読書と日々の記録2005.10下

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■読書記録: 31日短評7冊 30日『認識の史的発達』 25日『ワークショップ型研修のすすめ』 20日『菊と刀』
■日々記録: 23日自転車に乗る7歳児 19日【授業】人間関係論・オリエンテーション 16日協同的な学びに関する一考察

■今月の読書生活

2005/10/31(月)

 うわ,もう月末ですか。早すぎます。やりたいことの半分もやれていません。

 それはさておき,今月良かったのは,『指紋を発見した男』(長年の疑問に答えてくれたし)と『ワークショップ型研修のすすめ』(授業のヒントが得られたし)であった。

『路上の夢─新宿ホームレス物語』(中村智志 1998/2002 講談社文庫 ISBN: 4062733501 \700)

 新宿西口地下道に段ボールハウスを作って住んでいた人たちについてのルポ。講談社ノンフィクション大賞受賞作。ホームレスの人たちがどういう生活を送り、何を考えているかがわかる。段ボールハウスで暮らすことは、案外抵抗がないらしく、「段ボールに寝たときも、この生活も案外悪くないな、と思った」(p.23)と言っている人か、「意外にも周囲の人が世話を焼いてくれる。こうして、大きな葛藤もなくホームレスになった」(p.92)なんていう話が紹介される。もっとも楽なことばかりではない。残飯をあさったり、捨てられているマンガを拾って売ったり、歌舞伎町でサンドイッチマンになったり。生きていくには大変な部分もある。心を入れ替え、正式に就職しようとしても、年齢がいっていたり連絡先がないとと断られたり。早死にする人も少なくないようだし。なお筆者は、最初はどこからどうアプローチしたらいいか見当がつかなかったようだが、しかし、ちょっと知的なホームレスと知り合い、その人を通して「内部で暮らしている人間にしかわからないホームレス社会の情報やホームレスの心情を知り得たりもした」(p.169)そうである。やはりそういう人の存在は欠かせないのだろうな。

『教えることの復権』(大村・苅谷・苅谷 2003 ちくま新書 ISBN:4480059997 \756)

 大村はま氏の教え子である苅谷夏子氏が、大村教室の授業の一端を描写し、大村氏と対談し、それに苅谷剛彦氏が加わり、苅谷剛彦氏が自分の大学での実践も紹介しつつ大村実践について、また「教えること」について、教育学者の視点で論じている本。とくに、大村教室の様子が興味深かった。大村氏というと私は、本人の著書(『新編教えるということ』)ぐらいしか知らないのだが、生徒の目から見た教室の様子、先生の声かけの仕方、授業全体の流れが、とてもよくわかった。大村氏は、生徒に考えさせる場合でも、生徒に丸投げするのではなく、「考える焦点を三つぐらい」(p.121)出すような形で、ヒントを与えている。ヒントも何も出さなければ、教育にならないからだという。もちろんそのためには、ヒントなしでは解けない問題に挑戦させることが前庭となるし、適切なヒントが出せるためには生徒の実態や考え方をよく知っている必要がある(あるいは知ろうと努力している必要がある)。教師と生徒と第三者の目から描写することで、本書では教師の表舞台と舞台裏を知ることができる、興味深い本であった。

『いい学校の選び方─子どものニ−ズにどう応えるか』(吉田新一郎 2004 中公新書 ISBN: 4121017609 \798)

 『会議の技法』の著者による、学校選びの本。実際には、前半が学校を選ぶ際の視点であり、後半は、選んだ学校を、教師にせよ、好調にせよ、親にせよ、いかにつくっていくかについて書かれている。そういう立場にあり、学校を変革させられる機会がある人にとっては、興味深い内容に違いない。私として一番興味深かったのは、「教師の批判的な友だち」を親が務めるという提案。教師が見て欲しい点を中心に授業を客観的に観察し、それを元に、わからない点を質問し、よい点を指摘し、改善すべき点を質問し、最後にラブレターを書く、という人のことだ(p.226)。筆者は親が行うことを期待しているため、いわゆる同僚性の構築とは違うが、しかし、そういうかかわりの人のことだろう。もっとも、こういうことをきちんを行うのはとても難しいことではないかと思うけど。

『アメリカの反知性主義』(リチャード・ホーフスタッター 1963/2003 みすず書房 ISBN: 4622070669 ¥5,040)

