラ食べていたので,久々に「コワイコワイさん」に変身してみた。少しは神妙になったように見えた。な〜んだ,まだ効果あるじゃん。そう思って,しばらくたってからもとの姿に戻ったところ,「パパ,またコワイコワイさんして〜」だって。がっくし。バレバレじゃん。

 そういえば,去年もしばらくやっているうちに,怖がらなくなり,やめたんだった。じゃあ,今は何が怖いかというと・・・

 二つある。一つは,かみなり。まあこれはわかる。でももう一つは,石ヤキイモ屋さんなのである。外で「いっしやーきいもーやきもー」と聞こえると,「コワイコワイ」と半泣きになるのである。うーんなんで?

 #なぜかその焼き芋屋さんは,夏でも回ってくる。この暑い沖縄で,売れるのかな〜。

 

■『エコロジカル・マインド−知性と環境をつなぐ心理学−』(三嶋博之 2000 日本放送出版協会 ISBN: 414001881X \920)
2001/06/20(水)
〜「リンゴそのもの」を知覚する〜

 生態学的心理学の概説書。他のこの手の本は,禅問答や難解な哲学のようだったり,あるいは逆に詩情豊かな表現で分かりにくいものが多かったが『知覚はおわらない』とかここの2冊目),本書は,豊富な実験例を元に説明されており,分かりやすかった。その分,教科書的というか,面白みにかけるきらいはなきにしもあらずだが。

 生態学的心理学でわかりにくいのが,「直接知覚」という考えだ。たとえばリンゴに関して我々は,

細々とした感覚印象を得るのと同時か,むしろそれよりも先に,それが「リンゴそのもの」であることを知覚しているのではないだろうか(p.25)
と著者は言う。あるいは,意味や価値(=アフォーダンス)は,頭の中での「情報処理」によって感覚から構成されるのではなく,環境から直接的に知覚されると考えられている(p.26)とも言っている。私も含め,伝統的な知覚論にどっぷり使っている者からすると,「そんなこと言っても,やっぱり出発点は,網膜に与えられた感覚情報じゃないの? やっぱりそこから推論し構成するしかないんじゃないの?」という疑問は拭い去ることができない。

 それに対して本書では(というかギブソンは),さまざまな感覚器が協調して「システムとして」働いており,そこではミクロな感覚情報ではなく,環境のマクロな情報=動物の行為にとって意味ある情報(アフォーダンス)が,推論なしに直接知覚できる,というのである(p.211)。それはたとえて言うなら,水の対流というマクロな運動を,水分子一つ一つのミクロな動きからは説明できないのと同じである。感覚諸器官を「システム」として考えるということは,運動も含め,すべての活動が知覚−行為循環の中で,情報の探索−検知という活動に統合されている,ということだ。なるほど,そうであれば,他の感覚や運動を制限した状態で一つの感覚だけを対象に実験を行い,そのような知見を積み重ねることは,知覚を知るためにはあまり意味のないことだと言えそうである。このあたりに関しては,十分とはいえないが,多少は理解が進んだように思う。

 ただし,それでもやっぱりわからないことは残っている。筆者は「知覚的推論」を否定しているわけだが,それに際しては,知覚的推論という概念をちょっとゆがめた形で直接知覚と対比しているのではないか,という疑念がある。筆者は知覚的推論という行為を「あれこれと推理をめぐらせている」(p.127),「とても努力を要する作業」(p.211)と,意識的な行為であるかのように表現し,推論から得られる印象を「不確かな」(p.148)と形容している。少なくともこれらの表現を見る限りは,筆者は「無意識的推論」という語を知らないかのように見える。推論をこのようにとらえている限りは,間接知覚論に対する有効な反撃にはなりえないのではないかと思う。私自身は,ギブソニアンの主張を興味深いものと考えているだけに,この点は実に残念である。

 あと,2〜3段落目に述べたように,ギブソンの理論では,ミクロな感覚印象は問題にされず,マクロな知覚システムから得られる環境の意味(=アフォーダンス)についてもっぱら論じられている。しかしそのようなマクロなアフォーダンスの知覚も,将来的には,各感覚器と大脳の振る舞いというミクロなレベルから記述できる可能性はないのだろうか。そのあたりについて,もう少しギブソニアンの考えを知りたいものである。

