読書と日々の記録2005.08上

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■読書記録: 15日『憲法で読むアメリカ史(上)』 12日『裁判官が日本を滅ぼす』 5日『資本主義の未来』
■日々記録: 13日高知で研修会 13日高知で観光 8日日常雑記 4日日常雑記

■『憲法で読むアメリカ史(上)』(阿川尚之 2004 PHP新書 ISBN:4569633617 \840)

2005/08/15(月)
〜事件と裁判を通して成長する国〜

 まだ上巻しか読んでいないのだが、今月はいろいろあって読書冊数が激減しているし、上巻だけでも十分面白かったので、読書記録に上げることにする。筆者は『アメリカン・ロイヤーの誕生』の著者。つまりアメリカのロースクールを卒業し、アメリカのロイヤーの資格を持つ人。奥付によると、現職は在アメリカ合衆国日本国大使館公使だそうである。

 本書は、合衆国の歴史を憲法を通じて綴った本で、上巻ではアメリカ合衆国誕生と成長の物語が書かれている。民主国家としてのアメリカについて、私がこれまでに読んだ本では、「人為的,人工的な国家アメリカ」(『現代民主主義の病理』)とか、「デモクラシーを強制する帝国」(『デモクラシーの帝国』)というような評価がなされていた。三権分立については、「アメリカの政府のこの「ある一部分の人々が強引に物事を進めにくくするカラクリ」は、まさに芸術といってよいほどのもの」(『はじめてのデモクラシー講義』)という評価もあった。これらの評価は確かにその通りなのだろうが、それが最初から整った形で作られたものではないことが、本書を通して知ることができた。

 三権分立に関していうならば、最高裁判所は開廷から3年間、正式に取り上げた事件はなく、各州の裁判所とどのような役割分担をするのか、よくわからない機関だった。ある人は最高裁判所を、「最高裁の機構は欠点だらけで連邦政府を支えていくだけの力と威厳がなく、最終裁判所として当然受けるべき国民の信頼と尊敬も得られない」(p.99)と評している。

 そのような状況がどうして変化したかというと、「マーベリー対マディソン事件」の訴訟がきっかけになっている。その判決で最高裁判事が、憲法に反する法律は無効にするという強力な司法の権限行使を行い、判決という形で明確なメッセージを送った。このことによって違憲立法審査の制度が確立されたのである。違憲立法審査権は、憲法に規定されている権限ではない。それを最高裁は、判決を通して、いわば慣習法として獲得したのである。

 心理学の実験で模擬監獄実験というのがある。人がいかに役割を内面化しやすいかをあぶりだした実験なのだが、それを映画化した作品(es[エス])を見ると、その内面化が、直面した問題に対する解決過程を通じて行われることがわかる。アメリカ最高裁が違憲立法審査権を確立し自らの位置を明確にするプロセスは、まさにこれと同じだと思う。アメリカの「芸術といってよいほど」の仕組みも、簡単につくり上げられたわけではなく、事件を解決する過程で形になっていったようである。

 ほかにも本書から、アメリカ大統領選挙が選挙人による間接選挙という複雑な形をとるのが、直接選挙と間接選挙の妥協案として採用された方法であること(p.48)がわかった。このケースだけでなく、アメリカ合衆国誕生と成長の裏にはさまざまな人のさまざまな思いがあり、それらの間の綱引きや妥協の中で現在の仕組みが作られていることが、本書でよくわかった。

 憲法制定前の状況も興味深い。憲法制定前、各州議は、「徳政令を発布して借金を帳消しにしたり、通過を濫発したり、あるいは裁判所の判決を無効にしたりと、民主主義の行きすぎが見られ、衆愚政治に陥る傾向が出た」(p.61)なんていう記述も興味深かった。そうならないために憲法があるというのは、立憲主義について書かれた本(たとえば『憲法と平和を問いなおす』)に書かれているわけだが、憲法がないとこういうことになるということが、本書でよくわかった。

 アメリカの「芸術といってよいほど」のカラクリである権力の分割、抑制、均衡の理論は、本書によると、後に第四代大統領になったマディソンの天才と独創、と評されている。それは、州単位だけで政治を行うのではなく、連邦政府という大きな共和国を作ることによって、「多元的な価値の競争のなかから活力を生み出し、人々の自由をそこなうことなく抑制と均衡を通じて調和をもたらそうとする」(p.93)という考え方である。その考えも最初から受け入れられているわけではなく、連邦政府が必要なのか州の独立を維持するのか、憲法の草案を批准すべきかどうかということについて、相当な議論が行われたようである。そのことが次の部分に書かれている。