 再読。やっぱりわかりにくかった。今回確認したこととしては、「知性主義」という語で筆者が述べている事柄には複数のものがありそうだということ、その中に「批判」が含まれていそうだということ。後者に関してはたとえば、「知性は危険であり、放置しておけば、知性が吟味し、分析し、疑問をなげかけないものは何ひとつないと、彼らは主張している」(p.41)というような記述がある(複数ある)。ただし、ニューディールの期間中に、知性主義(専門職)の地位が向上したようで、「思想、理論、批判が新しい価値をもちはじめ、知的修養を積んだ人材が求められるようになった」(p.187)という記述があった。うーんこの辺や、批判という語の意味、私にとっては重要そうな気がするのだが。

『見事にわかる図解・日本史』(河合敦 2000 成美文庫 ISBN: 441506857X ¥580)

 筆者が,TV「世界一受けたい授業」に出ていて面白かったので買ってみた(マケプレで安かったし)。まあ各時代がコンパクトにまとめられて分かりやすい。でも,こういうのを読むといつも思うのだが,私にとっては,古代史はまあ分かりやすいのに,「政治」の話が出てくると,とたんに話が分かりにくくなる。政治の話が私の日常生活からかけはなれているからだろうな。その辺を分かりやすく書かれている本があるといいのだけれど。

『愛のなりたち』(H. F. ハーロウ 1971/1978 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623011909 \1,600)

 ハーロウのサルの話を共通教育の授業でするので、その基礎知識を得られるかと思って図書館で借りて読んでみた。結論からいうとイマイチであった。というのは本書は、いわゆるハーロウのサルの実験だけではなく、概論的に、「愛情」に関わる研究を総覧しているからである。社会的行動という観点からは、同調の実験なんかも紹介されていた。それはそれで悪くはないのだが(といっても既知のことがほとんどだったので私には良くなかったのだが)、その分、サルの実験については簡単にしか触れられていない。本書で一つ驚いたのは、訳者の浜田寿美男氏が前書きを書いているのだが、当時30歳前後の浜田氏が、書いている内容も文体も、今の浜田氏とほとんど変わらない(ようにみえる)、という点。本書の中では訳者前書きが一番面白いところだったりして。

『新女性のためのライフサイクル心理学』(岡本祐子・松下美知子編 2002 福村書店 ISBN: 4571200692 \2,940)

 うーんなんだかイマイチな本であった。女性のライフサイクルを、乳児期から老年期まで扱っていて、思春期には父親に反抗する娘の様子(本人の回想)が書かれていたりして、そういう部分はまあ多少は興味深く読んだものの、それ以外は... データにありきたり(あるいは安直)なストーリーの衣を着せると、まあ面白いものにはならないな、という感じか。

■『認識の史的発達』(ルリヤ 1974/1976 明治図書 (図書館の本))

2005/10/30(日)
〜声の文化の思考様式〜

 今月は、悪くない本が少なくなかったので、久々の月末前更新。『声の文化と文字の文化』に引用されていた本なので読んでみた。

 本書は、旧ソビエトの辺境にいた文盲の人、多少読み書きができる人、学校に在籍したことがある人たちに、知覚、推論、問題解決、自己意識などについての質問をし、その内容を分析している本である。タイトルの「史的発達」って何かと思ったが、終章に、「ふつうの条件下では100年にもあたるような根本的変化を短期間に観察できたあの根本的な革命的発展」(p.242)という文章があり、それでようやくわかった。社会主義革命のおそらく一環として文盲撲滅運動がいかに成果を上げ、文盲の人たちを無知蒙昧から救ったかを示そうとした研究、ということなのだろう。

 たとえば「推論」に関しては,ルリヤは被験者に,三段論法の問題を出している。たとえば,「雪の降る極北では熊はすべて白い。ノーバヤ・ゼムリヤーは極北にある。そこの熊は何色をしているのか?」というような問題である。この問題は,被験者の経験の範囲外にある問題として出されている。この問題に対する,ある文盲の人の反応は次のようなものである。

