読書と日々の記録2005.10上

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■読書記録: 15日『憲法で読むアメリカ史(下)』 10日『時代を拓いた教師たち』 5日『指紋を発見した男』
■日々記録: 12日トランプしながらダジャレに反応する5歳児 9日運動会で写真撮影 6日顎関節症 3日ケンカを未然に防ぐ子どもたち

■『憲法で読むアメリカ史(下)』(阿川尚之 2004 PHP新書 ISBN: 4569637752 \861)

2005/10/15(土)
〜ダイナミックに姿を変える大木〜

 『憲法で読むアメリカ史(上)』の下巻。本書では、南北戦争の終結からニューディール、第二次世界大戦を経て、最高裁の現在が描かれている。こちらも興味深かった。

 最近私は、『ドキュメント裁判官』など、裁判官もののノンフィクションをいくつか読んでいる。そこで知ったのは、いかに裁判官が処罰の公平性を重視しているかということと、最高裁判決=国が望む方向で、その下にいる裁判官たちがいかにそれに縛られるか、という話であった。しかし本書からは、そうではない最高裁の存在が見えてきた。これが、日米の違いなのか、筆者が焦点を当てる部分の違いなのかはわからないのだが。

 処罰の公平性は要するに、同じ犯罪ならいつどこで誰が裁判をしても同じ判決になるということで、それは、先例を重視するとともに、法律の条文をいかに正確に事件に適用する、ということだと私は受け取っていたのだが、どうもそういう単純なものではなさそうである。ある条文の内容がどういう意味なのかは、条文の文章だけでは確定できない。実際の事件に即して裁判所が下した判決を通してその意味が確定するのである。最高裁判所の場合は、憲法の解釈が大きな位置を占めるわけで、本書では特に、個人の基本的権利、大統領の権限、経済に対する国の介入の程度などの意味がいかに確定されていったかを知ることができる。

 しかもそれは、単に解釈する、というだけの話ではない。判事の持っている基本的な考えには人によって方向性に違いがある。大きくは保守的か進歩的か、ということなのだが、そのときどきの最高裁の構成メンバーによって、どういう方向性の判決がでるか(要するに憲法がどう解釈されるか)が異なってくるのである。そういう基本的な考え方の違いは、判決が出るまでのプロセスでも存在するので、国の方向を決定づけるような大きな判決が、5対4とかで意見が割れていることも少なくない。そういうさまざまな要素を含んだダイナミックなバランスの結果として現在のアメリカの姿があるようである。決して機械的に条文を適用して機械的に結論が出されるようなものではないのである。これって、たとえば文章読解のプロセスが受動的な情報受容なのではなく、読む人が積極的に解釈し意味づけする能動的なプロセスなのだ、というのと同じだ。条文解釈も文章読解(プラス社会情勢読解か)の一種なので、当然なのだが。

 そうであるならば、最高裁の構成メンバーが変わるたびに、出される結論がコロコロ変わることになる。それでいいのか、という気もするが、そこはうまくできているようで、「最高裁判所の判事はいったん任命されるとよほどのことがないかぎり死ぬまで、あるいは自発的に引退するまで、その地位にとどまる」(p.164)のだそうである。このことは、判決の安定性をもたらすだけではない。行政府と司法府の任期が重ならない、という利点がある。逆に、時の大統領がそのつど最高裁判事を任命するような形で、行政府と司法府の任期が重なってしまうと、三権の間の抑制と均衡が働かなくなってしまう。そうならないための工夫なわけで、現在の主席判事は20年間その地位にいるし、判事のメンバーもここ10年、まったく変わっていないのだそうである。

 ここから感じるのは、『ドキュメント裁判官』のところでも書いた、「少しずつ姿を変える大木」というイメージである。しかもアメリカの場合は、姿の変え方も右へ左へとダイナミックに変わるし、しかしその大木ぶり(=安定ぶり)もスケールが大きい(といっても私は日本の制度は知らないのだが)。そういう姿が見える、興味深い本であった。あ、そうそう、本書の興味深さという点でもう一つ付け加えておくと、私の現在の研究テーマはアメリカの教育と深く関係があるわけだが、こういう形でアメリカ社会の通史に触れておく、というのは大事だと本書で思った。

【育児】トランプしながらダジャレに反応する5歳児

2005/10/12(水)