町の広場で、集会で、通りで、都市で、田舎で、人々は意見を述べあい、果てしない議論を続けた。理論的な論争があっただけではない。各種の利益団体が活発に運動を展開する。一部では賄賂が飛びかったとの噂さえあった。当然宣伝が選も盛んとなる。この頃新しいメディアとして盛んに読まれるようになっていた新聞を通じて、賛成派反対派双方がその主張を述べた。(p.79)

 この様子からすると、連邦政府その他の仕組みによる権力の分割、抑制、均衡が結果的に採用されたのは、ある種の偶然といえるのではないか本書で思った。

 本書は、南北戦争のところで終わっている。南北戦争って単なる南北の対立なのかと思っていたが、憲法制定下の連邦政府においては、それはすぐれて法律的な問題となる。南北戦争は戦争なのか単なる叛乱なのか、こういうときの大統領の権限は何を根拠にどこまで認められるのか、といったことである(実際これらは裁判所で議論された)。結果的には、南北戦争時の大統領の行動に司法的な裏づけが得られることにより、「憲法上戦争開始後のアメリカ合衆国は戦前とはまったく違う国となる」(p.288)という。

 本書にはほかにも、いわゆるインディアンの問題、黒人奴隷の問題などが司法とのかかわりでどのように扱われてきたがか論じられているが、このような問題が憲法を通してみることでよりよく見えてくるという点で、非常に興味深い本であった。早く下巻を入手せねば。

高知で研修会

2005/08/13(土)

 9日と10日の2日間は、高知で県職員対象の研修会の講師をしてきた。タイトルは、「考え方を考える」。昨年は1日(7時間)の研修だったのだが、今回は2日間(14時間)であったので、新たにプログラムを作成し直して臨んだ。出来は、自分では評価はできないが、少なくとも悪くはなかったのではないか(前回よりもマシになったのではないか)と自分では思っている。

 前回と大きく変えたことの一つは、グループでの作業を多用したこと。私の講義は、一箇所に固めるのではなく、1回30〜60分程度のものを4回(両日とも午前と午後に1回ずつ)行った。その後か前に、その内容と関連した課題を出してグループで話し合ってもらい、話し合った内容をコンセプトマップ風にして模造紙に大書してもらった。これを全部で4回。作成するのに30〜60分ほどかかるし、発表も6グループで20分近くかかってしまう。時間は取られるのだが、こういうことをするのは有効なように感じた。

 そこでは何が行われているかというと、私が話したことや、自分の経験、他メンバーの経験、私の話の各自なりの理解などがすり合わされ、一つの「物語」に仕立て上げられていっているのだろう(グループ作業なので、完全に「一つの」とはいえないだろうが)。私がする話は、その物語の中に組み込まれてはじめて、受講生の中にしっくりと位置づくような気がする。逆に言うならば、こういうことをしなければ、私の話は受講生の腑に落ちるような理解にはならないのではないか、と感じた。

 また今回は、事前課題として、自己紹介シートを書いてもらった。内容は、仕事内容の紹介のほかに、この研修に期待すること、考えかたを考える必要性を感じる出来事などである。各受講生が書いたものを見たのは前日だったが、受講生である県職員のニーズがどのあたりにあるのかが、これで少し見えたような気がした。研修に期待することについては、「自分の考えを他人により理解してもらうにはどうすればよいか」というような、考えを他人にうまく伝えられない悩みが多く見られたので、2日目の午前にグループ作業のテーマとして扱ったりした。

 まだまだ改善の余地はたくさんあるが、昨年の反省が活かされ、また、今年度大学の授業で行った試行錯誤が活かされているはずだし、私自身も研修を行いながら学ぶことがあった。そんな2日間だった。

高知での観光

2005/08/13(土)

 移動日(11日)についての覚え書き。昨年は移動日は、桂浜に行った。今年は近場を数箇所回ろうと思い、まずは高知県立文学館に行った。行ってみると、特別展示としてシャーロックホームズ関連の写真展が行われていた(見ながら、次に研修の機会があったらシャーロックホームズを扱っても面白いかも、なんて思ったりした)。常設展としては、高知ゆかりの作家に関する展示があり、数分の映像がところどころで見られるようになっていたりして、なかなか面白かった。