「いろいろな獣がいる」「それはわからないな。黒い熊なら見たことがあるがほかのは見たことないし……。それぞれの土地にはそれぞれの動物がいるよ。白い土地であれば白い動物,黄色い土地であれば黄色い動物が。」「われわれは見たことだけを話す。見たこともないものについてはしゃべらないのだ」「60歳とか80歳の人で,その人が白熊を見たことがあって喋るなら信用してもよいだろうが,私は白熊を見たことがないんだよ。だから話すことはできないんだ。私の言うことはそこに尽きる。見たことのある者は話せるが,見たことのない者は何も話すことはできないんだよ!」

 ルリヤは文盲の人15人を調査し,論理的推論が行えない理由を,3つ考察している。一つは,最初の前提(大前提)に関する体験がない場合,その前提を信用しないことである。2つめは,三段論法の前提が普遍的ではなく,個別的な知見と感じられていることである。三番目は,三段論法の3つの命題が,無関係でばらばらな命題と捉えられているからである。

 しかし私には本書の内容は、オングが指摘しているように、「文字の文化と声の文化」の違いという観点でみるのが一番自然であると感じた(オングの見方は、『声の文化と文字の文化』の読書記録に引用している)。文盲の人たちの一見非論理的に見える答えにも十分な理(ことわり)がある、という見方である。むしろ私には、この問題で正解とされる考え方のほうが不自然という気がする。現実にはありえない仮定を無批判に受け入れること、現実には証明不可能の前提(たとえば「北極の熊はすべて白い」は証明不可能)を真に受けて結論を出してしまうこと、などである。それに実験者の関わりも不自然である。被験者が「わからない」と答えているのに、それに真摯に対応しようとせず、「考えてみてください」と言ったり、問題を機械的に繰り返したりしている。これらは心理学の実験としては当たり前のことかもしれないが、日常における対話として考えると、やはりとても不自然なものにしか思えない。

 筆者らの目的は違うのかもしれないが、もし文盲の人たちの持つ論理について知りたければ、こういう定式化された問いを一方的に問うのではなく、彼らと一緒に生活する中で、彼らがどのようなときにどのような推論をするのかを、彼らの生活の中から見つけ出すべきだと思った。

■『ワークショップ型研修のすすめ─授業にいかす教師がいきる』(村川雅弘編著 2005 ぎょうせい ISBN: 4324076499 \1,890)

2005/10/25(火)
〜研修以外にも使えそう〜

 これは面白かった。読む前はタイトルからして、「研修の話かあ、まあ使える部分もあるかもしれないけど、私が研修をするなんてそんなにしょっちゅうはないことだからなあ」と、さほど期待はしていなかった。

 というのは、本書で扱われているのは主に教員研修なのだが、いわゆる研修会だけでなく、授業研究会も、授業分析を行う演習タイプの授業も念頭に置かれていたので、応用できそうな範囲が、タイトルから想定できるよりもずっと広かったのだ。また研修のタイプとしても、定期的に行われるタイプのシリーズ研修も、1回限りのトピック研修も扱われている。それに、ワークショップとはいっても、「みんなで話し合って考えてみましょう」タイプのワークショップだけでなく、たとえばソフトの使い方を学んで教えあいましょう、という技能研修に近いようなものも扱われている。それらは事例を通して述べられているので、ワークショップといっても応用範囲は幅広いんだ、ということが実感できる本であった。

 技能研修とはいっても、単にソフトの使い方を教えあうというだけではない。その中では、自分たちが学んだソフトを授業や事務にどう使えるかのアイディアを出しあう、という「みんなで話し合って考えてみましょう」部分も含められており、実用性や創造性にまで広がりを持たせており、なるほどと思った。

 本書の中で私が一番感心したのは、新潟県の高志小学校の取り組み。ここでは校内研がワークショップスタイルで行われているのだが、それは月2回、60分で行われているのだ。ワークショップスタイルというと、ともすれば時間がかかりがちなイメージがあるのだが、ここではそうではない。それは、ワークショップ本体だけでなく、それを支える部分がとても工夫されているからのようだ。まず、各先生は月に1回、学習指導上効果のあった実践、および、生徒指導上効果のあった実践を、それぞれA41枚のレポートにして提出することになっている。それを読んだ上で研究会が開かれるのである。