 下の娘(5歳1ヶ月)は最近,毎日パソコンで「スパイダ・ソリティア」というゲームをやっている。WindowsXPについているトランプゲームだ。

 最初は,私にやらせて自分は見ていた。そのうち,自分でやりたがるようになったのだが,ドラッグがうまくできないので,娘がマウスカーソルを動かし,私がマウスボタンを押してあげていた(ノートパソコンでやっていたので,こういう分業ができたのだ)。そのうち,ドラッグができるようになった。それでも,どのカードの上にどのカードをおいていいのか,分かるときと分からないときとあるようで,ちょっと前までは私がある程度指示していた。そのうち指示が必要な場面が少なくなり,最近は,ごくたまに私がアドバイスする以外は,ほとんど自分でやるようになった。私のひざの上に座って。ところが昨日は,私が風呂に入っている間に,一人で全部やっていた。途中1回だけアンドゥをしてあげた以外は。

 このゲームって,要するにトランプのカードを1から13まで順番に並べるというゲームなわけで,すごく数列の感覚を養っていると思う。なかなか悪くないゲームだ。

 ところで先日,私のひざの上でゲームをやっていたら,「この4を動かしたいのにー,7がジャマしている。8がないから!」と悔しそうに(しかも早口で)言っていた。なんか言っていることがすごく筋道立っているように聞こえたので,「すごい論理的な発言だ」と私が思わずつぶやいたら,下の娘に「それってダジャレ?」と言われてしまった。

 どうやら下の娘は,私がワケのわからないことを言うとダジャレかと思うらしい。

■『時代を拓いた教師たち─戦後教育実践からのメッセージ─』(田中耕治編著 2005 日本標準書籍 ISBN: 4820802569 1,890円)

2005/10/10(月)

 戦後日本を代表するような教育実践家や団体を紹介している本。教育方法学の研究者たちが書いたもので、著者のお一人からいただいた。取り上げられている実践家は、無着成恭、糸賀一雄、大村はま、東井義雄、斎藤喜博、遠山啓、大西忠治、庄司和晃、岸本裕史、仲本正夫、向山洋一、有田和正、金森俊朗。そのほかに団体として、到達度評価研究会と和光小学校が取り上げられており、全部で15である。各章の構成は、一人の実践家につき13ページをあて、その人の具体的な実践内容、ライフヒストリー(試行錯誤の足跡)、その人の実践に対する考察が載せられており、最後には簡単なブックガイドがつけられている。

 私は、教育学的な素養がないので、こういう本はとてもありがたい。どういう人が代表的な実践家かがわかるし、一人にあてられているページ数はさほど多くないものの、具体的な実践例が紹介されているのでイメージしやすいし、その人がどういう人で、なぜそのような実践にたどり着いたのかもわかるし、そのような実践が研究者からはどのような点がどのように評価されているかの一端がわかるし、興味を持った実践家については、ブックガイドで次にどんな本を読めばいいかの指針を与えてくれる。気になった実践家について、本書を参考にしながら、ちょっとずつ読んでみようと思っている。

 一つ難点をいうならば、ブックガイドがその実践家そのものをテーマにしていないこと。各実践家と関連をさせつつも、もう少し幅を広げて、「国語教育の豊かな実践に学ぶ」とか「地域に根ざした教育のあゆみ」というような一般的なテーマでブックガイドが書かれているのである。私のように、本書を「代表的な実践家について知る」本として受け取った人にとっては、ブックガイドのテーマが幅広すぎて、ちょっと肩透かしを感じるのではないかと思う。少なくとも私はそうだった。

 しかし本書で残念だったのはこの点だけで、あとは、私のような人間にはうってつけの良書だった。これだけさまざまな考え方で、しかし深い実践があることを知ることは、学生や若い教員にとっても大事なことではないかと思う。

運動会で写真撮影

2005/10/09(日)

 昨日は、上の娘(7歳3ヶ月)の小学校の運動会。うちの娘は1年生で、ダンス、徒競走、大玉ころがし、チーム対抗リレーに出場した。以下は、デジカメの撮り方を中心にしたメモ。

 うちの娘、走るのは速い。徒競走でも一位だったし、各クラスから代表4名(男女2名ずつ)が出て1年から6年まででリレーをするチーム対抗リレーにも選ばれた。一度に6人が走るのだが、その6人は各クラスから選ばれた俊足なわけで、うちの娘はそこでもダントツの一位だった。すごいことだ。運動神経の鈍い私に似なくて良かったというか。

 と、うちの娘が活躍されることが予想された運動会だったので、前日はデジカメの説明書を探し出し、今まで使ったことのなかった「連写」で写してみた。シーンモードをスポーツにして。走るところを連写(高速)で撮ると、ちょうどパラパラマンガのように走る姿を見ることが出来て面白いことがわかった。これからも活用しなければ。

 ダンスは人がたくさんいたのであまりうまく写せなった。まあでもヘタな鉄砲かず打ちゃ当たるなので、次の機会には、連写(低速)で、何回かに分けて撮るといいかもしれない。あと、カメラを撮っていると一番問題なのは、演技を楽しめないこと。次回はこういうときは、三脚か一脚を持っていって、カメラを娘の位置に向け、演技を眼で楽しみながら撮るといいかもしれない。