 一番面白かったのは、寺田寅彦に関する展示。ビデオ映像コーナー「寅彦実験室」では、寅彦が実際に行った実験を再現し、寅彦の才能と実績が紹介されている。寺田寅彦が、日常の現象を出発点として、それを簡単ながらも巧みなシミュレーションによって物理学の実験として扱っている映像が数本あり、とても興味深かった。

 なんてことを思いながら見ていると、あっという間に時間が過ぎてしまったため、結局、高知観光はこの1箇所だけになってしまった。もっとも、前日も前々日もよさこい祭を見たし、この日も、バスを待っている間に中央公園で行われている演舞を2つ見ることができた。まあ機会があるときにちょっとずつ高知を楽しみますか。

■『裁判官が日本を滅ぼす』(門田隆将 2003 新潮社 ISBN: 4104605018 ¥1,575)

2005/08/12(金)
〜コワい本〜

 まえがきで筆者は、「日本の多くの裁判官には「真実」を炙りだす能力も識見もないし、そもそも真実を導き出そうとする意欲もない」(p.5)と書く。この記述といいタイトルといい、なんだか大げさな感じがしたが、しかし結論からいうと、これはなかなかコワい本であった。

 コワいのは、同じ事件でも、裁判によってまるで違う判決がでることである。たとえばある人は、痴漢の疑いをかけられたが、裁判の結果、被害者の証言が全面的に信用できるものではないとして無罪になった。ところが、訴えられた人が民事裁判(損害賠償訴訟)を起こしたところ、裁判長が被害者の言い分を全面的に認め、痴漢があったとする判決を出しているのである。本書にはこういう話が十個以上も載っている。とてもコワくなりながら読み進めた本であった。

 コワかったのはそれだけの理由ではない。ある裁判では、病院の理学療法科医長が整形外科で手術を受けて不適切な処置をされたため、医療過誤裁判を起こしている。裁判で被告側は「医学の常識からいえば、とんでもない」(p.100)主張をするのだが、裁判所は病院側のデタラメな主張をそのまま鵜呑みにして結局病院側は無罪になっている。もちろんこれは、筆者の取材結果を私が鵜呑みにして書いているわけで、ひょっとしたら差し引いて考えるべき事情や状況があるのかもしれないが、しかし、その分野の専門知識を持つ医療関係者でも、医療過誤裁判で負けることがあるというのはかなりコワい話である。なおこれは筆者によれば、裁判官は権威のあるほうになびく、ということらしい。同じようなコワい話として、検事や弁護士を務めた人が金融裁判で負けた、という事例も紹介されている。

 なお本書では、目撃証言に関しては、ある弁護士が次のような述べている。

この手の裁判官の心証を左右するのは簡単なことです。シロでなくても灰色、つまり裁判官に疑いを生じさせればいいんです。見て、記憶して、語る……こういう五感のレベルというのは、人間は完璧ではありません。/いくらでも疑念を生じさせることが可能です。時が経過すれば尚更簡単。目撃した時の距離、明るさ、視力など人間の持つ不正確さを徹底的に突いていけば、裁判官などすぐに疑いを持ってくれます(p.77)

 本書を読むと、そういうこともあるのだなあと思うが、しかし目撃証言の心理学研究などを見ると、いい加減な目撃証言が元で有罪になっている人が少なからずいるという話が出てくる。これはどう考えたらよいのだろう。弁護士や裁判官の能力の問題かもしれないし、上にあるように権威の有無の問題かもしれない。また逆に、上記のような弁護士がいるからこそ、場合によっては裁判官が目撃証言を過度に信用してしまうということも起こりうるのかと思った。

 裁判官が権威に弱かったり、真実を真摯に追究しようという姿勢がないことの背景には何があるのか。本書では、司法の世界がピラミッド構造をしていることが挙げられている。「最高裁が指し示す方向、つまり、国が望む方向に無条件に迎合するものだけが裁判所の中で重用されるように」(p.278)なっているために、「正義を発見するとか、誤診を出さないようにするという本来の裁判官の道が、まるで出世と関係がなくなってしまった」(p.278)ということのようである。それに加えて、「あまりに受け持つ訴訟の数が多いため、いつの間にか、訴訟当事者が、単に仕事を運んでくるロボットのように思えてくる」(p.287)という事情もあるようである。この辺は、『内なる目』で考察されていた、他者を自分と同じ人間と思わないことによって非道行為が可能になる、というケースにピッタリと当てはまるような気がする。