 研究会は、学習指導と生徒指導の研究会が各月1回行われる。そこでは、(1)4〜5人のグループに分かれ、レポートを読んで思ったことや聞きたいことを20分話し合い、(2)メンバーを組み替えて同様に20分話し合い、(3)最後に全員が集まり、一人40秒で、一番話したいことを伝えることになっている。以上で60分である。このやり方のよさは、時間が短いという点もあるが、それだけではない。毎月提出することで、多数の実践が蓄積され(年間600編だそうである)、それが大きな力を生み出す点である。そのことは、以下のように書かれていた。

レポート・ワークショップを繰り返す中で、よい実践は他者に共鳴を生み、他の教師に広がっていく。共鳴を呼ばないものは淘汰されていく。共鳴を生んだ実践は、学校全体に広がっていき、「総意」となっていく。実践から共鳴が生まれ、広がる実践は、すでに一事例としての価値を超えているのである。(p.93)

 これはまさに、文化が継承され、発展されるプロセスそのものである。通常の研究会だと、気合の入った実践が年に数本だったりするわけだが、ここで継承発展されているものは、そういうものではなく、月に1回ぐらいはみられるようなちょっとした、しかしまあよくできた、日常の実践である。こういうものが蓄積されていくことの価値は、とてつもなく大きいという気がする。

 ほかにも本書でよかった点として、ワークショップスタイルをプロジェクトXになぞらえている点や、ワークショップ型研修の弱点(「「知識・理解」の面での満足度が低くなりがち」(p.40)など)についても触れられている点、通常の校内研を急遽ワークショップ型に組み替えた、なんて話が載せられている点、などが挙げられる。こういう点も含め、また事例が具体的である点も含め、研修だけでなく授業にも研究会にも「使える」本であると思った。

自転車に乗る7歳児

2005/10/23(日)

 今日の午後は、上の娘(7歳4ヶ月)が自転車に乗るのに付き合ってあげた。先々々週にふと思い立って補助輪をはずしてから3週間。平日は両親とも仕事なので、自転車遊びはできない。週末も、土曜と日曜のどちらかは用事が入っていることが多く、自転車ができるのは、週に1回1時間程度であるが、1回目では、ちょっと乗れることもあり、2回目では、走り初めがうまくいけば真っ直ぐ走れるようになった。3回目の先週は、ちょっと冒険して、ここから歩いて20分のところにある図書館まで、30分かけて私(徒歩)と自転車で行ってみた。自転車に乗れたのは、行程の半分というところだろうか。

 そして今日。走り始めも比較的スムーズに走れるようだし、割と真っ直ぐ走れるようなので、今日も図書館まで向かった。今日は20分強で着いただろうか。途中、車が何台も通るところがあり、私が少し先を歩いていたりしたので、ちょっと泣きそうになったところもあったが、しかし、コワいコワいといいながらも、比較的スムーズに図書館まで行くことができた。

 自転車の練習の仕方は、前に、誰かの日記で「ペダルをはずす」というやり方が紹介されていて、それに対して誰かが、「ペダルをはずさなくてもできますよ」とコメントしていたように記憶していたので、それで行くことにした。要するに何の小細工もなしで。ペダルをはずすと自転車に乗れるようになるというのは、要するに、「バランスをとって倒れないようにする」部分と、「足でこぐ」部分を分けるという考えである。一度に複数のことをしようとするのは大変、ということなのだろう。

 しかし実際にやってみると、ペダルを使わずに足で蹴って進む、というのはなかなか難しい。ペダルをつけたままだと、かかとをペダルにぶつけてしまったりするのだ。それで初日は、私がハンドルを持って、勢いをつけて前に進ませる、ということを何回もやった。おかげで私はヘトヘトになった(でもおかげで、上の娘は感触は掴んでくれたようだ)。

 今日、改めてネットで、「ペダルをはずして自転車に乗る練習をする」方法を検索したところ、けっこうたくさんヒットした。それを見ると、私がやった以上の工夫を紹介しているページがたくさんあった。たとえば、いきなり補助輪を外さず、補助輪を少しだけ後方にずらす、というやり方で、転倒の危険なくバランスをとる練習をさせる方法とか、ペダルをはずして毎日5〜10分、地面を蹴って走らせる練習をするやり方とか。どちらも、親はあまり体力を使わなくてもいいやり方のようだ。やっぱりちゃんとペダルをはずすべきだったようだ(上記のようなページには、外し方も説明されていたりする)。

■『菊と刀』(ベネディクト 1946/1967 社会思想社教養文庫 440円)