 

■シャボン液を作る
2001/06/19(火)

 土曜日の夜,上の娘(3歳0ヶ月)が急に,「シャボン玉がしたい」と言い出した。

 なぜ夜に?とは思ったが,とりあえず付き合ってあげることにした。というか,しようとした。しかし,もう半年以上もシャボン玉遊びはしていないせいか,トイザラスで買ったシャボン液は変色し,何か浮いている。あきらめさせようとしたが,こういうとき,うちの娘はあきらめが悪い。それでお風呂に入りながら,ボディシャンプーなどで試してみた。でも,ぜんぜんだめだった。

 あ,そうか。こういうときは,インターネットだ。検索して見ると,台所用洗剤を半分に薄めるだけでいいことがわかった。作ってからしばらく寝かせるといいことも,界面活性剤の含有率が重要であることも,洗濯のりや砂糖などを入れると粘性があがることも分かった。

 それで,さっそく日曜日の朝,洗剤+水+砂糖で試してみると,大成功。これなら,液の素性が知れているので,なんだかよくわからない市販のシャボン液を使わずにすむので,安心である。使いたい分だけ作れるし。今度は洗濯のりでパワーアップだ。

 

■『「学び」の構造』(佐伯胖 1975 東洋舘出版社 ISBN: 4491002770 \1500)
2001/06/16(土)
〜問い直しによる一貫性のひろがりを求めて〜

 専門的な立場ではなく,ひとりの人間として,親として,教師のひとりとして,また,学者として,ただ「学び」について,考えられるかぎり素直に,ありのままを考えようとした(p.1)本。おそらく佐伯氏のはじめての本ではないかと思われる。

 とはいえ本書の中では,最新(と言っても1970年代前半)の記憶心理学の理論などが紹介されていたりする。そのあたりは,『考えることの教育』(1982)を読む前に,私が危惧していたような内容と言える(つまり,古い)。また,行動主義のこき下ろしなんかも含まれている。それらのせいも一部あるだろうか,特に前半1/3ほどは,『考えることの教育』ほどの面白さはなかった。

 しかし,それ以降は面白かった。どうやら佐伯氏が考える「学び」のキーワードは,2つほどありそうである。一つは,「一貫性のひろがり」であり,もう一つは,「問い直し」である。

 「一貫性」は,「道徳(よさ)はいかにして学ばれるか」という章で主に使われている言葉である。まず佐伯氏は,2歳前だった自分の息子の逸話から,子どもでも「一貫性を志向」していることを指摘する。しかしそれだけでは,閉じた狂気の世界にもなりかねない。そこで,一貫性を高め,ひろげていく(p.102)必要がある。つまり,上と横に向かって一貫性をひろげることによって,開放性を持たせるのである。

 上へのひろがりとは,「よりよいものへ」むかうことであり,そこに内在するコンフリクトを超える新しい秩序,調和(p.89)へ向かうことである。基本的には弁証法と同じことであろう。それに対して,横へのひろがりとは「対話」を通してよりよいものをわかちあっていくことであり,それは別のことばであらわそうとすると,そこには「愛」ということば以外に見当たらない(p.86),という。これらは,道徳(よさ)に関する考察であるが,しかしそのまま,「わかること」や「学び」にも当てはまることである。

 「問い直し」は,最終章である5章(学びつづける存在としての人間)のキーワードである(と私は感じた)。人間の学びには「問いかけ」「問い直し」が必要である。問い直しとは,何度も何度も自らに問うもの(p.167)である。人間の学びを問い直すための具体的な問いとして,(1)前提を問う,(2)アタリマエを問う,(3)意味を問う,(4)関連を問う,(5)役割りを問う(p.203-205)が挙げられている。これは批判的思考の問いそのものと言える。

 これらをまとめると,佐伯氏の考える「学び」とは,「何度も問い直すことによって一貫性を広げていくこと」と言えそうである。もちろんこの考えは,冒頭にあるように,特定の専門的立場によって得られたものではなく,佐伯氏自身の問い直しによって得られたものであろう。前半の認知心理学的知識と違い,このような問い直しによって得られた考えは,四半世紀たっても色あせることがないことがわかる。そのような問い直しを,私自身も行っていきたいものである。

 


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