 とまあ本書には興味深い点は多いのだが、しかし本書の内容全部を手放しで受け入れていいかどうかは、はっきり言ってわからなかった。というのは、筆者の記述にところどころ、視点が偏りすぎているように見える場面があったからである。たとえば、この事件の犯人は明々白々なのに裁判官だけがそのことを理解していない、というような感じの記述は随所に見られた。たとえば明々白々である根拠として、無罪になった被告がまた事件を犯したことなどが挙げられているのである(「あの無罪判決の結果、新たな被害者も出ている」(p.24)なんていう記述がある)。当然のことながら、ある事件を起こしたという事実が、他の事件の犯人であることの根拠にはならない。こういう論じ方をしていては、筆者も、はじめに結論ありきという点で無思慮裁判官と同じ穴のムジナである。こういう点はかなり気になったが、本書に取り上げられている事実や裁判の経過に関しては、とても興味深い本であった。

日常雑記

2005/08/08(月)
2005/08/05(金)
 出張準備で午後11時まで仕事。
2005/08/06(土)
 出張準備で朝から夕方まで仕事。昼飯は家に食べに帰ったけど。
2005/08/07(日)
 出張準備で朝から夜まで仕事。昼飯は妻子が弁当もって訪ねてきてくれた。ちょっとした息抜きにはなったけど、なかなか仕事が仕上がらないので焦りもした。
2005/08/08(月)
 出張のために飛行機に乗る。ただし今日は移動のみ。昨日までは毎日ない知恵振り絞ってこの出張のことばかり考えていたのだけれど、今日は、もうジタバタしてもしょうがないと観念し、比較的ゆっくり過ごした。

■『資本主義の未来』(レスター・C. サロー 1996 TBSブリタニカ ISBN: 4484961121 ¥2,243)

2005/08/05(金)
〜つながる本〜

 この筆者の主張を初めて読んだのは『日本の論点 ('98)』に寄せられた小文だったが,現状や歴史を大局的に捉えた上で明快な結論を出すその文章は,何と深いことが書かれているんだろう,と感動したものだった。本書ではそういう調子が400ページ以上も続くので,経済オンチの私には難しいところもあったが,全体としてはとてもおもしろいものだった。本書の概要は,現在の経済の動きの原動力となっているものを,プレートテクトニクス理論や進化生物学になぞらえて説明している,というものである。プレートには,共産主義の崩壊,人間主体の頭脳産業の時代,人口の増加・移動・高齢化,グローバル経済,覇権なき世界,の5つである。

 これについての細かい説明はしないが,本書の記述を読むと,これまでに読んできた本とつながって「ナルホド」と思うような部分がいくつかあった。たとえば,「人間主体の頭脳産業」に関しては,「生産コストを下げるには,賃金の問題もからんでくるが,賃金よりもはるかに重要なのは,プロセス技術で他をリードし,新しい発想を商品化に結び付ける技術とノウハウ,生産工程を管理する能力をもっているかどうかだ」(p.96)という記述がある。要するに競争相手にはまねのできない組織を作る必要があるのだが,これって,『能力構築競争』に出てきた,もの造りの組織能力や深層の競争力のことだろう。

 現在マスメディアが果たしている役割については,「視聴覚メディアによって,我々はさまざまな意味で,文字のない世界に戻っている」(p.113)と分析されている。抽象的な緻密な思考に論理的に訴えるのではなく,映像を通して感情や恐怖,刺激や興奮に訴えているからである。この論考は,『声の文化と文字の文化』につながるものである。