2005/10/19(水)
〜珍獣をガイドする案内人〜

 実家にあったのでもってきて読んでみた。うーんこんな本だったのか、という感じ。筆者は戦争中に、日本人の思想・感情の習慣を理解する、という課題を与えられたとき、「敵が人生をどんなふうに見ているかということを、敵自身の目を通して見る」(p.9)課題として受けとめたらしいが、私が読んだ限りでは、それが成功しているようには感じられなかった。筆者の仕事は、私の印象ではむしろ、「珍獣をガイドする案内人」という感じである。たとえば次の記述はどうだろう。

睡眠もまた、日本人の愛好する楽しみである。それは日本人の最も完成された技能の一つである。彼らはどんな姿勢ででも、またわれわれにはとても眠れそうに思われないような状況のもとにおいても、楽々とよく眠る。(p.207)

 なんか、「珍獣ガイド」的という感じがしないだろうか。もしそう感じるとするならばそれは、「日本人はこういう場合はこう行動する」というような紋切り型の表現が、たいした証拠を挙げることもなくなされているからだろう。それは本書の随所にみられる。このように筆者は、さまざまにあるはずのさまざまな日本人のさまざまな状況におけるさまざまな行動を見ることなしに、表面的、固定的に見ている。そういう印象を私は強くうけた。

 また筆者は、「文化人類学者として、どんな孤立した行動でも、お互いに何らかの体系的関係をもっている、という前提から出発した」(p.17)と述べている。それは要するに、日本人のさまざまな考え、感情、行動を一つのストーリーにまとめ上げる、ということである。それはある文化を理解するためには必要なことなのだろうが、筆者の場合は、一つにまとめようという意識が強すぎて、多様性、あるいは日米の共通点を見落としているように思えた。

 これについては一つだけ例を示しておこう。筆者は本書冒頭で、日本人を、矛盾に満ちた存在であると書いている。礼儀正しいが不遜で尊大、従順だが上からの統制に従わない、忠実で寛容だが不忠実で意地悪、勇敢だが臆病、などなど。それを筆者は、「西欧人の目を驚かす日本人男子の行動の矛盾は、彼らの子供時代の訓育の不連続性から生じる」(p.337)と述べる。つまり、赤ん坊(と老人)が自由なのに対して、幼児期を過ぎると拘束が増す、そのことを「不連続性」と呼んでいるのである。幼児期以降の拘束は、最初は親によるしつけだが、次第に「世間の目」が拘束源となる。それが「恥の文化」、というわけである。ちなみに、しつけや拘束の強弱のパターンは、アメリカではちょうど逆になっており、幼児期と老年期が厳しく、真ん中の時期は自由だという。

 しかし、日本人の行動の「矛盾」は、「しつけの不連続性」から来ると、このことからいえるのだろうか。不連続(時期によって異なる)というのであれば、それはアメリカもまったく同じなはずだ。順序が逆なだけで。筆者の論法でいうならば、アメリカでもしつけの不連続性から、行動や性格の矛盾が見られるはずである。それはアメリカでも見られるのか見られないのか。見られないとすればそれはなぜなのか。このような比較や検討がなされず、「だから日本人はこうなんだ」という結論だけが強調されているように見える。それが、私が「珍獣ガイド」と感じてしまうゆえんである。

【授業】人間関係論・オリエンテーション

2005/10/19(水)

 昨日は、共通教育科目「人間関係論」の第一回目であった。この授業、例年は100名前後の学生が登録するのに、今回は事前登録で60名であった。追加登録を授業時に20名したので、それでようやく80名である(授業時に座っていたのは60名強)。教室は150名はいる教室なので、乗車率50%、久々の少なさであった。

 教室のスペースに余裕があるということで、ちょっとワークショップ授業的な導入をしてみようと思いついた(来週以降どうするかはさておき)。そこで、ごく簡単に講義の概要を説明した後、最初に質問書風大福帳に、「受講動機、講義への期待・要望」を書いてもらった。その後、グループ作りをしてもらった。