 撮るのが一番難しかったのは大玉ころがし。どんな競技だろうと思ったら、1年生の背丈と同じぐらいの大きさの玉を転がしてゴールまで持っていくという競技だった。転がしている子どもたちには前が見えないので、うまく転がすのはけっこう難しい。予想以上に面白い競技だった。ただ玉が大きいために、なかなか娘の姿が見えない。こういうのもヘタな鉄砲作戦か。

 かけっこは、シーンモードをスポーツにしたせいか、どのシーンもちゃんとピントがあって写ってくれた。予想以上の出来だった。でもいつもこううまくいくわけではないだろう。次は「置きピン」ができるようになるといいかも、と思った。あと一番大切なのは、前日に、娘にコースなり動きなりを聞いておくことだな。一応そういう案内の紙はもらうのだが、それには「1コースを走ります」と書いてあるだけで、どっちが1コースかわからなかったりするのだ。うん、これが最重要だな。

顎関節症

2005/10/06(木)

 最近,顎関節症づいている。私の場合は開口障害,口が開かなくなるのである。初めてなったのは18歳のときだが,最近は年に数度はなっているような気がする(4年前には「1〜2年に一度」と書いている。増えてるなあ)。

 それでも発症間間隔が数ヶ月間だったのに,この10日ぐらいの間に3回なっている。大丈夫だろうか。元に戻るのにかかる時間も,前は数十分だったのに,最近は3時間ほどかかっているし。

 一番最近なったのは昨日の夜。いつもは,朝目覚めたときになる。昨日は夜になった。初めてかも。きっかけは,夕食後にせんべいをかじったことなのだが,ガブッとかじったとたんガキッとなって,そのまま口が開かなくなった。そのときは,軽かったせいか,数十分で治ったのだけれど。

 今はまだ後期の授業は始まっていないからいいけど,授業のときに口が開かなかったらどうなるんだろう。腹話術士のようにしゃべるか。でも話に熱中しだしたら,そんなことお構いなしに話しそうだなあ。そうなったら,治るのも長引くかも。次になったら歯医者に行くかなあ。

■『指紋を発見した男─ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け』(コリン・ビーヴァン 2001/2005 主婦の友社 ISBN: 4072412589 \1,680)

2005/10/05(水)
〜指紋の証明不可能性〜

 私にはかねてから疑問なことがあった。論理学が教えるところによれば、全称肯定命題(すべてのXはYである)は証明不可能である。すべてのXを探しつくすことは不可能なわけで、XだけれどもYではないという反例が、現時点では見つかっていなくても、いつか見つかるかもしれないからである。これは理屈としてはわかる。

 一方、犯罪が起きたときに、指紋が事件解決の証拠となることがある。犯行現場に指紋が残されていた。その指紋はある人物の指紋と同じである。ゆえにその人物は犯行現場にいた、というように。しかしこの推論が成り立つためには、「すべての人の指紋は異なる形である」(同じ指紋を持つ人はいない)という前提が必要である。しかしこれは、まさに全称肯定命題の形をしている。ということは証明不可能な命題を前提にしているのではないか、ということである。そういう難しいことをいわなくても、同じ指紋を持つ人が複数いることはないの? もしいるのであれば、間違った人を犯人扱いしてしまうことがあるんじゃないの? どうして指紋が決定的証拠と言えるの?と思うわけである。

 という思いが前々からあったので、新聞の書評欄を見て本書を買ってみた。本書は、犯罪捜査における個人識別に指紋が使われるようになった経緯が書かれているノンフィクションで、なかなか面白かった。

 本書が面白かったのは、いくつかの側面がある。たとえば犯人を特定するのに物的証拠を使うのは当たり前と思っているが、百年ちょっと前までは違った。神託だったり、目撃証言のみが証拠とされている時代もあったのである。またかつては死刑が刑罰の主流だったのだが、ある時期から禁固刑が増え、また、再犯者にはより重い刑を科すという法体系となった。そこではじめて個人識別の必要性が出てきたのである。この人は前に犯罪を犯したあの人と同じ人だ、と分からないと再犯者に重い刑を課すことができないからである。当たり前である。しかし犯罪者のほうも当たり前のことながら、重い刑はいやである。そこで偽名を使って初犯のふりをする。そういうことが横行していた時代に、個人識別は重要な問題だった。