 アメリカ共和党は,1994年の中間選挙で「アメリカとの契約」という適者生存の資本主義の復活をめざした公約を掲げたそうだ。それは,「社会福祉制度がなくても,誰も経済のブランコから落ちたりはしないのだから,安全ネットは不要」(p.320)というような考え方らしい。飢え死にする危険に直面すれば誰も本気になってなんとかするから,ということのようである。この底にあるのは,不適者は生存する必要がないという優生学的発想である。『人間の測りまちがい』という本に,IQの遺伝決定論を擁護する本(『ベル・カーブ』)が紹介されていた(というか仮想敵として扱われていた)のだが,どうして非人間的な測りまちがいを擁護する本があるのか,それはごく一部にヘンな考えの科学者がいるからではないのか,と思っていたのだが,どうやらそういう単純な問題ではなく,時代の社会的環境の影響がたぶんにあるようである。そのことが本書(に紹介されている「アメリカとの契約」の考え)でわかった。その背後には要するに,人口の増加や移動,高齢化という社会的変化があり,一部の人の利益を守るために他の人を排除する発想が,その中から出てくるということのようである。

 資本主義を支える価値観の中には,個人の権利を大切にする見方が含まれている。個人主義である。個人主義は中世に端を発するが,それは,中世以前の社会の秩序が機能しなくなったという状況から生まれているようである。つまり「まず個人がおり,社会の秩序を求めて政府に従属したのではない。社会の秩序が個人主義を生み出した」(p.355)のである。個人主義については,『個人主義と集団主義』で扱われているが,この本では個人主義と社会主義を類型化しているだけである。その歴史的形成過程や,現在の社会(資本主義)との関係が本書で分かった。

 このほかにも,公教育の意味についても書かれていた。

母親にしろ父親にしろ,資本家としてまともな判断力をもっていれば,子供の教育に16年にわたる投資をしようなどとは考えないだろうし,すべきでもない。国債のほうがはるかにまともな投資先だ。言うまでも泣く,公教育が必要になった主因のひとつはここにある。(p.366)

 資本主義は個々人の選好をうまく,効率的に満たすことができるが,しかしその視野は短期的なものでしかない。短期的にペイするものに投資することは合理的だが,投資に長期間必要で,結果的にペイするかどうか分からないものに投資することは合理的ではない。教育がまさにそうである。そこで必要なのが,公的に教育を保障することなのである。言われてみればその通りだが,まったく意識していなかった。こういう知識は,教育に市場原理を導入するのではなく公共性を再構築しようとする佐藤学氏の議論(たとえば『カリキュラムの批評』)を理解する前提として,知っておく必要があるように思った。

 なお本書によると,現在の状況は歴史的に言うならば,「民間部門が徐々に膨らんで公共部門が縮小している」(p.340)という点で中世(暗黒時代)に近く,また,「強力なリーダーが存在せず,世界が多極化」(p.213)しているという点で第一次大戦後に似ているという。中世との類似としては,不確実性の時代であり原理主義宗教が台頭しているという点でも同じである。今我々が生きている世界が中世(暗黒時代)の入り口であり世界大戦の狭間のような時代であるとは,とちょっとびっくりしたが,しかし言われてみればそうかもしれない。だからといってこれから社会がどうなるのかやどうすればいいのかは筆者にも分からない。しかし筆者は,「今の課題は,世界は確かに変わっており,われわれも変わらなければならないという認識をしっかりもつこと」(p.404)であると述べており,そのような認識を持つ上で本書はとても納得のいくものであった。経済オンチの私にはそれ以上のことは何も言えないが,まあ要するにとてもおもしろい本だった。

日常雑記

2005/08/04(木)
2005/07/31(日)
 久々のプチオフ会。楽しくお話ができた。ちょっと飲みすぎたけど。
2005/08/01(月)
 熱海にて「教育のアクションリサーチ研究会」に参加。分科会で現職の先生が「自分が受けたアクションリサーチは,すごくいい時間だった」とおっしゃっていたのが印象的だった。
2005/08/02(火)
 研究会2日目。いろいろと勉強になる研究会だった。
 帰りの飛行機では,ジュニアパイロット(とは今は言わないようだけど)の子どもたちが隣だった。小4の男の子と小1の女の子だった。私が席に座ると女の子が「こんばんわ」と声をかけてくれたので,2時間半の飛行中,ずっとおしゃべりをしたりして過ごした。子どもたちは素直で礼儀正しい子たちだったし,とても楽しい時間だった。
2005/08/03(水)
 大学に出勤すると,午後からさっそく会議が一つあった。宿題をもらって帰ってしまった。しょうがないけど。
2005/08/04(木)
 午前中に会議が一つ。ここでも宿題をもらって帰ってしまった。日を延ばすと手をつける時間がなくなりそうなので,昼にさっさと仕上げてしまった。

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