 グループ作りは、適当に移動してやってもらうかとも思ったのだが、大学生はそういうのにあまり乗らなそうな気がしたので、誕生月で12グループに分かれてもらった。その結果、4月は2人、5月は0人、8月は3人と少なかった。逆に11月は10人、12月は12人と多かったので、2グループに分かれてもらい、まず同じ誕生日の人探しをしてもらった。ここのところはちゃんとは覚えていないのだが、確か5組ぐらい同じ誕生日のペア(一組はトリオだった)がいた。そういう導入に続いて、今度は、先ほど紙に書いた受講動機・要望・期待を中心に、グループ内で自己紹介してもらった。その後、各グループから1名ずつ代表を選んでもらい、全体に対して自己紹介をお願いした。ここでは、受講生のほうから自然に拍手してくれたりしてなかなか悪くない感じであった。

 とウォーミングアップ(アイスブレイク)したところで、ここからが本番。私は講義概要関連資料(この講義で要求するレポートの書き方など)を、B4表裏に印刷しているのだが、例年はこれを私が順に説明している。しかし例年、出されたレポートを見ると、どう考えても講義概要の内容を把握していないとしか考えられないものが目に付く。そこで今年は、ここのところは私は説明せず、受講生に各自読んでもらい、わからないところは隣同士で相談してもらい、それでもわからないところは私に質問してもらうことにした。その前に、質問することの意義の話など少ししたりしながら。

 しかし、どうもここのところはあまくうまくはいかなかったようだ。私としては、隣同士でガヤガヤしながら読み進めてくれるかなあと思ったのだが、みんなシーンと読んでいた。あまり質問もせずに。私のほうへの質問は一つもでなかった。例年、最後に質問書に記入させると、必ず講義の進め方などについて質問が出る。それさえ出なかったということは、こういうやり方をしたからといって、自然に問いが生まれたり、それを表明したりしない、ということのようだ。その場で言うということは、紙に書くことに比べて抵抗があるのかもしれない。今回は、そのことがよくわかった。次回からは、こういうことをするときには、何かもう一工夫必要そうである。たとえば、質問がでなければこちらから確認の質問をするとか(例年、質問書に書かれるような内容を)。各グループから一つは必ず質問を出してもらうとか(これはあまりうまくいかないかもしれないが)。

 あと、授業後に、受講動機や要望を見ると、心理学に興味があった、などの動機のほかに、「自分は人付き合いが苦手なので」というような受講動機が少なからず見られた。これはまったく想定外の動機だった。この授業では、こういう対処的なことは直接は扱わない。そういうことや、しかし、他人や自分を理解する助けにはなるので、間接的には関係しないわけではないこと、などを来週補足しなければならない。あと、人付き合いの問題があるのであれば、なおさら隣同士との話し合いの時間を設ける必要があるかなあ、と思ったりした。そうするなら、何回かは今回のグループで固定して授業するかなあ。せっかく自己紹介しあったんだし。こういう場では内気そうな人が多そうだし。

協同的な学びに関する一考察

2005/10/16(日)

 小学校の先生である前田康裕先生が10月13日のブログで、「協同的な学びは「情報の伝え合い」か?」という話を書かれている。そこには、次のように書かれていた。

ゼミの先生が、学習者それぞれが、「とらえなおし」「省察」をして学びを構築できないと「協同的な学び」は成立しないということを言われた。なるほど、そうだと思う。
学習者Aと学習者Bが、それぞれに「教え、教えられる」という行為をしたとしても、それは「情報のやりとり」にしかすぎない。情報を得た側が、納得して、それを「学び」に構築することできなければ、相互作用などない。

 私もそうだと思う。以前、ワークショップ的な授業をみて、同じようなことを思ったことがある。グループで話し合いをしていても、よく知っている人がよく知らない人に教える、という形にしかならなければ、情報が多いほうから少ないほうに流れるだけで、「情報のやり取り」にすぎない。これでは、教えられたほうはいいかもしれないが、教えたほうにとっては学びになっていないよなあと思う。だから前田先生の記述をみて、大きくうなずいたものだ。

 ではどうしたら単なる情報の伝え合いではない協同的な学びになるのか。前田先生は2つのことを書かれているように思う。一つは上の引用にあるように、学習者それぞれがとらえなおし、省察をすることである。もう一つは、「たとえば尊敬もしていない人からいくらアドバイスをもらっても理解はしても学んではいないはずだ」ということで、尊敬や信頼関係の重要性について書かれている。しかしこれらは、私が以前疑問に思ったことや、協同性ということとは、直接的には対応しないように思ったので、この問題を私なりに「とらえなおし」たことを以下に書いてみよう。