 指紋が個人識別に有用であることを最初に発見したのはフォールズという医者で、それは1880年にNatureに論文として載せられているのだが、そこからすんなり指紋が警察で使われるようになったわけではない。実に紆余曲折のドラマの末、1900年代初頭から、ようやく指紋が市民権を得ていくのである。ここには細かな経緯は書かないが、科学的に正しいことが明らかになっているからといって、それだけでは必ずシステムを変える力は持ちえない。Natureに載っていてもそうである。先に述べたように、時代は個人識別を必要としてたし、指紋にはその能力があることがわかっていた。このような実用上の有用性もはやり、それだけでは必ずしもシステムを変える力は持ち得ない。そこにはじつにさまざまな人の思惑が働き、官僚主義が壁として立ちふさがり、政治力が働くのである。そのことがこの事例でよくわかる。

 さて冒頭の疑問であるが、すべての指紋が異なるという証明は今日までなされていない。筆者自身、それは不可能な証明だと述べている。ではなぜ指紋が証拠として使われているのか。決定的な証拠ではなくても、たとえば、これまでに集められたものすごい数の指紋の中に、同じものはなかった、ということを言うことはできる。あるいはもう少し具体的に、一致する特徴点の数を数えたときに、3点以下の一致ならまれにあるけれども、16箇所以上一致することはこれまでには一度もなかった、ということもできる。あるいは、顔やDNAレベルでも瓜二つの一卵性双生児でも、指紋の特徴点には必ず大きな違いが存在する、ということもできる。なるほど一卵性双生児でも一致しない、というのはかなり有力な証拠といえそうである。それに加えて筆者はさらに、次のように論じている。

証明不可能だからといって、すべての指紋は異なっているという命題が誤りであると決まったわけではない。一例を挙げれば、すべての人間は必ず死ぬという命題も、証明されていないという点では指紋と同等だ。(p.272-273)

 なるほどこれは、素朴ながらもうまい説明だ。全称肯定命題が証明不可能だからといって、人間がいずれ死ぬことを根拠不足とはねつける人は確かにいないだろう。となると、科学哲学でよく言われるように、論理学的な意味での証明不可能性に囚われることは、あまり生産的ではないといえそうである。もちろんそれが暫定的な結論であることに留意しつつも、当座の結論として受け入れる、というのが建設的な科学的態度である。うすうすそうだろうとは思っていたのだが、指紋の歴史を通して、その確信を深めることができた。

 #はせぴい先生(お互い更新日記)より「指紋が証拠能力を持つためには“すべての人の指紋は異なる形である」(同じ指紋を持つ人はいない)という前提”に加えて“同一人物の指紋は終生(もしくは犯行時から逮捕時に至るまでの間)変わらない"という前提が必要であるように思う」とのコメント。その点は抜かりないようで,ハーシェルという人が,40年にわたって指紋をコレクションしており,指紋が時間の経過によって変化しないことを確かめている。その上フォールズは,さまざまなやり方で人の指紋を削り取り,それでも同じ文様が再生されることを確認している。確かに,指紋が証拠能力を持つためには,「指紋にどんな変化を加えても元に戻る」という前提も必要だ。

【育児】ケンカを未然に防ぐ子どもたち

2005/10/03(月)

 うちの娘たち(7歳と5歳)はよくケンカをする。はじめは些細なことだったのに,だんだんエスカレートして,どちらかが泣き,どちらかがすねるようなケンカになることが少なくない。

 声が大きくなってくると,家事をしていた妻が飛んでくる。「どうしてこうなったの? どっちのせい?」とよく妻は娘たちに聞くのだが,ケンカの一部始終を見ている私からみると,答えにくい質問だなあと思う。最初は本当にほんの些細なことなのである。たまたまちょっとぶつかったとか,ちょっと冗談で相手の口調を真似してみたとか,相手の言うことにちょっと「ちがうよー」と言ったとか。

 それが「たまたま」とか「冗談」とか「ちょっと」と相手に受け取られないと,それがケンカになるのである。それも最初は,ちょっと言い返すだったりするのだが,それが相手の怒りを買い,さらに大きな言いあいになったり,小突き合いになったりするのである。出発点はちょっとしたこと。でも相手にとっては不快。こういう状況では,どちらが悪いとはとても言いにくい。

 ところが最近,その2段階目ぐらいで,どちらかが「あ,ケンカだ。ごめんね」と言うことが多くなった。どうやら妻が仕込んだらしい。どんな言葉がケンカに発展するかを教え,そうなる前にお互いに謝ったらケンカにならないよ,というようなことを言ったらしい。「これはケンカである(になる)」と概念化することによって状況を客観視し,コトバを通して自己統制しているようである。もちろんケンカがゼロになったわけではないけれども,かなり少なくなっているように思う。

 私自身は,ケンカの一部始終を観察し,お互いに怒りたくなる気持ちを理解したりしていた。でもそれに対してどうしていいのかは分からなかった。それに対してうちの妻は,さすが発達臨床の専門家,と見直してしまった。関係あるのかどうかはわからないけど。


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