 まず、上の2点を前田先生は、つなげて考えておられるようである。尊敬できない人からの意見を、人はとらえなおしたり省察しはしない、というように。しかし、尊敬できる人の意見だからといって、常にとらえなおし・省察をされるわけではない。むしろ、尊敬できる人の意見だからこそ(とらえなおしをせずに)無批判に鵜呑みにする、ということも大いにありうる。したがって、両者は基本的に別物だろう。もちろん、尊敬や信頼がなければとらえなおしの対象になりにくい、という意味では、「尊敬や信頼」は「とらえなおし・省察」が行われる前に満たされておくべき前提であろう。相手に対する尊敬がなければ、そもそも意見をきちんと受け取りはしない。つまりこれがないということは、単なる情報のやり取り、というよりも、「情報のやり取り以前」の問題なのである。

 尊敬や信頼があった上で、「とらえなおし・省察」が行われるかどうかは、もっぱら情報の受け手側の問題である。相手が同じことを言ったとしても、とらえなおしが行われれば学びとなり、とらえなおしが行われなければ学びとならないのであるから。つまり情報の送り手とは無関係に、受け手側の要因で学びが起きたりおきなかったりするのである。

 「とらえなおし」が単なる情報のやりとりではないというのは、情報の受け手側が、情報を自分の中に単に追加(フレイレ流にいうならば「預金」)するのではなく、受け手側の何かが「変化」するということだろう。その変化をもたらすのは、既有の情報と新しく入ってきた情報をつきあわせ、掘り下げ、再解釈することで、それが「とらえなおし」なのだと思う。

 そのような状態になるために必要なことは何か。両者の間に尊敬や信頼があることは大前提とすると、私は「適度に異質な他者」の存在ではないかと思う。適度に異質だからこそ、やり取りされた情報をすんなりと収めるわけにはいかず、とらえなおす必要が生まれる。それが適度ではなく、かなり異質であれば、そもそも理解できない。逆に、異質とはいってもほんの小さな差であれば、とらえなおしを必要とするほどの葛藤は生まれず、すんなりと情報が受け渡されてしまう。したがって「適度」ということが大事なのである。何が適度かは、情報の受け手がわからなさに根をあげずにどこまでとらえなおしに挑戦し続けられるかにかかっているだろうが、その問題はここではおいておく。

 実はここまでの話の中には、「協同性」は含まれていない。こういうことは、一方的に講義を聞く聴衆の中でも生じうるからである。ではそれがさらに、「協同的」な学びになるとはどういうことか。私の考えでは、「受け手」が省察してとらえなおすだけではなく、受け手のとらえなおしにより、情報の「送り手」のほうにも省察やとらえなおしが生じ、変化が生まれる、ということではないだろうか。そのとき情報は、多いほうから少ないほうへやり取りされるだけではなくなっている。お互いが変化するのであるから。それがお互いがお互いから学ぶこと、すなわち協同的な学びなのではないだろうか。

 以上は、机上論に近いのかもしれない。しかし、大学院の授業などを見ていると、これに近いことが見られるように思う。それは、小中高校生や大学生と違い、大学院生は全員が自分の専門分野を持っており、多くの者が卒業研究という形で、研究者的な活動を経験しているからである。専門分野の違いとは、いわば文化差である。佐藤学氏は『教師たちの挑戦』で、「協同作業とコミュニケーションによって学びが成立するためには,子ども相互の中に文化と能力の差がなければならない」と述べている。文化差や能力差を、単に能力の優劣の差に帰結することなく、お互いの文化を尊重し理解つつその違いを掘り下げていくことが、私の考える協同的な学びである。

 なお、専門の異なる大学院生と違い、小中学生の場合は、異質性が存在するとしても、それを上回る同質性が存在することが多い。年齢が同じ、住んでいる地域が同じ、家庭環境がかなり同じ、持っている知識が同じ、などなど。そこに生じる差は、このような同質集団の中では、往々にして、能力の優劣差とみなされたりする。あるいは、同質性を好む空気の中で、異質性はいじめによって排除されたりする。そうなることなく、そこに存在する重要な異質性に焦点を当て、それを文化差として尊重しつつ学びに活かす。そのためには、教師の課題設定やかわり方が大きな影響をもつのかなあと思う。


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